周防正行『インド待ち』

周防正行『インド待ち』
(2001年3月、集英社社、1700円)

日本が見たインド

またしてもインド本である。
「シコふんじゃった」「shall we ダンス?」などで知られる映画監督が書いたインド旅行記。なぜ映画監督がインドなのかといえば、テレビが例の『ムトゥ』ブームに乗ってインド映画についてのドキュメンタリーを企画した。その取材のついでに旅行記も書いてしまったということらしい。インド映画→ダンス→周防監督という実に単純な思いつきっぽい企画なのであるが、きっと番組も面白かったのではないかと思う。見る機会がなかったのが残念だ。
さて、本書であるが、思い入れたっぷりのインド本が巷に溢れるなか(というほどでもないか)、普通の日本人が普通の感覚のままインドへ行き、普通に感想を漏らすというなかなか貴重なものになっている。こりゃスゴイという派手な面白さはないが、どういう訳かとても新鮮な感じがした。
一つには、周防監督のインドへの(インド映画を含め)思い入れのなさがその理由だろう。

んー、『ムトゥ 踊るマハラジャ』にあるリアリティとはどんなものなのだ。

この一文を読んで僕は周防監督の映画監督としての資質を疑った(そんなもの疑っても仕方がないが)。僕に言わせれば、『ムトゥ』はリアルのかたまりなのである。
数週間にわたる取材を克明に綴った結構長い本なのだが、周防氏はひたすらインド人に尋ねつづける。インド映画のリアルとは何か? なぜ歌と踊りがあるのか? インド映画の魂とは?
これにはやや呆れた。最初は番組づくりのためにわざと答えを先延ばしにしているのかと思ったが、そうではないらしいのである。そして、最後の最後になってようやく理解する。どうやらそれがこの本の「ストーリー」らしいのだ。
無理もない、とも言える。確かに『ムトゥ』は荒唐無稽でリアルとはほど遠く、歌と踊りは映画の必須要素とはとても言えず、インド映画の魂といわれてもピンとこない。これは日本人のほとんどが共有する感覚であろう。しかし、そのためにこんな分厚い本をまるまる一冊読まされるのでは……。(その「答え」はもちろんここでは書きません。書いちゃえばつまらないことなのはお分かりでしょう。)
ところが、すでに書いたようにこの本は別の意味で結構面白いのだ。
感心したのは、周防氏の几帳面さである。毎日、自分が何を食べ、何時にベッドに入ったか、などということが全部書いてある。映画監督というのはみんなこんなに几帳面なのであろうか。小津安二郎やタルコフスキーなんかが書いた日記は、確かにそういうマメさを感じる。
この几帳面さのおかげで、取材中のインド人たちとの会話も、かなり正確に再現されている。ディスコミュニケーションのあらわになったやりとりに、周防氏がツッコミを入れていくというスタイルなのであるが、ツッコミよりもその会話自体が面白い。テレビ番組では大部分がボツにしたであろう、とぼけた会話があちこちで展開されている。これは貴重だ。

「この映画のことを聞いて見にきました」(中略)
「どういう評判を聞いたのですか」
「すごくいいという噂を聞いたから、奥さんに言われて見に来たいなと思いました」
「その噂は、スターがいいのか、ストーリーがいいのか」
「見ないと分からない」

こんな調子である。さすが映画監督、リアルが分かってますねえ。
そんな訳で、この本では最終的に「インド映画って何?」という疑問がなんとなく分かった、というところで終わるのであるが、それは周防氏個人の問題であって、読者にはいまいちぴんとこない。むしろ、読者にとっては理不尽さがきわだったところで終わる。それはまあ仕方がない。前に紹介した『喪失の国、日本』とはレヴェルがまったく違う本なのだ。一ヶ月にも満たない滞在でそれを求めるのは無理だし、周防氏も最初からそんなことは意図していない。普通の日本人がインドに行って抱いた普通の感想。そこに終始したところがこの本の成功なのではないだろうか。

M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

M.K.シャルマ『喪失の国、日本』
(2001年3月、山田和訳、文芸春秋社、1762円)

インドが見た日本

まだほんの少し疑っている。というのも、この本がとにかく素晴らしくて手放しでほめたいのだけど、だからこそ余計に疑念はアタマの隅に残り続けるのである。
M.K.シャルマ氏なる人物は本当に存在するのか? これは「訳者」山田和氏が書いたまったくのフィクションなのではないか?
「訳者の序」によると、山田氏がこの本に出会った経緯はまさに小説のようである。インドの本屋で偶然見つけ買ったこの本(ヒンディー語版)を持って旅をし ていると、ある町で中年のインド人に声をかけられ、食事に誘われる。彼に興味をもった山田氏は招待を受けて彼の家を訪ねる。話をしていくうちにますますこ の男に興味をもった山田氏が件の本を彼に見せると、「それを見て男の表情が変わった。急に立ち上がり、奇声を発して、それから大声で笑いだした」。
こうしてその本の著者であるM.K.シャルマ氏は山田氏のためにその本を英訳して送ってくれることを約束したというのである。スゴイ。
この本がありふれた日本見聞記であるのなら、こういう経緯がフィクションであろうとなかろうとどうでもよいのであるが、とにかく滅法面白い日本論なのだ。この複雑な気分がお分かりいただけるであろうか。
内容はこれといって派手なものではない。エリートビジネスマンとして来日したシャルマ氏の目に映った日本は我々のよく知っている日本(それもバブル期 の)である。登場する日本人がやたらに博識で冷静な解説をするのにはちょっと驚くが、きっとそういう人も日本にいるのであろう、という以外、描かれている 事実自体はどうということもない。食文化のちがいやビジネスのやり方、その背景にある価値観のちがい。シャルマ氏はあくまでもインドのビジネスマンの視点 でこれに驚き、解釈し、理解しようとする。
この本が新鮮なのは、ひとつにはヨーロッパ人でもアメリカ人でも東アジアの人間でもなく、インドの人間が日本を描いたところにあるだろう。インドと日本 という二つの国を並べたときに浮かび上がってくる相似と差異はそれ自体実にエキサイティングであるし、同時にそこから、ヨーロッパ近代がアジアにもたらし たものが一体何だったのか、「近代化」や「資本主義」は人間をどう変えるのか、が鮮明に見えてくるのだ。日本はふだんインドを見ていないし、インドも日本 を見ていない。だからこそ二つの出会いは混じりっけのない文化と文化のぶつかり合いとして、見応えがあるのだと思う。
この本の裏ストーリーは、出世を夢見ていた若いシャルマ氏が、日本という異文化、そして「近代化」の進んだ国と出会い、みずからの人生を問い直していく というものである。それは実に控えめな形で読者に伝わり、日本語版では訳者の解説を借りて、読者はその方向転換の意味の大きさを考えさせられる。なんだか 舌足らずであるが、こればかりはとにかく読んでいただきたいとしか書きようがない。
でも結局、この本を読んでいて思ったのは、本の面白さはやはり細部に宿るのだという当たり前の事実であった。シャルマ氏の深い教養と鋭い観察力、そして 文章力。そしてもちろん、訳者の山田氏によるところも大きいであろう。ちょっとした訳語の選び方、さりげなく入れられた補足の説明などが、この書の本質的 な部分を損なうことなく細部に輝きを与えているのだ。
ちょっとだけそんな「細部」を引用しよう。

