野球、メキシコ、WBC

マーク・ワインガードナー『メジャーリーグ、メキシコへ行く―メキシカンリーグの時代』

ひさびさに愉快な小説を読んだ。
第二次世界大戦後、まだ黒人がメジャーリーグから締め出されていた時代に、
メキシコのリーグが多くの選手を引き抜いて盛り上がったというお話。
あくまでもフィクションだが、かなり事実に基づいて書いているらしい。
金や人種をめぐるあれこれのなかに、
純粋に丸いボールを追いかける野球の楽しさがチラリと見える、
そんな瞬間があちこちにある。
アメリカ人が書いたにしては、メキシコの描写もよくできている。

この本を手に取ったのは、WBCの影響がないとはいえない。
あれは、がっかりだった。
カリブ海のチームをもっと見たかったのだ。
なぜ、日韓戦を3回も見なければならないのか。
一説によれば、あれはアメリカが優勝する前提で組まれたトーナメント方式とのことだが、
まあ確かに、野球はカリブ海が主戦場で、太平洋はどうでもいいのかもしれない。

実は、もっとがっかりだったのは、イチローだ。
私はこの選手があまり好きではなかったのだが、
今回の騒ぎで、すっかり嫌になってしまった。
そう、この本はイチローとは対極の世界にいる選手がたくさん出てくる。
日本でいえば、新庄とかがまあ近いのかな……。

残念ながら、メキシコで野球を見たことはないのだが、
サッカーの試合は一度だけ見た。かの有名なアステカ・スタジアムではなく、
もっと小さな球場。アトランテ対タンピコという、かなりどうでもいい試合だった。
あれ、よかったなあ。

アーノルド・ローベル礼賛

「座右の書」は特にないんだが、強いていえばこれか。

『ふくろうくん』は私にとって師で、
『ふたりはともだち』のがまくん、かえるくんは、憧れの親友で、
『きりぎりすくん』は幸福なときの自分自身。

ふくろうくんは一人遊びの天才である。
吹雪のときの遊び方も、ベッドで一人寝るときの遊び方も心得ており、
涙の味を知り尽くしており、自分が一人であることの不思議さを知っている。

がまくん、かえるくんの友情は有名だろう。

そして「ほこりっぽい道」を歩き続けるきりぎりすくんに対し、
世間はいろいろ教え諭し、押しつけようとするが、
きりぎりすくんは明日も自分がその道を歩き続けることを知っている。

慎重さについて

島田裕巳『宗教としてのバブル』

バブル時代の話をする人の目は遠くを見ているかのようで、まるで来世を夢見る人のようだね、といった話は、よく飲み会なんかでしたものだ。
それを膨らませるとこういう本が出来るわけだが、
せっかく宗教学者がそれを書くなら、もっと宗教論として徹底的に書いてほしいものだ。
ちょっと物足りない。
オレンジレンジに妙に共感しているあたりが、ウケた。

ジャック・グッディ『食物と愛』
ある意味で上のものとは対照的な本。
食文化、家族、階級など、テーマは広いのだが、全体としては、
「西洋(もしくはイギリスなど特定の地域)文化には●●という特徴があって、それが近代化を促した」
といった主張への反論ということになる。
該博な知識をもって慎重に議論をしていけば、こういう話は大抵自民族中心的なものである、というある意味当たり前の結論となっている。
日本でも最近ときどき、アジアのなかで唯一早く近代化を成し遂げたとかで、
こういう怪しげ文化論を耳にするような気がするなあ。
しかし、慎重なだけに(しかも分厚い)、こういう本はあまり注目を浴びないのだろう。
ユーラシア大陸の東西の違いより、ユーラシアとブラック・アフリカの方が違うぞ、と言われても、そりゃまあそうかも、という感じだろうし。
しかし、食文化や愛、懐疑といったテーマについて書かれた細部はかなり面白い。

ところで、話をバブルに戻すと、
バブル大好きの友人が、「今回のバブルはショボい」と言っていた。
前回よりも、おこぼれにあずかる人の数は圧倒的に少ないということらしいが、
ある意味で冷静な分析である(笑)。

韓流おそるべし

韓国のドラマ『フルハウス』をみた。
なぜこんなものを借りて見たかというと、
主演のピ(RAIN)に注目していたからだが、歌手・ダンサーとしてのピについては、また改めて書くことにして、とりあえずは「韓流ドラマ」について。

私は韓流ブームとはほとんど縁がなく、例の『冬ソナ』をちょっと見たくらいだ。
『フルハウス』も、出来のいいドラマとはいえないだろう。
しかし、『冬ソナ』を見たときと同様に、すごく感心した。

なんといっても、制作者の圧倒的なパワーというか、気合いである。
とにかく見ている人を楽しませようという執念、サービス精神が随所に感じられる。
日本のドラマの場合、ときどき、制作者が視聴者のことを忘れて「ひとりよがっている」瞬間がある気がするのだが、それがほとんどないのだ。
そして、『冬ソナ』の場合もそうだが、
このドラマの場合も、視聴者として念頭にあるのは、やっぱり女性だろう。
女性へのサービスという点で、やはり日本のドラマは完全に負けている気がする。
どんなシーン、どんなストーリーが女性をうっとりさせるのか、
それを徹底的に追求した結果、このドラマはリアリズムを逸脱しまくり、
まったくクレイジーなものになっている。
だが、それでいいいいのだ。
とにかく恋愛の一番盛り上がる瞬間をひたすら引き延ばせば、
テレビドラマは成り立つのだという恐るべき事例を見せられた感じだ。
(粗筋としては、主人公の男女は、ひとつ屋根の下で「契約結婚」生活を送るのだが、実は愛し合いながらも、すれ違い、喧嘩を繰り返し続けるというもの。これが16回にわたり延々続く……)
日本でこれに似ているものといったら、やっぱり少女マンガくらいだろう。

しかし一方で、こういうものが成立するのは、
それだけ韓国では男尊女卑が激しく、いろんな意味で差別的な社会というか、
厳しい社会だからかもしれない。
もちろん、日本にそれがないわけではなくて、
日本ではそれを「隠す」「かっこつける」「言い訳をする」ことによって、
つまらないドラマが量産されているように思えてならない。

やる気の感じられない読書

本当は、こういう読書が一番楽しいのかもしれない。

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』

……
現物をとれ、あの世の約束に手を出すな
遠くきく太鼓はすべて音がよいのだ

……
ないかと思えばすべてのものがあり、
あるかと見ればすべてのものがない。

訳者が言うようにえらくモダンな世界観だと思う。
オマル・ハイヤームというとどうしても酒のイメージだが、
この合理性というか、明晰な感じは、酒ぽくない。
むしろ、私のイメージではアラビアン・ナイトのほうが酒ぽい。

春山行夫『ビールの文化史1』
私はといえば、酒なんぞ飲みながら、こんな本をダラダラ読んでいる。
豆の文化史を夢想する。

山際素男『踊るマハーバーラタ』
そういや、まだ『マハーバーラタ』も読み通してないな。
その訳者がエッセンスをぎゅっとまとめた小さな本。
こういう試みがもっと多くあっていいのにと思う。
原書もしくは原典訳のよさもあるが、やはり訳注だらけの長い本を読むのは苦しい。
現代に生きる紹介者の視点で、面白さを抜き出したこういう本は、有り難い。

美女を前にした王が「うーむ、抱きたい……」などと独り言をつぶやき生唾をのむシーンなど、訳もなかなか愉快な感じになっている。
牡牛へのこだわりも面白い。

特に感心したのは、「性の化身」と題された章。
老婦人のなかに若々しく美しい性を発見するシーンは、ちょっと驚きだ。

文芸評論?

小谷野敦『反=文藝評論』
タイトルにある文藝評論だとか文壇についてはピンとこないのだが、いくつか面白い文章があった。
特に「七五調と「近代」の不幸な結婚」という文章は、とても重要なテーマに触れている気がした。

以下引用。
「宮 廷の歌合が、うたげのなかから孤心が立ち上がる場だったとすれば、近代の叙情は、元来孤心として表出されたものが、より大きな読者共同体に改宗されてしま うという構造を持っていたのである。……「内なるわたし」は、多くの読者を獲得すればするほど、その内実は乏しくなってゆく」
「「色」の世界においては、唄われる情感は、必ず共同化されるという性質を持っている」

『ノルウェイの森』の徹底批判も面白いが、要は主人公が都合よくモテすぎる、という話。
まあ私も村上春樹他何人かの作家にずっと感じ続けてたことであり、特に目新しい感じはしないのだが。
M.クンデラも同じ、と言ってるあたりは、そうかもと思った。もう少し客観化されてる気がするけど、私の評価が甘いのかな。
なんにせよ、こういう作家の小説を多くの女性が読んで喜んでるのは、本当に謎だ。単に彼女らもモテる男が好きなだけだろうか?

アラビアン・ナイト

アラビアン・ナイトの世界

『アラビアン・ナイト』はいまだに最後まで読んでない。2つの版で読み始めたのだが、二度とも途中でやめてしまった。面白いのだが、どこかでもういいや、という気がしてしまうのだ。
これはその概説書だが、筋を追った部分はやはり面白く、また本編が読みたくなった。
それにしても枠物語というのは、なんと魅力的な仕組みだろう。
この本によれば、どうもインドあたりの説話集がその原点らしく、語り手がオウムだという『おうむ七十話』なんてのも読んでみたくなった。

と ころで、私は不遜にもしりあがり寿氏に「『アラビアン・ナイト』を書いてください」と頼んだことがある。その返事は、「弥次喜多はアラビアン・ナイトのつ もりで描いた」というものであった。それで、その代わりにということで書いていただいたのが、今はなき『抄』で2回連載された「セカイノフシギナハナシ」 である。

ブックオフ

随分ほったらかしにしてしまった。
ほったらかしついでに、読書日記はブログ上で書いてみることにした。この間、読んだ本のことは無視することにしよう。
最近、すっかり物忘れがひどくなっているし、そもそもそんなに大量の本を読んでいる訳ではない。

読書環境という意味では、大きな変化があった。
引っ越しをしたのである。
あまり胸を張って言うことではないが、私はこれまで、ブックオフで大量の本を購入していた。それがたまると、売りにいく。便利なものだった。

と ころがいざ新居へ引っ越しして一番近いブックオフへ行ってみると、これがよくないのである。分類もめちゃくちゃ、ほとんどゴミ捨て場を漁るような気分とな り、一刻も早く出たくなった。本に対するリスペクトがまったくないというか、とにかく悲しい店である。今まで、ブックオフが店舗によってこれほど違うと は、考えてもみなかった。ちなみに、これまで通っていたのは江古田店である。今思えば、あそこは素晴らしかった……。

そんなわけだから、これからは近くにある図書館を活用しようと思う。
たぶん、読む本が若干古くなるかもしれないが、仕方ないだろう。

過去ログ(OTTnet読書日記 2004年)

2004年8月28日

末延芳晴『ラプソディー・イン・ブルー――ガーシュインとジャズ精神の行方』

大変面白い。ガーシュインて本当に素敵な曲をたくさん書いてるんだけど、イマイチよく分かってなかったところも多いので、読んでよかった。ポップスとクラシックの境界や、アメリカ的なるものについて考える上で必読。

中田整一『モンテンルパの夜はふけて』

歌手・渡辺はま子の生涯とフィリピンの戦犯の話。いかにもNHK的という感じ。

テレサ・テンが見た夢―華人歌星伝説

自分が台湾の歴史をまるで知らないのには驚いたが、もう少し魅力的に書けるような気もした。そういや最近テレビで香港映画『ラヴ・ソング』てのを見たな~。

山田和『21世紀のインド人』

山田和『インド不思議研究―発毛剤から性愛の奥義まで』

相変わらず文句なしに面白いです。ブリジストンのサンダルとブリキのケースが欲しいっす。

仲正昌樹『「みんな」のバカ!』

佐藤直樹『世間の目』

似たテーマの本2冊。「世間」=「みんな」は一種の権力構造だというわけであるが、ある意味では「みんな」が知っている日本の構造を読み解くわけだから、 書き手の芸が必要とされる話題。単純に、「世間」というキーワードはすでに古い気がするが、どうだろうか?(もちろん、概念の有効性は疑いようがないけ ど。) そんなわけで、日本が特殊という話じゃない、と言いつつ、話題が外に開かない感じが強い後者より、前者のほうが楽しめた。「みんな」でハイデガー を読み解くあたりなんか、結構名人芸じゃないだろうか。でも、もしかしたら「みんな」と「世間」は全然違う話なのかも。もしそうだったら、誰か指摘してく ださい!

