米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』
(2002年10月、集英社、1800円)

嘘つきになれない作家の真実

米原氏が素晴らしい通訳であるだけでなく、卓越したエッセイの書き手だということは知っていた。今度は長編小説、大丈夫なんだろうかと思いながら読み始め た。以下はちょっと複雑な話なので、まずは素直な感想を書こう。面白い。読もうかどうか迷っているなら、買うべし(あるいは借りるべし)。

さて、ここからは本というものを素直に読めない可愛そうな読者の意見である。
問題はごくシンプル。これは本当に「小説」なのか? である。もちろんそりゃ、ご本人が小説だと言っているのだから、小説なんだろう。小説というのは フィクション、創作、嘘のまじった物語ということである。この本のなかにはどんな間の抜けた読者にも作り話と分かる部分がたくさんあるから、なるほどこれ は小説には違いあるまい。
そうでありながら僕は、あれ、これって小説だっけ? ノンフィクションだっけ? とはっきりしない気分のまま読みつづけてしまい、最後まで没頭できかなかった。こんな小説はそう多くない。それのどこが問題かといえば、これは大きな問題である(個人的には)。
ノンフィクションというものは、本がノンフィクションだと言い張るから、書かれていることは真実なのである。もちろん実際には嘘がたくさん混じってい る。それでいいのだ。同じように、フィクションというのは、本がフィクションだと言い張るから、書かれていることは嘘なのである。もちろん実際には真実が たくさん書かれている。したがって、実際にどのくらい嘘がまじっているか、が両ジャンルの違いなのではない。
そして問題を簡単にいえば、前提が違えば読み方も違うのである。どちらのジャンルもその前提でもって読者を魔法にかける。いわば、その世界に「安心して」読み進めるのである。
ところがこの作品、どう考えたってその魔法が機能していない。要するに嘘が上手じゃないのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。考えてみれば答えはけっこう単純だ。作者はいくつかのノンフィクションを継ぎ足して、その接合部分、糊の部分だけ を創作したのである。糊の部分が嘘だから小説ですと言われても、ノンフィクション部分があまりに生々しいから、読者は困るわけだ。
この問題を解決する二つのアプローチが考えられる。嘘が嘘とばれないような糊を使って、ノンフィクションに仕立て上げること。もうひとつは、ノンフィクション部分も最初から嘘つきの文法で語りなおすことだ。
実は、前者の方法なら、作者はもう立派に使いこなしている。前作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店)はまさにそうした大傑作である。
実はこの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、内容的にも手法的にも今回の小説とほとんど同じである。過去の友人を探し当てる旅、その過程で見えてくる東 欧の現代史、そして多感な少女時代の思い出。この本のなかの「白い都のヤスミンカ」を読んで僕は泣いてしまった。まさに魔法にかけられたのである(もちろ んノンフィクションの魔法だ)。当然のことながら、この本のなかにだってフィクションは混じっている。三人の友人を訪ねる旅を三つのエピソードに分けたこ と自体、作為でなくて何であろう? とはいえ、そのくらいは普通、嘘とは言わない。したがってこの本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することができ た。
内容はまったく同じなのに、あっちはノンフィクション、こっちは小説。『オリガ・モリソヴナの反語法』を書くにあたって、ノンフィクションとして書かなかった、あるいは書けなかった理由は何なのだろうか?
作家はすべてを語る必要はない。作家には隠す権利があり、まさにその権利によってフィクションは成り立つと言える。だが米原氏は習慣からかその人柄から か、見せられる真実はすべて明らかにしてしまった。読者としてはある意味で有り難いが、これは小説の面白さとはまったく別の話である。
したがって無理やり結論を書けば、こういうことになる。この本は面白いが、小説として面白いのではない。それでも読者は最後まで小説としてこれを読まなければならない。キツイんだけっこう、これが。

ハミルトン『人間だって空を飛べる』 バートランド『エルヴィスが社会を動かした』

ヴァージニア・ハミルトン『人間だって空を飛べる』
(金関寿夫訳、2002年6月、福音館文庫、700円)

マイケル・T・バートランド『エルヴィスが社会を動かした--ロック・人種・公民権』
(前田絢子 訳、2002年8月、青土社、2800円)

抑圧と反抗をめぐるちょっと複雑な話

まずは全然テーマと関係のない話から。
福音館文庫の創刊が嬉しい。落ち着いた装幀や編集は読者として大人も視野に入れた感じだ。児童文学にかぎらず、子ども向けの本というのは宝の山だ。無駄 なものがそぎ落とされたというか、読書力が衰え、おまけに忙しくて時間のない現代人にはぴったりのものも多い。僕はときどき図書館の児童室へ行くのだが、 そこにある本を片っ端から読んだら、非常に面白いのではないかと思ったりする。まあこれは忙しい現代人というより、暇人の発想であるが。
それでどうしてもこのシリーズから一冊買いたくて選んだのがこれ。アフリカ系アメリカ人の口から口へ伝わる民話を集めた本だ。

前にディズニーのアニメ作品『南部の唄』についてちょっと触れたが、これが問題になったのは、あからさまな黒人差別というより(むしろ内容は「好意的」 とさえいえる)、黒人の描き方におけるステレオタイプだったのではないかと思う。南部において白人が黒人に対して支配的な態度をとっていたのは「事実」な のだから、むしろそれを描かないことのほうが問題なのだから。だからは問題は、黒いリーマスおじさんを白い作り手たちが勝手に「理想化」して描いたことに あった。
子どもたちの人気者、話し上手のリーマスおじさん。
この本のなかには、彼の口から直接聞いたらさぞ愉快であろう(そしてディズニーならそれを喜んでアニメ化したくなるような)、お話でいっぱいだ。動物を 擬人化したドタバタ劇や、辛い境遇でも忘れないユーモア、そしてほんのちょっと感じられる音楽性やリズム、そして自由への憧れ(人間だって空を飛べる!) などなど……。
さて、これらはみなある意味で僕たちが知っているお馴染みの黒人像ではある。いやもしかしたら、そのような存在であってほしいと願っているということか もしれない。そういう意味ではこれは先のディズニー・アニメのネタ本であって、リーマスおじさんの「理想化」と紙一重だ。
訳者のあとがきなんかにもそれは見てとれる。「私はこの本を読んでいて、思わずアメリカのジャズを連想してしまいました。……ジャズの持つ楽しい、軽快なリズムの底には、いつもあの黒人ブルースの、悲しいむせび泣きの声が、はっきりと聞き取れるのです」
間違いだと言うつもりはないけれど、本当にこれでいいんだろうか?

