キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』他

キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』
(1999年9月、村松潔訳、新潮社、2000円)

インドのまわりをうろうろする読書

ときどきインド料理屋へいくと、これはスゴイと思うような音楽がかかっている。日本や欧米のハウスなんぞ目じゃないという、ノリノリかつクレイジーなダンス・ミュージック。あるいは、ミュージカル映画の主題歌とおぼしき歌の陳腐なアレンジのなかに、素晴らしく美しいメロディーラインが埋まっていたり。とにかくびっくりするような音楽が確かに存在するのだ。
ところが、いざレコード屋に行ってみると、途方に暮れるばかり。なんというか、とりつくしまがないのだ。映画のサントラはみんな同じジャケットに見えるし、古典は古典でひどくかび臭く見える。日本でいえば、ドラマの主題歌のCDと雅楽のCDだけがあって、その間は全部抜けているというような印象である。一体、どちらから聴くべきなのか、その中のどれをまず聴くべきなのか、さんざん迷ったあげくに、疲れ果てて帰ってくる。そんなことを何度か繰り返した。
たぶん、アプローチの仕方自体、間違っているのだろう。そんなわけで、いつも気になっていながら、いまだにインド音楽のことはさっぱり分からない。インド料理屋にいく度に、まるで初めて聴いた音楽のように、びっくりさせられるのである。

インドへの興味を話すと、「行ったことあるの?」と聞かれる。行ったことはない。「まず、行ってみなきゃ」と言われる。その通りである。どうして行かないかというと、それはいろいろと理由はあるのだが、結局、ビビってるのではないかと思う。何だか訳が分からないまま、えいやと飛び込むには、ちょっと存在が大きすぎるというか。存在が大きすぎるなんて言い訳がましい、とにかくビビっているのだ。
そんなわけで、ときどきインド料理屋へ行きカレーを食べながら、ときどきCD屋のインドコーナーをのぞきながら、「いやー、インドは分からん」などと言っている。ときどきインドについて書かれた本なども読むが、それもいたって消極的な選択である。

最近読んだ本でいうと、まずはキラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』。ちょっと前の『ムトゥ』ブームを思い出させる本である。主人公はぐうたら者の郵便局員。何もかも面倒くさくなって、グアヴァの木の上で暮らしはじめるのだが、なぜか聖者扱いされて大騒ぎになる。愉快な話で、ラストなどは実にそう快な感じであるが、小説としての出来はイマイチ。間延びしている。サルマン・ラシュディなども誉めているようだが、これも小説の出来自体をというより、こういう小説が書かれ、受け入れられる状況そのものを歓迎している、という感じだろう。
もう一冊は同じ新潮社の「クレスト・ブックス」から出ている『停電の夜に』。前著とは対照的に、こちらは小説として実にクオリティーが高い。オー・ヘンリー賞受賞というのが、いかにも似合う、佳品ばかりを集めた短編集である。欧米に暮らすインド系の人々が登場し、ちょっとした文化の摩擦と、普遍的な人と人とのすれ違いを重ね合せた話が多い。
中身は対照的であるけれども、実はどちらも英語を母語としたインドの女性によって書かれた作品である。これを敢えてジャンルと呼ぶならば、少し前に出たアルンダティ・ロイ『小さきものたちの神』(DHC、2300円)もこれに入るし、ちょっと違うけれどもパキスタン出身の文学研究者サーラ・スレーリの自伝的エッセイ『肉のない日』(みすず書房、2800円)などもこの「ジャンル」の佳品といえるかもしれない。
いずれにしても、「西欧人の目で書かれたインド」と「インド人の目で書かれたインド」の間くらいに位置する彼女らの物語に、なぜか惹かれる。もしかしたら、それはインドそれ自体への興味とはちょっと違うんじゃないだろうかとも思うのだが。

さらに、インド関係(?)の本で最近読んだのは、メキシコのノーベル文学賞受賞詩人・オクタビオ・パスが書いた『インドの薄明』。メキシコ大使としてインドに数年滞在したパスのインド観を綴ったもので、面白いのだが、翻訳がひどい。パスの著書はたいてい翻訳が読みにくいといわれるのであるけれども、中でもひどいものの一つだろう。、スペイン語で読むと実に明快な印象を受けるのに、とも思うが、確かに詩人ぽい感覚的な物言いが多くて、翻訳すると訳が分からない、という理由は実によくわかるのだけれど。
パスのインド論を読むなら、ずいぶん昔に翻訳が出た『大いなる文法学者の猿』(新潮社)のほうがまだよいかもしれない。本当はこっちのほうが訳の分からない本なのだけれど、翻訳はいい。
こういう本を読むと、何となくインドが分かったような錯覚を楽しむことができる。でもやっぱりそれは錯覚なんだろう。パス本人のインド観の善し悪しはともかく、「薄明」というタイトルが示唆する通り、この本の中でも、インドという国の像はどこまでもぼんやりとしていて、詩人はそれを楽しんでいるという感じなのだ。ある意味では世界のなかで、インドという場所は常にそういう役割を担わされてきたともいえる。もうひとつの世界、神秘と混乱のイメージ。
そんなことを考えだすと、僕のインドへの興味はまさに、こういうイメージを一方的に押しつけて遠くから楽しんでいるという、最悪のものかもしれないと思えてくる。
机の上に置いてあってずっと読んでない本のなかに、さきほど少し触れたサーラ・スレーリの植民地インドの表現をめぐる評論『修辞の政治学』がある。たぶん、これを読むと、僕が書いたようなうやむやが少し明らかになるのではないかと期待しているのだが、分厚くて、なかなか進まない。帯には「逃れ去るインド」とある。
文化の多様さを捉えようとする試みは、いつだって失敗してきた。これからもそうだろう。その試み自体が多様さに対する邪悪な挑戦状であることも多い。でもだからといって、それはなくならないし、これからも人はそのために右往左往するに違いない。
なんといっても、文化は安定したものではありえないのだ。生き物のようにたえず変化しようとしている。そんな力を、インドから外に出た女性たちも、メキシコから外に出た詩人も、意図的でないにせよ、証明している。僕がどんなインド音楽を聴こうと、「これがインド音楽」ということなど有り得ないのだ。これかな、思った瞬間に、インドは遠くのほうまで走っていて、あっかんべーをしている。


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