食におけるブルジョワ意識、あるいは幸福感を満足させるために、肉には百グラム数十円から一万円ちかくまで、細分化された「肉の身分(カースト)」がある。
その構造は危しくも、われわれのカースト構造とぴったり重なる代物だ。
たとえばわれわれの四種姓(ヴァルナ)、つまりバラモンやクシャトリア、バイシャなどに相当する大枠を、日本人の獣肉に対するランキングに当てはめると、上位から、「牛肉」「豚肉」「鶏肉」「その他の肉」となる。
各ヴァルナ内部の、より細分化されたサブ・カースト、つまり出自(ジャーティ)に関しては、豚肉の場合ならば「ヒレ」「ロース」「モモ」「バラ」「切り落とし」というふうに肉の部位などに分けられる。
このような肉の種類と部分との階級分けが、日本では魚肉まで含めて数百分割されているのである。
インドにも豊かな商人(バイシャ)と貧しい僧侶(バラモン)がいるように、牛の切り落としよりはシャモと呼ぶ血統のいい鶏のモモのほうが上だったりする現実もある。
肉屋の店頭で顔見知りの中産階級の客同士が鉢合わせになると、二人の間で「どの肉を買うか」が、献立と関係なく争われることがしばしばあるという。
いっぽうが豚肉の切り落としを買おうとしていたのに、相手が豚肉のロースを買ったのを見て、見栄でそれより高いヒレを買うといった具合にである。
インドの社会は生きた人間の分類によって身分を拘泥し、日本社会は死んだ肉の分類によって経済的優位(プライオリティ)に固執する。

やや長くなってしまったが、細部は細部である。あとは読んでいただくしかない。

中島義道『働くことがイヤな人のための本』

中島義道『働くことがイヤな人のための本』
(2001年2月、日本経済新聞社、1400円)

「感受性のちがい」でよいのか

しばらく前から本屋で何度か見かけ、手に取ってみたりはしたものの、読むのをためらっていた。なんとなくイヤな予感がしたからである。中島氏の本はちゃ んと読んだことがない。今まで読まなかったのも、気になってはいたがという同じようなパターンであった。でもこのテーマには興味があるし、そもそも自分自 身かなり働くことのイヤな人間であるし、おまけに世間でも結構評判がいいらしい(まあいくつか書評を読んだだけだけど)ので、えいやっと読んでみた。
結局、イヤな予感は的中したのだが、そのイヤな感じは思っていたようなものとは少し違っていた。どうしてこんなにイヤな感じがするのかなあ、と読みながら不思議で仕方がなかった。それがまた、なんとも気持ち悪い感じなのである。
そもそも、僕自身はこの本の読者としては不適格なのかもしれない。「はじめに」で著者はこう釘をさしているのだから。

本書は私と異なった感受性を持つ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない。それでいいのだ。そうした一人であるあなたは、この本を読む必要はない。
さようなら。またいつか、どこかでお会いしましょう。

これだけ紹介するとなんだかひどく尊大な感じだが、著者がこう宣うのにはもちろん理由がある。というのも、この本は基本的に「先生」と呼ばれる中島氏本 人と、その他数人の対話形式になっている。これら数人の「生徒たち」はある意味で中島氏の分身、あるいは過去であり、彼らの悩みは中島氏本人のものであっ たのだと説明される。「先生」としての自分と、悩みを抱えた自分の対話というちょっと気持ち悪い設定でもあり、同じような悩みを抱えた人以外にはあまり読 んでも意味がないかもしれません、というのが先の警告なのである。
そんなわけで、ここでやめずに読んでおいて文句を言うのはどうかと思うのだが、お許しいただきたい。
イヤな感じは決してこの悪趣味な設定だけが理由ではないと思う。そもそも、本の最初から最後まで、僕は中島「先生」の見解にほとんど賛成しっぱなしだっ たのだ。そして、ここに登場する「生徒たち」の考えていることも、なんとなく分かる。ほとんど、とかなんとなく、というところに「感受性」の違いがあるの かもしれないが、その微妙な違いには何か重要な点があるような気がして、それは何だろう? と思いながら、ついに最後まで読んでしまった。