そんなわけで、ここからは「大人の本」の話。
差別というものを仔細に観察すれば、必ずそこには単純化できない複雑な構造があるものだ。白人=抑圧者、黒人=被抑圧者、というような図式ではどうしても抜け落ちてしまうものがある。
『エルヴィスが社会を動かした』が焦点を当てたのはまさにそういう存在としてのエルヴィス・プレスリー、つまり南部の白人労働者階級(いわば白人のなかの 被抑圧者。文化的、階級的には黒人に近い場所にいるが、時にそれは大きな憎悪となって黒人に向かった)である。公民権運動によって人種隔離の撤廃が始まる 前の南部にあった複雑な人種状況に目を向けることで、ロックンロール誕生の意義を解き明かそうというのがこの本の趣旨である。
したがってこの本によればロックンロールは、変わりつつあった白人労働者階級の若者たちの人種観を反映したものであり、その後の人種統合を先取りするとともに文化的な面で促進する大きな役割を果たした、ということになる。
ロックンロールは音楽産業によって作られたものだとか、白人中産階級が黒人文化を物真似し一方的な憧れを託したものにすぎないとか、あるいはどの時代に も見られる若者の反抗的な態度のひとつにすぎないとか、さまざまな見方に一つ一つ批判を加え反証していく努力が涙ぐましく、そしてこの本は大変長い。
エルヴィスがゴスペルやR&Bといった音楽にどのような尊敬の念を抱いていたか、あるいは逆に当時の上層階級がエルヴィスの音楽にどう反応したか。全体はやや冗長であるが、細かいエピソードの積み重ねが非常に面白いので、この分野に興味のある向きにはお勧めだ。

さて今回もうまく話がまとまりそうにないので、さらに話を飛躍させることにしよう。
このあいだ深夜にテレビを見ていたら、奇妙なライブを放送していた。それが、エリザベス二世の在位五〇年(だったかな?)を祝うバッキンガム宮殿での記念ライブだと理解するまでに、結構時間がかかった。
登場したのは、エリック・クラプトン、オジー・オズボーン、ジョー・コッカー、ポール・マッカートニー……などなど毎度お馴染みの年寄りロック・ミュー ジシャンばかり。「アメリカからの代表」ということで「本当はエルヴィスがよかったんだけど(司会)」ということで登場したのはブライアン・ウイルソン。
女王や王子たちを前に、まるでかつての宮廷お抱えの音楽家のようにうやうやしくロックが演奏されるという不思議な光景を見ながら思ったのは、「みんな成り上がったんだなあ」という非常に身も蓋もない感想だった。
そこに集まって大騒ぎをしている観客、そして優雅に深夜一人でテレビなんかを見ている僕も含めてである。今われわれは女王さま王子さまたちと同じものを 楽しんでいるわけだ。労働者階級の音楽は宮廷音楽になり、人々はみんなそれを平等に楽しみました。めでたしめでたし、というわけである。
人は成り上がって豊かになったとき、世界全体がよくなったような錯覚を抱くものだが、もちろんそれは勘違いである。この場合成り上がったのはアメリカや イギリスの労働者(もちろん黒人も含めて)であり、日本人でもあるが、なぜそんなことが可能だったかといえば、ここから先はまああの悪名高い「一〇〇人の 村」でも有名なお話だ。

昔話にせよロックンロールにせよ、かつての「純粋形態」を探し懐かしむことはできる。けれどももっと大事なのは、これからどうしようという話だ。ちょっ と生真面目な言い方をすれば、どんな音楽を奏で、どんな物語を紡いでいくべきなのか。もちろん答えが簡単にでるわけもないのだけれど、少なくとも「成り上 がってしまった」僕たちとしては、抑圧されたもの、あるいは権威への反抗というイメージそのものを、ちょっと見直してみる必要がありそうなことは確かだ。

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』
(芝まりこ訳、2002年7月、ブルース・インターアクションズ、1900円)

イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』
(菅啓次郎訳、2002年7月、国書刊行会、2400円)

ラテン・アメリカの女性たち

書評などといつつ自分のことばかり語っているようでちょっと恥ずかしいのだけど、またしても思い出話から。
ブラジル音楽が大好きな僕にとっては幸運というより他にないのだけれど、雑誌の編集者になって初めてインタビューの仕事をした相手がこのジョイスだった。そのとき初めてこの本の話を聞いたのだが、まさか翻訳は出ないだろうと思っていたから、ちょっと驚きだ。
初めてのインタビューということで、僕は緊張していた。気合いを入れていくつかの質問を用意していたのだが、インタビューというものはあまり思い入れが強すぎるとうまくいかない、と知ったのはもう少し後のこと。
中でも覚えている恥ずかしい質問は、彼女が作曲家として、歌手として、ギタリストとして、もっとも尊敬する人は誰か? と尋ねるものであった。ジョイス の答えはというと割と普通で、作曲家はアントニオ・カルロス・ジョビン、歌手はエリス・レジーナ、ギタリストは三人いて、トニーニョ・オルタとジョアン・ ジルベルト、ドリ・カイミ。こういう聞き手の思い入ればかりが強すぎる質問は後でうまく記事にならないのである。
そして加えて、僕はもう一つ訊いたのだった。ではフェミニストとしてもっとも尊敬するのは誰? それに彼女は「私の母」と答えた。
会社に帰った僕はテキトーな記事を一つでっちあげたが、もっとも感銘を受けたこの最後の答えについては何も書けなかった。思えば実に情けない話である。
さて、ジョイスのお母さん、どんなお母さんだったのかと思ってこの自伝を読めば、こんな具合だ。
「私の母は働き者の代表ともいうべき公務員で、持ち前のバイタリティで生をのぼりつめた人」「八十歳代の今でもビーチで過ごし、肌の色はブロンズ色のままである」「彼女にとっては、家はビーチに歩いていける距離でなければ話にならないのだ」

ジョイスはブラジルのミュージシャン、イサベル・アジェンデはチリ出身の作家であるけれども、ラテン・アメリカを代表する女性の表現者ということで、無 理やり一緒にとりあげた。もっとも、とりとめのない組み合わせのようではあるが、年齢も六歳しか違わないし、意外と共通点が多いようにも思える。二人と も、若い頃にフェミニズムの洗礼を受け、ある時代には彼女たち自身が「フェミニスト」と考えられた。ただ今はそこからちょっと距離をとっているように見え る。
ところで、フェミニストとして私は自分の母親を尊敬する、という言葉の意味は意外に深いんじゃないだろうか、と僕は思った。それは彼女の母親がフェミニ ストとして模範的な人生を送ったという意味ではないはずだ。たぶんそれは、自分が女性であることを肯定的にとらえることと関係があるのではないだろうか。 母を認めることができずに、どうやって自分を認めることができるだろう?
フェミニズムに限らず、「新しい思想」の弱点はいつだって、古いものを否定するあまり、自分の足下をも堀崩してしまうことだろう。

