米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』
(2002年10月、集英社、1800円)
嘘つきになれない作家の真実
米原氏が素晴らしい通訳であるだけでなく、卓越したエッセイの書き手だということは知っていた。今度は長編小説、大丈夫なんだろうかと思いながら読み始め た。以下はちょっと複雑な話なので、まずは素直な感想を書こう。面白い。読もうかどうか迷っているなら、買うべし(あるいは借りるべし)。
さて、ここからは本というものを素直に読めない可愛そうな読者の意見である。
問題はごくシンプル。これは本当に「小説」なのか? である。もちろんそりゃ、ご本人が小説だと言っているのだから、小説なんだろう。小説というのは フィクション、創作、嘘のまじった物語ということである。この本のなかにはどんな間の抜けた読者にも作り話と分かる部分がたくさんあるから、なるほどこれ は小説には違いあるまい。
そうでありながら僕は、あれ、これって小説だっけ? ノンフィクションだっけ? とはっきりしない気分のまま読みつづけてしまい、最後まで没頭できかなかった。こんな小説はそう多くない。それのどこが問題かといえば、これは大きな問題である(個人的には)。
ノンフィクションというものは、本がノンフィクションだと言い張るから、書かれていることは真実なのである。もちろん実際には嘘がたくさん混じってい る。それでいいのだ。同じように、フィクションというのは、本がフィクションだと言い張るから、書かれていることは嘘なのである。もちろん実際には真実が たくさん書かれている。したがって、実際にどのくらい嘘がまじっているか、が両ジャンルの違いなのではない。
そして問題を簡単にいえば、前提が違えば読み方も違うのである。どちらのジャンルもその前提でもって読者を魔法にかける。いわば、その世界に「安心して」読み進めるのである。
ところがこの作品、どう考えたってその魔法が機能していない。要するに嘘が上手じゃないのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。考えてみれば答えはけっこう単純だ。作者はいくつかのノンフィクションを継ぎ足して、その接合部分、糊の部分だけ を創作したのである。糊の部分が嘘だから小説ですと言われても、ノンフィクション部分があまりに生々しいから、読者は困るわけだ。
この問題を解決する二つのアプローチが考えられる。嘘が嘘とばれないような糊を使って、ノンフィクションに仕立て上げること。もうひとつは、ノンフィクション部分も最初から嘘つきの文法で語りなおすことだ。
実は、前者の方法なら、作者はもう立派に使いこなしている。前作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店)はまさにそうした大傑作である。
実はこの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、内容的にも手法的にも今回の小説とほとんど同じである。過去の友人を探し当てる旅、その過程で見えてくる東 欧の現代史、そして多感な少女時代の思い出。この本のなかの「白い都のヤスミンカ」を読んで僕は泣いてしまった。まさに魔法にかけられたのである(もちろ んノンフィクションの魔法だ)。当然のことながら、この本のなかにだってフィクションは混じっている。三人の友人を訪ねる旅を三つのエピソードに分けたこ と自体、作為でなくて何であろう? とはいえ、そのくらいは普通、嘘とは言わない。したがってこの本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することができ た。
内容はまったく同じなのに、あっちはノンフィクション、こっちは小説。『オリガ・モリソヴナの反語法』を書くにあたって、ノンフィクションとして書かなかった、あるいは書けなかった理由は何なのだろうか?
作家はすべてを語る必要はない。作家には隠す権利があり、まさにその権利によってフィクションは成り立つと言える。だが米原氏は習慣からかその人柄から か、見せられる真実はすべて明らかにしてしまった。読者としてはある意味で有り難いが、これは小説の面白さとはまったく別の話である。
したがって無理やり結論を書けば、こういうことになる。この本は面白いが、小説として面白いのではない。それでも読者は最後まで小説としてこれを読まなければならない。キツイんだけっこう、これが。