橋爪紳也『日本ランカイ屋列伝』

細馬宏通『浅草十二階』

仕事関係で読んだ本二冊。後者は塔フェチの心をくすぐります。世界の塔を集めた写真集が欲しいなあ。

小谷野敦『俺も女を泣かせてみたい』

相変わらず面白いし、肯ける点も多いが、女性の趣味が相当違うな、この人とは(どうでもいい感想)。

斎藤学『男の勘違い』

『負け犬の遠吠え』とセットにしたような装丁、タイトルなどなどにつられて買ってしまいました。失敗です。情けない。

シルヴィア・ジョンソン『世界を変えた野菜読本』

豆類のところが読みたくて買ったんですが、他も大変面白い。新大陸生まれの野菜の話です。

アルフレッド・W・クロスビー『数量化革命――ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』

「数量化」と「視覚化」をキーワードに西欧文明の特殊性を読み解くわけであるが、HOWはよくわかってもWHYは結局よく分からない。けれども、音楽や簿記など、なるほどと思わせる記述がたくさんある。

玄田有史・曲沼美恵『ニート――フリーターでもなく失業者でもなく』

たぶん、この本は玄田氏の前著同様いろんなところで紹介されてるし、ちゃんと売れるだろう。なのでちょっと別の角度から。「おわりに」で触れられているよ うに、「コミュニケーション・スキル」が働く上でもっとも重要という今の時代は、なんともキビしい。というのは、この「スキル」の内実は厳密な意味での 「表現力」とか「理解力」ではなくて、もっと怪しげな能力だからだ。たぶん、これは上の「みんな」=「世間」の問題とも関わってるだろう。

6月10日

スラヴォイ・ジジェク『イラク--ユートピアへの葬送』

前半のイラク戦争についての考察はけっこう面白かった。後半は読み飛ばし。難しいっす。

片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』

話題の本てことで。特に感想はなし。

ハミッド・ダバシ、モフセン・マフマルバフ『闇からの光芒--マフマルバフ半生を語る』

出ました、マフマルバフ本。インタビュー集ということで、『アフガニスタンの……』(書評はこちら) ほどの迫力はないが、この人のディープな人生がえらくあっさり語られている。どちらかというと、やはりインタビューよりマフマルバフ自身の文章をぜひ訳し てほしいものだと思うのだが(インタビューでもちょくちょく触れられている)、『ユリイカ』にちょっと翻訳されたものなんかを読むと日本での出版は無理な のかな、とも思う。

小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』

これはひじょうに面白のでお勧め。私を含め、『赤毛のアン』が好きな人にはとても辛い本でもある。というか、とりわけ女性のファンの心境は男の私には想像 できないんだけど……。もし、これが一度でも『赤毛のアン』にかつて胸をときめかせた女性によって書かれたとすれば、文句なしにフェミニズム史上に残る名 著になったんじゃないかなと思う。でもまあ、それはありえないことなのかも。少し不満なのは、ちょくちょく出てくる心理学ぽい考察が胡散臭いのと、最後の 「なぜ戦後日本の女性にとりわけウケたか」の部分がやや薄い感じのすることくらいか。続編がありそうなのでそっちにも期待。

大海赫『ビビを見た!』

知り合いに勧められて読んだのだが、これはスゴイ。冒頭からすごいテンションで、しかも最後まで驚きの連続。「復刊ドットコム」によって復刊された昔の作 品らしいのだが、子どものときに読んでたらどんなふうに感じただろうか? 想像がつかない。ぜひ頑張って立ち読みしてみて、足が疲れてきたら買いましょ う。

堀内圭子『〈快楽消費〉する社会―消費者が求めているものはなにか』

時間があるのに喫茶店で読むものがないので買ったんだけど、面白いところはありませんでした。仮にそう感じたとしても、喫茶店で本を読みネットにその感想を書く、という行為はいろんな意味で快楽消費です、というようなことが分かってもなあ……。

5月25日

まずは音楽関係の本二冊。

平野久美子『テレサ・テンが見た夢』

このあいだ香港映画を見ていたら、テレサ・テンに関するエピソードがあってちょっと気になっていた。本としては面白い部分もあるが、やや整理が足りないという印象をあたえる。

藤田正『沖縄は歌の島』

なんとなく図書館で借りてきた本。沖縄音楽の500年を百数十ページでまとめるというやや無理のある本だが、組踊などの舞台芸能にも触れられていてけっこう勉強になった。著者は思い入れたっぷり、最後はやや力みすぎという気もする。

ブルース・カミングス『戦争とテレビ』

戦争とテレビの関係、そしてそもそもテレビを見るとは一体どういう体験なのだろう? 面白いテーマではあるが、これに関してはそう簡単に答えは出ないとい う気もする。この本の前半は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争について考察しながらさまざまな問題点を整理しているが、むしろ後半の著者が関わった朝鮮 戦争についてのドキュメンタリー・シリーズの制作記録が面白かった。これだけ北朝鮮の問題がクローズアップされていながら、アメリカ同様日本でも朝鮮戦争 は「忘れられた戦争」になりつつある。ぜひこのドキュメンタリーを見てみたいものだ。

計見一雄『脳と人間』

本の帯には「21世紀には精神分裂病は解決するだろう……」とある。読後の感想は、「こりゃ大変だ、今世紀中に解決は無理だな……」というものだった (笑)。まあ、いかにもな仮説をぶち上げて期待をもたせるようなものよりは信頼がおけるという見方もできなくはないが……(またかいな)。

ところで脳の一部(ワーキング・メモリー)を酷使し、そればかり評価する社会について疑問を呈しつつも、一方では「処方箋は個の確立しかない」などとも簡 単に仰る。んでもって、自分には戦後の焼け野原という幼少時の「肉体」経験があって、これが大切とも。うーん、ひとつひとつが正しいかどうかはともかく、 いろいろな意味でちょっと無理があるんじゃないかなあ。

5月10日

黒田龍之助『羊皮紙に眠る文字たち-スラヴ言語文化入門』

マニアックといえばマニアックな本だが、一般読者向けに書かれていて面白い。学生時代にポーランド語とチェコ語を一度に習って混乱したのが懐かしい。私もキリル文字を読めるようになりたい……。

山下洋輔『ピアニストを笑え!』

恥ずかしながら、この人のエッセイをちゃんと読んだのははじめて。噂通り、ひじょうに上手。最近のミュージシャンでこのくらい文章を書ける人はいないのかなあ。

加藤信一郎『ヘルシーフードの神話』

つまらない本。というか、帯の文句だけで内容が終わっているという感じ(「わたしたちが食べているのは「からだにいい」という情報だ)。

ウォーカー・ハミルトン『すべての小さきもののために』

帯にあったロアルド・ダールの言葉に惹かれて読んだ。まあまあかなあ。説教調の訳者あとがきはかなり余計というか何というか。

内田正明『原子力は今でも百万馬力か』

数多い原子力本のなかでもかなり地味なほうだろう。著者の立場は、軽水炉による「今日までの原子力」に一定の評価を与えつつ、高速炉をはじめさまざまな 「明日の原子力」をかなり非現実的と批判するもの。原発の危険を煽るのでもなく、反対論をめったぎりにするのでもなく、恐らくこういう本はあまり売れない のだろう。

とはいえ、地味だからこそ信頼ができる「感じがする」のも事実で、「難しい」というイメージのある原発問題について、できるだけ「わかりやすい」議論の土台を提供しようという著者の意図は評価できる。

私にはそれでさえついていけず、読みながら関係のない空想に逃避することも多かった(笑)のだが、政策の立案をはじめ原発議論に参加する人々にはこのくらいはぜひ押さえておいてほしいものだ、とやや無責任に思った。

4月26日

なんと一カ月ぶりの更新。この間、読書はあまりしていない。忙しかったというか、調子もあまりよくなかったというか。

キアラン・カーソン『琥珀捕り』

こういう本を読みはじめると読書のスピードはなお遅くなる。斜め読みするわけにもいかないし、かといって大きなストーリーがあるわけでもないので、細部を楽しんでいつの間にか本を閉じている感じ。でもいい本だった。

同じ著者の『アイルランド音楽への招待』も読んでみようかな。

ピエール・クラストル『大いなる語り-グアラニ族インディオの神話と聖歌』

前に触れた本をさっそく取り寄せて読んでみた。「グアヤキ」と「グアラニ」はどうも隣り合う別の部族らしい。

非常に美しく、ちょっとびっくりする本。神話の語りも、その注釈も「よく出来すぎ」でフィクションじゃないかと思ってしまうほど。

というわけでこちらも同じ著者の『暴力の考古学』『国家に抗する社会』も読んでみたい。オースターが訳したという本の邦訳はまだないようだ。

若林忠宏『アラブの風と音楽』

著者がめちゃくちゃ濃い。本としての出来はイマイチだが、アラブ音楽やトルコ音楽についてやさしく語った類書もあまりないし、仕方ないか。

ちょっと前に読んだ、斎藤完『飲めや歌えやイスタンブール』のほうが、著者の濃さは近いものがある(笑)けれども、本としてはずっと面白い。

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過去ログ1

3月22日イサベル・アジェンデ『天使の運命』(上下)ひさびさに読んだ長い小説。と思ったら前に読んだのは、もしかしたらやはりアジェンデの『パウラ』だったかも(書評参照)。それほどアジェンデが好きかと言われればそうでもなく、単なる偶然です。カヴァーの絵もハーレクインロマンスみたいだが、中身もそんな感じ。世の中の恋愛小説がどれもこのくらいサービス精神に富んでいれば、私ももっと恋愛小説を読むだろうに、と思ったのだが……。もう一冊は新書で田島英一『上海-大陸精神と海洋精神の融炉』。最近、上海小吃に通ってるせいか、服部良一のせいか、なんとなく上海に興味をもったので買った。

