小沼純一『サウンド・エシックス』

小沼純一『サウンド・エシックス』
(2000年11月、平凡社新書、760円)

死ぬ前に聴きたい音楽

学生時代の飲み会などで(だれたときの)定番の話題として、「明日死ぬと分かったら何をする?」とか「死ぬ前に何を食べたい?」といったものがある。「死ぬ瞬間にかけるとしたら、どんな音楽をかける?」というのもその一変種だろう。
確か、しりあがり寿が『瀕死のエッセイスト』というマンガで描いていた。死を意識した病人が、この悩ましい問いを考え抜いたあげくに、結局、ピンク・フロイドの「エコーズ」を選ぶのである。ジョン・レノンの「イマジン」もいいけど、あまりにも短すぎるから、とかいう理由だったように記憶している(「エコーズ」は長い)。

『サウンド・エシックス』はある意味で退屈な本だ。少なくとも、ある程度「音楽論」に親しんでいる人にとって、新しい発見はほとんどない。むしろ当たり前の議論を当たり前のように紹介しながら、音楽に対する「問い」を連ねている。それに対する明快な解答も、うきうきするような仮説も与えられず、音楽というこの捉えがたい現象を、ただ「問い」を連ねることで浮き上がらせようとする、そんな試みといっていいだろう。
あとは読者に委ねられている。一種の教科書なのだ。教科書というと、何かを教えてくれるものと思われがちだが、そうではない。よい教科書は、何が分からないかを教えてくれるからこそ味気なく、夢いっぱいの学生をがっかりさせるのだ。
たとえば、音楽の複数性について。かつて音楽は単数形でしかありえなかった。けれども、現代において「音楽の知」は無数に存在する。それは実に当たり前の議論だ。だが、一人の人間が複数の音楽を認めること、楽しむことがよいことなのか。あるいはそれは「本当に」可能なのか?(違う文脈のなかにある音楽を聴いた時、人は常にそれを「誤解」しているのではないか?)
あるいは、どこまでが音楽なのか。着メロとか、駅のプラットフォームに流れる発車音(?)が話題にのぼっているが、「それもまた音楽である」というのは簡単だ。でも、むしろ「音楽ではない」と人が判断するときのほうを、考えるべきなのではないだろうか? 着メロは明らかに人間のほうで「何かを補って」音楽として成り立っているわけだが、それが音楽として認識できないとき、一体それは何なのか?(「ワン・ノート・サンバ」の着メロを聴いてみたい!)
遠くから聞こえてくる音楽のことがちょっと触れられている。一体、なぜ遠くで聞こえるお祭りの「狸囃子」は美しいのだろう? なぜ近くへ来るとがっかりするのだろう? それだけで、ちょっとした音楽論を展開できそうな気がする。
時間と音楽について。音楽は確かに時間に従属しているけれど、頭のなかで音楽が鳴っているときは、一体どうなっているのか? 一瞬にして曲ができあがる、なんていうエピソードは、あれはどういうことなのか? 確かに頭のなかでは、時間が歪曲されている気がする。
そんなわけで、本の一部を読んだだけでも、疑問やら異論やら、とにかくたくさん考えさせられる。タチの悪い本である。著者の思惑通りというべきだろうか?
どうしても趣味が色濃く出てしまう、音楽という話題であるがゆえに、選ばれる固有名詞から著者の音楽的嗜好が見えてきたりして、これも厄介である。趣味の問題はさておいても、ポピュラー音楽の話題が少ないのは、この本の大きな弱点だろう。

ところで、この本のタイトルは『サウンド・エシックス』である。なのに、第10章では「音楽の倫理」となっている。細かい違いではあるけれど、ちょっと気になる。「音(サウンド)の倫理」と「音楽の倫理」では、言葉として印象も違うし、意味も違う。すべての音(サウンド)は音楽である、とは著者も言っていない(そういう考え方があるとしても)。だとすれば、その倫理だって違うと考えるのが当然だろう。
さて、その「音楽の倫理」について。著者は音楽に対して問いを積み重ねること自体、音楽の倫理を問うことなのだ、というようなことを言っているが、ややいい訳がましいかな、という印象だ。実際には、「倫理」について書いている部分は、最後の数ページにすぎない。