一方、『精霊たちの家』で知られる作家のノンフィクションはといえば、不治の病の床にあって意識のない娘パウラに、「きみが目を覚ましたとき、自分は いったい誰なのかと、途方にくれないですむように」、母イサベルが一族の歴史を語りきかせるという物語。ちなみに、有名なアジェンデ大統領(1970年世 界で初めて普通選挙によって選ばれたマルキシストの大統領。のちにクーデターによって殺される)は彼女の親戚だ。
ここでも母と娘、である。こちらは母のほうが娘に語りかけるのであるけれども、彼女自身の母親もまた重要な役割を果たすから、祖母、母、娘の三代にわた る物語であるとも言える。もちろんアジェンデのほうがジョイスよりもずっと意識的に自分とフェミニズムの関係、そして母親との関係についても書いている が、もちろんそれが物語の本筋というわけではない。物語の中心はあくまでも死にゆく娘の人生と母の人生、そしてチリと一族の「歴史」だ。
母は娘に「きみ」と語りかける。スペイン語の二人称 tu をこう置き換えた訳者の菅啓次郎に敬意を表するべきだろう。ふつう母親が娘に語りかける小説的な日本語は「お前」だろうか「あなた」だろうか。いずれにせ よ不自然で、普通は○○ちゃんとか○○さんとでも呼ぶのかもしれないが、この小説では、この親密で対等な「きみ」がなんともぴったりなのだ。
「目を覚ますとき、きみはどんな風になっているかしらね。おなじ女性にまた会えるんだろうか、それとも私たちは、二人の未知の女どうしとして、知りあいなおす必要があるのだろうか」
結局、パウラは「精霊」となってこの世を去ってしまうのであるが、小説の最初から意識のない彼女は、読者にとって最初から「精霊」のような存在である。 その「精霊」に母親が語って聞かせる物語のほうは、女として生きる苦労、喜び、痛み、矛盾だらけの人間らしさそのものである。そのあたりの対比が文学とし ては見事ということになるのだろうが、先のフェミニズムの話に戻れば、これはすごく示唆的な状況でもある。
伝統的な母と娘の関係とは、まさに娘を「霊化」しようとすることの失敗ではないか。つまり娘の性的な側面を否定し、どこまでも抽象的な「女」にすること。もちろん同時に、娘が大人になることは、母親が「精霊」ではないことの発見に他ならない。
「フェミニスト」たるアジェンデ家の母娘関係は恐らくその反対であったことであろう。母も娘もつとめてお互いに対等な「人間=女」あろうとしたはずだ。だからこそ、娘を「生のほうへ」呼び戻そうとして、母は物語るのだ。

あれれ、えらく理屈ぽくなってしまった。
ジョイスの音楽は好きだけど、自伝のほうは内容も翻訳もイマイチ。でも二冊に共通したある「臭い」があって、僕はそれがすごく気になったのでそれを無理に理屈にしたらこんな風になってしまった。
たぶん二人は言うだろう。そんな理屈はいいから、私の音楽を、私の物語を楽しみなさい。そのあたりがなんかリアルに想像できるところも、似ている。

斎藤美奈子『文章読本さん江』

斎藤美奈子『文章読本さん江』
(2002年2月、筑摩書房、1700円)

もう一つの文章読本?

やっと出た、ついに出た、ようやく出た。『妊娠小説』につぐ本格的な文芸評論!
というわけで、前回に引き続き評者がうかれているだけの書評になりそうでコワイ。なんといったって僕は斎藤氏の大ファンである。集めモノの時事的な評論もいいし『紅一点論』『モダンガール論』もそれなりに面白かったが、待ってたのはやっぱこれであった。
さて今回斎藤氏の攻撃の的になっているのは、小説ではなく「文章読本」である(「妊娠小説」同様、これもオトコの独壇場である)。僕はそういう種類の本 をちっとも読んだことがないのだが、それはそれ。悪口は知らない人の悪口でも面白い、というわけでもないのだろうが、十二分に楽しめる。
そんなわけで、「文章読本」ていうヘンテコなジャンルがあるよね、というところからこの評論は始まる。「文章読本」というのは偉い作家や学者の先生たち が、素人向けに「文章の書き方」を教えてくださる、というありがたい本であるらしい(ただし実用性はあまりない)。僕は谷崎潤一郎がこの分野の先駆者であ ることすら知らなかったのだが、確かに書店にはこのテの本がごろごろしているのを見たことがある。
んでもってこの「文章読本」てやつはどれもなんか胡散臭いし、そもそもジャンル自体がヘンだぞ、という話がこの本の前半戦。蒼々たる顔ぶれの筆者たちを おちょくり、からかう斎藤節はいつもの通りなのだが、より面白いのは後半戦である。学校教育における文章教育(作文、かつての綴り方)の変遷と印刷メディ アとの関連を辿りながら、どうやら「文章読本」のヘンテコ具合はここに根っこがあるらしい、と進んでいくのだが、このあたりの目のつけどころと分析の鋭さ には目を見張るものがある。いやあ、素晴らしい。
しかしながら、斎藤氏の本を読んでいつも思うのは、何のことはない、「いやあ、文章が上手いなあ」だったりするから、これはちょっと問題である。なんと いったって、「文芸批評的、私小説的」として「文章読本」を批判するこの本を読んで、こんな個人崇拝じみたことを書いていてよいのかと思うのであるが、そ こは大目に見てほしい。引用文がたくさんあって、既成の「文章読本」への批判があって、文章の書き方に対する意見が散りばめられている、という点では、こ れだって「文章読本」の一種と言えないこともないのである。
文章についての斎藤氏の基本的な考え方を要約すると、「文は人なり」を否定し、「文章はファッションである」という一言につきる。これはごく平凡な結論 であって、この本がウリとするところは決してそこじゃないのだが、その通りというほかない。ついでに、文章というファッションのスペシャリストたる斎藤氏 の自負のあらわれでもあろう、という点でこれはやっぱ「文章読本」的なのである(別に悪口ではない)。
「あとがき」でも本人が触れている通り「もう降りた」「無責任な野次馬の立場で」というのが、彼女の一貫したスタンスである。それで「上手な文章などには 何の興味も未練もなく」などとすらっと書くわけであるが、先ほども書いた通り、斎藤氏の文章はサイコーに上手である。ファッションでしかない文章をファッ ションとして冷静に扱っているから上手なんだとも言えるわけで、話は複雑である。
ところが僕のような助平なファンは、それでは納得しなかったりする。「斎藤美奈子の書いたもっと生々しい文章が読みたいなあ」、そんな阿呆なことを考え たりするわけである。とはいえこれは明らかに間違った期待であり、斎藤氏がそんなものを書くのは、彼女が呆けたときか、あるいは彼女を混乱させ、驚愕させ るような問題作が登場したときであろう。本当は、こっちのほうの登場を期待するのが筋というものである。

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』
(2002年2月、木村榮一訳、岩波書店、2700円)

物語が生まれる瞬間

小説の書き方、みたいな本はよくあるけれど、あまり読みたいと思ったことはない。一冊の本で「書き方」が分かるわけはないし、それが分かっているなら、 じゃあなぜ読むんだという話になる。たぶん「お金持ちになる方法」と言われるとなんとなく気になるのと同じ理由なんだろう。
だからこの本を読んでも「物語」が作れるわけじゃない。じゃあなぜ読むんだ? もちろん、もっと別の面白さがあるからである。
30分もののテレビドラマのシナリオを作る。それがこの本に登場する人々の課題である。メンバーが持ち寄ったストーリーをたたき台に、あれこれと話し合いながら、この枠におさまるストーリーを作っていく。
話し合いをリードするのが、作家のガルシア=マルケス。まずはこの場に居合わせたメンバーたちに嫉妬する。なんて楽しそうなんだろう!
この本の面白さのひとつはもちろん、希代のストーリーテラーであるガルシア=マルケス自身の言葉にある。彼が常に話し合いの中心にいることで、よくある 会社の会議みたいにダレることは絶対にない。独自の物語論や映画論はもちろん、絶妙のタイミングで話題を転換し、時に脱線する。率直な言葉は、書き言葉で は味わえない人間味がある。

