セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』

セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』
(2000年12月、ペトロフ=守屋愛訳、成文社、2200円)

日常に戻る前に

本はもちろん面白そうだと思って買うのだが、それが裏切られぬままさっと読み、本棚に消え、やがて記憶からも消えていくような本というのは、実は少ない。 さっと読まれるためには、面白いだけでなく読みやすい本でなくてはならない。また、やがて忘れられていくには、控えめな、日常的な内容であることが必要 だ。
面白くて、読みやすくて、控えめで、実にまっとうな本。それが僕にとってドヴラートフの小説のイメージだった。そんなわけで、新刊『かばん』を本屋で見つけると、一秒も悩むことなしにレジへと持っていったのである。
家に帰ってみると、もうひとつの邦訳『わが家の人びと』はいつの間にか本棚から消えてなくなっている。英語版の『妥協』は見つかったが、どちらもストーリーがなかなか思い出せない。とにかく面白かった記憶だけはあるのだが……。
『かばん』を数行読みはじめて、すぐに「あ、これだ」と思い出した。ストーリーではなく、「面白い」の中身である。でも、それを言葉にして説明しようとすると、難しい。やはり「控えめな、実にまっとうな」だろうか?
スタイルはいたってシンプル。語り手の記憶力がいいのか、話をでっち上げるのがうまいのか、疑いつつも引き込まれてしまうような。いわゆる話し上手という 感じなのだが、それだけではない。昔語りは饒舌になりがちだが、語り手の脱線ですら計算し尽された感がある、ひどく完成度の高い文章なのだ。
話の中身もいたってシンプル。スーツケース一つで旧ソ連からアメリカに亡命してきた語り手が、持ってきた「かばん」の中身ひとつひとつにまつわる古い思い 出を語っていくという構成。ソビエト時代の馬鹿げた日常に対する語り手の怒りや嘆きが、懐かしい過去として語られるとき、なぜか奇妙な輝きをもって見えて くる。読みながら、何か生きる勇気さえ与えられる。
現在につながる過去ではなく、過去をただ過去としてとらえる。それが出来ることほど幸せなことはないのかもしれない。亡命して故国を離れるということは、それ自体悲劇的なことだけれども、ここに描かれた過去のなんと美しいことか!
そんなこんなで、あっという間に『かばん』を読み終わってしまった。きっとすぐにストーリーも何もかも忘れてしまうだろう。なんといっても、私たちはこの本に描かれているのと同じ種類の日常を、今も生きているのだから。
ドヴラートフの次の翻訳が出るのはいつだろうか。きっとすっかり忘れた頃だろう。

小沼純一『サウンド・エシックス』

小沼純一『サウンド・エシックス』
(2000年11月、平凡社新書、760円)

死ぬ前に聴きたい音楽

学生時代の飲み会などで(だれたときの)定番の話題として、「明日死ぬと分かったら何をする?」とか「死ぬ前に何を食べたい?」といったものがある。「死ぬ瞬間にかけるとしたら、どんな音楽をかける?」というのもその一変種だろう。
確か、しりあがり寿が『瀕死のエッセイスト』というマンガで描いていた。死を意識した病人が、この悩ましい問いを考え抜いたあげくに、結局、ピンク・フロイドの「エコーズ」を選ぶのである。ジョン・レノンの「イマジン」もいいけど、あまりにも短すぎるから、とかいう理由だったように記憶している(「エコーズ」は長い)。

『サウンド・エシックス』はある意味で退屈な本だ。少なくとも、ある程度「音楽論」に親しんでいる人にとって、新しい発見はほとんどない。むしろ当たり前の議論を当たり前のように紹介しながら、音楽に対する「問い」を連ねている。それに対する明快な解答も、うきうきするような仮説も与えられず、音楽というこの捉えがたい現象を、ただ「問い」を連ねることで浮き上がらせようとする、そんな試みといっていいだろう。
あとは読者に委ねられている。一種の教科書なのだ。教科書というと、何かを教えてくれるものと思われがちだが、そうではない。よい教科書は、何が分からないかを教えてくれるからこそ味気なく、夢いっぱいの学生をがっかりさせるのだ。
たとえば、音楽の複数性について。かつて音楽は単数形でしかありえなかった。けれども、現代において「音楽の知」は無数に存在する。それは実に当たり前の議論だ。だが、一人の人間が複数の音楽を認めること、楽しむことがよいことなのか。あるいはそれは「本当に」可能なのか?(違う文脈のなかにある音楽を聴いた時、人は常にそれを「誤解」しているのではないか?)
あるいは、どこまでが音楽なのか。着メロとか、駅のプラットフォームに流れる発車音(?)が話題にのぼっているが、「それもまた音楽である」というのは簡単だ。でも、むしろ「音楽ではない」と人が判断するときのほうを、考えるべきなのではないだろうか? 着メロは明らかに人間のほうで「何かを補って」音楽として成り立っているわけだが、それが音楽として認識できないとき、一体それは何なのか?(「ワン・ノート・サンバ」の着メロを聴いてみたい!)
遠くから聞こえてくる音楽のことがちょっと触れられている。一体、なぜ遠くで聞こえるお祭りの「狸囃子」は美しいのだろう? なぜ近くへ来るとがっかりするのだろう? それだけで、ちょっとした音楽論を展開できそうな気がする。
時間と音楽について。音楽は確かに時間に従属しているけれど、頭のなかで音楽が鳴っているときは、一体どうなっているのか? 一瞬にして曲ができあがる、なんていうエピソードは、あれはどういうことなのか? 確かに頭のなかでは、時間が歪曲されている気がする。
そんなわけで、本の一部を読んだだけでも、疑問やら異論やら、とにかくたくさん考えさせられる。タチの悪い本である。著者の思惑通りというべきだろうか?
どうしても趣味が色濃く出てしまう、音楽という話題であるがゆえに、選ばれる固有名詞から著者の音楽的嗜好が見えてきたりして、これも厄介である。趣味の問題はさておいても、ポピュラー音楽の話題が少ないのは、この本の大きな弱点だろう。

