フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』
(2000年11月、澤田直訳、思潮社、2400円)

24人の地味なビリー・ミリガン

フェルナンド・ペソアは1888年にポルトガルのリスボンで生まれた。
彼はいくつかの「異名」を持つ詩人として知られる。「仮名」や「変名」ではなく、「異名」。つまり、一人の詩人が別の名前で書くのではなく、一人のなか にスタイルも傾向も異なる何人かの詩人が共存している、というのである。それぞれの詩人は別の生没年や経歴や身体的特徴を持っていて、彼らはいわばペソア の「体を借りて」それぞれの詩を残したことになる。
とはいえ、一部の文学研究者はさておき、「彼ら」の詩のスタイルの違いから別の人格を読みとることは、簡単ではない。フェルナンド・ペソアの異名者たち はそれぞれにみな「地味」であり、おまけに残されたものは詩だけであり、ペソアがそう明言しなければ、きっと誰もそこに別の人格があるなどとは思わなかっ ただろう。一人の詩人のなかにもっとたくさんのヴァラエティーを見出すことだって、しばしばなのだから。
ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』を読んで衝撃を受けた人も多いと思う。この驚くべき物語を読んで、自分のなかの知られざる複数性に思いを馳せた人もいるはずだ。けれどもこのビリー・ミリガンと似て非なる詩人の作品を読むとき、私たちはまったく別の問題を考えさせられる。
それは「人格」のなかの複数性ではなく、創作という行為のなかにあるいわば根本的な単数性だ。
フェルナンド・ペソアの辿った道は、いわば「自ら意図して」ビリー・ミリガンになることだったのであろう。創作を、自分と他者の壁を超える不可能な試み であると考えれば、ある意味で必然的な道筋であったかもしれない。自分と他者の間に超えがたい壁があるとすれば、そこに何かを介在させる必要がある。人工 衛星を打ち上げて地球の裏側と交信するのと同じだ。ペソアの場合、自分のなかに他者を作ることが、その必要不可欠なチャンネルであったのだろう。
けれども、そのチャンネル自体、フェルナンド・ペソアだけが利用しているものではない。人間は唯一の個であることを一時的にせよ諦めない限り、他者とつながることはできないのだ。あとはその方法論が問題になる。
社会のなかでは、人は演技によって他者とつながっている。けれども、演技することは他人を欺くことでもある。そういう意味で演劇はもっとも古い芸術かも しれない。言葉は、人が感じていることを抽象化することで、コミュニケーションを可能にした。けれども言葉はあまりにも複雑になり、また大きな壁を作って しまった。詩は単純に向かうことでその壁を逆に乗り越えようとする。
いずれにせよ、他者とつながるには、変身と簡略化は避けて通れない問題なのだ。
フェルナンド・ペソアの異名たちが書いた作品にそれぞれの個性を見出すことに、大きな意味があるとは思えない。フェルナンド・ペソアという人格のなかで 起きたドラマは、一つ一つの作品、あるいはすべての作品から感じられるものであって、「この詩とあの詩の違い」に感じられるものではない。僕にはペソアの 詩はどれも似通っていると感じられるのであって、同じように、ペソアと萩原朔太郎も似ているかも知れない。
フェルナンド・ペソアの「異名者」たちの問題は、詩を書くという行為そのものにつながっている。したがってそれらの詩は「同じ作者だから」似通っている のではなく、ある読者に詩として伝わったとき、詩はどれも似通っているのだと考えたほうが筋が通っているのではないだろうか。似ていない詩というのは、そ れが詩として機能しなかった部分に負うことが多い。創作のなかにある根本的な単数性。そういう意味では、すべての詩はまるで一人の人間が書いたかのよう に、似ているのだ。

付記:この本はペソアの詩や散文からの抜粋である「断章」とベルナルド・ソアレスの名で書かれた散文集「不穏の書」からなる。ので、いわゆる詩作品は収録されていない。翻訳された詩集としては、『ポルトガルの海』(彩流社)がある。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です