さらにもう一つの面白さは、物語が生まれる瞬間をとらえた、この本の作りそのものからくる。すんなりと30分におさまるストーリーを求めて、繰り返され る試行錯誤、採用されないアイディア。一度忘れられた展開が復活し、脇役だったはずの人物が主人公になり、邪魔な人物には死んでもらう。あらゆる可能性の なかから一つを選ぶことは、物語を作る人間が神になったかのような錯覚さえ抱く悪しき快楽かもしれないが、同時に、物語は最初から一つの形でしかありえな かったような、そんな気もしてくる。パズルの答えは一つで、その回答は人間が作ったものではないんじゃないか、という気さえしてくる。
そのパズルの答えこそが、ガルシア=マルケスのいう「真実らしさ」なのであろう。どんな突飛な展開でもいい、自分が「信じる」ことのできる物語は、そう多くないのだ。
そんな「物語の生まれる瞬間」をとらえることができたのは、ここにたくさんの「天才じゃない」クリエイターたちが集合したからだろう。彼らの持ち寄った 「物語の種」はいずれも未完成で、でも可能性を隠している。それに彼らが気づかないからこそ、この瞬間が対話のなかで見事に表現できたのだろう。
人物のイメージ、あるシチュエーション、場所の雰囲気。メンバーたちがこだわる細部はさまざまだが、それにこだわるあまり、「語る」というある意味では 冷徹な作業がおざなりになっている。そこへ我らがガルシア=マルケスがやってきて不必要な部分を痛快なくらいにばっさりと片づける。彼は「面白ければなん でもいい」と思っているフシさえある。
やっぱガルシア=マルケスは語りのヒーローなのだ。

ところで話は変わるが、「物語ること」は何も映画やテレビ、小説などに限られない。僕たちはみな日頃から物語を作りながら、語りながら暮らしている。と きどき、びっくりするくらいそれの上手な人がいて、羨ましく思う。みんな物語に騙されるのが好きだから、そういう人は当然人気者だ。
そういえば、ガルシア=マルケスにまつわる「物語の種」を、僕も一つ持っている。
高校生の頃、ガルシア=マルケス本人じゃないかと思う人に会ったのだ。いや、「物語る」なら思い切って「会った」と書くべきかな。
そのとき僕は銀座を歩いていた。映画『予告された殺人の記録』のプロモーションで、ガルシア=マルケスが来日していた。僕は「あ、マルケスだ」と思った ものの、確信はなかった。あるいは単にちょっと顔が似ているラテン・アメリカ人だったかもしれない。小説のカバーにある小さな写真しか見たことがなかった から、自信がなかったのだ。
僕はその人物と連れの二人をこっそり追跡した。
さてここから何か面白い話が展開しそうな気がするのだが、事実はつまらないものだ。しばらく銀座の街をそのラテン・アメリカ人を尾行しながら歩いた僕は、結局怖じ気づいて追跡をやめてしまったのである。
別に、オチは「全然別人だった」でもいいのだ。どうやったらこれを面白く語れるのかな。ガルシア=マルケスにアドバイスをもらえたら、どんなにいいだろう。まずは話しかけたことにしないと物語が展開しないぞ、とでも言われるのかな。

リー・ソトリンガー著『グランドセントラル駅・冬』他

リー・ストリンガー著『グランドセントラル駅・冬』
(中川五郎訳、2001年11月、文芸春秋、2190円)

アメリカのまわりをうろうろする読書

本を読むことと書評を書くことはまったく別の作業なのだけれど、それがだんだんそうじゃなくってくる、というお話。結論を先に書くと、書評はあまりたくさん書くべきではない。たくさん読んだなかで、「お、これは」と思ったものについてだけ書くのがやはりベストだろう。

まず最初に読んだのは『グランドセントラル駅・冬』。ニューヨークの路上生活者が書いたという本だ。これがすごくよかった。書評を書こうかなと思いつつ、よい切り口がなかなか思いつかなかった。
そうこうしているうちに、続いて人に勧められた『ファストフードが世界を食いつくす』を読んだ。これも全然別の意味で大変面白い。とはいえ、ちょっと前 に出た本であるし、内容を紹介するだけではつまらない。どうしようかと思っているうちに、ふと思いつく。ファストフード産業についての本であるけれども、 原題はFast Food Nationである。もちろん、このネイションはアメリカ合衆国だ。もう一冊読んで、いっちょアメリカのことでも書いてやろう。
アメリカといえばやっぱディズニーである、ということで(なんといういい加減な)買った本が『ディズニーとは何か』。前の二冊ほどではないが、不純な動 機で買った割には、楽しめた。ついでに本のなかで紹介されていた『南部の唄』という黒人差別で問題になったディズニー作品も見て(これはイマイチだっ た)、準備は整った。さあ、あとは書評を書くだけだ。

僕が思い描いた筋書きは大体こんな具合である。
普通の人が考える「アメリカらしさ」のほとんどは、「大衆文化」と言い換えられるんじゃないか。ディズニーの何がアメリカらしくて、何が大衆文化的なの か。それを問うのは難しいけれど、ディズニーの歴史をひもとくと、アメリカの産業史とパラレルにこの「アメリカらしさ」が作られていった経過がなんとなく 見えてくる。
そして「アメリカらしさ」がダイレクトに世界に対して影響するのは、娯楽よりも食文化を通してだろう。もちろん、コカ・コーラやマクドナルドのハンバー ガーなんかを通してである。ここでも「アメリカらしさ」は、ある恣意的な歴史によって作られたものであり、ハンバーガーやフライドポテトの「アメリカらし さ」には文化と産業が分かちがたく結びついた独特の意味内容を持っている。
だからこそ、「アメリカらしさ」は海を超えて世界を席巻しているのだ。それは決して単なる二つの文化の争いではない。アメリカ文化優位に進められるアン バランスな戦いですらない。それは常に何か違う次元のものとして僕たちの生活に入り込む。この「アメリカらしさ」は一種の発明なのだ。
ざっとこんなところまでは、なんとかまとまりそうに思えた。