これは世間で騒がれているいわゆる「ひきこもり」といった人々も含め、あらゆる世代の「仕事に生きがいを見いだせない」人間に向けた本である。そうした人々に向けて「仕事をせよ」と言う。その理由は簡単に要約するとこんなふうであろうか。
人生とは不条理である。生まれて死ぬというこの基本設定、生まれながらの不平等、他人の評価の不平等など、すべてが不条理である。どんな慰めもごまかし も、この不条理の前では救いにはならない。仕事をするというのは、その不条理に向き合うことに他ならない。どんなに報われなくても、その労働によって金を 稼ぐことで、不条理そのものである他者と向き合うのだ。
まあ、こんな具合である。もちろん実際に読めばもっと説得力がある。それに、僕はこの見解に基本的に賛成だ。それでも、この議論の先で、必死に自らの 「仕事」と格闘する無名の芸術家たち、哲学者たち、そしてその他の職業(このあたりは曖昧、基本的には何でもいいらしい)についた人々を称え、自分の生き 方、あるいは彼の弟子たちであるらしい「無用塾」の学生たち(さまざまな職につきながら哲学を学ぶ人々)の生き方を称えるとき、なんとなくイヤな感じがす るのはなぜであろうか。
たとえば、不条理の最たるものである死について、「先生」は考える。何もかも、死んでしまえば無になるのだ、という事実を否定することはできない、だか ら死について考え続けるのだと。そのこと自体を否定するつもりはまったくない。人間が他者とつき合うときに、どこかで死を念頭に置いて相対する必要がある とさえ思う。だが、中島氏の議論には何かが決定的に欠けている気がするのだ。
それはたとえば、「人間は喜びを求めるものである」とか「人間は他者を求めるものである」といったやはり同じように基本的で大事な「事実」ではないか。 もちろん、これらは「死」を前にしたら何の意味もないのであるが、生きている人間にとっては、「人間は死ぬものである」のと同じくらいに大切な前提だ。そ うした部分をはしょって死について考える姿勢は、どこか気持ちが悪い。喜びや他者は死の前で幻想であるかもしれないが、人間はこの二つ(生きる人間と死ぬ 人間)のあいだを往復する必要があるのではないかと思う。それは氏の言う「感受性」の違いなのであろうか。なんだかすごく陳腐な言葉であると思うが。
もう一つ感じたのは、「働くことがイヤ」という現象に対する基本的な認識の違いからくる疑問だ。現代においてなぜ働くことはこんなにもイヤなのか、という問題である。著者はあまり直接的にこの問題に触れていない。まるでそれは当然とでもいうような感じだ。
もちろん人生は不条理なものであり、すべての不条理がなくなった世界もありえないのと同様、仕事はいつも不条理なものであり続けるだろう。それでも、も うちょっとイヤじゃない仕事のあり方はないのかなあ? と考えるのは人間の自然な感情だろう。そもそも便利にしたい、とか楽をしたい、という人間たちが築 いたこの社会が、現代の労働のあり方を生んだのである。これを「人生は不条理だから」といってそのままのみこむ必要はない。なぜこんなにイヤなのか? も う少し楽で楽しい生き方はないのか? それを真剣に考えたっていいんじゃないだろうか?
まあ、著者はきっと「考えたっていい、真剣に考えなさい。それも仕事だ」とでも言うのだろうか。それこそ「感受性」の違いか?
(一般的な意味での社会に対する関心が薄い人なんでしょうか。そういえば『うるさい日本の私』な んてタイトルの本も話題になってたなあ。でもやっぱり「私」のほうに関心があるのかなあ。他の著書は読んでないので、とりあえずここでは「仕事に生きがい をもてない現象」に対する見解についてのみ、もう少し社会全体のあり方を問う姿勢があっていいのではないかと主張するにとどめます。各論については大いに 賛成しつつ、全体としてはなんとなくイヤな気持ちで読み続けたという珍しい読書の報告でした。)

追記:『うるさい日本の私』を読んだ。これはいろいろな意味でけっこう面白かった。

梁石日『睡魔』

梁石日『睡魔』
(2001年4月、幻冬舎、1800円)

小説のなかの「お仕事」

夜中などになんとなくテレビをつけてみると、TVショッピングというのをやっている。これが結構、楽しい。ぼんやり眺めながら、眠くなるのを待つ。一種の催眠効果があるのだ。とりわ け、アメリカ製のシェイプアップ用器具などの宣伝はよく出来ている。同じ説明を聞くというのは普通嫌なものだが、ほんの少しだけ、それを受け入れるのがコ ツだ。ああ、これは効きそうだなどとぼんやり思ってみる。宣伝文句通り、健康的で引き締まった自分の肉体などを思い浮かべてみる。
梁石日の『睡魔』は、そんな「説得されること」「洗脳されること」の快楽を描いた小説である。と言い切っていいのかどうか、よく分からないが、少なくとも出版社の謳い文句はそんな感じである。
主人公は在日朝鮮人の作家。かつて大阪で事業に失敗し、東京に出てタクシー運転手をす る。その経験を元に二冊の小説を書いたが、お金に困っている。これはどう考えても梁氏本人である。大体、書いている本人を思わせる登場人物が出てきたりす ると、妙にしらけたりするものだが(私小説好きというのは、そのへんが逆にたまらないのだろうなあ)、この本の場合、それが不思議なユーモアとリアリ ティーをかもし出す。
健康マットを売るマルチ商法を冷静に観察し、距離をとっていたはずの主人公が、あれ れ? と思っているうちにいつの間にかどっぷりとはまっていく様子に、それはないでしょうといちいち突っ込みを入れたくなる。大笑いするような場面もいく つかあるし、これは実によくできたユーモア小説だと思う。深夜のTVショッピングを観て笑いながら、いつのまにかちょっと欲しくなっている、そんな時に感じる頭の痺れみたいなものを味わわせてくれる。

