続・間違い電話


やや精神が健全でない感じのする今日この頃だ。ある人に言わせるとこれは「マリッジブルー」らしいし、別の人に言わせるとこれは軽い鬱だろうということ だ。どちらにしても同じことかもしれない。とりたてて不平はないが、とにかくやや不機嫌なのである。そんなとき、例の電話がかかってきた。前にこのコー ナーで紹介した「アオヤギさんですか?」の間違い電話で ある。その後もほぼ定期的にかかってくるこの電話に、このとき私はキレてしまった。私は「アオヤギさんですか?」という質問には答えず、「ご用件は何です か?」と切り返したのである。だが相手もさるもの、それを無視してまた言う。「アオヤギさんのお宅ではありませんか?」こうなると、もはや根競べである。 「アオヤギさんのお宅ですか?」「……だから、用事は何ですか?」「アオヤギさんではないのですか?」「ご用は何ですか!?」やがて、相手は疲れ果てて電 話を切った。私は根競べに勝ったのであろうか。例のブルー(もしくは鬱)はもっと悪くなった。(2005.4.27)


追記:写真は高尾山にて。

オリンピック


アテネ・オリンピック。テレビで二人のメダリストがインタビューを受けていた。「あなたにとってオリンピックとは?」の質問にハンマー投げの室伏選手は 「平和」と答えた。彼は今も続くテロや紛争を心配している様子だった。もう一人、女子マラソン選手が先に「アスリートにとって最高の舞台」とごく真っ当に 答えた後だけに、ちょっと意外な展開である。質問していた女子アナは、やや強引に「そうですよね、一つのルールでみんなが戦うというのは『平和』ですよ ね」とコメントし、その場を終えた。室伏は何も言わなかった。ただ、ちょっと複雑な笑顔が印象的であった。そう、言うまでもなく問題は、「一つのルール」 ではおさまらない「みんな」がいることなのである。だからこそ室伏は「オリンピック=戦い」という図式に疑問を投げかけたかったに違いない。そんなわけ で、室伏の苦悩は深い。なぜなら、彼はたぶん、メダル獲得競争を煽る日本人より、あの図体のデカいハンガリー人を愛してしまっているからだ。彼の望む「平 和」は遠いのである。(2004.8.28)

追記:写真は北海道の有名な「幸福駅」にて。

追悼文


 ある高校時代の友人は、会うたびに、自分はあの頃とちっとも変わっていない、成長していないと言った。実際の彼女はいろんな意味でひどく立派になったように見えたのだけど。
たとえば、久しぶりに会った者同士が「変わってない」と言い合うのは、一種の社交辞令なのだろう。アメリカでは、別れるときに、「変わらないでね」と言 われた記憶がある。それも、今のあなたが好きだから、という意味の愛情表現だろう。「変わった」という言葉は多くの場合、ネガティブに捉えられる。
もちろん、人間はどうしようもなく日々変わっていくものだ。「変わらなくちゃ」なんてイチローに言われるまでもなく。
でも自分が「変わってない」と言い張ったこの友人のことを思い出すと、ふと上のようなことを書いていい加減に生きている自分が恥ずかしく思えてくること がある。本当は、変化の許容よりも、変化への抵抗から、より大切なものが生まれるのかもしれない、と思わないでもないからだ。(2003.9.1)

追記:写真は私の作った泥だんご。

間違い電話


よく間違い電話がかかってくる。たぶん一週間に一度かそれ以上。「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」というやつだ。電話番号を確認すると、間違っていない。こういうのは間違い電話とは言わないのかな?
もちろん僕も最初は、この番号を前に使っていた人がアオヤギさんで、アオヤギさんはきっと青柳さんだろうと思っていた。
でも「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」に繰り返し「違います」と答えているうちに、なんだか自信がなくなってきてしまった。もしかしたら僕はアオヤ ギさんなのではないか? という訳である。いや、それはまあないにしても、アオヤギさんは本当に青柳さんなのか? もしかしたら青山羊さんではないのか?  だとすれば相手は「いえ、黒山羊です」とか「白山羊です」といった答えを期待しているのかもしれない。いつまでかたくなに「違います」と答え続けられる だろうか。(2002.12.6)

追記:写真は奥多摩の小学校に取材にいったときに撮ったもの。

演奏する夢


ときどき人前で音楽を演奏する夢を見る。小学校のときにやった合奏のように、みんなの前で弾かなければならないのだが、楽譜が頭に入っているわけでもな く、かなり不安な危なっかしい演奏だ。とはいえ、観客はそれが間違っているとは気づかないようだし、僕は調子に乗っていい加減な音を出す。そうこうしてい るうちに曲それなりに進んで、一応音楽らしく響いているようだという夢。奇妙な楽器がたくさん出てくるし、具体的にどんな音楽なのかはよく分からない。た ぶん、ちゃんとしたミュージシャンなら、こんな夢を見たりはしないのではないかと思う。素人ミュージシャンたる僕にとって、音楽はいつもそんなふうに霧に かかったようにはっきりしない得体の知れないものだ。(2002.11.5)