問題は最後に『グランドセントラル駅・冬』をどう位置づけるかであった。世界経済の中心たるニューヨークの路上生活を描いたこの本をある種のアンチテーゼとしてもってくるのはよいとして、一体これはアメリカ的なのかそうじゃないのか。
カート・ヴォネガットも賞賛するこの著者の文才を、むしろ「本当の」アメリカ文化の最良の部分として考えるのか、あるいは上でまとめた「アメリカらしさ」と戦う最前線の闘士として取り上げるべきなのか……。
そんなことを考えていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。結局、どちらだっていいのだ。どちらを「アメリカらしさ」と捉えたところで、自分の尻尾をつかまえて走っているようなものだ。
大体、アメリカのことを書くのに、本三冊で十分なわけがない。
アメリカのことを書くのに、実際に住んだ経験のことは書かなくていいのか。
ディズニーのことを書くのに、好きなドナルドダックの『三人の騎士』のことは書かなくていいのか。
ファストフードについて書くのに、自分がかつてマクドナルドで働いた経験のことは書かなくていいのか……。
アメリカをめぐる僕の考えはひたすら空転した。

想像していた以上に、僕はアメリカのなかにどっぷり浸かって生きているようだ。アメリカに関する問いは単純ではない。それはたとえばアメリカという国が なかったとしても、きっと「アメリカらしさ」は存在するだろうということでもあるし、自分がすでにかなりアメリカ人である、ということでもある。批判はす ぐにすべてのものに、とりわけ自分のほうへと向かってくる。
アメリカ人の多くがほとんど世界=アメリカ合衆国という宇宙観(?)を持っていたのに僕は驚いたけれど、それはある意味で真実をついているのかもしれない。今や世界にはアメリカが濃い場所とアメリカの薄い場所があるだけなのかもしれないからだ。

そんな訳で(どんな訳か?)、三冊の本を紹介しながらアメリカについて考察するという大それた野望はもろくも失敗に終わり、結局、無理をしてたくさん書 評を書くべきではない、という教訓だけが残った。そして冬季オリンピックがアメリカで開幕し、僕はいかにも「アメリカ的な」演出に文句を言いながらそれを 見ている。
そんなことはともかく、せめて『グランドセントラル駅・冬』の面白さだけでもちゃんと伝えられなかったのか。非常に残念な気持ちでいっぱいである。

宮崎賢太郎『カクレキリシタン』 他

宗教のまわりをうろうろする読書

日本の総宗教人口は二億人を超えるらしい(宗教団体による申告の合計)のに、まわりに宗教に熱心な人を探すのは難しい。
このあたりの事情や原因は、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)なんて本が上手にまとめているが、簡単に言えば、「宗教」という言葉の 使い方には大きなブレがあって、それがそのまま数字に出たのが先の統計と実感の食い違いといえるだろう。ほとんどすべての人が初詣に出かけて景気回復を祈 り、クリスマスを祝う賛美歌を美しいものと感じる一方で、日本では「宗教」にどこかタブーともいえる側面があるのだ。
けれども「宗教的なもの」の範囲は実に広い。どんなに合理的で進歩的な考え方と生き方を求めたとしても、これから逃れることはできないだろう。
宗教を考える上で大事なのは、いかなる意味においても線を引くことではない。宗教というものの境界の曖昧さ、差異ではなく類似性、そして動きつつある宗教を観察することなしに、何かを決めつけたところで、得るものはほとんど何もないだろう。
だとすれば、もしかすると僕たちは宗教というものを考えるうえで格好の場所にいるのかもしれない。宗教に対する無知は自慢できない汚点だとしても、日本 には、宗教と宗教でないものの接点で溢れている。無数の神々の「るつぼ」と化したこの国には、「正しい宗教」など決して存在しないのと同時に、政教分離が うまくできないほど、実は宗教にべったりだ。
あらゆる矛盾のなかで宗教というものを問うことは、終わりのない作業になる。でもそれはたぶん人間の文化が作ってきた最良の成果(そしてたぶん最悪の成 果も)へとつながっているのだ。「宗教」が問題になっているから宗教を問うのではない。人間は宗教的な生き物だから、宗教が最大の問題となり、宗教を問わ ねばならないのだ。

『カクレキリシタン』は地道なフィールドワークの報告を主体にしたとても地味な本である。何かとロマンティシズムをかき立てがちなその存在を、彼らがもは や「隠れ」てもいないし、(狭い意味での)キリスト教徒でもない、というクールな視点で捉え直している。そこに浮かび上がってくるのは意外にも、ある意味 でごく典型的な日本的な宗教感覚である。
民俗宗教としてのカクレキリシタンの豊かな世界がこれほど僕たちの「腑に落ちる」のは、キリスト教という知識(あくまでも知識でしかない)が介在してい るからかもしれない。キリスト教を間に置くことで、日本的なものがよく見える。著者も指摘する通り、我々は日本人が「日本仏教」を信じ続け、原始仏教に回 帰しないことには何の疑問も抱かないが、解散したカクレキリシタンがカトリックに「戻らず」、仏教や神道に入ることにはどこか違和感を感じる。その違和感 のなかにこそ、日本的な宗教感覚を相対化する近道があるように思えた。
多神教的な感覚、先祖崇拝、呪い的な儀式、なんて言葉にするとつまらないが、個々具体的な記述はとても興味深い。
そして何より、カクレキリシタンが急速に減少し、その組織が次々と解散していく事実は、宗教とはまずもってコミュニティーの問題なのだということを改め て教えてくれる。どんなコミュニティーを作るのか、それこそが宗教の根本的な問題であったのだろうと、気づかされる。
個人の信条、信仰、信念が重要なのはもちろんだが、少なくともそれだけが人類の宗教を作り出してきた原動力なのではない。先に触れたカクレキリシタンが仏教や神道に入る、ということの説明もこの点にある。彼らの選択はコミュニティーの選択なのである。
こう書くとやや極端だが、もちろんこれは僕がこの本を読んで特に強く感じた点だ。もしかしたら、読む人によってはやはり、数百年を超えて受け継がれた信 仰の強さに感心するのかもしれない。それはそれでもちろん正しいのだ。けれども、この本は一人一人の信仰の強さ、内面といったものには敬意を表してあまり 近づかないようにしているようだ。そういったものが好きな人は、たぶん遠藤周作の小説を読んだほうがいいだろう。

さて、江戸時代から明治時代に入って日本のコミュニティーは大きな変化を経験した。コミュニティーのニーズ(全体的にそれは薄まっていった)が変わっただけでなく、コミュニティーの変化に伴う個人の精神的なニーズも大きく変わった。
その変化のスピードについてこれなかった既成宗教の代わりに勢力を伸ばしたのが、いわゆる新宗教である。先に述べた日本人が宗教に感じる「タブー」の側面が強く投影されている部分がここにあると思われる。
建築史という分野で、そうした「タブー」のために(?)、これまで顧みられなかったこれら新宗教による建築に光を当てたのが『新宗教と巨大建築』である。新宗教への入門書としても、とてもよくできた本だと思う。
「宗教建築を素材にすれば、具体的なモノと言葉の関係が検証できる」と著者が「あとがき」で振り返っているように、モノを通して見ることで各宗教の教義や 歴史が具体化し、逆にモノとしての建築に与えられる言葉も、空疎でない実体をもったものになっている。どこかこけおどし的でスカスカになりがちな建築とい う分野の本のなかでは、珍しく内容があるといったら失礼だろうか。
とはいえ、宗教と巨大建築というテーマを、巨大なビルに宗教戦争が突入した(?)、ニューヨークのテロ事件に結びつけたり、安易な終末観に警鐘を鳴らし たり、文明の衝突を臭わせたり、各論を離れた総論になるとにわかにショボい記述が目立つ。地味なフィールドワークとマニアックな考察というレベルでとど まっているべきであったと感じる。また、建築史として取り上げるには歴史が浅くトピックが少ないからかもしれないが、創価学会に割かれたページが少ないの もちょっと残念だ。それでも、天理教や大本教における空間のとらえかたを述べた部分などは抜群に面白いので、興味のある人はぜひ読んでほしい。