けっこう分厚い新書で読みごたえがあるのだが、やたらに「妻」の話が多いだけでなく、やや思い入れによる「勢い」が勝ちすぎている気もする。私は中国につ いてまったく無知なので詳しく分からないが、メキシコ・チアパスについて触れたあたりから類推しても、たぶん全体にそういう傾向があるんじゃないか。リア ルといえばリアルだが、単純に、この人の勧める上海のレストランに行くべきという気はしない(そういう本じゃないんだけど……)。

3月10日

G.K.チェスタトン『求む、有能でないひと』

けっこう難しい本だ。文章が書かれた背景なんかが分からないのがやや辛い。

とはいえ、面白い文章は期待したとおりあちこちにある。

「人間の精神を支配するものは二とおおりあって、その二とおり以外はなにもない。すなわちドグマと偏見である。……牛は食ってもよいが人を食ってはなら ぬ。これがドグマである。なるべく少しずつ何でもたべるのがよい、というのが偏見で、しばしばこちらが理想的とされている」

「健康のエキスパートはありえない……。エキスパートとは例外的なことについてならありうるので、病気のエキスパートならあってもよい」

簡単にいえば、この本のモチーフは「近代」批判ということになるんだろうか。本気で「ドグマ」や伝統、権威、神学を擁護するとこうなる、て訳でなかなか説得力がある。もちろん、すべてに同意するわけではないんだけど。

それにしてもこの本、タイトルのせいかビジネス書のコーナーにあったんだけど、ちょっと無理があるんじゃないだろうか……。

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

オースターのエッセイについては『空腹の技法』の書評でも書いたが、日本独自の編集という経緯もあり既読のものと未読のものが混在している。

未読のものでは、9.11直後に書いたものに、綱渡り芸人フィリップ・プティのことが触れられていて嬉しかったり、ニューヨークの地下鉄についての素敵な文章があったり、サッカーについてのごく素直な考察があったり。

あと例によって、オースターが英語に訳したという、たピエール・クラストル『大いなる語り-グアラニ族インディオの神話と聖歌』が読みたくなった(本書では「グアヤキ」になっているが)。

もひとつ、I Thought My Father Was God ていう、オースターが編集したらしい本も読んでみたい。

あと二冊、薄い本。

『「人体実験」と患者の人格権―金沢大学付属病院無断臨床試験訴訟をめぐって』

マルキ・ド・サド『淫蕩学校』

前者は2/6の日記で触れたもの。後者は「お土産」でいただいたもの。どちらもそれなりにお勉強になりました(一緒にするなって)。

3月5日

池内恵『アラブ政治の今を読む』

これは素晴らしい。ぜひ読みましょう。

同じ著者の新書『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義』がひじょうに面白かったので、こんな地味な装丁ですが読まなきゃと思って買ったのですが、期待以上でした。

この本を読むと私たちはつくづくアラブ世界のことを知らされてないなあ、と思う。9.11やイラク戦争で加速度的に増えたと思われる情報も、どうやらあま りアテにならないものらしい。一躍脚光を浴びたアル=ジャジーラひとつとっても、私はこの本を読むまでその基本的な性格を全然理解していませんでした。

イラクとアラブ諸国の今(この二つをちゃんと分けているところも重要)、そして広く世界の情勢を踏まえたうえでの日本の外交戦略についての分析も傾聴に値 する。確かに、日本の自衛隊派遣についての議論は、ある意味で著者が指摘する「アラブ思想の袋小路」にも似て、やや閉塞感があるし。

地域研究者の陥りがちな、一つの文化への過剰な思い入れを指摘し、あくまでも冷静な分析に徹しようとする姿勢は、学ぶべきところが多い。学者の「あるべき姿」みたいなオーラを、この若い研究者は持っているなあ、とちょっと羨望や嫉妬も混じりつつ感じた次第。

日本ペンクラブ編『それでも私は戦争に反対します』

ある意味上の「閉塞感」を感じさせてしまう本。なかには面白い文章もある(なかにはヒドイ文章もある。その辺も読みどころだろうか)。でも対立する二つの 立場を客観的に分析したり、あるいは反対する立場の人をも説得するような新しい視点はあまり感じられません。

そのへんが「それでも」の意味だと思うし、私自身も「それでも」な立場です(なんのこっちゃ)。でももっと強力な「それでも」を期待してしまうのは私が愚かなのかな。

どうでもいいような本も一冊。

重松清『ニッポンの課長』。想像通り、特にコメントはありません。

3月2日

高橋伸夫『虚妄の成果主義-日本型年功制復活のススメ』

「成果主義」賃金はどう考えたって胡散臭いんだけど、私の周囲を見渡しても、世の中はどうもそっちの方向へ向かっているようだ。

「徹底批判」を期待して読んだのだが、「経営学はサイエンスである」なんて大見得を切っている割には著者が妙に感情的になっていて、ちょっと落ち着かない本だった。

そもそも、アメリカ型の「成果主義」は労働市場の流動性とセットになったものだろう。それは一定の「成功」をおさめていて、そしてその「成功」とは著者の 求めるような企業の長期的な成長などではなく、経営者の短期的な資産増大や、賃金の格差拡大を生んだことなどにある。

これはある種、陰謀的なものと捉えた方が正しい気がする。日米で多くの経営学者がそれに加担していたとしても、まったく不思議はないわけだ。

そういうものに対して、日本での不成功やその原理的な間違いなどを指摘しても、限界があるような気もするんだけど……。

もちろん、著者の「科学的な経営学」には参考になる部分がたくさんある。

とりわけ重要なのは、お金という「外的報酬」の負のインパクト。

前に読んだ『仕事の裏切り』でも紹介されていたお話がここでも繰り返されていたので紹介しましょう。

ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町に一人のユダヤ人仕立屋が店を開いた。差別者たちは嫌がらせをするために子どもたちをたきつけ、店の前で「ユ ダヤ人!」となじらせた。困った彼は一計を案じ野次った子どもたちに10セントずつ支払った。喜んだ子どもたちは翌日もやってきた。その日、彼は5セント 支払った。子どもたちは不平を言ったが、またユダヤ人をなじった。次の日は3セント、その翌日は1セント、最後の日はお金を支払わなかった。子どもたち は、「お金をくれないならもう野次らない」と言って去っていった。

いやあ、ユダヤ人て賢いなあ(笑)。という話ではなく、お金が目的になるとある種の楽しみが奪われてしまうという例です。

まあ、確かに「プロジェクトX」なんか見ていると、つくづく人が働くのはお金のためだけじゃないなあ、なんて思うわけだが、すでに我々はそういうものに感情移入できない世代になりつつある(どちらかというと嫌悪感のほうが先に立つ)。

著者はそこで「将来の見通し」とか「希望」みたいなものがいかに大切かを説くわけだが、それが正しければ正しいほど、年功制度だけで復活するような話でもない気がしてくる。

でも、こと賃金制度に限った話でいえば、「成果主義の間違い」は非常に重要な指摘であることは確かなので、「成果主義」を言い出した会社に勤める人はぜひ読みましょう。そしてお守り代わりに一冊、デスクの目立つところに置いておきましょう。

2月27日

私はときどき「中身はいいけど翻訳がイマイチ」なんて書くが、こういうことを書くのは、悪人である。

翻訳というのは大抵、報われない、しかも大変な仕事だ。誤訳なんかした日には(というか、誤訳のない翻訳なんてありえない)、読者からは鼻高々のクレームが来るし、そして本の名誉はいつだって原著者にある。

上村勝彦『始まりはインドから』は、『マハーバーラタ』(翻 訳完成を待たずに上村氏は亡くなった。心からご冥福をお祈りする)などの翻訳で知られるサンスクリット学者のエッセイ集。仏教やインドの宗教世界をめぐる あれこれのエッセイ、インドの説話の紹介、愛想のないインド旅行記、などがちょこちょこと収められている地味な本だ。

全体に、上村氏の素朴というか真面目というか、そんな人柄が滲み出ていてやや退屈なのであるが、ああ、翻訳というのはなんて有難いものなんだ、と思った。

写経のような境地でもないと、『マハーバーラタ』の翻訳なんてできないだろう。そう考えると、すべての翻訳は本当にありがたい。これからは翻訳の悪口は慎 もう、そして私も悪い心が生じそうになったら(しょっちゅうだが)、ちょっと翻訳でもしてみようと思ったわけ(笑)。

もう一冊は香山リカ『就職がこわい』

「なぜ若者は就職しようとしないのか?」てのが帯の文句。またかよ? という気もしたのが一応読んでみた。

「若者の就職がむずかしくなっている最大の理由は雇用の悪化」。香山氏はそう何度も念を押す。このあたりの背景については、香山氏もたびたび引用している玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』という名著があるが、どうも「でも、それだけでは納得がいかない」というのがこの本らしい。

その違和感の元になっているのが、教師として大学生に接する著者の「現場感覚」。つまり、実際に就職をためらう学生を見ていると、外部的な状況だけではない、彼らの「心の問題」を感じてしまうということらしいのである。

確かに、この本を読んでいると、トホホな若者たちがたくさん登場して笑える。これは問題かも、と思わないでもない。

だが、「現場感覚」はあくまでも「現場感覚」である。若い人々の心のなかが変わってきているということが事実だとしても、これはバブル期のはるか前から少 しずつゆっくりと進んできた話である。一方で雇用状況は革命的に変化してしまった。バブル期のような馬鹿げた就職戦線が再現されれば就職率は確実にアップ するだろうし、この二つの問題を一緒にすると訳が分からなくなるばかりだ。

レベルの違う話を無理やり結びつけて、何やらそれらしく語る。これが香山氏の得意技のようだ。そういやこの人、雑誌なんかであらゆる問題についてコメント するのがその役割のようだし。この人にかかると、すべての問題はつながっている。(それはそれで正しいとも思うが、そういう主張は各論で間違えがちだ)

もちろん、傾聴に値する部分もたくさんある。

「最近の若者」(もはや「若者」に限らない気もするが)の特徴は、自己肯定感の驚くべき低さと同時に、自分の個別性へのいきすぎた期待であること。

そういう「若者」に、「自分の好きなことを仕事にせよ」などと、就職を通して「自分さがし」を焚きつけるような態度は好ましくないこと。その通りだ。

そんなわけで、「なんでもいいから、とにかく仕事しなよ」という話になる。

「現場にいる大人」として、どんな態度をとるべきかという意味では「まっとう」なんだけど、やや「おせっかい」と感じないでもない。著者は若者たちの二〇 年後や三〇年後、あるいはその若者たちの子どもの世代のことまで心配しているようだが、そういう長期的な話なら、なおさら社会の仕組みのほうに目を向ける べきである。

先生や親といった「現場」はともかくとして、大多数の大人は雇用状況の改善に血道をあげるべし。そしてこんな本を読む暇があったら『仕事のなかの曖昧な不安』を先に読んでちょーだい。

2月25日

先日一緒に飲んだ知り合いは、自分のことを「オタク」だという。どうも違う気がするので問いつめると、要するにギーク(GEEK)のことを言いたいらし い。あまり知られていないが、アメリカにも「オタク」的な人々が存在していて、彼らはギークスと呼ばれる。とはいえ、ギークスはもっとエリート的だし、あ くまでもマイノリティである。日本の「オタク」はもっと広く文化的・社会的な現象だろう……。