ところで、梁石日という人は「仕事」を書くのが上手な人だといつも思う。そもそも出世作『狂騒曲』(『タクシー狂騒曲』ちくま文庫)は上でも少し触れたように自身のタクシー運転手としての経験を踏まえたものだったし、その後もさまざまな小説を書いているが、不思議に、後まで記憶に残っているのは、登場人物が何か「仕事」をしている場面なのだ。
小説が描く仕事には大きく分けると二種類あると思う。
ひとつは、著者にとって関心のないものとしての仕事。これはたとえば恋愛小説などでよく見られる。仕事はおざなりに描き、アフターファイブや休日の生活ばかりが強調される。登場人物の職業はほとんど肩書きのみでしかない。
もうひとつは、職業そのものに関心のある小説。これは、たとえばミステ リーの探偵や警部だとか、企業小説の登場人物などが代表例だろう。歴史小説の登場人物も当然このカテゴリーに入るし、ある特殊な仕事がいわば小説の「主人 公」になることもある。これらの小説では仕事そのものに作者の関心の焦点があるために、登場人物にはまるで私生活というものがないかのような錯覚に陥る。
この二つは対極に位置するが、どこか不完全な感じがするという点で、共通する。
言うまでもなく多くの人にとって、仕事は人生に大きな位置を占める重大 関心事だが、一方でそれはやらなくてはならないから仕方なくしているものでもある。そこに生きがいを見出すことができるのは、ごく僅かな幸運な人々だと僕 は思うし、逆に仕事のことをほとんど考えずに生きる人生というのもそうはないだろう。
梁石日の描く仕事は、まさにそういう仕事なのである。不承不承ではある けれども、必死になって仕事をする。宝くじが当たったら明日にでもやめてしまうだろうけれど、今は仕事のことが頭から離れない。そういう仕事の細部に宿る 「面白さ」は、やっている本人たちの「やり甲斐」などということとはまったく別の話である。そこに人間の営みの不思議さ、無意味さ、愛おしさ、馬鹿馬鹿し さ、などなどが浮き彫りになる。それは小説の焦点ではないかもしれないが、「ちゃんと」描かれている。
今回の『睡魔』では、マルチ商法がその「仕事」であるし、競馬のノミ屋や運転手の仕事も描かれる。前作『死は炎のごとく』はテロリストを描いた小説で、全体的に完成度はやや低いのだが、主人公が消火器を売り歩くシーンがなぜかひどく印象に残った。話題になった『血と骨』でいえば、蒲鉾工場の描写が素晴らしい。ここでは梁石日の小説すべてに触れるつもりはないが、そんな調子である。
小説に出てくる人たちはいつ排便をするのか、などと訳のわからないことを言う人がいる が、僕は別に排便を描いた小説がいいとは思わない。でも、こうした仕事を「ちゃんと」描いた小説というのはもっとあってもいいのではないか。それが少ない こと自体が、この社会のあり方にどこか問題のあることを示しているとも言えそうである。
全然関係ないけど、僕はトイレを探してパニックに陥ったりすることがよくあるので、そのへんのスリルと恐怖を描いた短編は、ひとつくらいあっていいのではないかとふと思った。

レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』

レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』
(2001年3月、安藤哲行訳、現代企画室、2200円)

亡命の終わりⅡ

キューバ生まれの作家。『夜明けのセレスティーノ』が 文芸家協会のコンクールで入賞するが、その後の作品発表は国内での発表を認められない。反体制的発言と同性愛者であることを理由に逮捕されること数度。 1980年に合衆国へ亡命する。以後、ニューヨークで作家活動を続けるが、1990年、エイズによる体調悪化などが原因で自殺。
『ハバナへの旅』は彼が生存中に刊行された最後の小説集だ。執筆時期も異なる3作品は、テーマやモチーフに通低するものはあるものの、これが一冊の本になっているのは、おもに編集上の都合だろう。ここでは、表題作「ハバナへの旅」を中心に話を進めていきたい。
アレナスの分身とも考える主人公が、亡命から十五年を経て、故郷ハバナへと旅する物語。アレナスが実現することのできなかった、いわば想像上の帰還だ。
同性愛への迫害を経験した主人公は、ニューヨークで平穏な生活を手にするが、そこも彼にとって「あるべき場所」にはなりえなかった。そこへハバナに住む 妻からの手紙が届く。苦い記憶を呼び覚ますようなその手紙にうながされ、彼はその過去を清算すべく、合衆国市民として故郷へ旅立つ。
アレナスが描くハバナは重苦しい。まるで戒厳令が敷かれたかのようなその街のなかで、彼は失われた自分の居場所、自分の青春時代の面影を探す。想像上の 旅は、どこかでアレナス得意の幻想世界に迷いこんだにちがいないのだが、読者はそのことになかなか気づかない。アレナスの筆致はめずらしく(たとえば前の 二作品にくらべて)冷静である。亡命者の悲劇的な帰還ではなく、幻想のなかで故郷に救われる物語なのだと気づいたとき、物語はすでにクライマックスを迎え ている。
そして、アレナスの亡命はまだ終わっていないのだと思い出す。
小説のオチとしてはどうかと思われるのだが、読後に涙が出てきた。ありえないハッピーエンドほど悲しいものはないからだ。そのあたりに、幻想小説家とし てのアレナスの魅力がある。失われた故郷を夢見つづけたアレナスは亡くなり、キューバをめぐる亡命の物語もまだ終わっていない。
天国にいるアレナスのことを想像してみると、なんだかとても幸せに暮らしている姿が浮かんでくる。上天気の浜辺に仲間と寝そべりながら、故国キューバの状況を嘆きつつ、きっともう小説は書いていないんじゃないだろうか。

ミラン・クンデラ『無知』

ミラン・クンデラ『無知』
(2001年3月、西永良成訳、集英社、1900円)