ところで、この本のタイトルは『サウンド・エシックス』である。なのに、第10章では「音楽の倫理」となっている。細かい違いではあるけれど、ちょっと気になる。「音(サウンド)の倫理」と「音楽の倫理」では、言葉として印象も違うし、意味も違う。すべての音(サウンド)は音楽である、とは著者も言っていない(そういう考え方があるとしても)。だとすれば、その倫理だって違うと考えるのが当然だろう。
さて、その「音楽の倫理」について。著者は音楽に対して問いを積み重ねること自体、音楽の倫理を問うことなのだ、というようなことを言っているが、ややいい訳がましいかな、という印象だ。実際には、「倫理」について書いている部分は、最後の数ページにすぎない。

「音楽の倫理とはこうあるべきだと一言で言い表せるようなものではありません。しかしそれでも最後にひとつ述べておくとするなら、その倫理を成り立たせる最低限の基準、ひじょうにベーシックな行為とは、「聴く」ということにほかなりません」
「はかなく、すぐ消えて、もう戻ってこない音、音楽だからこそ、聴く力をつけ、広義の耳を鍛える――少なくとも、わたしはそれをつづけていきたいと思っています」

「音楽を聴く」を、他人の話に耳を傾けること、などの行為とも重ねていて、言葉としては美しい。でもこれって、どちらかというと音楽批評家としての倫理、あるいは決意なんじゃないの? というのが素朴な印象だ。あるいは、これはあくまでも「サウンド・エシックス」なのか。それならば、もう少しよく分かるような気もする。

「音楽の倫理」という言葉自体よく分からないが、この言葉を見て最初に思い浮かべたのが、例の「死ぬときに聴くなら、どんな音楽?」という問いだった。
よくよく考えてみると、これは映画とか絵画とか小説とか、他の芸術に置き換えてみると、いまひとつ成り立たない質問なのではないだろうか。物理的に難しい、というだけではない(そんなことを言ったら、食べ物も音楽も、現実に「死ぬ前に」を意識することなんてほとんど不可能だろう)。設問としてどれだけ意味があるか、ということだ。
(死ぬ前に「思い出したい」映画はあるかもしれないが、わざわざもう一度ビデオで観たい、というのはちょっと考えにくい。あの絵の前で死にたい、というのもちょっと性質が違う気がするし。小説に至っては、読み直していくうちに「やっぱ気に入らない」とか言いだして死ぬのをやめてしまいそうな心配さえある)
そう考えると、音楽は一般の人間にとって、むしろ食べ物に近いのではないか、と思えてくる。
「死ぬ前に食べたいもの」の一般的な答えは、カレーとかラーメンとか、白いご飯に味噌汁とか、そういうものだろう。稀に鮨なんて言う人もいるが、そういう人だって少なくとも年に数回以上(もっとか?)、鮨を食べている。飽食の時代とはいえ、人間(この場合日本人)の食に対する思いは、それほど変わっていない。死ぬ前に食べたいようなものを、普段から食べているのである。
何を言いたいかというと、私たちは今、死ぬ前に聴きたいと思うような音楽を普段聴いているだろうか? ということだ。私たちは、いつか飽きることを知っていて、あくまでもそれを前提に音楽をむさぼり食っているだけなのではないか?
音楽というのは基本的に、何度も聴いていると飽きるのだ、と言われるかもしれない。しかし、それはやはり聴きすぎなのだ。カレーを食いすぎて飽きるというのは、よい食べ方とは言えないだろう。美食(あるいは悪食?)の果てに「好物」を失うのも、不幸な話だと思う。
著者も音楽の「消費」について触れていて、なぜか『経済ってそういうことだったのか会議』から引用したりしているが、そういうことではない。もっと基本的な、音楽に対するつきあい方、節度のようなもののことを言いたいのだ(註)。
「サウンドに埋め尽くされた」現代の音楽状況をそのまま肯定し、それに謙虚に耳を傾けることなんて、僕にはできない。「死ぬ時に聴きたい」音楽を大切にすること、あるいはそれを探すこと、そのためには聴きすぎないこと。敢えて言うなら、それが僕にとっての「音楽の倫理」だ。

(註) ハンナ・アーレントは『人間の条件』という本のなかで次のように書いている。「世界とは、地上にうち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは消費される物でできているのではなく、使用される物からできている」。

小谷野敦『恋愛の超克』

小谷野敦『恋愛の超克』
(2000年11月、角川書店、1300円)