そんなことを考えていたら目の前に東浩紀『動物化するポストモダン--オタクから見た日本社会』なんて本があったので読んでみた。

タイトル通り、現代思想の立場から、「ポストモダン的なものとしてのオタク」を読み解いているわけだが、上のようなことを考えていた私にとって面白かったのはむしろ日本特有の文化現象としてオタクを捉えたいわば「余談」の部分。

たとえばアニメには胡散臭くも「日本的な」象徴が溢れており(江戸の町、妖怪、巫女……)、そこには最先端をゆく「日本」への誇り、根っこを失った文化へのコンプレックスがないまぜになっていることなど。

そして、ここで扱われているアニメやゲームに疎い私は、世の中すごいことになっているなあ、とやや無責任な感想を抱き、自分は滅びゆく古いタイプの人間だなあ、とぼんやり思った次第。

もう一冊はお馴染み斎藤美奈子の新刊『文学的商品学』

ファッションや食べ物、さらには音楽や野球といった「商品」を日本の現代文学がどう描いているかを読み解いたもの。

バブル時代、村上龍がゴルゴンゾーラをパスタの一種と勘違いしていた、なんてどうでもよい指摘から、モノそれ自体を描いた文章を味わうことが小説を読むことの醍醐味のひとつであることを指摘した重要な視点など、楽しく読めます。

私が斎藤氏のファンであることやその文章の上手さなんかについては『文章読本さん江』の書評で触れたので繰り返さないが、今回のテーマも斎藤氏の得意とするところなので、期待通りというところだろうか。あるいは、期待通りすぎてちょっと物足りないという考え方もできる。

ついでながらさらに斎藤氏を誉めると、この人の引用は本当に的確で上手だ。世の中にはお手軽でテキトーな引用というのがけっこうあるのだが、この人の場合は引用の一発一発(斎藤氏はそう数える)が実に無駄がなく、楽しめるものになっている。素晴らしい。

2月17日

ポール・クルーグマン『嘘つき大統領のデタラメ経済』

M氏に面白いと勧められて読んだのですが、その通りでした。

本屋ではマイケル・ムーアの『おい、ブッシュ、世界を返せ!』(未読)なんかと並んでいて、さすがの私もブッシュの悪口にもやや飽きてきたところなので、勧められなければ買わなかったかもしれない。

ブッシュ批判本は売れるだろう、というこの邦題なのだろうが、中身を読むとちょっと違うんじゃないか、とも思える。「嘘つき大統領」はともかくとして、 「デタラメ経済」というと、あまりにブッシュのイメージ通りというか、「経済が分かっていないダメ大統領」と鼻で笑ってバカにしたようなニュアンスにも感 じられてしまうからだ。

そうではなく、ブッシュ政権とは「革命勢力」なのだ、と大まじめに指摘するところがこの本の最大のウリなのだと思う。ブッシュは単なる人のいいバカなオヤ ジではない。そしてこの革命勢力というのは歴史上いつもあまりにも馬鹿げた存在に見えるので、まじめにその危険性を指摘したりすると「大袈裟」だとか「考 えすぎ」などと言われる……。

もちろん、同じ状況は日本にだって当てはまるだろう。

今、アメリカで何が起きているか。アメリカ人は何を考えているのか。遠く離れた日本に住む私なんかがそれを知るには、非常にありがたい本である。そして、 新聞のコラムをまとめたこの本は、媒体の性質もあって非常に簡潔に、かつ読者を飽きさせない語りになっている。素晴らしい。

2月12日

年末に見たテレビ番組「服部良一物語」(桂三枝が服部役)以来、服部良一にハマっている。

あんまり関係ないけど、吉本新喜劇は偉大な教育ツールと感じた。

そんなわけで早速『僕の音楽人生』なんてCDを買って聴いたり、ギターと一緒に「東京の空の下に住む♪」なんて歌ったりしているわけ。

『上海ブギウギ--服部良一の冒険』もあまり期待してなかったのだが、非常に面白かった。特に終戦直前の上海で服部が開いたというコンサート「夜来香ラプソディ」の話、「夜来香」を作った中国の作曲家、黎錦光の人生などはちょっとした映画にもなりそうなくらいだ。

もっとも、この本を読んだら、なぜ私が今頃服部良一なんかに惹かれるのか、あまりに的確な指摘があってある意味がっかりしたんだけど。つまり、私はワール ド・ミュージックの文脈で聴いていたわけ。当たり前といえば当たり前なんだけど、またかー、という感じがしなくもない。

そういや、アン・サリー(私はそれほど好きじゃない)なんて人も最近、「蘇州夜曲」を歌っているし……(「ムーン・ダンス」)。

ときどき、お祖母ちゃんが「昔はいい歌がいっぱいあった」とよく言っていたのを思い出すのだが、それは確か「青い山脈」とかのことだったような気もする。亡くなる前にもっと「昔の歌」のことを聞いておけばよかったと思う今日この頃。

とはいえ、せっかく日本の流行歌に目が(耳が)行ったのだから、もう少し勉強してみよう、てなわけで、いろいろ本を読んでいるところです。

『カナリア戦史--日本のポップス100年の戦い』

これは、コロムビアレコードを中心に、日本のレコード産業史を追った本。

『演歌』(「日本の名随筆)

これは冒頭の萩原朔太郎の文章(流行歌曲について)がよくて思わず買ってしまったのだが、編者(天沢退二郎)の「演歌」観がよいのであろうか、全体にも楽しめる本になっている。

『増補 にほんのうた』

戦後の流行歌謡史。非常によくまとまっていて、資料としても一家に一冊、オススメです。

2月9日

橋爪大三郎『「心」はるのか』。あまり感心しなかった。

(これも「ちくま新書」。筑摩書房の売り上げに貢献してんな~)

「日常が生きづらかったり、自分が本当の自分でないように感じられたりしたとして、それは本当に「心」の問題だろうか」

この問いには、私もすごく賛成なのだけど、本全体がちょっと大雑把すぎる気がするのだ。たぶん、講演をまとめたという本の成り立ちのせいなのだろうが、これがある意味『不自由論』の仲正氏の言う「分かりやすい」本なのかもしれない。

意味の肥大化した「心」を問うことと、「心」はあるのかという問いは、ちょっと分けてみたい気もするのだ。

そんな私は、たぶん「心」てものの存在をどこかで信じているのだろう。

まあ無理してその存在を証明するつもりもないんで、これは一種の信仰みたいなもんだと感じる。その「心」は普通に考えられるよりもずっと小さくて弱々しくて、あるのかないのかよく分からないくらい情けな~い存在なんだけど……。

「どこから葉っぱが飛んできたのだろうか……

……人にはそれぞれ自分の音の連想が、きっとあるにちがいない。それはしばしば、言葉そのものの意味より前にやって来る」

ノルシュテインの画文集『フラーニャと私』で、自作「霧の中のハリネズミ」について語った文章だが、こういう曖昧な文章って、まさにあるんだかないんだか分からない「心」について語ろうとしたものじゃないだろうか? もちろん、言葉になった瞬間にそれは別のものになってしまうんだけど。

そんなわけで、ノルシュテインは言葉が大の苦手らしい。この本にはなかなか素敵な文章が並んでいるけど。

(この本によれば「霧の中のハリネズミ」はロシア語の慣用句になっているとのこと。「君はまさに霧の中のハリネズミだね」とかいう風に使うらしい。どういう意味か? 知っている人、ぜひ教えてください)

この画文集を買った直後、『ユーリー・ノルシュテインの仕事』なんて画集も出た。8500円。買えません。でも欲しい。

他にも『ノルシュテイン氏の優雅な生活』とか、『「冬の日」オフィシャルブック』とか絵本『きつねとうさぎ』とか、この数ヶ月の間に次々と出ているのは何なのだろう……。

でも、実は私もノルシュテインのアニメを見たのはごく最近だったのです。

なので、まだの人はぜひ『ユーリ・ノルシュテイン作品集』、見ましょう。

2月6日

岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会』という本をこのあいだ読んだのだが、イマイチ腑に落ちなかった。

「ゆとり教育」が胡散臭いもので、これによって育てようとしている「個性」とはまさに「消費する個性」である、という認識はぼんやりと共有したのであるが (それじゃ本の帯の文句だけだ)、「筆者は、価値の問題への関わりはいたく不器用でした」という「おわりに」の言葉通り、なんだか全体に「分かりにくい」 というか、整理されていない本と感じた(というか、整理だけしようとして失敗した本と言えなくもない)。

そんな訳で似たテーマを扱っていそうな同じ「ちくま新書」の仲正昌樹『不自由論--何でも自己決定の限界』を読んでみた。

もっとも、こちらはタイトルにあるように、教育政策そのものがテーマという訳ではなく、ジャンルとしてはどちらかというと「現代思想」なんだけど。

「ゆとり教育」への疑いから話を起こして、「自己決定」を行う自由な「主体」というものを思想史的に問うわけであるが、なかなか面白い。

とりわけ近代の「主体性」とは「気の短さ」の現れであると指摘するあたりは、なるほどと思わせる(エリ・ザレツキーという人が言っているらしい)。つま り、決断する人の「内面」は見えないので、「素早く判断する人」=「主体性のある人」と見られがちだというお話。

そんな訳でこの本の結論のひとつは「ゆっくり考えようぜ」だったりするのだが(笑)、別に「ゆとり教育」を擁護している訳ではないのはもちろんである。

ところでこの著者は繰り返し、「思想に分かりやすさを求めるな」と言っているのであるが、この本はとても「分かりやすい」。なのでオススメです。

「『人体実験』と患者の人格権―金沢大学付属病院無断臨床試験訴訟をめぐって」も読んでみたい。

2月5日

村上龍『13歳のハローワーク』が売れているらしい。ちょっと驚きだ。

雇用への不安は増し、とりわけ若年層の置かれた状況は非常に厳しいので当たり前ともいえるが、自分自身が『「働く」を考える』なんて本に関わり、全然売れなかった(笑)経験があるので、やはりニーズはあるのだなあと思った次第。

著者の注目度、タイトルの付け方、装丁、宣伝の力、どれをとっても大人と赤ん坊みたいな差があるわけだが、たぶん、この二冊の本は結構似ているんじゃないだろうかと思っている。良い点も悪い点も含めて。

雇用不安を背景に捉えつつも、とりあえず職業の多様さに目を向けてみよう、とちょっと問題をずらしている感じかな。

そんなことを思いつつ、村上龍の本を買うかわりに、ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』という本を買った。主に組織で働くことに的を絞ったこちらの本は、上の二冊よりもずっとストレートに現代的な問題を扱っていると言えそう。

「仕事」というものが歴史的に「呪い」から「天職」へと変化した基本的な事実のおさらいに始まり、とりわけ二十世紀の経営学や心理学等々が職業観を変え、職場を複雑な場所にしていった経緯を語るあたりが面白い。