亡命の終わりⅠ

チェコスロヴァキア生まれの作家。『冗談』で世界の注目を浴びるが、「プラハの春」以降、作品は国内発禁になる。1975年フランスへ亡命する。以後パリで作家活動をつづけ、89年の「ビロード革命」後もフランスに留まり、フランス語でも著作を発表している。
クンデラの最新作『無知』は亡命の終わりを描いた作品だ。永遠に続くかと思われたソヴィエト・ロシアの支配が終わりを告げ、それぞれの国で新しい生活を送っていた亡命者たちが複雑な思いを抱きながら故国へ帰る。
男女関係の不条理と歴史の不条理を、哲学的に、文学的に綴ったクンデラの読者にはお馴染みの手法である。『オデュッセイア』を引き合いに出しながら、故国に戻ったオルフェウスは果たして幸せだったのか? と問いかける。
亡命という「物語」はつねに、故国から離れることの悲劇性と帰還の美しさを語ってきたわけだが、いざ亡命者が故郷に帰ればそこに彼らの居場所などありは しない。そうしたエピソードから炙りだされるのは、記憶はあまりにも小さく、経験や知識は常に何の役にも立たない、という人間の本質的な状況である。それ が悲しくも愛すべき人間の「無知」というわけだ。
クンデラが描くプラハに、幻想の入りこむ隙はほとんどない。あっという間に資本主義化したこの街を、ただ客観的に眺めているという感じだ。主人公の目に 一瞬垣間見えた、愛すべき自分だけのプラハでさえ、それが彼女の住むパリへと続く人生の個人的な断片でしかないことをクンデラは意識している。
クンデラにとって「亡命」は明らかに終わったのだ。
「懐かしい」という言葉、そして感覚を愛すること。当たり前のようでいて、ちょっと不思議でもある。何かが「失われた」ことに気づくからなのか、それがほ んの少しばかり「戻ってきた」と感じるからなのか。いずれにせよ、この言葉への甘い幻想を打ち砕いてみせたこの小説は、読んでいて苦しい。それを軽いタッ チで描いてさらりと流してしまうあたり、さすがクンデラと言うべきなんだろうか。
フランスで暮らすクンデラのことを想像してみると、なんだかとても幸せに暮らしている姿が浮かんでくる。人間の「無知」を愛しつつ嘆きつつ、ゆっくりと次の小説の構想を練っているんだろうと。

森達也『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』

森達也『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』
(2001年3月、飛鳥新社、1700円)

ささやかなファンタジー

超能力の話題がホットなのにはもちろん理由がある。賛成派、反対派を問わず、基本的には「科学的な」語彙を使っていると(本人たちが)思い込んでいる点 だ。本当はぜんぜん議論がかみ合わないにもかかわらず、語彙が重なっているために激しい議論がたたかわされるのだ。宗教とか芸術だとこうはいかない。宗教 家や芸術家に「科学的でない」などと言ってかみつく科学者がいたとしても、笑われるだけだろう。
科学者たちは自分たちの「言葉」がこの分野では無法に使われることに苛立っているのだ。結果、状況は惨憺たるありさまである。議論は「科学的」とはほど 遠く、醜い誹謗中傷の応酬になる。これが面白いかどうかはともかく、エンターテインメントとしては確かに成り立つ。同じ穴のムジナが見えがちな政治的議論 などよりは、ずっと盛り上がる。
でも、ほとんどの人にとって、超能力の真偽はもはやどうでもいいことだ。すでに多くの人々は、仮に超能力があったとして、それが自分にとって大きな問題 にはならないということを知ってしまっている。科学者から見れば、物理法則に反する超能力の存在は原子爆弾の発明など問題にならないほどの脅威なのかもし れないが、すでにわれわれは、それが悪用される心配がほとんどなく、その利用はスプーン曲げなど、平和的かつ些細な目的に限られることを「経験的に」知っ ているのだから。
したがって超能力をめぐる議論は、二つの職業のぶつかり合いという以上の迫力をわれわれにもたらさなくなってしまっている。超能力が私たちにまったく新しい世界をもたらしてくれるかもしれない、と感じられた時代はもはや過去になってしまった。

本書は三人の「超能力者」たちの日常を追いかけるTV ドキュメンタリーを制作した著者が、TV製作という現場からこの論争について考えるという体裁をとっている。バラエティーとドキュメンタリーという違いは もちろんあるが、ここまで超能力に対して真剣な態度をとれるのは、やはりTV業界の人間ならではという気がする。もちろん、真剣だからこそ面白いのではあ るが。
結果として、当たり前といえば当たり前の事実にぶつかる。
ひとつは、賛成派と反対派のうち、反対派(おもに科学者たち)のほうに不誠実さが目立つこと。
これはもちろん、超能力の真贋とは関係がない。二つの職業のぶつかりあいと考えれば、想像できることだ。たとえばデパートと小規模小売店舗とか、商社と 零細農家とか。こうした議論自体、科学者にとってはまあどうでもよいのだが、超能力者にとっては死活問題だ。もちろん彼らは真剣である。
もうひとつは、これも周知のテレビ業界自体の不誠実。著者はもちろん少数派の良識派ジャーナリストを演じる。そのジレンマと悩みはひとかたではない。
読んでいてどうも気持ちが悪いのは、結局、こちらとしてはまったく図式が変わらないということだ。表面的に「面白いから」この話題を追うが、「見る側」 はちっとも真剣になれない。どうでもいい話題をテレビが盛り上げ、一部の人々がヒートアップする。テレビを舞台に自分と世界の「無関心」が増大していく感 じがして、気持ち悪いのだ。
「信じるか、信じないか」
ひたすらこの問いをもって著者は超能力にアプローチする。著者は最後まで自分の答えを出さないままに悩む。それがこの本の「面白さ」なのであるけれど も、これだけの分量の文章をそれだけで書くのはちょっと無理があるようにも思える。その真剣さにだんだんつきあいきれなくなってしまう。すでに書いたよう に、「信じるか、信じないか」は一般の人間にとって、もはやどうでもよい問題になりつつあるのだから。
もちろん、超能力という言葉のもつファンタジーとしての力は、まだ残っている。ただ、それはあくまでもささやかなものだ。「信じることも信じないことも できない」を延々とつづったこの本は、もしかしたらテレビを舞台にそうしたささやかな超能力のあり方を考えようとしようとしているのかもしれない。それは もはや科学の枠を超えた力の存在などというよりも、何かを信じることの可能性みたいな、身も蓋もない話に近くなる。
考えてみれば「科学」という言葉自体、高度成長期「ウルトラマン」の頃に比べてなんと夢のない陳腐な言葉になってしまったことだろう。ゲノムであろうが 人工衛星であろうが、今やすべては経済に還元されてしまう。科学者も気の毒なご時世である。スプーン曲げをはじめとする超能力がどこかかび臭く見えてしま うのは、しつこく「科学的語彙」にこだわりすぎたのも原因のひとつだろう(そういえば遠い昔に科学とすっぱり縁を切った(?)占いは相変わらず元気であ る。やれやれ)。
なんだかちょっと悪口みたいになっちゃったけど、現代の受難者としての超能力者という読み方もできるし、業界ぽい話などもいっぱいあって結構面白いですよ。