やっと出た? 恋愛イデオロギーへの反論

いきなりでなんだが、小学五年生のときに初めて失恋をした。そのとき、相手の女の子が言った言葉は、「あなたは二番目に好き」というものであった。小学生 ながら、恋愛の機微を熟知したかのような、あっぱれな対処である。実際、僕は嬉しいような悲しいような中途半端な思いを抱えながら、諦めた。このエピソー ドで何が言いたいかというと、恋愛というのは、実に厳しいものであるということだ。この場合はやはり、一番でなかれば意味がないのだ。小学生の僕は、二番 目とその他大勢は基本的に同じであると、漠然と感じていたわけだ。
差別ということを考えるのであれば、恋愛における差別はかくも厳しい。もちろん人によって、その線は一番と二番の間にあるものだけではない。「恋愛対象」 になるか、ならないか。セックスをするか、しないか。この区別は個人的なものではあるけれども、社会全体のなかでは厳しい競争と差別構造となる。「恋愛が したい」「恋人がほしい」「愛のあるセックスがしたい」(あるいは単に「セックスがしたい」も、恋愛とセックスがこれほど不可分に結びついている状況で は、ほとんど同じ)などと考えている以上、この厳しい現実からは逃れられないのである。
さて、この本の著者は、恋愛の世界における弱者は恋愛などしなくてよろしい(したい人はすればよい)、世の中には、恋愛をせよと強迫するメッセージが多す ぎる、と主張する。そして、この「恋愛をしなくてはならない」というイデオロギーは資本制にとって都合のよいものであり、それにはフェミニストも含めてほ とんどあらゆる言論人が荷担してきたことを明らかにしていくのである。
小谷野氏の文章は、本人が認める通り、決して流麗な文章とはいえない。しかし、実に面白いものであることは確かだ。上のような主張も、本人が恋愛イデオロ ギーの影響をもろに受けて、「もてたい」「恋愛がしたい」「恋人がほしい」と願っている(願っていた?)からこそ、読み物として面白いのであって、達観し た人が「恋愛など不要だ」と言ったところで、これほど迫力のある文章にはならないだろう。恋愛イデオロギーから抜け出せないフェミニストたちへの非難もま た、妬みと歪んだ愛情を適度に隠さず(日本語がちょっと変だが)、実に愉快だ。

この本の中で扱われているホットな話題といえば、「ストーカー」と「売買春」であろうか。
ストーカーに関しては、「もてない男」を看板に掲げてきた著者だけあって、一種の共感さえにじむ。恋愛のほとんどが「片想い」であり、もちろんその背後に はマンガ、映画、小説、ポピュラー音楽など、あらゆる表現が宣伝してきた「恋愛至上主義」がある。世の中は片方で、狂ったように相手を恋することが素晴ら しい、と言いながら、その想いを無視して「ストーカー」を傷つけた「被害者」の非は問わず、一方的な想いにより迷惑をかけた「ストーカー」を裁くのであ る。まあ、当たり前といえば当たり前であるが、多少なりともストーカー的恋愛に覚えのある人間なら、最近のストカーに対する風当たりの強さ(「それってほ とんどストーカーじゃん」などの軽い発言を含め)には、やや脅威を感じるのではないだろうか。
ここで問題になっているのは、ストーカーがよいか悪いかではなく(行為によってはもちろん犯罪だ)、「恋愛は素晴らしい」という考え方に潜む欺瞞のようなものだ。そこには、明らかに恋愛における「弱者」への視点が完全に抜け落ちている。
一方、売買春についてはもっとややこしい。この本ではまず売春者に対する「差別」が問題になる。簡単に結論を言えば、自分が親になって子どもに、どうぞ売 春を職業にしなさいと言えるのでなければ、売春者を差別していないなどと言う資格はないということである。それが出来ずに「売春者に対する差別をなくそ う、だから合法化しよう」というのは筋が通らない。一方で、売買春反対の立場であるはずのフェミニストたちも、どこか歯切れが悪い。もちろん、家父長制度 とそれを支えてきた「対幻想」という愛のイデオロギーを批判しつつも、どこかで恋愛イデオロギーに引っかかっているからこそ、フェミニストも「愛のない セックス」を売り物にする売春者を差別している。それでいて彼(女)らは差別という言葉に弱くて、だからこそ分かりにくい議論が横行する。そのあたりを小 谷野氏は実にうまく整理してくれている(僕の紹介では分かりにくいばかりだが)。

そんな訳で(どんな訳か?)、小谷野氏の主張は「恋愛しなければならない」という抑圧を減らせ、ということと、結婚と恋愛をセットにすることをやめ、「友 愛結婚」みたいなものを認めろ、ということになる。結局は結婚制度はあったほうがいいんじゃないか、というところでフェミニズムの主張とは大きく異なる。
このあたりまで、僕は賛意を表明したい。といっても、厳密な論理的帰結というより、一種のバランス感覚においてである。世の中には恋愛礼賛の声が大きすぎ るし、一部フェミニストが描くような「フリーセックス」的な男女関係も(しかも恋愛付!)、どこかグローバルスタンダードみたいで気持ちが悪いからだ。結 婚がどうしても必要なものとは思わないけれど、まああったほうがいいんじゃないか、という気がするのだ。
ところが、この本はここで終わらない。話は資本制はおろか、国家論にまでおよび、擬似的かつ総合的イデオロギー(そんな言葉があるかどうか知らないが)を 提案するに至るのだ。曰く「新近代主義」だそうだが、その宣言がおごそかに(もちろん著者の面白半分は見えるのだけれど)とりおこなわれる章にきて、つい ていけなくなった。
この本を最初から読み進めていくと(あるいは、小谷野氏の著書を順に読んでいくと)、まず著者の「もてない」ことへの恨みがあり、そこから社会の矛盾に気 づき、やがてついには国家は、世界はこうあらねばならぬ、という結論に達した感じがする。そのあたりを小谷野氏は、逆に恋愛論は「この思想から導き出され た」などと言っているが、もちろん本気かどうかは怪しい。
ともかく、天皇制廃止、九条廃止、正式な日本軍を持ち、とまあ各論には触れないが、彼は本気でこれから国家論やら国際政治やらに足を踏み入れるつもりであ ろうか。僕には、発言しているうちに、全ての発言に整合性を持たせ、まとまったイデオロギーとして呈示したがる、知識人特有の誇大妄想にも見えるのだ。も ちろん、それも戦略ですよ、と言われる可能性もあるが。なんにせよ、この「新近代主義」は余計としか思えない。