そういや、コミットメントとかクオリティとかコーチングとか、流行の経営用語てあるよな~。日本だと英語の響きによって二重に煙に巻かれてる感じがするんだけど。

「……現代の経営は、公正な職場を作るより、働く人間を気持ちよく「感じ」させることに重点を置いている……経営に対する心理学的アプローチと二〇世紀の 厚生資本主義というイノベーションは、結果的に職場での公正を保証してくれる組合の衰退につながった。また、現代の経営手法によって、仕事の社会的重要性 が再定義され、仕事は徐々に私たちの生活のより大きな部分を占めるようになった。……一方で、賃金は停滞し、取締役室のドアの向こうでは、役員たちがボー ナス、ストックオプション、法外な退職金で私腹を肥やした」

仕事をめぐるさまざまなエピソードや労働観が紹介されており、仕事や消費、余暇といった身近な問題を「考える」材料にはもってこいの本といえる。翻訳がイマイチなのがちょっと残念ではあるが、読みにくいというほどではない。

2月2日

木立玲子『パリのおっぱい 日本のおっぱい』

エロの日仏文化比較、ではありません。

フランスで乳ガンの手術を受けた経験を綴った前作『フランス流 乳ガンとつきあう法』の続編で、その後の転移や化学治療の様子などが綴られている。

病とのつき合い方だけでなく、ちょっとした日仏文化論にもなっているのだけれど、どちらかを読むなら、前作をお勧めする。今回はちょっと急いで慌てて書いた感じがするのだ。それだけに一種の生々しさはあるんだけれど……。

ついでに、このあいだ読んだ女性筆者による本二冊。

酒井順子『負け犬の遠吠え』

小倉千加子『結婚の条件』

どちらも「結婚」がキーワードということで、えらく売れているようだ。こちらはユーモアがあって生々しさの感じられる前者に軍配。装丁のお洒落さなんか も、負け犬=勝ち組たる筆者のこだわりみたいなものを感じる。「負け犬」のネーミングは商売の戦略としても立派。

こういった本が面白いのは、「パリのおっぱい……」の著者と同じく、「強い女性」の書いた本ということで、安心感があるのも大きな理由だろう。自称「オスの負け犬」が書いたら、決してこうはならない。

さらについでに、酒井順子『観光の哀しみ』もオススメ。

観光=旅行てどう考えても大して愉快でもないのにまた行きたくなる。その辺を「哀しみ」をキーワードにおもしろ可笑しくダラダラと綴っている。好著である。

鉄ちゃんの神様・宮脇俊三(著者もファンらしい)について書いてる部分も笑える。そういや最近、鉄道旅行系の本がやたらに出ているけど、けっこう彼女みた いな「負け犬」たちが買っているのだろうか……。ある意味、世も末であり、そして歓迎すべきことかもしれないな~。

1月30日

HPを更新したいのだが、書評を書くのが面倒になってきた。おまけに、これまで書いたものを読み返してみると、どうも文体がカタイ気がする。

もっと気楽なものを書きたいな~。

というわけで日記スタイルで書いてみることにした。

といっても、毎日書けるはずもないし、私は「一日一冊」なんて心がけている殊勝な読書家でもないので、時系列その他はテキトーです。

いつまで続くかなあ?

昨日読んだのは、恩蔵茂『ビートルズ日本盤よ、永遠に』

尊敬する先輩編集者からいただいた本。ビートルズという現象は日本ではどう受け入れられたのか、てのをビートルズのデビュー当時中学生だったというビートル・マニアの著者が回想とともに振り返るという感じで、意外に面白かった。

こういう本は大体、同時代への過剰な思い入れが感じられたりして、嫌味だったりするんだけど、あまり気にならなかったのは、その辺を適度なユーモアやバランス感覚でうまく相対化しているからだろうか。

ところで、私が生まれて最初に聴いたポップスはたぶん、ビートルズのベスト盤である通称赤盤青盤であると思われます。私にとってビートルズは最初から過去の人だった。なぜこんなレコードがわが家にあったのか、それがなんとなく理解できたというだけで儲けものというわけ。

まあでも、私もこれ以上ビートルズのことを書くと、ろくでもない文章になりそうなのでやめておこうっと。

さて、この気前のよい先輩からは他にもたくさん本をいただいた。

小沼純一『バカラック、ルグラン、ジョビン』

円堂都司昭『YMOコンプレックス』

梶尾慎治『タイムトラベル・ロマンス』

三冊とも「セリ・オーブ」なるシリーズで薄くて読みやすい本。

このなかで面白かったのは『タイムトラベル・ロマンス』かなあ。映画『黄泉がえり』の原作者としても知られる著者が、SFのどんな部分に惹かれるか、みたいなことをお気楽に綴ってます。

バカラックもルグランもジョビンも、そしてテクノも結構好きなんだけど、自分の好きなテーマについて書いてあれば何でもよい、というわけじゃないのは前二冊を読んで感じたこと。あるいは、SFはそれほど思い入れがないから、三冊目は面白かったのかな?

なお現在、このシリーズで一番面白そうな末延芳晴『ラプソディ・イン・ブルー』も下さいよ、とおねだりをしているところです。

8月28日

末延芳晴『ラプソディー・イン・ブルー――ガーシュインとジャズ精神の行方』

大変面白い。ガーシュインて本当に素敵な曲をたくさん書いてるんだけど、イマイチよく分かってなかったところも多いので、読んでよかった。ポップスとクラシックの境界や、アメリカ的なるものについて考える上で必読。

中田整一『モンテンルパの夜はふけて』

歌手・渡辺はま子の生涯とフィリピンの戦犯の話。いかにもNHK的という感じ。

テレサ・テンが見た夢―華人歌星伝説

自分が台湾の歴史をまるで知らないのには驚いたが、もう少し魅力的に書けるような気もした。そういや最近テレビで香港映画『ラヴ・ソング』てのを見たな~。

山田和『21世紀のインド人』

山田和『インド不思議研究―発毛剤から性愛の奥義まで』

相変わらず文句なしに面白いです。ブリジストンのサンダルとブリキのケースが欲しいっす。

仲正昌樹『「みんな」のバカ!』

佐藤直樹『世間の目』

似たテーマの本2冊。「世間」=「みんな」は一種の権力構造だというわけであるが、ある意味では「みんな」が知っている日本の構造を読み解くわけだから、 書き手の芸が必要とされる話題。単純に、「世間」というキーワードはすでに古い気がするが、どうだろうか?(もちろん、概念の有効性は疑いようがないけ ど。) そんなわけで、日本が特殊という話じゃない、と言いつつ、話題が外に開かない感じが強い後者より、前者のほうが楽しめた。「みんな」でハイデガー を読み解くあたりなんか、結構名人芸じゃないだろうか。でも、もしかしたら「みんな」と「世間」は全然違う話なのかも。もしそうだったら、誰か指摘してく ださい!

橋爪紳也『日本ランカイ屋列伝』

細馬宏通『浅草十二階』

仕事関係で読んだ本二冊。後者は塔フェチの心をくすぐります。世界の塔を集めた写真集が欲しいなあ。

小谷野敦『俺も女を泣かせてみたい』

相変わらず面白いし、肯ける点も多いが、女性の趣味が相当違うな、この人とは(どうでもいい感想)。

斎藤学『男の勘違い』

『負け犬の遠吠え』とセットにしたような装丁、タイトルなどなどにつられて買ってしまいました。失敗です。情けない。

シルヴィア・ジョンソン『世界を変えた野菜読本』

豆類のところが読みたくて買ったんですが、他も大変面白い。新大陸生まれの野菜の話です。

アルフレッド・W・クロスビー『数量化革命――ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』

「数量化」と「視覚化」をキーワードに西欧文明の特殊性を読み解くわけであるが、HOWはよくわかってもWHYは結局よく分からない。けれども、音楽や簿記など、なるほどと思わせる記述がたくさんある。

玄田有史・曲沼美恵『ニート――フリーターでもなく失業者でもなく』

たぶん、この本は玄田氏の前著同様いろんなところで紹介されてるし、ちゃんと売れるだろう。なのでちょっと別の角度から。「おわりに」で触れられているよ うに、「コミュニケーション・スキル」が働く上でもっとも重要という今の時代は、なんともキビしい。というのは、この「スキル」の内実は厳密な意味での 「表現力」とか「理解力」ではなくて、もっと怪しげな能力だからだ。たぶん、これは上の「みんな」=「世間」の問題とも関わってるだろう。

6月10日

スラヴォイ・ジジェク『イラク--ユートピアへの葬送』

前半のイラク戦争についての考察はけっこう面白かった。後半は読み飛ばし。難しいっす。

片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』

話題の本てことで。特に感想はなし。

ハミッド・ダバシ、モフセン・マフマルバフ『闇からの光芒--マフマルバフ半生を語る』

出ました、マフマルバフ本。インタビュー集ということで、『アフガニスタンの……』(書評はこちら) ほどの迫力はないが、この人のディープな人生がえらくあっさり語られている。どちらかというと、やはりインタビューよりマフマルバフ自身の文章をぜひ訳し てほしいものだと思うのだが(インタビューでもちょくちょく触れられている)、『ユリイカ』にちょっと翻訳されたものなんかを読むと日本での出版は無理な のかな、とも思う。

小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』

これはひじょうに面白のでお勧め。私を含め、『赤毛のアン』が好きな人にはとても辛い本でもある。というか、とりわけ女性のファンの心境は男の私には想像 できないんだけど……。もし、これが一度でも『赤毛のアン』にかつて胸をときめかせた女性によって書かれたとすれば、文句なしにフェミニズム史上に残る名 著になったんじゃないかなと思う。でもまあ、それはありえないことなのかも。少し不満なのは、ちょくちょく出てくる心理学ぽい考察が胡散臭いのと、最後の 「なぜ戦後日本の女性にとりわけウケたか」の部分がやや薄い感じのすることくらいか。続編がありそうなのでそっちにも期待。

大海赫『ビビを見た!』

知り合いに勧められて読んだのだが、これはスゴイ。冒頭からすごいテンションで、しかも最後まで驚きの連続。「復刊ドットコム」によって復刊された昔の作 品らしいのだが、子どものときに読んでたらどんなふうに感じただろうか? 想像がつかない。ぜひ頑張って立ち読みしてみて、足が疲れてきたら買いましょ う。

堀内圭子『〈快楽消費〉する社会―消費者が求めているものはなにか』

時間があるのに喫茶店で読むものがないので買ったんだけど、面白いところはありませんでした。仮にそう感じたとしても、喫茶店で本を読みネットにその感想を書く、という行為はいろんな意味で快楽消費です、というようなことが分かってもなあ……。

5月25日

まずは音楽関係の本二冊。

平野久美子『テレサ・テンが見た夢』

このあいだ香港映画を見ていたら、テレサ・テンに関するエピソードがあってちょっと気になっていた。本としては面白い部分もあるが、やや整理が足りないという印象をあたえる。

藤田正『沖縄は歌の島』

なんとなく図書館で借りてきた本。沖縄音楽の500年を百数十ページでまとめるというやや無理のある本だが、組踊などの舞台芸能にも触れられていてけっこう勉強になった。著者は思い入れたっぷり、最後はやや力みすぎという気もする。

