小谷野敦『恋愛の超克』

小谷野敦『恋愛の超克』
(2000年11月、角川書店、1300円)

やっと出た? 恋愛イデオロギーへの反論

いきなりでなんだが、小学五年生のときに初めて失恋をした。そのとき、相手の女の子が言った言葉は、「あなたは二番目に好き」というものであった。小学生 ながら、恋愛の機微を熟知したかのような、あっぱれな対処である。実際、僕は嬉しいような悲しいような中途半端な思いを抱えながら、諦めた。このエピソー ドで何が言いたいかというと、恋愛というのは、実に厳しいものであるということだ。この場合はやはり、一番でなかれば意味がないのだ。小学生の僕は、二番 目とその他大勢は基本的に同じであると、漠然と感じていたわけだ。
差別ということを考えるのであれば、恋愛における差別はかくも厳しい。もちろん人によって、その線は一番と二番の間にあるものだけではない。「恋愛対象」 になるか、ならないか。セックスをするか、しないか。この区別は個人的なものではあるけれども、社会全体のなかでは厳しい競争と差別構造となる。「恋愛が したい」「恋人がほしい」「愛のあるセックスがしたい」(あるいは単に「セックスがしたい」も、恋愛とセックスがこれほど不可分に結びついている状況で は、ほとんど同じ)などと考えている以上、この厳しい現実からは逃れられないのである。
さて、この本の著者は、恋愛の世界における弱者は恋愛などしなくてよろしい(したい人はすればよい)、世の中には、恋愛をせよと強迫するメッセージが多す ぎる、と主張する。そして、この「恋愛をしなくてはならない」というイデオロギーは資本制にとって都合のよいものであり、それにはフェミニストも含めてほ とんどあらゆる言論人が荷担してきたことを明らかにしていくのである。
小谷野氏の文章は、本人が認める通り、決して流麗な文章とはいえない。しかし、実に面白いものであることは確かだ。上のような主張も、本人が恋愛イデオロ ギーの影響をもろに受けて、「もてたい」「恋愛がしたい」「恋人がほしい」と願っている(願っていた?)からこそ、読み物として面白いのであって、達観し た人が「恋愛など不要だ」と言ったところで、これほど迫力のある文章にはならないだろう。恋愛イデオロギーから抜け出せないフェミニストたちへの非難もま た、妬みと歪んだ愛情を適度に隠さず(日本語がちょっと変だが)、実に愉快だ。

この本の中で扱われているホットな話題といえば、「ストーカー」と「売買春」であろうか。
ストーカーに関しては、「もてない男」を看板に掲げてきた著者だけあって、一種の共感さえにじむ。恋愛のほとんどが「片想い」であり、もちろんその背後に はマンガ、映画、小説、ポピュラー音楽など、あらゆる表現が宣伝してきた「恋愛至上主義」がある。世の中は片方で、狂ったように相手を恋することが素晴ら しい、と言いながら、その想いを無視して「ストーカー」を傷つけた「被害者」の非は問わず、一方的な想いにより迷惑をかけた「ストーカー」を裁くのであ る。まあ、当たり前といえば当たり前であるが、多少なりともストーカー的恋愛に覚えのある人間なら、最近のストカーに対する風当たりの強さ(「それってほ とんどストーカーじゃん」などの軽い発言を含め)には、やや脅威を感じるのではないだろうか。
ここで問題になっているのは、ストーカーがよいか悪いかではなく(行為によってはもちろん犯罪だ)、「恋愛は素晴らしい」という考え方に潜む欺瞞のようなものだ。そこには、明らかに恋愛における「弱者」への視点が完全に抜け落ちている。
一方、売買春についてはもっとややこしい。この本ではまず売春者に対する「差別」が問題になる。簡単に結論を言えば、自分が親になって子どもに、どうぞ売 春を職業にしなさいと言えるのでなければ、売春者を差別していないなどと言う資格はないということである。それが出来ずに「売春者に対する差別をなくそ う、だから合法化しよう」というのは筋が通らない。一方で、売買春反対の立場であるはずのフェミニストたちも、どこか歯切れが悪い。もちろん、家父長制度 とそれを支えてきた「対幻想」という愛のイデオロギーを批判しつつも、どこかで恋愛イデオロギーに引っかかっているからこそ、フェミニストも「愛のない セックス」を売り物にする売春者を差別している。それでいて彼(女)らは差別という言葉に弱くて、だからこそ分かりにくい議論が横行する。そのあたりを小 谷野氏は実にうまく整理してくれている(僕の紹介では分かりにくいばかりだが)。

そんな訳で(どんな訳か?)、小谷野氏の主張は「恋愛しなければならない」という抑圧を減らせ、ということと、結婚と恋愛をセットにすることをやめ、「友 愛結婚」みたいなものを認めろ、ということになる。結局は結婚制度はあったほうがいいんじゃないか、というところでフェミニズムの主張とは大きく異なる。
このあたりまで、僕は賛意を表明したい。といっても、厳密な論理的帰結というより、一種のバランス感覚においてである。世の中には恋愛礼賛の声が大きすぎ るし、一部フェミニストが描くような「フリーセックス」的な男女関係も(しかも恋愛付!)、どこかグローバルスタンダードみたいで気持ちが悪いからだ。結 婚がどうしても必要なものとは思わないけれど、まああったほうがいいんじゃないか、という気がするのだ。
ところが、この本はここで終わらない。話は資本制はおろか、国家論にまでおよび、擬似的かつ総合的イデオロギー(そんな言葉があるかどうか知らないが)を 提案するに至るのだ。曰く「新近代主義」だそうだが、その宣言がおごそかに(もちろん著者の面白半分は見えるのだけれど)とりおこなわれる章にきて、つい ていけなくなった。
この本を最初から読み進めていくと(あるいは、小谷野氏の著書を順に読んでいくと)、まず著者の「もてない」ことへの恨みがあり、そこから社会の矛盾に気 づき、やがてついには国家は、世界はこうあらねばならぬ、という結論に達した感じがする。そのあたりを小谷野氏は、逆に恋愛論は「この思想から導き出され た」などと言っているが、もちろん本気かどうかは怪しい。
ともかく、天皇制廃止、九条廃止、正式な日本軍を持ち、とまあ各論には触れないが、彼は本気でこれから国家論やら国際政治やらに足を踏み入れるつもりであ ろうか。僕には、発言しているうちに、全ての発言に整合性を持たせ、まとまったイデオロギーとして呈示したがる、知識人特有の誇大妄想にも見えるのだ。も ちろん、それも戦略ですよ、と言われる可能性もあるが。なんにせよ、この「新近代主義」は余計としか思えない。


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