ナンシー・エトコフ 『なぜ美人ばかりが得をするのか』

ナンシー・エトコフ 『なぜ美人ばかりが得をするのか』
(2000年12月、木村博江訳、草思社、1900円)

得にならない美をめぐる考察

どういう風に紹介したらいいか、ちょっと迷う本だ。「お手軽な似非科学本」とか「チープなダーウィニズムの臭いがする俗悪な読み物」とでも言ってしまえば簡単に通りそうだが、それだけではちょっともったないな気もするのだ。
ちょっと手にとるのがためらわれるような表紙をめくってみよう。第一章で著者はこう言う。「多くの知識人は美はとるに足りないものだと指摘する」。普通そ ういう認識はなかなか共有できないと思うのだが、そんな「知識人」の代表として挙げられているのが、アメリカのフェミニスト、ナオミ・ウルフの著作『美の陰謀』である。なんとまあ。やはりアメリカのフェミニズムはそれだけ力があるということか?
『美の陰謀』はなかなか面白い本だ。この本は美がこの社会のなかでいかに機能しているか、を説いた本。「男性社会」は女性の美を礼賛することで、女性の欲 望をその中に限定し、男性が女性を支配しているという社会のあり方を隠蔽し、そのシステムを維持する。現代において、美は金儲けの手段であり、この社会の あり方を存続させるための強力な切り札である、というような。美しくなろうとして化粧やダイエットに投資しつづける女性は、男性に搾取されている、という のだ。
確かに、現代のアメリカを代表するフェミニストが書いただけあって、素晴らしく威勢がよくて、やや乱暴な書き方ともいえる。読んでいると、あたかもどこか の男性たちが共謀して美という概念を作り出したかのような錯覚さえ、おぼえる。もちろん、ちょっと筆がすべってしまったとしても、ナオミ・ウルフはそんな ことを言いたいわけではない。
でも、そんな錯覚がありえてしまうくらい、私たちは「美とは何か(この場合あくまでも人間の)」についてはっきりと理解していないし、そのことを正面から 考えないことに慣れきってしまっている。この本の著者はそこに苛立っていたのであろう。じゃあ、科学的に「美」をとらえるとしたら、それは何なのか。簡単 にいうと、この本の狙いはそこにある。
よく考えてみると、確かに人の美しさには、タブーと言えるような側面がある。女性誌などに載っている有名女優やモデルのインタビューなどの取り上げ方ひと つを見ても、彼女の美しさをあくまでもモノとして、あるいは生物学的なものとして限定することはありえない。書き手は、意識してか、あるいは無意識のうち にか、その美しさをその人間の内面的なものの現れとして描こうとする。あるいは、美しさはときに服装や化粧といったものの効果にすり替えられる。人の美し さはただ見れば自明のことであるから、であろうか。それにしても、なんだかちょっと気持ち悪い。
著者は同じような事例として、相手が美人であるときとそうでないときの人々の対応の違いに触れている。つまり、人は外見の美しさをたびたび、別の性質(たとえば頭のよさ、性格のよさ)と混同してしまうということだ。
そんなわけで、著者は人間の美しさについて、それをひたすら生物学的な特徴として考察する。シンメトリー、皮膚の肌理、肉づきのよさ、などなど。それは若 さとか、健康とか、生物としての強さとか、そういう言葉に置き換えられるものだ。人間は先天的にこの「美しさ」というものを感知する能力をもっている、と いうことだ。
美しさは文化的な概念だとか、美しさは見る側のなかに存在するとか、そういういわば「文系的な」美のとらえ方と真っ向から対峙しようとする。それはそれで 結構いさぎよい態度なのではないか、と僕はちょっと感心した。細かい議論はチープだし、論証の過程などはかなり杜撰ではあるけれども、先にふれた「美をめ ぐるタブー」に挑戦する試みとしては、評価できるのはないか。
「心 がけが容姿に現れる」とか「自分を磨く」「美しさを手に入れる」といった常套句はまさにこの生物学的な「美しさ」を隠蔽するための言葉といっていい。そう 考えると、人の美しさをあくまでも生物学的な特徴と考えることは、フェミニストであるナオミ・ウルフの主張とも重なってくるのではないか? なんだかおか しなことになってしまった。
「美」はあまりにも多くの意味を引き受けた言葉だ。おまけに、何を美しいと思うかは、プライヴァシーの領域というか、神秘的な領域として守られている。だからこそ「陰謀」が成り立つということは確かだ。
もちろん、ナオミ・ウルフをはじめフェミニストたちがこの本を受け入れる見込みはまったくない。なんといっても著者は、男が女を容姿で選ぶのは生物の行動 として根拠がある、などと言っているのだから。その結果、世の女性たちが血眼になって男性を惹きつけるために化粧やらエステやらに投資するのは当然とい う、結論になる(本書)。
話がぐるっと一回りして、戻ってきてしまった。この複雑に入り組んだ議論に決着をつけさせるのは無理というか、不毛である。UFOは存在するか? という 話と同じくらい、あまりにも前提がかけ離れている。でもそんな不毛な議論も、とりあえず一度ぐるりと一回りすると、それはそれで意味があるんじゃないか、 などと考えるのは、僕がよほどの暇人だからだろうか。

John Fahey and his Orchestra 「Of Rivers and Religion」

セピア色のディズニーランド


John Fahey and his Orchestra「Of Rivers and Religion」
(1999年、REPRISE)