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』
(2000年4月、日本経済新聞社、1500円)

「分かり易さ」が意味するもの

実によく出来た本である。タイトルもよいし、対談の組み合わせも絶妙。イラストや写真がほどよく散りばめられ、いかにも勉強になりそう、という作り方。経 済についてはあんまり考えたことがない、でも知っておいたほうがいいかな、くらいに感じている読者はたくさんいるだろうし、読者層の狙いも的確だ。
僕自身、経済については長い間なるべく避けるようにしてきた。これといった理由もなく、ただなんとなく。「難しそう、コワそう」という根拠のはっきりし ないイメージがあったのだ。『日本経済新聞』とか、テレビ・ニュースの最後に出てくる為替相場や株価に代表される経済のイメージは、多くの人が共有してい るはずで、そのイメージを壊すことがこの本の大きな目的であろう。
経済学から見れば、これはあまり好ましい状態とはいえない。某コマーシャルが言うように、今やほとんどすべての人間にとって、「経済のない一日はない」 のであって、経済は遠いところにあるものではない。実に身近なものである。効率と成長を課題とする経済にとって、この人々の無関心は一つの課題である。経 済学者なら「箪笥に貯金するよりも、投資しなさい」と言うであろう。なぜなら、それが経済全体にとってよいことであるから。
そんなわけでこの本は、経済は難しくないですよ、みなさんに関係のあることですよ、と話しかけてくるわけだ。二人の誠実そうな口調がまた実によい。
この本を読み終え、経済は「難しくてコワそう」という直感的なイメージはある意味で正しかったのではないだろうかと思った。「経済のない一日はない」と しても、「経済を忘れた一日」はありうる。経済を避けるのは、逃げているのではなくて、そのほうが楽しそうだと思うからである。自分が貧しいか金持ちか、 を別にすれば、ニュースに出てくる株価の意味は知らないほうが概ね幸せであろうと僕は判断する。
とはいえ、金持ちになりたい人々にとってはこの主張は意味を持たないだろう。経済について知っていたほうがチャンスは大きいのであり、したがって金持ち=幸せになるためには経済を知っていたほうがよろしい、ということになる。
けれども、ここにもうひとつ考慮しなければならい要素がある。これまで「難しそう」だったものが、なぜここへきてやさしそうな顔をする必要があるのか、という点だ。
もちろん時代が変わり、状況が変わったのだ。経済が発展していく初期の段階では、経済に関する知識は独占されているほうが都合がよい。経済は難しいか ら、と煙に巻いておけば利益もまた独占できたわけだ。でも、そこには限界がある。今は、あらゆる人が経済に関心を持つことが求められている。ある程度の豊 かさを実現した社会は、新たなフロンティアを求めているのだ。あらゆる人が経済自体に興味を持ち、その上で活動する。それは今までにない新たな可能性を生 むであろう。
経済に関する知識の平等化には、そういう「狙い」があるのだ。誰もが経済について関心を持つというのは、言葉以上にグロテスクな状態であると思う。みん なが経済について知ったとしても、もちろん貧富の差は残るし、ただ「経済を忘れた一日」が消えていくだけであろう。日本はそれで不景気を脱するかもしれな い。しかし、それにしたって限界はまたどこかで来るのだ。「経済を忘れた一日」さえもなくなってしまったら、次には何を犠牲にせよというのか。
もちろん、そんなことをこの本の著者が意識しているとは思えない。意識していないだけに、実に厄介である。この本の「やさしい顔」には気をつけたほうがいい。

抽象論だけでは説得力がないので、貧しい経済に関する知識を動員し、この本のそんな「うさんくささ」をなんとか指摘して、終わりたいと思う。

●冒頭で「経済学とはギリシア語で、共同体のあり方という意味」であると説明される。間違いではないけれども、あまりにも狙いがはっきりしすぎて、気持ち が悪い。正確に言えばこの「共同体」はもともと「家」を指し、「オイコノミクス」は「家政学」くらいの意味であったわけだ。そのまま都市国家、国家、国際 社会と単位が大きくなったことが経済学の本質的な矛盾なのであって、「そういうことだったのか」と納得されては困る。
●第一章はお金についての考察なのだが、お金にはなぜ利子がつくのか、という根本的な問題にまったく触れていない。
●第二章は株の話で「有限責任の株式会社は資本主義の大発明」とあるが、なぜ責任が有限などということがありうるのか。やはり問題ではないのか。
●第三章は税金の話。「所得の多い人=価値を生み出している人」はどう考えたって疑問だ。「無限の長い期間で見れば稼いだ金と使った金は一緒になる」というのも、利子とか土地の存在をわざと無視しているのだろうか?
●そんな具合に、経済の基本から説明していくのであるが、後半はビジネスのサクセス・ストーリーのオンパレード。ただのビジネス書と同じになっている。やっぱ経済ってそういうことだったのか?

