中島義道『働くことがイヤな人のための本』

中島義道『働くことがイヤな人のための本』
(2001年2月、日本経済新聞社、1400円)

「感受性のちがい」でよいのか

しばらく前から本屋で何度か見かけ、手に取ってみたりはしたものの、読むのをためらっていた。なんとなくイヤな予感がしたからである。中島氏の本はちゃ んと読んだことがない。今まで読まなかったのも、気になってはいたがという同じようなパターンであった。でもこのテーマには興味があるし、そもそも自分自 身かなり働くことのイヤな人間であるし、おまけに世間でも結構評判がいいらしい(まあいくつか書評を読んだだけだけど)ので、えいやっと読んでみた。
結局、イヤな予感は的中したのだが、そのイヤな感じは思っていたようなものとは少し違っていた。どうしてこんなにイヤな感じがするのかなあ、と読みながら不思議で仕方がなかった。それがまた、なんとも気持ち悪い感じなのである。
そもそも、僕自身はこの本の読者としては不適格なのかもしれない。「はじめに」で著者はこう釘をさしているのだから。

本書は私と異なった感受性を持つ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない。それでいいのだ。そうした一人であるあなたは、この本を読む必要はない。
さようなら。またいつか、どこかでお会いしましょう。

これだけ紹介するとなんだかひどく尊大な感じだが、著者がこう宣うのにはもちろん理由がある。というのも、この本は基本的に「先生」と呼ばれる中島氏本 人と、その他数人の対話形式になっている。これら数人の「生徒たち」はある意味で中島氏の分身、あるいは過去であり、彼らの悩みは中島氏本人のものであっ たのだと説明される。「先生」としての自分と、悩みを抱えた自分の対話というちょっと気持ち悪い設定でもあり、同じような悩みを抱えた人以外にはあまり読 んでも意味がないかもしれません、というのが先の警告なのである。
そんなわけで、ここでやめずに読んでおいて文句を言うのはどうかと思うのだが、お許しいただきたい。
イヤな感じは決してこの悪趣味な設定だけが理由ではないと思う。そもそも、本の最初から最後まで、僕は中島「先生」の見解にほとんど賛成しっぱなしだっ たのだ。そして、ここに登場する「生徒たち」の考えていることも、なんとなく分かる。ほとんど、とかなんとなく、というところに「感受性」の違いがあるの かもしれないが、その微妙な違いには何か重要な点があるような気がして、それは何だろう? と思いながら、ついに最後まで読んでしまった。

これは世間で騒がれているいわゆる「ひきこもり」といった人々も含め、あらゆる世代の「仕事に生きがいを見いだせない」人間に向けた本である。そうした人々に向けて「仕事をせよ」と言う。その理由は簡単に要約するとこんなふうであろうか。
人生とは不条理である。生まれて死ぬというこの基本設定、生まれながらの不平等、他人の評価の不平等など、すべてが不条理である。どんな慰めもごまかし も、この不条理の前では救いにはならない。仕事をするというのは、その不条理に向き合うことに他ならない。どんなに報われなくても、その労働によって金を 稼ぐことで、不条理そのものである他者と向き合うのだ。
まあ、こんな具合である。もちろん実際に読めばもっと説得力がある。それに、僕はこの見解に基本的に賛成だ。それでも、この議論の先で、必死に自らの 「仕事」と格闘する無名の芸術家たち、哲学者たち、そしてその他の職業(このあたりは曖昧、基本的には何でもいいらしい)についた人々を称え、自分の生き 方、あるいは彼の弟子たちであるらしい「無用塾」の学生たち(さまざまな職につきながら哲学を学ぶ人々)の生き方を称えるとき、なんとなくイヤな感じがす るのはなぜであろうか。
たとえば、不条理の最たるものである死について、「先生」は考える。何もかも、死んでしまえば無になるのだ、という事実を否定することはできない、だか ら死について考え続けるのだと。そのこと自体を否定するつもりはまったくない。人間が他者とつき合うときに、どこかで死を念頭に置いて相対する必要がある とさえ思う。だが、中島氏の議論には何かが決定的に欠けている気がするのだ。
それはたとえば、「人間は喜びを求めるものである」とか「人間は他者を求めるものである」といったやはり同じように基本的で大事な「事実」ではないか。 もちろん、これらは「死」を前にしたら何の意味もないのであるが、生きている人間にとっては、「人間は死ぬものである」のと同じくらいに大切な前提だ。そ うした部分をはしょって死について考える姿勢は、どこか気持ちが悪い。喜びや他者は死の前で幻想であるかもしれないが、人間はこの二つ(生きる人間と死ぬ 人間)のあいだを往復する必要があるのではないかと思う。それは氏の言う「感受性」の違いなのであろうか。なんだかすごく陳腐な言葉であると思うが。
もう一つ感じたのは、「働くことがイヤ」という現象に対する基本的な認識の違いからくる疑問だ。現代においてなぜ働くことはこんなにもイヤなのか、という問題である。著者はあまり直接的にこの問題に触れていない。まるでそれは当然とでもいうような感じだ。
もちろん人生は不条理なものであり、すべての不条理がなくなった世界もありえないのと同様、仕事はいつも不条理なものであり続けるだろう。それでも、も うちょっとイヤじゃない仕事のあり方はないのかなあ? と考えるのは人間の自然な感情だろう。そもそも便利にしたい、とか楽をしたい、という人間たちが築 いたこの社会が、現代の労働のあり方を生んだのである。これを「人生は不条理だから」といってそのままのみこむ必要はない。なぜこんなにイヤなのか? も う少し楽で楽しい生き方はないのか? それを真剣に考えたっていいんじゃないだろうか?
まあ、著者はきっと「考えたっていい、真剣に考えなさい。それも仕事だ」とでも言うのだろうか。それこそ「感受性」の違いか?
(一般的な意味での社会に対する関心が薄い人なんでしょうか。そういえば『うるさい日本の私』な んてタイトルの本も話題になってたなあ。でもやっぱり「私」のほうに関心があるのかなあ。他の著書は読んでないので、とりあえずここでは「仕事に生きがい をもてない現象」に対する見解についてのみ、もう少し社会全体のあり方を問う姿勢があっていいのではないかと主張するにとどめます。各論については大いに 賛成しつつ、全体としてはなんとなくイヤな気持ちで読み続けたという珍しい読書の報告でした。)

追記:『うるさい日本の私』を読んだ。これはいろいろな意味でけっこう面白かった。


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