北原みのり『フェミの嫌われ方』

北原みのり著『フェミの嫌われ方』
(2000年8月、新水社、1400円)

男がフェミニズムを読む倒錯

フェミニズムについて書くのはやや気が重い。どんなに頑張ってもろくな文章にならないだろうという気がするのである。それなら書かなければよいのである が、やっぱり書く。というのも、僕はフェミニズム関連の本を読むのが好きで、読書に占めるその割合が、どう考えても普通の男性や女性よりも多い。なぜそん なに読むのか、結構面白い問題だと(自分では)思うからだ。
なぜそんなにフェミニズムの本を読むのか。単純に面白いから、なのであるけれども、なぜ面白いと感じるのか、フェミニズムの本を読んでどんなことを考えて いるのか、などとフェミニストたちに詰問されている場面を想像すると(そんなことがある訳もないのだが)、恐ろしい。どこか不純な動機があるのではない か、と自分でも感じているのかもしれない。
「フェミニズムを理解するオトコ」について、この本の著者、北原みのりはこう書いている。

「フェミニズム」を理解し、「フェミニズム」を愛し、自分の問題だと思い真剣に考えているオトコなんて、私にとっては不気味な存在だ。だいたい、オトコで いることがオトクな社会で、「女性差別は、僕自身の問題だよ」なんて心の底から言えるとしたら、それは「オトコ社会」とうまくコミットできない「オトコ」 たちでしかない。コミットできないのが悪いわけではないけれど、オンナがコミットできないのとは、まったくワケが違うように私には感じてしまうのだ。

まったくその通りでございます。
てな具合に僕は、フェミニズムの本を読みながら、とにかく無批判にその内容を受け入れることが多いのである。何というか、そこに一種の快楽を感じているようでさえある。まさに北原氏のいう、「不気味な存在」以外の何物でもない。
簡単にいえば、一種のマゾなのであろうが、もっと積極的に言えば、フェミニストが好きなのである。北原みのりであろうが、上野千鶴子であろうが、田嶋陽子 であろうが、女性のタイプとして、好きなのだ。偉そうに言うべきことではないのは確かだが、こんなことを書く機会もあまりないのでお許しを。
ここで少し脱線して、世間に蔓延している誤解を正しておきたい。「フェミニズムはもてない女のひがみから始まった」という誤解である。これは大きな間違い である。ちゃんと(?)フェミニズムの歴史を勉強すれば分かることだが、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、フェミニストには驚くほど美女が多い。僕は 逆に彼女たちがもてたからこそ、フェミニズムに目覚めたのだと思っている。仏陀やムハンマドが宗教に目覚めるようなものである(言いすぎか?)。もちろん ここにはシビアな差別が確かに存在していて、そういうものだからこそ逆にフェミニズムは女性に人気がないのだという言い方もできるだろう。
確かに北原氏が言うように、僕のような男性がフェミニズムに共感をもつ、というのは女性がフェミニズムに目覚めるのとはまったく次元の違う話ではあるのだ けれども、そこのところは大目に見てもらわないと、困る。こちらはエンターテインメントとして本を買っているのであって、面白い本を逃すわけにはいかない のだから。
男性社会に対するフェミニズムの攻撃というのは、実に清々しく、面白いものなのだ。
ここで紹介する『フェミの嫌われ方』でいえば、つんくの『LOVE論』映画『鉄道員(ぽっぽや)』やクボジュンをやり玉にあげ、ドラマ『ふたりは最高!ダーマ&グレッグ』に喝采を送る。それ自体はフェミニストにならなくとも共有できる感覚なのだけれども、やはりフェミニズムという文脈のなかで語ると切れ味が鋭くなる。
フェミニズムに対する共感をことさら強調するつもりはないけれども、せめてこういう感覚くらいは、一緒にわかちあわせてほしいものだ。
そんな訳で(どんな訳だ?)男性のみなさんも、ぜひ一読を。大上段から「イズム」を説くのではなく、身近な問題からやさしく説き起こして読者を巻き込んで いくスタイルは、フェミニズム入門者にも最適。男にとって痛い部分を、頭のいい美女に刺激される快感にも、ぜひ目覚めてほしい(やけくそ)。


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