追記:写真はコンピの発売を記念して行われたパーティで演奏するOTT。人生で初めての現実世界でのライブということで、大変緊張した。

緑色の東京


夏になって東京を歩くと、ふと意外に緑が多いことに驚いたりする。コンクリートだらけのはずの町のあらゆる 隙間を見つけて植物が生育しているのだ。壁には蔓性の植物が這い、アスファルトの割れ目からものすごい勢いで雑草がのびていたり。東京の緑化は実際のとこ ろ、イメージのほうが現実に追いついていなかったりするのだ。
中でも特に目を奪うのが、住宅の狭い庭から路地まで、人々が半ば育て半ば放置している植物たちだ。植木鉢やプランターに入っていればまだよいほう、よく わからない発泡スチロール箱なんかに植えられた植物が、ほとんどジャングルのように、ただでさえ狭い道を侵略している。夏だからだろう、手入れは行き届か ず、植物は伸びたい放題であることが多い。
これはアメリカなんかの綺麗に刈り込まれた芝生の庭とも、イギリスのガーデニングなんていう高貴な趣味ともかなり異質なものと感じる。「自然は真空を嫌 う」なんて言葉があるが、まさにそんな感じだ。隙間なく植えた人の執念と矛盾するような、整理しようという気持ちのなさが何やら異様な感じを醸し出してい るのだが、ではいわゆるキレイな庭のほうが好きなのかと問われればそうとも言えない。
何とも言えない気分でそれら奇怪な植物たちを見ながら、一瞬、植物だらけの恐ろしげな東京のビジョンが浮かんだ。それは決して美しい未来でもないのだが、そこへ向かっていくよりほかにないような、一種の啓示のように思えた。 (2002.8.22)

*写真は世田谷の住宅街でとったもの。上の話とはちょっと違うのであるが、その執念と自然観は共通のものだろう。

本を読む人


本を読んでいる人を見ると少し不安になる。魂を吸い取られたような顔をしているし、じっと見つめてもこちらに気づくことはない。何を読んでいるのか、読 んでどんな気持ちなのか尋ねてみたい気もするのだが、声をかけて顔を上げてしまえば、先ほどまでのミステリアスな表情はどこへやら。読んでいる本の題名を 見せてもらったところで、こちらにはちっとも興味がない。知りたいのは、読んでいるときのあなたなんだ、とでも言いたくなる。
左の写真は近々創刊されるフリーマガジン「抄」の取材時に撮ったもの。小学生にお勧めの本を訊いたのだが、ちょっと目を離すとすぐに本を読み始める。それほど本が好きなのか?
そういえば、本を読みながら、目を上げることが多くなった気がする。同じようなことを知り合いは、あと数頁なのに栞を挟んで別のことをするようになった、と言った。幸せになったような、不幸になったような、微妙なところである。(2002.7.7)

変人論


 「変人」あるいは「変なヤツ」という言葉がちょっと気になっている。
というのも、大抵の人は自分のまわりには変な人が多い、と思っているようだからである。世の中そんなに変な人ばかりでは成り立たないから、これはどうや ら一種の愛情表現であるらしい。簡単に言えば、通勤電車に乗っている他人は無個性に見え、深い付き合いをもった相手は個性的でかけがえのない、「変なヤ ツ」ということになるのであろう。
したがって、「変人」「変なヤツ」に囲まれていると信じて暮らしている人は、その他大勢の人々を「普通」と認識していることになるから、これは意外に排他的な言葉なんじゃないか。
「普通」であること、「変」であること。この二つはどうやらかなり複雑な問題をはらんでいるようだ。「個性」やら「独創性」やらが重要だと言われるよう になって久しいが、現実には普通の人たちが仲間をつくって自分たちを「変人」と呼び合っているだけなのかもしれない。(2002.4.10)

追記:渋谷のカラオケボックスにて大学時代の友人と遊んだときに撮影。

絨毯


 前にちょっと書いたイランの遊牧民カシュガイ族特産の絨毯「ギャッベ」を、ついに買ってしまった。
そんなわけで絨毯をあっちの方向から眺めたり、こっちの方向から眺めたり、あるいはのっかってみたりしながら暮らしている。これまで、こういった工芸品 (?)を所有したいと思ったことは一度もなかったのだが、やっぱ30歳になってついに「大人化」したのだろうか。
布とか織物の類の魅力というのは本当に不思議だ。世界を布に喩えたくなる気持ちもなんとなく分かる。一度でいいから自分で糸から布をつくってみたいと思 うのだが、手先が器用とはいえない私には無理かもしれない。手軽なところではやっぱ編み物だろうか。この絨毯の上で編み物をすることを考えるとちょっと恍 惚としてしまうが、なんとなくヤバイ世界に突入してしまいそうな気もする。(2002.4.10)

高層ビル


 住んでいるマンションの目の前に高層マンションが完成した。引っ越してきてからずっと工事の進捗具合を眺めながら暮らしてきたわけだから、びっくりした、というのとはちょっと違うのだが、なぜか惚けたように口を開けて見上げてしまう。
再開発にともなって、周囲は古い店が取り壊され、新しく道路が整備されたりと大忙しである。こうした巨大な工事を見ていつも感じるのは、「どう変わるん だろう」という一種の高揚感と、何やらよく分からない無力感のようなものである。この二つはセットになって、子供のころからずっと続いてきたように思う。
たぶん「進歩」と名のつくものは、ほとんどの人にとってそういうものだったのだろう。ときどき、少しは自分もそれに関わったり、あるいは少しは自分にも 関係がありそうだなどと思うが、基本的には自分の意志とは無関係のところでそれは進行していく。(2002.3.18)

追記:まるで進歩の象徴であるかのように取り上げたこの高層マンションであるが、この後、大学の友人がここに引っ越してきたことが判明した。同世代の所得格差が広がりつつあることを実感させる出来事であった。