*たまには批判的な書評も載せようと思って書いたのですが、やはり楽しくありません。これからはなるべく面白かった本を選ぶことにします。

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』
(2000年11月、澤田直訳、思潮社、2400円)

24人の地味なビリー・ミリガン

フェルナンド・ペソアは1888年にポルトガルのリスボンで生まれた。
彼はいくつかの「異名」を持つ詩人として知られる。「仮名」や「変名」ではなく、「異名」。つまり、一人の詩人が別の名前で書くのではなく、一人のなか にスタイルも傾向も異なる何人かの詩人が共存している、というのである。それぞれの詩人は別の生没年や経歴や身体的特徴を持っていて、彼らはいわばペソア の「体を借りて」それぞれの詩を残したことになる。
とはいえ、一部の文学研究者はさておき、「彼ら」の詩のスタイルの違いから別の人格を読みとることは、簡単ではない。フェルナンド・ペソアの異名者たち はそれぞれにみな「地味」であり、おまけに残されたものは詩だけであり、ペソアがそう明言しなければ、きっと誰もそこに別の人格があるなどとは思わなかっ ただろう。一人の詩人のなかにもっとたくさんのヴァラエティーを見出すことだって、しばしばなのだから。
ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』を読んで衝撃を受けた人も多いと思う。この驚くべき物語を読んで、自分のなかの知られざる複数性に思いを馳せた人もいるはずだ。けれどもこのビリー・ミリガンと似て非なる詩人の作品を読むとき、私たちはまったく別の問題を考えさせられる。
それは「人格」のなかの複数性ではなく、創作という行為のなかにあるいわば根本的な単数性だ。
フェルナンド・ペソアの辿った道は、いわば「自ら意図して」ビリー・ミリガンになることだったのであろう。創作を、自分と他者の壁を超える不可能な試み であると考えれば、ある意味で必然的な道筋であったかもしれない。自分と他者の間に超えがたい壁があるとすれば、そこに何かを介在させる必要がある。人工 衛星を打ち上げて地球の裏側と交信するのと同じだ。ペソアの場合、自分のなかに他者を作ることが、その必要不可欠なチャンネルであったのだろう。
けれども、そのチャンネル自体、フェルナンド・ペソアだけが利用しているものではない。人間は唯一の個であることを一時的にせよ諦めない限り、他者とつながることはできないのだ。あとはその方法論が問題になる。
社会のなかでは、人は演技によって他者とつながっている。けれども、演技することは他人を欺くことでもある。そういう意味で演劇はもっとも古い芸術かも しれない。言葉は、人が感じていることを抽象化することで、コミュニケーションを可能にした。けれども言葉はあまりにも複雑になり、また大きな壁を作って しまった。詩は単純に向かうことでその壁を逆に乗り越えようとする。
いずれにせよ、他者とつながるには、変身と簡略化は避けて通れない問題なのだ。
フェルナンド・ペソアの異名たちが書いた作品にそれぞれの個性を見出すことに、大きな意味があるとは思えない。フェルナンド・ペソアという人格のなかで 起きたドラマは、一つ一つの作品、あるいはすべての作品から感じられるものであって、「この詩とあの詩の違い」に感じられるものではない。僕にはペソアの 詩はどれも似通っていると感じられるのであって、同じように、ペソアと萩原朔太郎も似ているかも知れない。
フェルナンド・ペソアの「異名者」たちの問題は、詩を書くという行為そのものにつながっている。したがってそれらの詩は「同じ作者だから」似通っている のではなく、ある読者に詩として伝わったとき、詩はどれも似通っているのだと考えたほうが筋が通っているのではないだろうか。似ていない詩というのは、そ れが詩として機能しなかった部分に負うことが多い。創作のなかにある根本的な単数性。そういう意味では、すべての詩はまるで一人の人間が書いたかのよう に、似ているのだ。

付記:この本はペソアの詩や散文からの抜粋である「断章」とベルナルド・ソアレスの名で書かれた散文集「不穏の書」からなる。ので、いわゆる詩作品は収録されていない。翻訳された詩集としては、『ポルトガルの海』(彩流社)がある。

北原みのり『フェミの嫌われ方』

北原みのり著『フェミの嫌われ方』
(2000年8月、新水社、1400円)

男がフェミニズムを読む倒錯

フェミニズムについて書くのはやや気が重い。どんなに頑張ってもろくな文章にならないだろうという気がするのである。それなら書かなければよいのである が、やっぱり書く。というのも、僕はフェミニズム関連の本を読むのが好きで、読書に占めるその割合が、どう考えても普通の男性や女性よりも多い。なぜそん なに読むのか、結構面白い問題だと(自分では)思うからだ。
なぜそんなにフェミニズムの本を読むのか。単純に面白いから、なのであるけれども、なぜ面白いと感じるのか、フェミニズムの本を読んでどんなことを考えて いるのか、などとフェミニストたちに詰問されている場面を想像すると(そんなことがある訳もないのだが)、恐ろしい。どこか不純な動機があるのではない か、と自分でも感じているのかもしれない。
「フェミニズムを理解するオトコ」について、この本の著者、北原みのりはこう書いている。