ブルース・カミングス『戦争とテレビ』

戦争とテレビの関係、そしてそもそもテレビを見るとは一体どういう体験なのだろう? 面白いテーマではあるが、これに関してはそう簡単に答えは出ないとい う気もする。この本の前半は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争について考察しながらさまざまな問題点を整理しているが、むしろ後半の著者が関わった朝鮮 戦争についてのドキュメンタリー・シリーズの制作記録が面白かった。これだけ北朝鮮の問題がクローズアップされていながら、アメリカ同様日本でも朝鮮戦争 は「忘れられた戦争」になりつつある。ぜひこのドキュメンタリーを見てみたいものだ。

計見一雄『脳と人間』

本の帯には「21世紀には精神分裂病は解決するだろう……」とある。読後の感想は、「こりゃ大変だ、今世紀中に解決は無理だな……」というものだった (笑)。まあ、いかにもな仮説をぶち上げて期待をもたせるようなものよりは信頼がおけるという見方もできなくはないが……(またかいな)。

ところで脳の一部(ワーキング・メモリー)を酷使し、そればかり評価する社会について疑問を呈しつつも、一方では「処方箋は個の確立しかない」などとも簡 単に仰る。んでもって、自分には戦後の焼け野原という幼少時の「肉体」経験があって、これが大切とも。うーん、ひとつひとつが正しいかどうかはともかく、 いろいろな意味でちょっと無理があるんじゃないかなあ。

5月10日

黒田龍之助『羊皮紙に眠る文字たち-スラヴ言語文化入門』

マニアックといえばマニアックな本だが、一般読者向けに書かれていて面白い。学生時代にポーランド語とチェコ語を一度に習って混乱したのが懐かしい。私もキリル文字を読めるようになりたい……。

山下洋輔『ピアニストを笑え!』

恥ずかしながら、この人のエッセイをちゃんと読んだのははじめて。噂通り、ひじょうに上手。最近のミュージシャンでこのくらい文章を書ける人はいないのかなあ。

加藤信一郎『ヘルシーフードの神話』

つまらない本。というか、帯の文句だけで内容が終わっているという感じ(「わたしたちが食べているのは「からだにいい」という情報だ)。

ウォーカー・ハミルトン『すべての小さきもののために』

帯にあったロアルド・ダールの言葉に惹かれて読んだ。まあまあかなあ。説教調の訳者あとがきはかなり余計というか何というか。

内田正明『原子力は今でも百万馬力か』

数多い原子力本のなかでもかなり地味なほうだろう。著者の立場は、軽水炉による「今日までの原子力」に一定の評価を与えつつ、高速炉をはじめさまざまな 「明日の原子力」をかなり非現実的と批判するもの。原発の危険を煽るのでもなく、反対論をめったぎりにするのでもなく、恐らくこういう本はあまり売れない のだろう。

とはいえ、地味だからこそ信頼ができる「感じがする」のも事実で、「難しい」というイメージのある原発問題について、できるだけ「わかりやすい」議論の土台を提供しようという著者の意図は評価できる。

私にはそれでさえついていけず、読みながら関係のない空想に逃避することも多かった(笑)のだが、政策の立案をはじめ原発議論に参加する人々にはこのくらいはぜひ押さえておいてほしいものだ、とやや無責任に思った。

4月26日

なんと一カ月ぶりの更新。この間、読書はあまりしていない。忙しかったというか、調子もあまりよくなかったというか。

キアラン・カーソン『琥珀捕り』

こういう本を読みはじめると読書のスピードはなお遅くなる。斜め読みするわけにもいかないし、かといって大きなストーリーがあるわけでもないので、細部を楽しんでいつの間にか本を閉じている感じ。でもいい本だった。

同じ著者の『アイルランド音楽への招待』も読んでみようかな。

ピエール・クラストル『大いなる語り-グアラニ族インディオの神話と聖歌』

前に触れた本をさっそく取り寄せて読んでみた。「グアヤキ」と「グアラニ」はどうも隣り合う別の部族らしい。

非常に美しく、ちょっとびっくりする本。神話の語りも、その注釈も「よく出来すぎ」でフィクションじゃないかと思ってしまうほど。

というわけでこちらも同じ著者の『暴力の考古学』『国家に抗する社会』も読んでみたい。オースターが訳したという本の邦訳はまだないようだ。

若林忠宏『アラブの風と音楽』

著者がめちゃくちゃ濃い。本としての出来はイマイチだが、アラブ音楽やトルコ音楽についてやさしく語った類書もあまりないし、仕方ないか。

ちょっと前に読んだ、斎藤完『飲めや歌えやイスタンブール』のほうが、著者の濃さは近いものがある(笑)けれども、本としてはずっと面白い。

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過去ログ1

3月22日イサベル・アジェンデ『天使の運命』(上下)ひさびさに読んだ長い小説。と思ったら前に読んだのは、もしかしたらやはりアジェンデの『パウラ』だったかも(書評参照)。それほどアジェンデが好きかと言われればそうでもなく、単なる偶然です。カヴァーの絵もハーレクインロマンスみたいだが、中身もそんな感じ。世の中の恋愛小説がどれもこのくらいサービス精神に富んでいれば、私ももっと恋愛小説を読むだろうに、と思ったのだが……。もう一冊は新書で田島英一『上海-大陸精神と海洋精神の融炉』。最近、上海小吃に通ってるせいか、服部良一のせいか、なんとなく上海に興味をもったので買った。

けっこう分厚い新書で読みごたえがあるのだが、やたらに「妻」の話が多いだけでなく、やや思い入れによる「勢い」が勝ちすぎている気もする。私は中国につ いてまったく無知なので詳しく分からないが、メキシコ・チアパスについて触れたあたりから類推しても、たぶん全体にそういう傾向があるんじゃないか。リア ルといえばリアルだが、単純に、この人の勧める上海のレストランに行くべきという気はしない(そういう本じゃないんだけど……)。

3月10日

G.K.チェスタトン『求む、有能でないひと』

けっこう難しい本だ。文章が書かれた背景なんかが分からないのがやや辛い。

とはいえ、面白い文章は期待したとおりあちこちにある。

「人間の精神を支配するものは二とおおりあって、その二とおり以外はなにもない。すなわちドグマと偏見である。……牛は食ってもよいが人を食ってはなら ぬ。これがドグマである。なるべく少しずつ何でもたべるのがよい、というのが偏見で、しばしばこちらが理想的とされている」

「健康のエキスパートはありえない……。エキスパートとは例外的なことについてならありうるので、病気のエキスパートならあってもよい」

簡単にいえば、この本のモチーフは「近代」批判ということになるんだろうか。本気で「ドグマ」や伝統、権威、神学を擁護するとこうなる、て訳でなかなか説得力がある。もちろん、すべてに同意するわけではないんだけど。

それにしてもこの本、タイトルのせいかビジネス書のコーナーにあったんだけど、ちょっと無理があるんじゃないだろうか……。

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

オースターのエッセイについては『空腹の技法』の書評でも書いたが、日本独自の編集という経緯もあり既読のものと未読のものが混在している。

未読のものでは、9.11直後に書いたものに、綱渡り芸人フィリップ・プティのことが触れられていて嬉しかったり、ニューヨークの地下鉄についての素敵な文章があったり、サッカーについてのごく素直な考察があったり。

あと例によって、オースターが英語に訳したという、たピエール・クラストル『大いなる語り-グアラニ族インディオの神話と聖歌』が読みたくなった(本書では「グアヤキ」になっているが)。

*2012年註 オースターが訳したのは、『グアヤキ年代記―遊動狩人アチェの世界』のほう。グアヤキとグアラニがごっちゃになっていて申し訳ないです。

もひとつ、I Thought My Father Was God ていう、オースターが編集したらしい本も読んでみたい。

あと二冊、薄い本。

『「人体実験」と患者の人格権―金沢大学付属病院無断臨床試験訴訟をめぐって』

マルキ・ド・サド『淫蕩学校』

前者は2/6の日記で触れたもの。後者は「お土産」でいただいたもの。どちらもそれなりにお勉強になりました(一緒にするなって)。

3月5日

池内恵『アラブ政治の今を読む』

これは素晴らしい。ぜひ読みましょう。

同じ著者の新書『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義』がひじょうに面白かったので、こんな地味な装丁ですが読まなきゃと思って買ったのですが、期待以上でした。

この本を読むと私たちはつくづくアラブ世界のことを知らされてないなあ、と思う。9.11やイラク戦争で加速度的に増えたと思われる情報も、どうやらあま りアテにならないものらしい。一躍脚光を浴びたアル=ジャジーラひとつとっても、私はこの本を読むまでその基本的な性格を全然理解していませんでした。

イラクとアラブ諸国の今(この二つをちゃんと分けているところも重要)、そして広く世界の情勢を踏まえたうえでの日本の外交戦略についての分析も傾聴に値 する。確かに、日本の自衛隊派遣についての議論は、ある意味で著者が指摘する「アラブ思想の袋小路」にも似て、やや閉塞感があるし。

地域研究者の陥りがちな、一つの文化への過剰な思い入れを指摘し、あくまでも冷静な分析に徹しようとする姿勢は、学ぶべきところが多い。学者の「あるべき姿」みたいなオーラを、この若い研究者は持っているなあ、とちょっと羨望や嫉妬も混じりつつ感じた次第。

日本ペンクラブ編『それでも私は戦争に反対します』

ある意味上の「閉塞感」を感じさせてしまう本。なかには面白い文章もある(なかにはヒドイ文章もある。その辺も読みどころだろうか)。でも対立する二つの 立場を客観的に分析したり、あるいは反対する立場の人をも説得するような新しい視点はあまり感じられません。

そのへんが「それでも」の意味だと思うし、私自身も「それでも」な立場です(なんのこっちゃ)。でももっと強力な「それでも」を期待してしまうのは私が愚かなのかな。

どうでもいいような本も一冊。

重松清『ニッポンの課長』。想像通り、特にコメントはありません。

3月2日

高橋伸夫『虚妄の成果主義-日本型年功制復活のススメ』

「成果主義」賃金はどう考えたって胡散臭いんだけど、私の周囲を見渡しても、世の中はどうもそっちの方向へ向かっているようだ。

「徹底批判」を期待して読んだのだが、「経営学はサイエンスである」なんて大見得を切っている割には著者が妙に感情的になっていて、ちょっと落ち着かない本だった。

そもそも、アメリカ型の「成果主義」は労働市場の流動性とセットになったものだろう。それは一定の「成功」をおさめていて、そしてその「成功」とは著者の 求めるような企業の長期的な成長などではなく、経営者の短期的な資産増大や、賃金の格差拡大を生んだことなどにある。

これはある種、陰謀的なものと捉えた方が正しい気がする。日米で多くの経営学者がそれに加担していたとしても、まったく不思議はないわけだ。

そういうものに対して、日本での不成功やその原理的な間違いなどを指摘しても、限界があるような気もするんだけど……。

もちろん、著者の「科学的な経営学」には参考になる部分がたくさんある。

とりわけ重要なのは、お金という「外的報酬」の負のインパクト。

前に読んだ『仕事の裏切り』でも紹介されていたお話がここでも繰り返されていたので紹介しましょう。

ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町に一人のユダヤ人仕立屋が店を開いた。差別者たちは嫌がらせをするために子どもたちをたきつけ、店の前で「ユ ダヤ人!」となじらせた。困った彼は一計を案じ野次った子どもたちに10セントずつ支払った。喜んだ子どもたちは翌日もやってきた。その日、彼は5セント 支払った。子どもたちは不平を言ったが、またユダヤ人をなじった。次の日は3セント、その翌日は1セント、最後の日はお金を支払わなかった。子どもたち は、「お金をくれないならもう野次らない」と言って去っていった。