せっかくMUSICコーナーを作ったのに、全然書けなかった。ちょっと自信がなかったのだ。音楽をめぐる言葉に不信があって、面白いレヴューがあればなあ とは思っていたのだが。でも、いざ自分で書こうとすると、どこから始めたらいいのかさっぱり分からなかった。モデルがないのだ。
音楽には言葉がない。それでまずは周辺情報から、などと思って他人の書いた文章などを読むと、これがいけない。過剰な思い入れで意味不明の文章と、ひたす ら固有名詞をつなげただけの、これまた意味不明な文章ばかり。これにもうひとつ、訳の分からない文章を加えてもしょうがないし。じゃあどうすればいいの? と思いつつ、ひたすらためらっていた。
そんなところへ、ジョン・フェイヒー死去のニュースだ。これは、ビビっている場合ではないと思えてきた。なぜかは自分でもよく分からないが、まあ人が死ぬ、というのは、それだけインパクトがあるということだ。
ジョン・フェイヒーは不思議なミュージシャンだ。だった。彼をポピュラー音楽の歴史のなかにふさわしく位置づけたり解説するのは、僕の手にあまる。彼はギ タリストだ。ブルース、ブルーグラスといったアメリカの古いポピュラー音楽をもとに、独自の世界を作り上げた孤高の人、くらいか。なんだか嘘くさい。
ここで取り上げたのは彼の膨大なアルバムのなかでも、聴きやすく、手に入りやすく、かつ最高の出来栄えのものの一つ、という実にお買い得かつ紹介し甲斐の あるアルバムだ。名盤探検隊のシリーズの一枚。まったく余談だが、フェイヒー死すのニュースを知った翌日、中央線に乗っていたら、レコード業界人らしき 人々がいたので耳をすませていたら、どうも彼らのなかの一人は名盤探検隊の営業をしているらしかった。「フェイヒー死にましたね」と哀悼の意を表明した かったが、あまりに唐突なのでやめた。ぜひちゃんと追悼企画をやってほしいものである。
ところで、ライナーノートによるとジャケットのこのセピア色の写真はディズニーランドらしい。くだらないライナーノートも、たまには素敵な情報が載ってい る。ある意味では、ジョン・フェイヒーの音楽は、ディズニーランド的ともいえるからだ。それは、アメリカそのもの。もちろん、セピア色に褪せたディズニー ランド、遠い記憶のなかのディズニーランドだ。
音楽というのは大抵、遠くから聴くと美しく聞こえるものだ。遊園地にかかっている音楽も、盆踊りの音楽も、ちょっと遠くから聴くと実に素晴らしい。たぶ ん、あの騒がしいパラパラの音楽だって、遠くから風に乗って聞こえてきたら素晴らしいにちがいない。ああ、きっと若者があれに乗って踊っているんだ、と自 分も浮き足立って近くに行きたくなるような。でももちろん、本当にそばに寄るとがっかりするのだ。
ジョン・フェイヒーの音楽は、この「遠くから聞こえる音楽」に似ている。大きなスピーカーでCDをかけても、ライヴで本人が目の前にいても、どこか遠くか ら音が聞こえてくるような、そんな印象を与える。そしてそれは「遠くから聞こえてくるアメリカ音楽」である。
高校生の頃、一年間だけアメリカに住んだことがある。ウェスト・ヴァージニア州という、とんでもない田舎だ。ニューヨークなどに比べると、文字どおり一世 紀前の雰囲気がまだ残っている。もちろん車もあるしテレビもあるのだが、そういう問題ではないのだ。ミシシッピ川の支流沿い、アパラチア山脈の中に隠れた その街には、頑固なキリスト教徒たちが、カントリー音楽を聴きながら暮らしている。川と信仰。まさにそういう街なのだ。もちろん誇張ではあるが、そう言わ ないと、ただ「アメリカにいました」などと言うと、とんでもない誤解を受ける。
川沿いのハイウェイを馬鹿でかいトラックが通りすぎると、一瞬、車内でかかっているカントリー音楽が聞こえ、消えていく。ジョン・フェイヒーの音楽はまさにそんな感じだ。
僕自身は、カントリーもブルーグラスもブルースも、あまり好きではなかった。一緒くたにすると、きっと音楽ファンには馬鹿にされるだろうが。でも、ジョ ン・フェイヒーのヘンテコな演奏が、これらの音楽には今までとはまったく別の聴き方があることを教えてくれた。それは、うまく言えないのだが、その音楽が あたかも遠くで鳴っているかのように聴く、というような。
世の中には、嫌だなと思うような音楽がたくさんあるのだけれど、僕はハタとそれは自分が聴き方を間違えているのではないだろうか、と疑うに至った。「あま りにも近くで聴きすぎ」なのである。勢い、あらゆる音楽に対してうるさいことを言いたくなってしまう。サウンドがどうだとか、ヴォーカルのピッチがどうだ とか、アレンジのセンスがどうだとか。でも遠くから聴いたとき、音楽はどれも、ほとんど妙なる調べと化す。
もしかしたら、歌謡曲であれ演歌であれクラシックであれ、「いい音楽だ」と思っているとき、人は遠くから聞こえるサウンドや旋律に耳を傾けているのかもし れない。だとすれば、音楽を聴く人というのは、マニアックであればあるほど、間違った聴き方をしているということにもなるのではないか。
ジョン・フェイヒーが奏でるアメリカは、今も生き続けている。それは、ディズニーランドの写真をセピア色に加工しただけで見えてくるほど、実に当たり前の ように存在している。ハリウッド映画のなかにも、アメリカの最新チャートのなかにもそれは紛れ込んでいて、ただ誰もそれを普段意識していないというだけの こと。
このアルバムのジョン・フェイヒーはとりわけ幸せそうだ。アルバムによっては、乱暴な、あるいはラディカルな表現によって成し遂げた同じことを、リラック スして軽々と楽しんでいる。だから、ディズニーランドなみに完成度が高い。ほとんどアメリカ・ポピュラー音楽のエッセンスそのままを「再現」してみせなが ら、その遠い記憶を「今ここに」存在させてくれているのだ。

謹んで哀悼の意を表します。

キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』他

キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』
(1999年9月、村松潔訳、新潮社、2000円)