「フェミニズム」を理解し、「フェミニズム」を愛し、自分の問題だと思い真剣に考えているオトコなんて、私にとっては不気味な存在だ。だいたい、オトコで いることがオトクな社会で、「女性差別は、僕自身の問題だよ」なんて心の底から言えるとしたら、それは「オトコ社会」とうまくコミットできない「オトコ」 たちでしかない。コミットできないのが悪いわけではないけれど、オンナがコミットできないのとは、まったくワケが違うように私には感じてしまうのだ。

まったくその通りでございます。
てな具合に僕は、フェミニズムの本を読みながら、とにかく無批判にその内容を受け入れることが多いのである。何というか、そこに一種の快楽を感じているようでさえある。まさに北原氏のいう、「不気味な存在」以外の何物でもない。
簡単にいえば、一種のマゾなのであろうが、もっと積極的に言えば、フェミニストが好きなのである。北原みのりであろうが、上野千鶴子であろうが、田嶋陽子 であろうが、女性のタイプとして、好きなのだ。偉そうに言うべきことではないのは確かだが、こんなことを書く機会もあまりないのでお許しを。
ここで少し脱線して、世間に蔓延している誤解を正しておきたい。「フェミニズムはもてない女のひがみから始まった」という誤解である。これは大きな間違い である。ちゃんと(?)フェミニズムの歴史を勉強すれば分かることだが、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、フェミニストには驚くほど美女が多い。僕は 逆に彼女たちがもてたからこそ、フェミニズムに目覚めたのだと思っている。仏陀やムハンマドが宗教に目覚めるようなものである(言いすぎか?)。もちろん ここにはシビアな差別が確かに存在していて、そういうものだからこそ逆にフェミニズムは女性に人気がないのだという言い方もできるだろう。
確かに北原氏が言うように、僕のような男性がフェミニズムに共感をもつ、というのは女性がフェミニズムに目覚めるのとはまったく次元の違う話ではあるのだ けれども、そこのところは大目に見てもらわないと、困る。こちらはエンターテインメントとして本を買っているのであって、面白い本を逃すわけにはいかない のだから。
男性社会に対するフェミニズムの攻撃というのは、実に清々しく、面白いものなのだ。
ここで紹介する『フェミの嫌われ方』でいえば、つんくの『LOVE論』映画『鉄道員(ぽっぽや)』やクボジュンをやり玉にあげ、ドラマ『ふたりは最高!ダーマ&グレッグ』に喝采を送る。それ自体はフェミニストにならなくとも共有できる感覚なのだけれども、やはりフェミニズムという文脈のなかで語ると切れ味が鋭くなる。
フェミニズムに対する共感をことさら強調するつもりはないけれども、せめてこういう感覚くらいは、一緒にわかちあわせてほしいものだ。
そんな訳で(どんな訳だ?)男性のみなさんも、ぜひ一読を。大上段から「イズム」を説くのではなく、身近な問題からやさしく説き起こして読者を巻き込んで いくスタイルは、フェミニズム入門者にも最適。男にとって痛い部分を、頭のいい美女に刺激される快感にも、ぜひ目覚めてほしい(やけくそ)。

テッサ・モーリス=鈴木 『辺境から眺める』


テッサ・モーリス=鈴木著『辺境から眺める–アイヌが経験する近代』
(2000年7月、大川正彦訳、みすず書房、3000円)

キャシー・フリーマン礼賛

シドニー・オリンピックが終わった。オリンピックの主役は相変わらず国旗であり、国家であり、メダルの数であった。
南北朝鮮が開会式で一緒に行進するという歴史的な出来事もあったが、ベルリンの壁の崩壊に比べればどこか予定調和的で、なんだこんなものかと思わせるもの だった。南北が統一すればより大きな国家ができるだろう。そうなれば、メダルの数はもっと増えるし、サッカーも強くなる。
僕にとってオリンピックの主役はやっぱりキャシー・フリーマンだった。四〇〇メートルで金メダルをとったが、彼女がこのオリンピックで本当に勝ったのかど うか、誰にも分からない。オーストラリア人であり、アボリジニーであり、キャシー・フリーマンである彼女の置かれた状況は、実に矛盾に満ちていた。モジモ ジ君のような姿で走る彼女はむしろ痛々しく、オリンピックにおける国家やら民族、商業主義といった抽象概念の大きさに今にも押し潰されてしまいそうに見え た。
陸上はシビアな種目だ。いわばグローバル・スタンダードの権化のような。だからこそ誰もが夢中になる。コカ・コーラのようなスポーツだ。最も強いのはアフ リカ系のアメリカ人であり、あるいはカリブ海のアフリカ人であることも、この種目の特色である。ここで勝つことは、もっともグローバルで「平等な」競争を 勝つことである。キャシー・フリーマンの意図がどうであれ、彼女は勝つことでアボリジニーをグローバル・スタンダードの渦中に引き入れたのである。
彼女にスポット・ライトが当たることは、オーストラリアが、あるいは世界がアボリジニーに対してこう言っているのと同じだ。「あなた方はもう辺境の知られ ざる民ではない。私たちと同じ土俵で勝つことができる、立派な戦士だ。戦いなさい。商売であれ、金融であれ、スポーツであれ、ショウビジネスであれ、グ ローバル・スタンダードの中で」
キャシー・フリーマンはその才能ゆえに、このとてつもなく矛盾した状況を走らなくてはならなくなった。走る以上、彼女は勝たなければならない。彼女は勝った。彼女は新しい時代の象徴になるだろう。