最後に、普通は宗教とは呼ばないテーマを扱った本。『ワンダーゾーン』はまさに宗教すれすれ、現代日本人の宗教感覚において、タブーと切実なニーズの境目を描こうとしたノンフィクションだ。
テーマは「自己啓発セミナー」「前世療法」「チャネリング」「πウォーター」……。こう書くとなんとも興味深い話ばかりではないか(と書く僕は典型的な現代日本人だ)。
さて、内容も面白いといえば面白いのだが、本としてはやはりイマイチであったと言わなければならない。このテーマだったらもっと面白くなくてはならないのである。何が面白くないか、一言でいえば、著者のスタンスがはっきりしすぎているからであろう。
こうした「胡散臭い」ものを語るとき、もしかしたら本当かもしれない、という自己暗示は不可欠である。これがないと安易な批判になってしまうのである。 本人は抑えているつもりなのかもしれないが、それでも最初から批判的な視線がバレバレである。どうしたってしらけてしまうのだ。もちろん、安心して読書を 楽しみたいというお気楽な向きにはお勧めである。
それでも実は、著者がセミナーに参加した最初の章と、インターネットの復讐代行業が登場するごく短い最終章はかなり面白い。前者は、読者も驚く悪人ぶり を発揮する著者の様子が可笑しいし(かなり本気だったらしい)、体験を消化しきれてない感じを率直に書いているところがよい。そして後者はこの胡散臭い代 行業者に対するある種の共感と抗いがたい魅力を著者が感じているからこそ、何やらよく分からないが人間の真実に触れるような面白さが出ているのである。

ところで、三冊の本を読んだ順番は、紹介順の逆だ(後から読んだ本によって、前に読んだ本の理解が深まるのは読書の常。順番はあまり重要ではない)。
『ワンダーゾーン』の著者は「現代人の依存心」を最大の問題と見ているようだ。僕はこれに違和感を感じたのだけれど、それが何なのかは分からなかった。三 冊の本を読んで問い直すべきだと感じるのは、人間の心のなかにあらゆる原因を探っていくという考え方そのものである。「依存心」があるとすれば、その人の 心のなかに何か原因があるのだろう、と考えるのが普通かもしれない。たとえば、「アダルト・チルドレン」なんていう言葉はその考え方がどんなものかを示す 最たるものだろう。
だが心というのは、現代ふつうに考えられているよりも、ずっと「空っぽ」なのではないか。空っぽだからこそ、コミュニティーが必要だし、神様の形が欲しい。それはすごく当たり前のことではないか。
心の問題を問うときに、その中に踏み込んでいこうとするのは方向が間違っているのではないだろうか。そういう意味で、『ワンダーゾーン』という本の中途 半端さは際立っている。何か問題があるようだ、と思ってそこに首を突っ込むと、そこにあるのは空虚だけ。問題の核心はおろか、そこで何が起こっているのか という大雑把な把握さえできない。現場にいる個人への虚しい攻撃が行われるだけ。でもこの著者だって分かっているのだ。問題の一部のなかに自分も生きてい ることを。
そういう意味で、何をどれだけ意識していたかはともかくとして、形に向かった前の二冊は実に正しかったのだと思う。心の闇が問題になるのは、心に集中し すぎるからかもしれないのだ。心を大切にし、心の価値を称揚し、心と心のつながったコミュニケーションを夢見る。病んだ心を見ると、その心にまっすぐぶつ かっていこうとする。敢えて乱暴な言い方をすれば、心を重んじすぎるのは現代人の悪い癖だろう。
形のなかに魂が宿るなどという陳腐な言い方をするまでもなく、目に見えるはずのない心をとりあえず離れる視点は重要である。実際、『ワンダーゾーン』と いう本は、金の動きとか勧誘の方法だとか、もっとしつこく深く取材すれば、より面白い本になったのは間違いないのだ。

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
(2001年11月、武井みゆき・渡部良子訳、現代企画室、1300円)

嘘のなかにある希望

事件の大きさに比例して、言葉は増える。
今年九月一一日にニューヨークで起きた事件についても、もちろん多くのことが語られてきた。知識人と呼ばれる人から、新聞の投稿欄、果てはインターネッ トの掲示板まで。あらゆる種類の人々が意見を述べた。もちろん意見を言った人が悪いのではない。人々はさまざまな意見を求めていたし、不安だった。誰かの 「説明」を待っていたのだ。
この言論の洪水のような状況の特徴は、意外にシンプルである。言葉の量や話題のホットさとは裏腹に、新しいものは何もないということだ。この新しい状況について語る言葉はすべて「古い言葉」なのだ。
考えてみれば当たり前だ。崩れ落ちる二つの超高層ビルの映像を見て、何かを知ることなど誰にもできない。不可解なものを見たとき、人はなんとか自分の 知っている知識でそれを解釈しようとする。テレビの前で呆然としていた僕たち「一般人」も、世間で尊敬される知識人も、その点ではまったく同じなのだ。
驚きから我にかえって話しだす言葉は、馴染みの古い言葉だ。護憲論者は今こそ憲法が大切だと言い、改憲論者はやっぱり改憲だと言い、文明の衝突論者はこ れこそ文明の衝突であると言い、メディア論が得意な者はなぜかメディア論を語りだし、経済の先行きを懸念していた者の懸念はさらに増す。何も変わらない。 変わったのはボリュームの大きさだけだ。それまでも知っていたことを語り、それまで考えていたことを、誰もがこの機会を利用して語り直した、というわけ だ。
そんな訳だから、この一連の事件に関連して出された出版物のなかで、ぜひ読まれるべきであると僕が考えるこの本が、実は事件よりも前に書かれたものであるというのは、ある意味で象徴的だ。
素晴らしいタイミングでこの本が書かれていた、というのは簡単である。
だが大事なのは、どちらが「偶然に」起きた出来事であるかを、見誤らないことだ。書かれる「必然性」があったからこそ、この本には意味がある。テロ事件 という「機会」を利用した文章とは本質的に違う。みんなが待っていた「誰かの説明」はもうすでにあったのだ。そこに偶然、あの事件が起きた。今は、そう考 えたほうがむしろ正しい、とさえ僕は思うのだ。
というのも、今のところニューヨークのテロ事件そのものはかなり「訳の分からない事件」であるにもかかわらず、それに対してアメリカ合衆国をはじめとす る各国の対応は、非常に分かりやすいものであった。では一体、僕たちは何に目を向けるべきか(何を知るべきか)といえば、それは、やはりアフガニスタンな のではあるまいか、と思うのである。
僕たち「一般人」がほとんど何も知らない国。この本の著者である、隣国イランの映画監督でさえもが「イメージのない国」と呼ぶアフガニスタン。あのとんでもない事件が指さしたのは、なぜかこの「イメージのない国」アフガニスタンだったのである(*注)
この本のタイトルにある「仏像」はタリバーンが爆破して有名になったあの仏像だ。マフマルバフは、仏像が飢餓と貧困で瀕死の状態にある国(アフガニスタ ン)を「指さして」みずから崩れたのに、「誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指せば月でなくその指を見るのだ」と書く。
皮肉にもついに二つの超高層ビルが崩れ落ちるに至って、とんでもない形で「仏像の指の先にあるもの」は明らかになったのかもしれない。
アフガニスタンという国が今どんな状況にあるのか。想像を絶する飢餓と貧困、恒常化した内戦状態。それだけを綴った文章であるなら、類書はあるだろう。 この本で特筆されるべきなのは、「イメージのない国」アフガニスタンに、映像作家ならではのアプローチでなんとかイメージを与えようとする努力そのもの だ。
(そういう意味でも、この本はマフマルバフが撮ったという『カンダハール』という映画とセットになったものだろう。僕はまだこの映画を見ていない)
「イメージ」というのは、言い換えれば「嘘」という意味でもある。たとえば仏像が破壊された、というのが「事実」だとすれば、それを「恥辱のあまり崩れ落ちた」などと言うことは、イメージでしかなく、「嘘」であるとも言える。
だが、そのイメージでさえ、「嘘」でさえ存在しない国の悲惨さは耐え難いものであると、マフマルバフは言いたいのではないか。ステレオタイプで語られる ことさえできない、忘れられた、見えない国。そしてその悲惨さを救えるのは、イメージそのものでしかないという認識。
もちろん、映画に何ができるのだ、といえばその通りである。マフマルバフはまさにその点について繰り返し絶望している。ある意味でこの本のテーマは絶望の表明なのだ。