インドのまわりをうろうろする読書

ときどきインド料理屋へいくと、これはスゴイと思うような音楽がかかっている。日本や欧米のハウスなんぞ目じゃないという、ノリノリかつクレイジーなダンス・ミュージック。あるいは、ミュージカル映画の主題歌とおぼしき歌の陳腐なアレンジのなかに、素晴らしく美しいメロディーラインが埋まっていたり。とにかくびっくりするような音楽が確かに存在するのだ。
ところが、いざレコード屋に行ってみると、途方に暮れるばかり。なんというか、とりつくしまがないのだ。映画のサントラはみんな同じジャケットに見えるし、古典は古典でひどくかび臭く見える。日本でいえば、ドラマの主題歌のCDと雅楽のCDだけがあって、その間は全部抜けているというような印象である。一体、どちらから聴くべきなのか、その中のどれをまず聴くべきなのか、さんざん迷ったあげくに、疲れ果てて帰ってくる。そんなことを何度か繰り返した。
たぶん、アプローチの仕方自体、間違っているのだろう。そんなわけで、いつも気になっていながら、いまだにインド音楽のことはさっぱり分からない。インド料理屋にいく度に、まるで初めて聴いた音楽のように、びっくりさせられるのである。

インドへの興味を話すと、「行ったことあるの?」と聞かれる。行ったことはない。「まず、行ってみなきゃ」と言われる。その通りである。どうして行かないかというと、それはいろいろと理由はあるのだが、結局、ビビってるのではないかと思う。何だか訳が分からないまま、えいやと飛び込むには、ちょっと存在が大きすぎるというか。存在が大きすぎるなんて言い訳がましい、とにかくビビっているのだ。
そんなわけで、ときどきインド料理屋へ行きカレーを食べながら、ときどきCD屋のインドコーナーをのぞきながら、「いやー、インドは分からん」などと言っている。ときどきインドについて書かれた本なども読むが、それもいたって消極的な選択である。

最近読んだ本でいうと、まずはキラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』。ちょっと前の『ムトゥ』ブームを思い出させる本である。主人公はぐうたら者の郵便局員。何もかも面倒くさくなって、グアヴァの木の上で暮らしはじめるのだが、なぜか聖者扱いされて大騒ぎになる。愉快な話で、ラストなどは実にそう快な感じであるが、小説としての出来はイマイチ。間延びしている。サルマン・ラシュディなども誉めているようだが、これも小説の出来自体をというより、こういう小説が書かれ、受け入れられる状況そのものを歓迎している、という感じだろう。
もう一冊は同じ新潮社の「クレスト・ブックス」から出ている『停電の夜に』。前著とは対照的に、こちらは小説として実にクオリティーが高い。オー・ヘンリー賞受賞というのが、いかにも似合う、佳品ばかりを集めた短編集である。欧米に暮らすインド系の人々が登場し、ちょっとした文化の摩擦と、普遍的な人と人とのすれ違いを重ね合せた話が多い。
中身は対照的であるけれども、実はどちらも英語を母語としたインドの女性によって書かれた作品である。これを敢えてジャンルと呼ぶならば、少し前に出たアルンダティ・ロイ『小さきものたちの神』(DHC、2300円)もこれに入るし、ちょっと違うけれどもパキスタン出身の文学研究者サーラ・スレーリの自伝的エッセイ『肉のない日』(みすず書房、2800円)などもこの「ジャンル」の佳品といえるかもしれない。
いずれにしても、「西欧人の目で書かれたインド」と「インド人の目で書かれたインド」の間くらいに位置する彼女らの物語に、なぜか惹かれる。もしかしたら、それはインドそれ自体への興味とはちょっと違うんじゃないだろうかとも思うのだが。

さらに、インド関係(?)の本で最近読んだのは、メキシコのノーベル文学賞受賞詩人・オクタビオ・パスが書いた『インドの薄明』。メキシコ大使としてインドに数年滞在したパスのインド観を綴ったもので、面白いのだが、翻訳がひどい。パスの著書はたいてい翻訳が読みにくいといわれるのであるけれども、中でもひどいものの一つだろう。、スペイン語で読むと実に明快な印象を受けるのに、とも思うが、確かに詩人ぽい感覚的な物言いが多くて、翻訳すると訳が分からない、という理由は実によくわかるのだけれど。
パスのインド論を読むなら、ずいぶん昔に翻訳が出た『大いなる文法学者の猿』(新潮社)のほうがまだよいかもしれない。本当はこっちのほうが訳の分からない本なのだけれど、翻訳はいい。
こういう本を読むと、何となくインドが分かったような錯覚を楽しむことができる。でもやっぱりそれは錯覚なんだろう。パス本人のインド観の善し悪しはともかく、「薄明」というタイトルが示唆する通り、この本の中でも、インドという国の像はどこまでもぼんやりとしていて、詩人はそれを楽しんでいるという感じなのだ。ある意味では世界のなかで、インドという場所は常にそういう役割を担わされてきたともいえる。もうひとつの世界、神秘と混乱のイメージ。
そんなことを考えだすと、僕のインドへの興味はまさに、こういうイメージを一方的に押しつけて遠くから楽しんでいるという、最悪のものかもしれないと思えてくる。
机の上に置いてあってずっと読んでない本のなかに、さきほど少し触れたサーラ・スレーリの植民地インドの表現をめぐる評論『修辞の政治学』がある。たぶん、これを読むと、僕が書いたようなうやむやが少し明らかになるのではないかと期待しているのだが、分厚くて、なかなか進まない。帯には「逃れ去るインド」とある。
文化の多様さを捉えようとする試みは、いつだって失敗してきた。これからもそうだろう。その試み自体が多様さに対する邪悪な挑戦状であることも多い。でもだからといって、それはなくならないし、これからも人はそのために右往左往するに違いない。
なんといっても、文化は安定したものではありえないのだ。生き物のようにたえず変化しようとしている。そんな力を、インドから外に出た女性たちも、メキシコから外に出た詩人も、意図的でないにせよ、証明している。僕がどんなインド音楽を聴こうと、「これがインド音楽」ということなど有り得ないのだ。これかな、思った瞬間に、インドは遠くのほうまで走っていて、あっかんべーをしている。