セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』

セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』
(2000年12月、ペトロフ=守屋愛訳、成文社、2200円)

日常に戻る前に

本はもちろん面白そうだと思って買うのだが、それが裏切られぬままさっと読み、本棚に消え、やがて記憶からも消えていくような本というのは、実は少ない。 さっと読まれるためには、面白いだけでなく読みやすい本でなくてはならない。また、やがて忘れられていくには、控えめな、日常的な内容であることが必要 だ。
面白くて、読みやすくて、控えめで、実にまっとうな本。それが僕にとってドヴラートフの小説のイメージだった。そんなわけで、新刊『かばん』を本屋で見つけると、一秒も悩むことなしにレジへと持っていったのである。
家に帰ってみると、もうひとつの邦訳『わが家の人びと』はいつの間にか本棚から消えてなくなっている。英語版の『妥協』は見つかったが、どちらもストーリーがなかなか思い出せない。とにかく面白かった記憶だけはあるのだが……。
『かばん』を数行読みはじめて、すぐに「あ、これだ」と思い出した。ストーリーではなく、「面白い」の中身である。でも、それを言葉にして説明しようとすると、難しい。やはり「控えめな、実にまっとうな」だろうか?
スタイルはいたってシンプル。語り手の記憶力がいいのか、話をでっち上げるのがうまいのか、疑いつつも引き込まれてしまうような。いわゆる話し上手という 感じなのだが、それだけではない。昔語りは饒舌になりがちだが、語り手の脱線ですら計算し尽された感がある、ひどく完成度の高い文章なのだ。
話の中身もいたってシンプル。スーツケース一つで旧ソ連からアメリカに亡命してきた語り手が、持ってきた「かばん」の中身ひとつひとつにまつわる古い思い 出を語っていくという構成。ソビエト時代の馬鹿げた日常に対する語り手の怒りや嘆きが、懐かしい過去として語られるとき、なぜか奇妙な輝きをもって見えて くる。読みながら、何か生きる勇気さえ与えられる。
現在につながる過去ではなく、過去をただ過去としてとらえる。それが出来ることほど幸せなことはないのかもしれない。亡命して故国を離れるということは、それ自体悲劇的なことだけれども、ここに描かれた過去のなんと美しいことか!
そんなこんなで、あっという間に『かばん』を読み終わってしまった。きっとすぐにストーリーも何もかも忘れてしまうだろう。なんといっても、私たちはこの本に描かれているのと同じ種類の日常を、今も生きているのだから。
ドヴラートフの次の翻訳が出るのはいつだろうか。きっとすっかり忘れた頃だろう。


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