いやあ、ユダヤ人て賢いなあ(笑)。という話ではなく、お金が目的になるとある種の楽しみが奪われてしまうという例です。

まあ、確かに「プロジェクトX」なんか見ていると、つくづく人が働くのはお金のためだけじゃないなあ、なんて思うわけだが、すでに我々はそういうものに感情移入できない世代になりつつある(どちらかというと嫌悪感のほうが先に立つ)。

著者はそこで「将来の見通し」とか「希望」みたいなものがいかに大切かを説くわけだが、それが正しければ正しいほど、年功制度だけで復活するような話でもない気がしてくる。

でも、こと賃金制度に限った話でいえば、「成果主義の間違い」は非常に重要な指摘であることは確かなので、「成果主義」を言い出した会社に勤める人はぜひ読みましょう。そしてお守り代わりに一冊、デスクの目立つところに置いておきましょう。

2月27日

私はときどき「中身はいいけど翻訳がイマイチ」なんて書くが、こういうことを書くのは、悪人である。

翻訳というのは大抵、報われない、しかも大変な仕事だ。誤訳なんかした日には(というか、誤訳のない翻訳なんてありえない)、読者からは鼻高々のクレームが来るし、そして本の名誉はいつだって原著者にある。

上村勝彦『始まりはインドから』は、『マハーバーラタ』(翻 訳完成を待たずに上村氏は亡くなった。心からご冥福をお祈りする)などの翻訳で知られるサンスクリット学者のエッセイ集。仏教やインドの宗教世界をめぐる あれこれのエッセイ、インドの説話の紹介、愛想のないインド旅行記、などがちょこちょこと収められている地味な本だ。

全体に、上村氏の素朴というか真面目というか、そんな人柄が滲み出ていてやや退屈なのであるが、ああ、翻訳というのはなんて有難いものなんだ、と思った。

写経のような境地でもないと、『マハーバーラタ』の翻訳なんてできないだろう。そう考えると、すべての翻訳は本当にありがたい。これからは翻訳の悪口は慎 もう、そして私も悪い心が生じそうになったら(しょっちゅうだが)、ちょっと翻訳でもしてみようと思ったわけ(笑)。

もう一冊は香山リカ『就職がこわい』

「なぜ若者は就職しようとしないのか?」てのが帯の文句。またかよ? という気もしたのが一応読んでみた。

「若者の就職がむずかしくなっている最大の理由は雇用の悪化」。香山氏はそう何度も念を押す。このあたりの背景については、香山氏もたびたび引用している玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』という名著があるが、どうも「でも、それだけでは納得がいかない」というのがこの本らしい。

その違和感の元になっているのが、教師として大学生に接する著者の「現場感覚」。つまり、実際に就職をためらう学生を見ていると、外部的な状況だけではない、彼らの「心の問題」を感じてしまうということらしいのである。

確かに、この本を読んでいると、トホホな若者たちがたくさん登場して笑える。これは問題かも、と思わないでもない。

だが、「現場感覚」はあくまでも「現場感覚」である。若い人々の心のなかが変わってきているということが事実だとしても、これはバブル期のはるか前から少 しずつゆっくりと進んできた話である。一方で雇用状況は革命的に変化してしまった。バブル期のような馬鹿げた就職戦線が再現されれば就職率は確実にアップ するだろうし、この二つの問題を一緒にすると訳が分からなくなるばかりだ。

レベルの違う話を無理やり結びつけて、何やらそれらしく語る。これが香山氏の得意技のようだ。そういやこの人、雑誌なんかであらゆる問題についてコメント するのがその役割のようだし。この人にかかると、すべての問題はつながっている。(それはそれで正しいとも思うが、そういう主張は各論で間違えがちだ)

もちろん、傾聴に値する部分もたくさんある。

「最近の若者」(もはや「若者」に限らない気もするが)の特徴は、自己肯定感の驚くべき低さと同時に、自分の個別性へのいきすぎた期待であること。

そういう「若者」に、「自分の好きなことを仕事にせよ」などと、就職を通して「自分さがし」を焚きつけるような態度は好ましくないこと。その通りだ。

そんなわけで、「なんでもいいから、とにかく仕事しなよ」という話になる。

「現場にいる大人」として、どんな態度をとるべきかという意味では「まっとう」なんだけど、やや「おせっかい」と感じないでもない。著者は若者たちの二〇 年後や三〇年後、あるいはその若者たちの子どもの世代のことまで心配しているようだが、そういう長期的な話なら、なおさら社会の仕組みのほうに目を向ける べきである。

先生や親といった「現場」はともかくとして、大多数の大人は雇用状況の改善に血道をあげるべし。そしてこんな本を読む暇があったら『仕事のなかの曖昧な不安』を先に読んでちょーだい。

2月25日

先日一緒に飲んだ知り合いは、自分のことを「オタク」だという。どうも違う気がするので問いつめると、要するにギーク(GEEK)のことを言いたいらし い。あまり知られていないが、アメリカにも「オタク」的な人々が存在していて、彼らはギークスと呼ばれる。とはいえ、ギークスはもっとエリート的だし、あ くまでもマイノリティである。日本の「オタク」はもっと広く文化的・社会的な現象だろう……。

そんなことを考えていたら目の前に東浩紀『動物化するポストモダン--オタクから見た日本社会』なんて本があったので読んでみた。

タイトル通り、現代思想の立場から、「ポストモダン的なものとしてのオタク」を読み解いているわけだが、上のようなことを考えていた私にとって面白かったのはむしろ日本特有の文化現象としてオタクを捉えたいわば「余談」の部分。

たとえばアニメには胡散臭くも「日本的な」象徴が溢れており(江戸の町、妖怪、巫女……)、そこには最先端をゆく「日本」への誇り、根っこを失った文化へのコンプレックスがないまぜになっていることなど。

そして、ここで扱われているアニメやゲームに疎い私は、世の中すごいことになっているなあ、とやや無責任な感想を抱き、自分は滅びゆく古いタイプの人間だなあ、とぼんやり思った次第。

もう一冊はお馴染み斎藤美奈子の新刊『文学的商品学』

ファッションや食べ物、さらには音楽や野球といった「商品」を日本の現代文学がどう描いているかを読み解いたもの。

バブル時代、村上龍がゴルゴンゾーラをパスタの一種と勘違いしていた、なんてどうでもよい指摘から、モノそれ自体を描いた文章を味わうことが小説を読むことの醍醐味のひとつであることを指摘した重要な視点など、楽しく読めます。

私が斎藤氏のファンであることやその文章の上手さなんかについては『文章読本さん江』の書評で触れたので繰り返さないが、今回のテーマも斎藤氏の得意とするところなので、期待通りというところだろうか。あるいは、期待通りすぎてちょっと物足りないという考え方もできる。

ついでながらさらに斎藤氏を誉めると、この人の引用は本当に的確で上手だ。世の中にはお手軽でテキトーな引用というのがけっこうあるのだが、この人の場合は引用の一発一発(斎藤氏はそう数える)が実に無駄がなく、楽しめるものになっている。素晴らしい。

2月17日

ポール・クルーグマン『嘘つき大統領のデタラメ経済』

M氏に面白いと勧められて読んだのですが、その通りでした。

本屋ではマイケル・ムーアの『おい、ブッシュ、世界を返せ!』(未読)なんかと並んでいて、さすがの私もブッシュの悪口にもやや飽きてきたところなので、勧められなければ買わなかったかもしれない。

ブッシュ批判本は売れるだろう、というこの邦題なのだろうが、中身を読むとちょっと違うんじゃないか、とも思える。「嘘つき大統領」はともかくとして、 「デタラメ経済」というと、あまりにブッシュのイメージ通りというか、「経済が分かっていないダメ大統領」と鼻で笑ってバカにしたようなニュアンスにも感 じられてしまうからだ。

そうではなく、ブッシュ政権とは「革命勢力」なのだ、と大まじめに指摘するところがこの本の最大のウリなのだと思う。ブッシュは単なる人のいいバカなオヤ ジではない。そしてこの革命勢力というのは歴史上いつもあまりにも馬鹿げた存在に見えるので、まじめにその危険性を指摘したりすると「大袈裟」だとか「考 えすぎ」などと言われる……。

もちろん、同じ状況は日本にだって当てはまるだろう。

今、アメリカで何が起きているか。アメリカ人は何を考えているのか。遠く離れた日本に住む私なんかがそれを知るには、非常にありがたい本である。そして、 新聞のコラムをまとめたこの本は、媒体の性質もあって非常に簡潔に、かつ読者を飽きさせない語りになっている。素晴らしい。

2月12日

年末に見たテレビ番組「服部良一物語」(桂三枝が服部役)以来、服部良一にハマっている。

あんまり関係ないけど、吉本新喜劇は偉大な教育ツールと感じた。

そんなわけで早速『僕の音楽人生』なんてCDを買って聴いたり、ギターと一緒に「東京の空の下に住む♪」なんて歌ったりしているわけ。

『上海ブギウギ--服部良一の冒険』もあまり期待してなかったのだが、非常に面白かった。特に終戦直前の上海で服部が開いたというコンサート「夜来香ラプソディ」の話、「夜来香」を作った中国の作曲家、黎錦光の人生などはちょっとした映画にもなりそうなくらいだ。

もっとも、この本を読んだら、なぜ私が今頃服部良一なんかに惹かれるのか、あまりに的確な指摘があってある意味がっかりしたんだけど。つまり、私はワール ド・ミュージックの文脈で聴いていたわけ。当たり前といえば当たり前なんだけど、またかー、という感じがしなくもない。

そういや、アン・サリー(私はそれほど好きじゃない)なんて人も最近、「蘇州夜曲」を歌っているし……(「ムーン・ダンス」)。

ときどき、お祖母ちゃんが「昔はいい歌がいっぱいあった」とよく言っていたのを思い出すのだが、それは確か「青い山脈」とかのことだったような気もする。亡くなる前にもっと「昔の歌」のことを聞いておけばよかったと思う今日この頃。

とはいえ、せっかく日本の流行歌に目が(耳が)行ったのだから、もう少し勉強してみよう、てなわけで、いろいろ本を読んでいるところです。

『カナリア戦史--日本のポップス100年の戦い』

これは、コロムビアレコードを中心に、日本のレコード産業史を追った本。

『演歌』(「日本の名随筆)

これは冒頭の萩原朔太郎の文章(流行歌曲について)がよくて思わず買ってしまったのだが、編者(天沢退二郎)の「演歌」観がよいのであろうか、全体にも楽しめる本になっている。

『増補 にほんのうた』

戦後の流行歌謡史。非常によくまとまっていて、資料としても一家に一冊、オススメです。

2月9日

橋爪大三郎『「心」はるのか』。あまり感心しなかった。

(これも「ちくま新書」。筑摩書房の売り上げに貢献してんな~)