さて、『辺境から眺める』である。もはや「辺境」などなくなりつつある時代に、なぜ辺境なのか?
著者はイギリス生まれのオーストラリア人の女性で、日本の近代史が専門らしい。この本は日本の北方、あるいはロシアの極東の歴史を先住民の視点から捉えようとしている。辺境から見た歴史はどのように語られるのか、という歴史学にとっては刺激的な試みであろう。
たとえば日本の江戸時代はふつう単純に「鎖国」という閉じたイメージで理解されるが、ひとたび北方に目を向けるとまったく違う様相を帯びてくる。そこには 曖昧に広がるフロンティアとしての「蝦夷地」があり、異民族としてのアイヌがあり、それは植民地でもある。アイヌとの交易を介してさらに北方のロシアとの 交流や軋轢が存在した。
江戸時代も明治維新後も、北方をどのように捉えるかは国家の利害および定義と大いに関係した。どこまでが日本なのか? 彼ら少数民族たちは他者なのか仲間なのか?
アイヌは一般に狩猟採集の文化であったと理解されるが、視点を変えれば、このことも違う意味を持つ。アイヌには確かに農業が存在したが、江戸時代の幕府お よび松前藩の政策により、彼らの活動がそれらに限定されていったという事実。忘れられた過去は、近代に作られた国家や民族の物語によって、改変され、捏造 されていった。
辺境から語られる歴史は私たちの想像以上にダイナミックで、単に抑圧された人々という以上に、私たちの歴史観を覆す強さを持っている。

アイヌというと思い出すのは高校時代の社会科の授業のことだ。テストだったか小論文だったのか忘れたが、僕は「アイヌと日本人が…」という主語で始まる文 章を書いたのである。なぜ主語だけ覚えているかというと、その点を社会科の教師が批判したからであった。
「ここには無意識にせよ差別があります。アイヌと対になる言葉は和人です。こう書くとアイヌが日本人ではないことになってしまいます」
僕はもちろん驚いたし、納得できなかった。日本人でないということが、それほど差別なのだろうか?
『辺境から眺める』を読んだ今、考えてみると、この教師も僕も、国家と民族、個人とグループをどこかで混同し、混乱しているのがおぼろげに理解できる。 「アイヌは日本人である」も「アイヌは日本人ではない」も、どちらも近代の国家形成のなかで、繰り返し使われてきた常套句であって、そこに正解などないの だ。
日本とロシアという国家の二者択一を離れて、この地域の未来を考えること、和人であれ日本人であれ、アイヌと当たり前の「他者」「隣人」であることが出来 るのか、道は険しい。辺境は確実に消えつつあり、国家が持つ私たちの想像力への支配は強くなるばかりだ。もちろん、この本のような試みがをの助けになるこ とは間違いないだろう。なぜなら辺境はこれからも記憶の中に生き続け、国家もまたそれを利用し続けるであろうから。

僕はキャシー・フリーマンに期待しすぎているのだろうか。こんな想像をしないではいられないのだ。彼女はものすごい速さで競技場を駆け抜け、その外へと飛 び出していく。オーストラリアの大地を笑いながら駆けていく彼女を、どんなカメラも追いつくことができない。キャシー・フリーマン、走る!

ポール・オースター『空腹の技法』

ポール・オースター著『空腹の技法』
(2000年8月、柴田元幸/畔柳和代訳、新潮社、2200円)

理想の書評のあり方を考えつつ

主人公が間違い電話を受ける場面から始まる『シティ・オブ・グラス』をはじめ、ポール・オースターの小説の多くが、そういう「偶然の出来事」の積み重ねによって展開する。
でも一般的に小説ではこういう「ありそうもない偶然」はタブー視される傾向にある。「ありそうもないこと」を描くのが小説の大きな役割であることを考え れば、ちょっと意外だ。でも多くの小説家は「偶然」を隠そうとし、どんな不思議な出来事も「必然」の積み重ねなのだと読者を納得させようと必死なのだ。曰 く、歴史の必然、自然の法則、個人の内的必然性、運命、宿命……など。
ミステリーにおける「犯人なし」や小説の「夢オチ」同様、「偶然」は嫌われていて、「掟破り」と非難される。でも面白い小説に、ずるいもへったくれもな い。小説の中の出来事などみんな作り事なのだから、どんなに現実では可能性の低い出来事が描かれていようと構わないはずだ。小説はそもそも荒唐無稽なもの であって、問題は、小説のなかの出来事を「偶然」として説明するか、しないかでしかない。
オースターの小説を読むのが、特別な経験と感じられるとすれば、この反則ぎりぎりの手法に負うところが大きい。偶然を偶然として説明することが、逆に奇妙なリアリティーを生むのだ。
「偶然」というのはもともとありふれた出来事である。けれども私たちは、実生活においても、あらゆる説明によってそれを抹殺することに慣れきっている。なぜ私はここで働くことになったのか? それは私が選んだから。なぜここでこの友人に会ったのか? それはここは彼がよく来る場所だからである、といった具合に。でも出来事の本質、それが偶然であるということ自体は変わらない。「説明」することで、偶然が偶然でなくなるなどということはない。
なぜそうまでして「説明」しなくてはいられないのだろうか。偶然を偶然のまま放っておくのはそれほど気持ちの悪いことなのだろうか。
『シティ・オブ・グラス』を最初に読んだときのことはすごくよく覚えている。ソファの上に寝ころがって読んでいたら、そのまま眠ってしまったのだ。僕は夢 のなかで小説を読み続けた。目が覚めるとどこまで読んだのかわからなくなり、ともかくまたどこからか読み始め、最後まで読んだ。今でも、夢のなかで読んだ ストーリーと実際に書かれたストーリーは記憶のなかでごっちゃになっている。
夢のなかでは、物事はつぎつぎに起きるが、その理由を考えることは難しい。「なぜ?」という質問が出来事の進行に追いつかないのだ。いろいろなことに納得しながら前に進むなんてことはなかなかできない。
ポール・オースターの小説もまた、偶然の出来事はそれ以上説明されない。読者は読みながら考えるが、ストーリーの進行に「説明」はついていけない。そこから生まれるリアリティは「現実的な可能性」とはまったく別のもの、夢のなかのリアリティーに近い。

