テッサ・モーリス=鈴木 『辺境から眺める』


テッサ・モーリス=鈴木著『辺境から眺める–アイヌが経験する近代』
(2000年7月、大川正彦訳、みすず書房、3000円)

キャシー・フリーマン礼賛

シドニー・オリンピックが終わった。オリンピックの主役は相変わらず国旗であり、国家であり、メダルの数であった。
南北朝鮮が開会式で一緒に行進するという歴史的な出来事もあったが、ベルリンの壁の崩壊に比べればどこか予定調和的で、なんだこんなものかと思わせるもの だった。南北が統一すればより大きな国家ができるだろう。そうなれば、メダルの数はもっと増えるし、サッカーも強くなる。
僕にとってオリンピックの主役はやっぱりキャシー・フリーマンだった。四〇〇メートルで金メダルをとったが、彼女がこのオリンピックで本当に勝ったのかど うか、誰にも分からない。オーストラリア人であり、アボリジニーであり、キャシー・フリーマンである彼女の置かれた状況は、実に矛盾に満ちていた。モジモ ジ君のような姿で走る彼女はむしろ痛々しく、オリンピックにおける国家やら民族、商業主義といった抽象概念の大きさに今にも押し潰されてしまいそうに見え た。
陸上はシビアな種目だ。いわばグローバル・スタンダードの権化のような。だからこそ誰もが夢中になる。コカ・コーラのようなスポーツだ。最も強いのはアフ リカ系のアメリカ人であり、あるいはカリブ海のアフリカ人であることも、この種目の特色である。ここで勝つことは、もっともグローバルで「平等な」競争を 勝つことである。キャシー・フリーマンの意図がどうであれ、彼女は勝つことでアボリジニーをグローバル・スタンダードの渦中に引き入れたのである。
彼女にスポット・ライトが当たることは、オーストラリアが、あるいは世界がアボリジニーに対してこう言っているのと同じだ。「あなた方はもう辺境の知られ ざる民ではない。私たちと同じ土俵で勝つことができる、立派な戦士だ。戦いなさい。商売であれ、金融であれ、スポーツであれ、ショウビジネスであれ、グ ローバル・スタンダードの中で」
キャシー・フリーマンはその才能ゆえに、このとてつもなく矛盾した状況を走らなくてはならなくなった。走る以上、彼女は勝たなければならない。彼女は勝った。彼女は新しい時代の象徴になるだろう。

さて、『辺境から眺める』である。もはや「辺境」などなくなりつつある時代に、なぜ辺境なのか?
著者はイギリス生まれのオーストラリア人の女性で、日本の近代史が専門らしい。この本は日本の北方、あるいはロシアの極東の歴史を先住民の視点から捉えようとしている。辺境から見た歴史はどのように語られるのか、という歴史学にとっては刺激的な試みであろう。
たとえば日本の江戸時代はふつう単純に「鎖国」という閉じたイメージで理解されるが、ひとたび北方に目を向けるとまったく違う様相を帯びてくる。そこには 曖昧に広がるフロンティアとしての「蝦夷地」があり、異民族としてのアイヌがあり、それは植民地でもある。アイヌとの交易を介してさらに北方のロシアとの 交流や軋轢が存在した。
江戸時代も明治維新後も、北方をどのように捉えるかは国家の利害および定義と大いに関係した。どこまでが日本なのか? 彼ら少数民族たちは他者なのか仲間なのか?
アイヌは一般に狩猟採集の文化であったと理解されるが、視点を変えれば、このことも違う意味を持つ。アイヌには確かに農業が存在したが、江戸時代の幕府お よび松前藩の政策により、彼らの活動がそれらに限定されていったという事実。忘れられた過去は、近代に作られた国家や民族の物語によって、改変され、捏造 されていった。
辺境から語られる歴史は私たちの想像以上にダイナミックで、単に抑圧された人々という以上に、私たちの歴史観を覆す強さを持っている。

アイヌというと思い出すのは高校時代の社会科の授業のことだ。テストだったか小論文だったのか忘れたが、僕は「アイヌと日本人が…」という主語で始まる文 章を書いたのである。なぜ主語だけ覚えているかというと、その点を社会科の教師が批判したからであった。
「ここには無意識にせよ差別があります。アイヌと対になる言葉は和人です。こう書くとアイヌが日本人ではないことになってしまいます」
僕はもちろん驚いたし、納得できなかった。日本人でないということが、それほど差別なのだろうか?
『辺境から眺める』を読んだ今、考えてみると、この教師も僕も、国家と民族、個人とグループをどこかで混同し、混乱しているのがおぼろげに理解できる。 「アイヌは日本人である」も「アイヌは日本人ではない」も、どちらも近代の国家形成のなかで、繰り返し使われてきた常套句であって、そこに正解などないの だ。
日本とロシアという国家の二者択一を離れて、この地域の未来を考えること、和人であれ日本人であれ、アイヌと当たり前の「他者」「隣人」であることが出来 るのか、道は険しい。辺境は確実に消えつつあり、国家が持つ私たちの想像力への支配は強くなるばかりだ。もちろん、この本のような試みがをの助けになるこ とは間違いないだろう。なぜなら辺境はこれからも記憶の中に生き続け、国家もまたそれを利用し続けるであろうから。

僕はキャシー・フリーマンに期待しすぎているのだろうか。こんな想像をしないではいられないのだ。彼女はものすごい速さで競技場を駆け抜け、その外へと飛 び出していく。オーストラリアの大地を笑いながら駆けていく彼女を、どんなカメラも追いつくことができない。キャシー・フリーマン、走る!


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