「音楽の倫理とはこうあるべきだと一言で言い表せるようなものではありません。しかしそれでも最後にひとつ述べておくとするなら、その倫理を成り立たせる最低限の基準、ひじょうにベーシックな行為とは、「聴く」ということにほかなりません」
「はかなく、すぐ消えて、もう戻ってこない音、音楽だからこそ、聴く力をつけ、広義の耳を鍛える――少なくとも、わたしはそれをつづけていきたいと思っています」

「音楽を聴く」を、他人の話に耳を傾けること、などの行為とも重ねていて、言葉としては美しい。でもこれって、どちらかというと音楽批評家としての倫理、あるいは決意なんじゃないの? というのが素朴な印象だ。あるいは、これはあくまでも「サウンド・エシックス」なのか。それならば、もう少しよく分かるような気もする。

「音楽の倫理」という言葉自体よく分からないが、この言葉を見て最初に思い浮かべたのが、例の「死ぬときに聴くなら、どんな音楽?」という問いだった。
よくよく考えてみると、これは映画とか絵画とか小説とか、他の芸術に置き換えてみると、いまひとつ成り立たない質問なのではないだろうか。物理的に難しい、というだけではない(そんなことを言ったら、食べ物も音楽も、現実に「死ぬ前に」を意識することなんてほとんど不可能だろう)。設問としてどれだけ意味があるか、ということだ。
(死ぬ前に「思い出したい」映画はあるかもしれないが、わざわざもう一度ビデオで観たい、というのはちょっと考えにくい。あの絵の前で死にたい、というのもちょっと性質が違う気がするし。小説に至っては、読み直していくうちに「やっぱ気に入らない」とか言いだして死ぬのをやめてしまいそうな心配さえある)
そう考えると、音楽は一般の人間にとって、むしろ食べ物に近いのではないか、と思えてくる。
「死ぬ前に食べたいもの」の一般的な答えは、カレーとかラーメンとか、白いご飯に味噌汁とか、そういうものだろう。稀に鮨なんて言う人もいるが、そういう人だって少なくとも年に数回以上(もっとか?)、鮨を食べている。飽食の時代とはいえ、人間(この場合日本人)の食に対する思いは、それほど変わっていない。死ぬ前に食べたいようなものを、普段から食べているのである。
何を言いたいかというと、私たちは今、死ぬ前に聴きたいと思うような音楽を普段聴いているだろうか? ということだ。私たちは、いつか飽きることを知っていて、あくまでもそれを前提に音楽をむさぼり食っているだけなのではないか?
音楽というのは基本的に、何度も聴いていると飽きるのだ、と言われるかもしれない。しかし、それはやはり聴きすぎなのだ。カレーを食いすぎて飽きるというのは、よい食べ方とは言えないだろう。美食(あるいは悪食?)の果てに「好物」を失うのも、不幸な話だと思う。
著者も音楽の「消費」について触れていて、なぜか『経済ってそういうことだったのか会議』から引用したりしているが、そういうことではない。もっと基本的な、音楽に対するつきあい方、節度のようなもののことを言いたいのだ(註)。
「サウンドに埋め尽くされた」現代の音楽状況をそのまま肯定し、それに謙虚に耳を傾けることなんて、僕にはできない。「死ぬ時に聴きたい」音楽を大切にすること、あるいはそれを探すこと、そのためには聴きすぎないこと。敢えて言うなら、それが僕にとっての「音楽の倫理」だ。

(註) ハンナ・アーレントは『人間の条件』という本のなかで次のように書いている。「世界とは、地上にうち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは消費される物でできているのではなく、使用される物からできている」。


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