さて、本題の『空腹の技法』について。ポール・オースターが若い頃に書いたエッセイ、序文にインタビューを加えた本だ。エッセイはほとんどが詩人や作家 について書かれたもので、カフカ、ベケットをはじめ、彼が大きな影響を受けた作家から、クヌット・ハムスン、ローラ・ライディング、チャールズ・レズニコ フなど、それほど広く知られているとはいえない作家や詩人まで、幅広く取り上げられている。
さて、書評というのは、知らない作家や作品について書かれたものは面白くない、というのがなぜか普通なのだが、オースターのエッセイはそれが逆になって いる。聞いたこともない作家について書かれたものほど、面白い。どうしても読んでみなくては、という気にさせられる。
なぜ、知らないと面白くないのか。一般的な書評には「説明」が多すぎるからだろう。読者を「分かったような」気にさせ、自分の評価を明らかにする、そう いうタイプの書評は読んでいて疲れる。説明は必ず前提となる知識を要求し、知識のある読者はそこにまたちょっと新しい知識が加わることで満足するわけだ が、前提がなければほとんど意味がない。
オースターのエッセイは個人的な読みに終始している。それを一般的な図式に当てはめて「説明」しようという意識がほとんどない。したがって、ベケットを 読んだことのある読者が新たにベケットについて理解するなどということは期待できない。あるとすれば、オースター自身についてであって、ベケットについて ではない。
これが「評論」ではなく、あくまでも「エッセイ」であるというのは、そういう意味である。表面上は、引用あり、面倒な文学談義あり、の結構コワモテであるにもかかわらず。
最初にこの本を英語で読んだとき、エドモン・ジャベスこそ次に読まなくてはならない作家であると確信した。今改めて読み返すと、なぜそう思ったのか、よ くわからない。ただオースターが読書のなかで経験した出来事が、何かを強烈にアピールしたことは確かだ。それは「説明」ではなくて、そのまま提示するしか ない何かだ。一回限り、他人を同じ本へと向かわせるだけの力を持つだけの文章。オースターのエッセイを離れてジャベスに向かえば、オースターの経験をなぞ ることなどは無意味だし、不可能だろう。
そういう意味では、オースターが小説を書くときの姿勢と、エッセイを書くときの姿勢は完全に一致している。読者は何の説明もあたえられないまま、オースターの読書という経験に半ば強引に引きずり込まれる。
『空腹の技法』を読む人は気をつけなくてはいけない。読み終わった頃には、次に読むべき本のリストが倍になっているかもしれないから。僕など最近は活字を読むのが億劫で、なるべく読む本は少なくしたいのに。
なかでも特に読みたいのがエッセイ「ニューヨーク・バベル」に出てくるルイ・ウルフソン『分裂病者と言語』! なんでも、英語恐怖症(?)の著者がフラ ンス語で、さまざまな言語を駆使しながら書いたものだそうで、英語にも翻訳不可能という代物らしいから、読みたくても読めない。それを理由に、この本のこ とは忘れるしかないのだろうか。
ところで『空腹の技法』は個人的にとても思い入れのある本だ。思い出してみると、出版社に入って初めてやった「自発的な仕事」(考えてみれば、あまり自 発的にやらなかったなあ)はこの本の版権が空いているか調べることだった(もちろんもう翻訳権はとられていた)。あれからもう五年以上経つ。翻訳というの は時間のかかる仕事なのだなあと思う。
ちょうどホームページに書評を書こうと思いついたら、この本の広告が目についた。 そんなことにまで「偶然」を感じるのは、ちょっと恥ずかしいオースターかぶれではあるけれども。「理想的な書評のあり方」を考えつつ、大好きなこの本を最初にとりあげることにした。
今回出版された『空腹の技法』を手にとってみると、自分が想像していた日本版とはずいぶんイメージが違う。ちなみにタイトルはカフカに敬意を表して『断 食芸人たち』としたかったのだが、それも今となってはどうでもいい。ようやく翻訳が完成したこと喜びつつ、この本がより多くの読者に出会うことを祈ってい る。