「日常が生きづらかったり、自分が本当の自分でないように感じられたりしたとして、それは本当に「心」の問題だろうか」

この問いには、私もすごく賛成なのだけど、本全体がちょっと大雑把すぎる気がするのだ。たぶん、講演をまとめたという本の成り立ちのせいなのだろうが、これがある意味『不自由論』の仲正氏の言う「分かりやすい」本なのかもしれない。

意味の肥大化した「心」を問うことと、「心」はあるのかという問いは、ちょっと分けてみたい気もするのだ。

そんな私は、たぶん「心」てものの存在をどこかで信じているのだろう。

まあ無理してその存在を証明するつもりもないんで、これは一種の信仰みたいなもんだと感じる。その「心」は普通に考えられるよりもずっと小さくて弱々しくて、あるのかないのかよく分からないくらい情けな~い存在なんだけど……。

「どこから葉っぱが飛んできたのだろうか……

……人にはそれぞれ自分の音の連想が、きっとあるにちがいない。それはしばしば、言葉そのものの意味より前にやって来る」

ノルシュテインの画文集『フラーニャと私』で、自作「霧の中のハリネズミ」について語った文章だが、こういう曖昧な文章って、まさにあるんだかないんだか分からない「心」について語ろうとしたものじゃないだろうか? もちろん、言葉になった瞬間にそれは別のものになってしまうんだけど。

そんなわけで、ノルシュテインは言葉が大の苦手らしい。この本にはなかなか素敵な文章が並んでいるけど。

(この本によれば「霧の中のハリネズミ」はロシア語の慣用句になっているとのこと。「君はまさに霧の中のハリネズミだね」とかいう風に使うらしい。どういう意味か? 知っている人、ぜひ教えてください)

この画文集を買った直後、『ユーリー・ノルシュテインの仕事』なんて画集も出た。8500円。買えません。でも欲しい。

他にも『ノルシュテイン氏の優雅な生活』とか、『「冬の日」オフィシャルブック』とか絵本『きつねとうさぎ』とか、この数ヶ月の間に次々と出ているのは何なのだろう……。

でも、実は私もノルシュテインのアニメを見たのはごく最近だったのです。

なので、まだの人はぜひ『ユーリ・ノルシュテイン作品集』、見ましょう。

2月6日

岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会』という本をこのあいだ読んだのだが、イマイチ腑に落ちなかった。

「ゆとり教育」が胡散臭いもので、これによって育てようとしている「個性」とはまさに「消費する個性」である、という認識はぼんやりと共有したのであるが (それじゃ本の帯の文句だけだ)、「筆者は、価値の問題への関わりはいたく不器用でした」という「おわりに」の言葉通り、なんだか全体に「分かりにくい」 というか、整理されていない本と感じた(というか、整理だけしようとして失敗した本と言えなくもない)。

そんな訳で似たテーマを扱っていそうな同じ「ちくま新書」の仲正昌樹『不自由論--何でも自己決定の限界』を読んでみた。

もっとも、こちらはタイトルにあるように、教育政策そのものがテーマという訳ではなく、ジャンルとしてはどちらかというと「現代思想」なんだけど。

「ゆとり教育」への疑いから話を起こして、「自己決定」を行う自由な「主体」というものを思想史的に問うわけであるが、なかなか面白い。

とりわけ近代の「主体性」とは「気の短さ」の現れであると指摘するあたりは、なるほどと思わせる(エリ・ザレツキーという人が言っているらしい)。つま り、決断する人の「内面」は見えないので、「素早く判断する人」=「主体性のある人」と見られがちだというお話。

そんな訳でこの本の結論のひとつは「ゆっくり考えようぜ」だったりするのだが(笑)、別に「ゆとり教育」を擁護している訳ではないのはもちろんである。

ところでこの著者は繰り返し、「思想に分かりやすさを求めるな」と言っているのであるが、この本はとても「分かりやすい」。なのでオススメです。

「『人体実験』と患者の人格権―金沢大学付属病院無断臨床試験訴訟をめぐって」も読んでみたい。

2月5日

村上龍『13歳のハローワーク』が売れているらしい。ちょっと驚きだ。

雇用への不安は増し、とりわけ若年層の置かれた状況は非常に厳しいので当たり前ともいえるが、自分自身が『「働く」を考える』なんて本に関わり、全然売れなかった(笑)経験があるので、やはりニーズはあるのだなあと思った次第。

著者の注目度、タイトルの付け方、装丁、宣伝の力、どれをとっても大人と赤ん坊みたいな差があるわけだが、たぶん、この二冊の本は結構似ているんじゃないだろうかと思っている。良い点も悪い点も含めて。

雇用不安を背景に捉えつつも、とりあえず職業の多様さに目を向けてみよう、とちょっと問題をずらしている感じかな。

そんなことを思いつつ、村上龍の本を買うかわりに、ジョアン・キウーラ『仕事の裏切り』という本を買った。主に組織で働くことに的を絞ったこちらの本は、上の二冊よりもずっとストレートに現代的な問題を扱っていると言えそう。

「仕事」というものが歴史的に「呪い」から「天職」へと変化した基本的な事実のおさらいに始まり、とりわけ二十世紀の経営学や心理学等々が職業観を変え、職場を複雑な場所にしていった経緯を語るあたりが面白い。

そういや、コミットメントとかクオリティとかコーチングとか、流行の経営用語てあるよな~。日本だと英語の響きによって二重に煙に巻かれてる感じがするんだけど。

「……現代の経営は、公正な職場を作るより、働く人間を気持ちよく「感じ」させることに重点を置いている……経営に対する心理学的アプローチと二〇世紀の 厚生資本主義というイノベーションは、結果的に職場での公正を保証してくれる組合の衰退につながった。また、現代の経営手法によって、仕事の社会的重要性 が再定義され、仕事は徐々に私たちの生活のより大きな部分を占めるようになった。……一方で、賃金は停滞し、取締役室のドアの向こうでは、役員たちがボー ナス、ストックオプション、法外な退職金で私腹を肥やした」

仕事をめぐるさまざまなエピソードや労働観が紹介されており、仕事や消費、余暇といった身近な問題を「考える」材料にはもってこいの本といえる。翻訳がイマイチなのがちょっと残念ではあるが、読みにくいというほどではない。

2月2日

木立玲子『パリのおっぱい 日本のおっぱい』

エロの日仏文化比較、ではありません。

フランスで乳ガンの手術を受けた経験を綴った前作『フランス流 乳ガンとつきあう法』の続編で、その後の転移や化学治療の様子などが綴られている。

病とのつき合い方だけでなく、ちょっとした日仏文化論にもなっているのだけれど、どちらかを読むなら、前作をお勧めする。今回はちょっと急いで慌てて書いた感じがするのだ。それだけに一種の生々しさはあるんだけれど……。

ついでに、このあいだ読んだ女性筆者による本二冊。

酒井順子『負け犬の遠吠え』

小倉千加子『結婚の条件』

どちらも「結婚」がキーワードということで、えらく売れているようだ。こちらはユーモアがあって生々しさの感じられる前者に軍配。装丁のお洒落さなんか も、負け犬=勝ち組たる筆者のこだわりみたいなものを感じる。「負け犬」のネーミングは商売の戦略としても立派。

こういった本が面白いのは、「パリのおっぱい……」の著者と同じく、「強い女性」の書いた本ということで、安心感があるのも大きな理由だろう。自称「オスの負け犬」が書いたら、決してこうはならない。

さらについでに、酒井順子『観光の哀しみ』もオススメ。

観光=旅行てどう考えても大して愉快でもないのにまた行きたくなる。その辺を「哀しみ」をキーワードにおもしろ可笑しくダラダラと綴っている。好著である。

鉄ちゃんの神様・宮脇俊三(著者もファンらしい)について書いてる部分も笑える。そういや最近、鉄道旅行系の本がやたらに出ているけど、けっこう彼女みた いな「負け犬」たちが買っているのだろうか……。ある意味、世も末であり、そして歓迎すべきことかもしれないな~。

1月30日

HPを更新したいのだが、書評を書くのが面倒になってきた。おまけに、これまで書いたものを読み返してみると、どうも文体がカタイ気がする。

もっと気楽なものを書きたいな~。

というわけで日記スタイルで書いてみることにした。

といっても、毎日書けるはずもないし、私は「一日一冊」なんて心がけている殊勝な読書家でもないので、時系列その他はテキトーです。

いつまで続くかなあ?

昨日読んだのは、恩蔵茂『ビートルズ日本盤よ、永遠に』

尊敬する先輩編集者からいただいた本。ビートルズという現象は日本ではどう受け入れられたのか、てのをビートルズのデビュー当時中学生だったというビートル・マニアの著者が回想とともに振り返るという感じで、意外に面白かった。

こういう本は大体、同時代への過剰な思い入れが感じられたりして、嫌味だったりするんだけど、あまり気にならなかったのは、その辺を適度なユーモアやバランス感覚でうまく相対化しているからだろうか。

ところで、私が生まれて最初に聴いたポップスはたぶん、ビートルズのベスト盤である通称赤盤青盤であると思われます。私にとってビートルズは最初から過去の人だった。なぜこんなレコードがわが家にあったのか、それがなんとなく理解できたというだけで儲けものというわけ。

まあでも、私もこれ以上ビートルズのことを書くと、ろくでもない文章になりそうなのでやめておこうっと。

さて、この気前のよい先輩からは他にもたくさん本をいただいた。

小沼純一『バカラック、ルグラン、ジョビン』

円堂都司昭『YMOコンプレックス』

梶尾慎治『タイムトラベル・ロマンス』

三冊とも「セリ・オーブ」なるシリーズで薄くて読みやすい本。

このなかで面白かったのは『タイムトラベル・ロマンス』かなあ。映画『黄泉がえり』の原作者としても知られる著者が、SFのどんな部分に惹かれるか、みたいなことをお気楽に綴ってます。

バカラックもルグランもジョビンも、そしてテクノも結構好きなんだけど、自分の好きなテーマについて書いてあれば何でもよい、というわけじゃないのは前二冊を読んで感じたこと。あるいは、SFはそれほど思い入れがないから、三冊目は面白かったのかな?

なお現在、このシリーズで一番面白そうな末延芳晴『ラプソディ・イン・ブルー』も下さいよ、とおねだりをしているところです。

続・間違い電話


やや精神が健全でない感じのする今日この頃だ。ある人に言わせるとこれは「マリッジブルー」らしいし、別の人に言わせるとこれは軽い鬱だろうということ だ。どちらにしても同じことかもしれない。とりたてて不平はないが、とにかくやや不機嫌なのである。そんなとき、例の電話がかかってきた。前にこのコー ナーで紹介した「アオヤギさんですか?」の間違い電話で ある。その後もほぼ定期的にかかってくるこの電話に、このとき私はキレてしまった。私は「アオヤギさんですか?」という質問には答えず、「ご用件は何です か?」と切り返したのである。だが相手もさるもの、それを無視してまた言う。「アオヤギさんのお宅ではありませんか?」こうなると、もはや根競べである。 「アオヤギさんのお宅ですか?」「……だから、用事は何ですか?」「アオヤギさんではないのですか?」「ご用は何ですか!?」やがて、相手は疲れ果てて電 話を切った。私は根競べに勝ったのであろうか。例のブルー(もしくは鬱)はもっと悪くなった。(2005.4.27)


追記:写真は高尾山にて。