M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

M.K.シャルマ『喪失の国、日本』
(2001年3月、山田和訳、文芸春秋社、1762円)

インドが見た日本

まだほんの少し疑っている。というのも、この本がとにかく素晴らしくて手放しでほめたいのだけど、だからこそ余計に疑念はアタマの隅に残り続けるのである。
M.K.シャルマ氏なる人物は本当に存在するのか? これは「訳者」山田和氏が書いたまったくのフィクションなのではないか?
「訳者の序」によると、山田氏がこの本に出会った経緯はまさに小説のようである。インドの本屋で偶然見つけ買ったこの本(ヒンディー語版)を持って旅をし ていると、ある町で中年のインド人に声をかけられ、食事に誘われる。彼に興味をもった山田氏は招待を受けて彼の家を訪ねる。話をしていくうちにますますこ の男に興味をもった山田氏が件の本を彼に見せると、「それを見て男の表情が変わった。急に立ち上がり、奇声を発して、それから大声で笑いだした」。
こうしてその本の著者であるM.K.シャルマ氏は山田氏のためにその本を英訳して送ってくれることを約束したというのである。スゴイ。
この本がありふれた日本見聞記であるのなら、こういう経緯がフィクションであろうとなかろうとどうでもよいのであるが、とにかく滅法面白い日本論なのだ。この複雑な気分がお分かりいただけるであろうか。
内容はこれといって派手なものではない。エリートビジネスマンとして来日したシャルマ氏の目に映った日本は我々のよく知っている日本(それもバブル期 の)である。登場する日本人がやたらに博識で冷静な解説をするのにはちょっと驚くが、きっとそういう人も日本にいるのであろう、という以外、描かれている 事実自体はどうということもない。食文化のちがいやビジネスのやり方、その背景にある価値観のちがい。シャルマ氏はあくまでもインドのビジネスマンの視点 でこれに驚き、解釈し、理解しようとする。
この本が新鮮なのは、ひとつにはヨーロッパ人でもアメリカ人でも東アジアの人間でもなく、インドの人間が日本を描いたところにあるだろう。インドと日本 という二つの国を並べたときに浮かび上がってくる相似と差異はそれ自体実にエキサイティングであるし、同時にそこから、ヨーロッパ近代がアジアにもたらし たものが一体何だったのか、「近代化」や「資本主義」は人間をどう変えるのか、が鮮明に見えてくるのだ。日本はふだんインドを見ていないし、インドも日本 を見ていない。だからこそ二つの出会いは混じりっけのない文化と文化のぶつかり合いとして、見応えがあるのだと思う。
この本の裏ストーリーは、出世を夢見ていた若いシャルマ氏が、日本という異文化、そして「近代化」の進んだ国と出会い、みずからの人生を問い直していく というものである。それは実に控えめな形で読者に伝わり、日本語版では訳者の解説を借りて、読者はその方向転換の意味の大きさを考えさせられる。なんだか 舌足らずであるが、こればかりはとにかく読んでいただきたいとしか書きようがない。
でも結局、この本を読んでいて思ったのは、本の面白さはやはり細部に宿るのだという当たり前の事実であった。シャルマ氏の深い教養と鋭い観察力、そして 文章力。そしてもちろん、訳者の山田氏によるところも大きいであろう。ちょっとした訳語の選び方、さりげなく入れられた補足の説明などが、この書の本質的 な部分を損なうことなく細部に輝きを与えているのだ。
ちょっとだけそんな「細部」を引用しよう。

食におけるブルジョワ意識、あるいは幸福感を満足させるために、肉には百グラム数十円から一万円ちかくまで、細分化された「肉の身分(カースト)」がある。
その構造は危しくも、われわれのカースト構造とぴったり重なる代物だ。
たとえばわれわれの四種姓(ヴァルナ)、つまりバラモンやクシャトリア、バイシャなどに相当する大枠を、日本人の獣肉に対するランキングに当てはめると、上位から、「牛肉」「豚肉」「鶏肉」「その他の肉」となる。
各ヴァルナ内部の、より細分化されたサブ・カースト、つまり出自(ジャーティ)に関しては、豚肉の場合ならば「ヒレ」「ロース」「モモ」「バラ」「切り落とし」というふうに肉の部位などに分けられる。
このような肉の種類と部分との階級分けが、日本では魚肉まで含めて数百分割されているのである。
インドにも豊かな商人(バイシャ)と貧しい僧侶(バラモン)がいるように、牛の切り落としよりはシャモと呼ぶ血統のいい鶏のモモのほうが上だったりする現実もある。
肉屋の店頭で顔見知りの中産階級の客同士が鉢合わせになると、二人の間で「どの肉を買うか」が、献立と関係なく争われることがしばしばあるという。
いっぽうが豚肉の切り落としを買おうとしていたのに、相手が豚肉のロースを買ったのを見て、見栄でそれより高いヒレを買うといった具合にである。
インドの社会は生きた人間の分類によって身分を拘泥し、日本社会は死んだ肉の分類によって経済的優位(プライオリティ)に固執する。

やや長くなってしまったが、細部は細部である。あとは読んでいただくしかない。


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