「街道を眺める。これはこれ自身で、一つの映画だと思う。運転手は、この当たりのいくつかの家ではひそかに女子学校が作られ、何人かの少たちが家で勉強し ていると言う。私は思う。ここにもまた一つの映画の題材がある。私はヘラートに辿り着く。女性がブルカの下からマニキュアをしてもらっているのを見る。私 は思う。ここにもまた別の映画の題材がある。危険なアフガニスタンまで人の役に立ちたくてやってきた一九歳のイギリスの少女に会う。ここにもまた別の映画 の題材がある。(中略)いまにも死にそうな人びとが、通りを覆いつくしているのを見た。もはや言うことはできなかった。ここにもなた別の映画の題材があ る、と。映画を辞め、ほかの仕事を探したいと思った」

だが、「嘘」であるイメージを取り戻さないことには、何かに希望を持つことさえできない。マフマルバフが映画を撮りつづけ、文章を書く理由は、まさにこの一点にあると思われる。
彼の映画は二作しか見ていないが、フィクションとノンフィクションの境界を意識的に取り扱っている作家だという印象をもっている。言い換えれば、「事 実」とされるものと「イメージ」のあいだの曖昧性である。その間隙を名人芸によって描いて、最終的には「嘘」としての映画を、イメージそのものとして観客 にぶつける、その手腕は見事だ。
王政打倒を目指して地下活動中、警官の銃を奪おうとして失敗した若き日のエピソードを映画化した『パンと植木鉢』はまさにそんな映画だった。当事者同士の認識の食い違い。そして、過去の「再現」という作業に入り込む現在という時間。その複雑なパズルを解き明かすラストシーンの美しさは、とても言葉では言い表せないものだった。
唐突に現れたパンと植木鉢という「イメージ」。それはマフマルバフの「嘘」であるとともに、どうしてもそうでなければならない、世界への希望であった。若い男女が差し出すのは、銃やナイフではなく、パンと植木鉢でなければならないと。
苦渋に満ちたこの本は、まさにその希望がいかに小さなものかを、延々と書き連ねた本であると言えよう。ここではマフマルバフは純然たるノンフィクション を目指しているように見える。悲惨を表現するのに、数字を羅列することしかできない、という映画監督の嘆き。
だが『カンダハール』という映画が撮られたこと自体、それがどんなに小さなものであっても、希望が決してなくなってはいないことを示しているのではないか。世界に対して映像を、イメージを差し出すという行為そのものが示す何かを信じたい。
この小さな本とともにマフマルバフの映画がより多くの人の目に触れることを願ってやまない。

(注) ある友人から次のような批判をもらった。「テロ事件とアフガ ニスタンの問題は本当に関係があるのか。アメリカがアフガンを指差したときに世界はアメリカの指を見てただけなのではないか」。そう言われて読み返すと確 かに筆がすべっていると感じる。ここで語りたいのはあくまでもアフガニスタンの問題であり、テロ事件のことではない。テロの原因や解決をアフガニスタンの 国内問題に関連づけるのは間違いである可能性が高いと僕も思う。

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』
(2001年9月、千野栄一・姫野悦子訳、集英社、1800円)

悪すぎた時間

読書にはタイミングというものがある。
たとえば恋愛小説を読むとき、読者自身がどんな恋愛状況にあるか。それによって評価が変わってしまうのでは困る、と思う人も多いかもしれない。
でも僕はそれを不可避と考えるし、仮に個人的な感情を離れた客観的評価なるものがあったとしても、そんなものには興味がない。現実世界で嫉妬に苦しんで いる読者が、ひとまずそれをおいて小説のなかに描かれた嫉妬を「平気で」読むなんて、ナンセンスだ。フィクションの独立性というのは、そういう意味ではな いと思う。現実と区別がつかないくらいのめりこんでこそ、フィクションの醍醐味が味わえるのではないか。
したがって読書のタイミングは重要である。次に読む本は何にするか。そこからすでに読書という行為は始まっている。どんな本を選択するか、も含めての読書なのである。
そんな訳で以下は、読書のタイミングを間違えた、という報告にすぎず、とりあげる本の客観的な評価からは、ほど遠いものであることをまず述べておきたい。

そもそもなぜこんな本を買ってしまったのか。
その理由は容易に想像できる。チェコ語のユダヤ系作家という点に興味をもった。装幀が気に入った。長すぎず、ちょうど読みごろのサイズと思った。などなど。
しばらく積んでおいたのを数日前にふと読みはじめたのだが、すぐに思った。
なぜ僕はこんな本を読んでいるんだろう?
強制収容所の最高司令官の道化師として生き延びた男たちの運命。イェルサレムに辿りついた彼らはやがて、「人間は神のためにつくられた道化師にすぎないのか」という問いに行き着く。
『宮廷の道化師たち』の粗筋はこんなところである。シンプルで無駄のない文章。計算されつくした語り。拍手。
確かに、途中で飽きるような要素のない、よくできた小説である。その証拠に、最後まであっという間に読んでしまった。しかし、面白いとか面白くないといかいう以前に、自分にとって今どうでもいいものを読んでいるな、という感覚は致命的だ。

今イスラエルで起きつつある出来事が頭の隅にあったのも事実だ。被迫害者としてのユダヤと、現在の「ユダヤ国家」のあいだにある断絶は何なのか。その問いにもかすかに触れるはずのこの小説だが、やはりどこか違う方向を見ている。
主人公の一人がアラブ人のテロによって負傷する場面は、ただ過去への入り口としてしか描かれない。
小説としては、それでいいのだ。そう思いながらも、どこか落ち着かないのは、やっぱり読むタイミングが悪かったとしか、言いようがない。
そして、この小説の重いテーマである、この世界が作られた「目的」。ユダヤ神学的な問いに、リアリティを感じられないのは僕だけじゃないだろう。唯一絶 対の神というコンセプトを共有しない人間にとって、神と強制収容所の最高司令官を重ねることは、よくできた冗談ではあっても、この身を震撼とさせる恐ろし い思いつきなどではない。
そしてこの本の主人公が辿り着いた解答をここでは明かさないけれども、問い自体ぴんとこないものの答えに、感動するわけがない。
チェコ語で書かれてはいるが、内容は明らかに現代イスラエル文学。僕にはそうとしか感じられなかったのだが、どうなんだろう。チャペック兄弟やカフカ(こちらはドイツ語だが)なんかと比べることに、どれだけ意味があるのか。
でも今はそれを考えるには、本当にタイミングが悪すぎる。

マヌエル・リバス『蝶の舌』

マヌエル・リバス『蝶の舌』
(2001年7月、野谷文昭・熊倉靖子訳、角川書店、1000円)

海の向こうが見える場所

同名映画が静かなヒットを記録しているらしいが、僕はその映画を観ていない。きっといい映画なんだろうと思う。
本のほうは、映画の元になった三つの短編を含めた短編集だ。スペイン西部、ガリシア地方出身の作家。映画の公開でもなければ翻訳出版さえ難しい、地味な本と言えるだろう。
スペインはさまざまな顔を持った国であるのに、どうも日本ではステレオタイプが強すぎるようだ。映画『蝶の舌』を観た人は、「これがスペイン?」と思ったのではないか。それほど、ガリシアという場所は、日本人がもつ一般的なスペイン像からかけ離れている。
十年近く前にガリシア地方に列車で入っていったときのことをよく覚えている。風景は劇的に変わった。スペイン中央部の渇いた茶色は、突如として緑に覆わ れ、空気は湿っぽくなった。実際に霧が出ていたかどうかは分からないが、僕の記憶のなかでは、ガリシアの緑は霧のなかに煙って見える。
スペインの辺境として今も豊かとは言えないこの地方には独自の言葉と文化があり、中央の政治にいつも翻弄されてきた歴史がある。でも、貧しい人々が見て いたのは「中央」だけじゃない。大西洋に面した地の利から、新大陸への移住というもうひとつの選択とのあいだに暮らしていた。僕にはこの地方の文化を深く 知るだけの時間がなかったけれど、すぐにこのスペインらしからぬスペインが好きになった。

そんなガリシアの地方性がにじみ出た最初の三作(映画の原作)は、この短編集では異色といえる部類に入る。スペイン内戦を描いた表題作と、新大陸への憧 れを描いた「霧の中のサックス」(ガルシア・マルケスが激賞しているらしい)。この二つをもって、ガリシアが経験した極端な二者択一がうかがわれるが、残 りの作品は、意外にも(?)現代的でポップな作品が多い。
そのポップのあり方に、すごく感心した。なんというか、すごくバランスがいいのだ。
短編の多くが世代間のギャップを扱っている。子供と大人、大人と老人、さまざまなすれ違い。あるいは、年を重ねるとともに感じる、一人の人間のなかの世代ギャップ。ある意味ではすごく普遍的で、ありふれた物語たち。
ガリシアのサッカーチーム、デポルティーボ・ラ・コルーニャを応援しながら喧嘩する親子の話、「ミスターとアイアン・メイデン」なんか、実に他愛もな い。アイアン・メイデンのTシャツを着た息子と、熟練漁師の父親。二人は喧嘩の後、無言のまま漁に出かけるのだが、突然舟が座礁する。以下は息子が父親を 助けようとする最後の場面。

「彼はアイアン・メイデンの妖怪のように身体に電流を受け、腕をぐるぐる回しながら、タッチラインめがけて走る。敵の選手を次々にかわし、ロスタイムに 三つ目のゴールを決めたところだった。そして今、彼はデポルティボのサポーターたちが振る青と白の旗の前で、長い髪をなびかせながら、タッチラインめがけ てスローモーションで走る。若者は白髪のコーチを抱きしめようと両腕を広げ、タッチラインを越えて走り続ける」

若者の物語だからポップなのではない。若者の風俗が描かれるからポップなのでもない。むしろ世代間のギャップをささやかな形で乗り越えてみせるからこ そ、時代の軽さが表現できるのであり、世代という重い鎖からふと自由になれるのだと感じた。明らかに、日本の多くの若手作家が怠っている試みだと思う。
ちなみに翻訳本では、「アイアン・メイデン」や「エアロスミス」に大真面目な注釈が入っていて、結構笑える。フェルメールやブルトンには注釈がない。と いうことは、想定読者対象がおのずと見えてくる。僕にはむしろフェルメールに注釈が必要な世代に読んでほしい気もしたのだけれど。
もっとも、こういう作家が存在すること自体、やっぱりガリシアの地方性と無関係ではないのかもしれない。大きなメジャーな文化ほど、世代のギャップは大きくて、乗り越えがたいものなのかもしれない。
仮にそうだとしても、この素敵な作家に見習うべき点は多い気がする。

ところで僕のスペインの旅行はカスティリャからガルシア、アンダルシアときて、カタルーニャの首都、バルセロナにたどり着いた。カタルーニャといえば、 ヨーロッパの中心にもっとも近い、これまた誇り高い地域。ここの名門サッカーチーム、バルセロナFCとデポルティーボ・ラ・コルーニャの試合へ行った。
スタジアムはバルセロナの応援一色、カタルーニャ語の応援歌がとどろいていた。ラ・コルーニャの劣性は明らか。あっという間にスコアは3対〇だ。僕は覚えたてのスペイン語を口に出してみた。「かわいそうなラ・コルーニャ」。
遠く日本を離れてスペインを旅行していた僕の心境は、どうしたってガリシア人に感情移入せざるをえない感じだったわけだ。それを耳にした隣のカタルー ニャ人は私がラ・コルーニャを応援しているらしいのを、笑った。「かわいそう」は何も知らない東洋人だとでも思ったのだろう。
ラ・コルーニャの貧しい港町を思い出す。その先には見えない新大陸があって、僕は、コロンブス以来多くの人がそこで感じてきた憧れをちょっとだけ共有した。ヨーロッパの名門チームが何だ。頑張れ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ!