リー・ソトリンガー著『グランドセントラル駅・冬』他

リー・ストリンガー著『グランドセントラル駅・冬』
(中川五郎訳、2001年11月、文芸春秋、2190円)

アメリカのまわりをうろうろする読書

本を読むことと書評を書くことはまったく別の作業なのだけれど、それがだんだんそうじゃなくってくる、というお話。結論を先に書くと、書評はあまりたくさん書くべきではない。たくさん読んだなかで、「お、これは」と思ったものについてだけ書くのがやはりベストだろう。

まず最初に読んだのは『グランドセントラル駅・冬』。ニューヨークの路上生活者が書いたという本だ。これがすごくよかった。書評を書こうかなと思いつつ、よい切り口がなかなか思いつかなかった。
そうこうしているうちに、続いて人に勧められた『ファストフードが世界を食いつくす』を読んだ。これも全然別の意味で大変面白い。とはいえ、ちょっと前 に出た本であるし、内容を紹介するだけではつまらない。どうしようかと思っているうちに、ふと思いつく。ファストフード産業についての本であるけれども、 原題はFast Food Nationである。もちろん、このネイションはアメリカ合衆国だ。もう一冊読んで、いっちょアメリカのことでも書いてやろう。
アメリカといえばやっぱディズニーである、ということで(なんといういい加減な)買った本が『ディズニーとは何か』。前の二冊ほどではないが、不純な動 機で買った割には、楽しめた。ついでに本のなかで紹介されていた『南部の唄』という黒人差別で問題になったディズニー作品も見て(これはイマイチだっ た)、準備は整った。さあ、あとは書評を書くだけだ。

僕が思い描いた筋書きは大体こんな具合である。
普通の人が考える「アメリカらしさ」のほとんどは、「大衆文化」と言い換えられるんじゃないか。ディズニーの何がアメリカらしくて、何が大衆文化的なの か。それを問うのは難しいけれど、ディズニーの歴史をひもとくと、アメリカの産業史とパラレルにこの「アメリカらしさ」が作られていった経過がなんとなく 見えてくる。
そして「アメリカらしさ」がダイレクトに世界に対して影響するのは、娯楽よりも食文化を通してだろう。もちろん、コカ・コーラやマクドナルドのハンバー ガーなんかを通してである。ここでも「アメリカらしさ」は、ある恣意的な歴史によって作られたものであり、ハンバーガーやフライドポテトの「アメリカらし さ」には文化と産業が分かちがたく結びついた独特の意味内容を持っている。
だからこそ、「アメリカらしさ」は海を超えて世界を席巻しているのだ。それは決して単なる二つの文化の争いではない。アメリカ文化優位に進められるアン バランスな戦いですらない。それは常に何か違う次元のものとして僕たちの生活に入り込む。この「アメリカらしさ」は一種の発明なのだ。
ざっとこんなところまでは、なんとかまとまりそうに思えた。

問題は最後に『グランドセントラル駅・冬』をどう位置づけるかであった。世界経済の中心たるニューヨークの路上生活を描いたこの本をある種のアンチテーゼとしてもってくるのはよいとして、一体これはアメリカ的なのかそうじゃないのか。
カート・ヴォネガットも賞賛するこの著者の文才を、むしろ「本当の」アメリカ文化の最良の部分として考えるのか、あるいは上でまとめた「アメリカらしさ」と戦う最前線の闘士として取り上げるべきなのか……。
そんなことを考えていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。結局、どちらだっていいのだ。どちらを「アメリカらしさ」と捉えたところで、自分の尻尾をつかまえて走っているようなものだ。
大体、アメリカのことを書くのに、本三冊で十分なわけがない。
アメリカのことを書くのに、実際に住んだ経験のことは書かなくていいのか。
ディズニーのことを書くのに、好きなドナルドダックの『三人の騎士』のことは書かなくていいのか。
ファストフードについて書くのに、自分がかつてマクドナルドで働いた経験のことは書かなくていいのか……。
アメリカをめぐる僕の考えはひたすら空転した。

想像していた以上に、僕はアメリカのなかにどっぷり浸かって生きているようだ。アメリカに関する問いは単純ではない。それはたとえばアメリカという国が なかったとしても、きっと「アメリカらしさ」は存在するだろうということでもあるし、自分がすでにかなりアメリカ人である、ということでもある。批判はす ぐにすべてのものに、とりわけ自分のほうへと向かってくる。
アメリカ人の多くがほとんど世界=アメリカ合衆国という宇宙観(?)を持っていたのに僕は驚いたけれど、それはある意味で真実をついているのかもしれない。今や世界にはアメリカが濃い場所とアメリカの薄い場所があるだけなのかもしれないからだ。

そんな訳で(どんな訳か?)、三冊の本を紹介しながらアメリカについて考察するという大それた野望はもろくも失敗に終わり、結局、無理をしてたくさん書 評を書くべきではない、という教訓だけが残った。そして冬季オリンピックがアメリカで開幕し、僕はいかにも「アメリカ的な」演出に文句を言いながらそれを 見ている。
そんなことはともかく、せめて『グランドセントラル駅・冬』の面白さだけでもちゃんと伝えられなかったのか。非常に残念な気持ちでいっぱいである。


宮崎賢太郎『カクレキリシタン』 他

宗教のまわりをうろうろする読書

日本の総宗教人口は二億人を超えるらしい(宗教団体による申告の合計)のに、まわりに宗教に熱心な人を探すのは難しい。
このあたりの事情や原因は、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)なんて本が上手にまとめているが、簡単に言えば、「宗教」という言葉の 使い方には大きなブレがあって、それがそのまま数字に出たのが先の統計と実感の食い違いといえるだろう。ほとんどすべての人が初詣に出かけて景気回復を祈 り、クリスマスを祝う賛美歌を美しいものと感じる一方で、日本では「宗教」にどこかタブーともいえる側面があるのだ。
けれども「宗教的なもの」の範囲は実に広い。どんなに合理的で進歩的な考え方と生き方を求めたとしても、これから逃れることはできないだろう。
宗教を考える上で大事なのは、いかなる意味においても線を引くことではない。宗教というものの境界の曖昧さ、差異ではなく類似性、そして動きつつある宗教を観察することなしに、何かを決めつけたところで、得るものはほとんど何もないだろう。
だとすれば、もしかすると僕たちは宗教というものを考えるうえで格好の場所にいるのかもしれない。宗教に対する無知は自慢できない汚点だとしても、日本 には、宗教と宗教でないものの接点で溢れている。無数の神々の「るつぼ」と化したこの国には、「正しい宗教」など決して存在しないのと同時に、政教分離が うまくできないほど、実は宗教にべったりだ。
あらゆる矛盾のなかで宗教というものを問うことは、終わりのない作業になる。でもそれはたぶん人間の文化が作ってきた最良の成果(そしてたぶん最悪の成 果も)へとつながっているのだ。「宗教」が問題になっているから宗教を問うのではない。人間は宗教的な生き物だから、宗教が最大の問題となり、宗教を問わ ねばならないのだ。

『カクレキリシタン』は地道なフィールドワークの報告を主体にしたとても地味な本である。何かとロマンティシズムをかき立てがちなその存在を、彼らがもは や「隠れ」てもいないし、(狭い意味での)キリスト教徒でもない、というクールな視点で捉え直している。そこに浮かび上がってくるのは意外にも、ある意味 でごく典型的な日本的な宗教感覚である。
民俗宗教としてのカクレキリシタンの豊かな世界がこれほど僕たちの「腑に落ちる」のは、キリスト教という知識(あくまでも知識でしかない)が介在してい るからかもしれない。キリスト教を間に置くことで、日本的なものがよく見える。著者も指摘する通り、我々は日本人が「日本仏教」を信じ続け、原始仏教に回 帰しないことには何の疑問も抱かないが、解散したカクレキリシタンがカトリックに「戻らず」、仏教や神道に入ることにはどこか違和感を感じる。その違和感 のなかにこそ、日本的な宗教感覚を相対化する近道があるように思えた。
多神教的な感覚、先祖崇拝、呪い的な儀式、なんて言葉にするとつまらないが、個々具体的な記述はとても興味深い。
そして何より、カクレキリシタンが急速に減少し、その組織が次々と解散していく事実は、宗教とはまずもってコミュニティーの問題なのだということを改め て教えてくれる。どんなコミュニティーを作るのか、それこそが宗教の根本的な問題であったのだろうと、気づかされる。
個人の信条、信仰、信念が重要なのはもちろんだが、少なくともそれだけが人類の宗教を作り出してきた原動力なのではない。先に触れたカクレキリシタンが仏教や神道に入る、ということの説明もこの点にある。彼らの選択はコミュニティーの選択なのである。
こう書くとやや極端だが、もちろんこれは僕がこの本を読んで特に強く感じた点だ。もしかしたら、読む人によってはやはり、数百年を超えて受け継がれた信 仰の強さに感心するのかもしれない。それはそれでもちろん正しいのだ。けれども、この本は一人一人の信仰の強さ、内面といったものには敬意を表してあまり 近づかないようにしているようだ。そういったものが好きな人は、たぶん遠藤周作の小説を読んだほうがいいだろう。

さて、江戸時代から明治時代に入って日本のコミュニティーは大きな変化を経験した。コミュニティーのニーズ(全体的にそれは薄まっていった)が変わっただけでなく、コミュニティーの変化に伴う個人の精神的なニーズも大きく変わった。
その変化のスピードについてこれなかった既成宗教の代わりに勢力を伸ばしたのが、いわゆる新宗教である。先に述べた日本人が宗教に感じる「タブー」の側面が強く投影されている部分がここにあると思われる。
建築史という分野で、そうした「タブー」のために(?)、これまで顧みられなかったこれら新宗教による建築に光を当てたのが『新宗教と巨大建築』である。新宗教への入門書としても、とてもよくできた本だと思う。
「宗教建築を素材にすれば、具体的なモノと言葉の関係が検証できる」と著者が「あとがき」で振り返っているように、モノを通して見ることで各宗教の教義や 歴史が具体化し、逆にモノとしての建築に与えられる言葉も、空疎でない実体をもったものになっている。どこかこけおどし的でスカスカになりがちな建築とい う分野の本のなかでは、珍しく内容があるといったら失礼だろうか。
とはいえ、宗教と巨大建築というテーマを、巨大なビルに宗教戦争が突入した(?)、ニューヨークのテロ事件に結びつけたり、安易な終末観に警鐘を鳴らし たり、文明の衝突を臭わせたり、各論を離れた総論になるとにわかにショボい記述が目立つ。地味なフィールドワークとマニアックな考察というレベルでとど まっているべきであったと感じる。また、建築史として取り上げるには歴史が浅くトピックが少ないからかもしれないが、創価学会に割かれたページが少ないの もちょっと残念だ。それでも、天理教や大本教における空間のとらえかたを述べた部分などは抜群に面白いので、興味のある人はぜひ読んでほしい。

最後に、普通は宗教とは呼ばないテーマを扱った本。『ワンダーゾーン』はまさに宗教すれすれ、現代日本人の宗教感覚において、タブーと切実なニーズの境目を描こうとしたノンフィクションだ。
テーマは「自己啓発セミナー」「前世療法」「チャネリング」「πウォーター」……。こう書くとなんとも興味深い話ばかりではないか(と書く僕は典型的な現代日本人だ)。
さて、内容も面白いといえば面白いのだが、本としてはやはりイマイチであったと言わなければならない。このテーマだったらもっと面白くなくてはならないのである。何が面白くないか、一言でいえば、著者のスタンスがはっきりしすぎているからであろう。
こうした「胡散臭い」ものを語るとき、もしかしたら本当かもしれない、という自己暗示は不可欠である。これがないと安易な批判になってしまうのである。 本人は抑えているつもりなのかもしれないが、それでも最初から批判的な視線がバレバレである。どうしたってしらけてしまうのだ。もちろん、安心して読書を 楽しみたいというお気楽な向きにはお勧めである。
それでも実は、著者がセミナーに参加した最初の章と、インターネットの復讐代行業が登場するごく短い最終章はかなり面白い。前者は、読者も驚く悪人ぶり を発揮する著者の様子が可笑しいし(かなり本気だったらしい)、体験を消化しきれてない感じを率直に書いているところがよい。そして後者はこの胡散臭い代 行業者に対するある種の共感と抗いがたい魅力を著者が感じているからこそ、何やらよく分からないが人間の真実に触れるような面白さが出ているのである。

ところで、三冊の本を読んだ順番は、紹介順の逆だ(後から読んだ本によって、前に読んだ本の理解が深まるのは読書の常。順番はあまり重要ではない)。
『ワンダーゾーン』の著者は「現代人の依存心」を最大の問題と見ているようだ。僕はこれに違和感を感じたのだけれど、それが何なのかは分からなかった。三 冊の本を読んで問い直すべきだと感じるのは、人間の心のなかにあらゆる原因を探っていくという考え方そのものである。「依存心」があるとすれば、その人の 心のなかに何か原因があるのだろう、と考えるのが普通かもしれない。たとえば、「アダルト・チルドレン」なんていう言葉はその考え方がどんなものかを示す 最たるものだろう。
だが心というのは、現代ふつうに考えられているよりも、ずっと「空っぽ」なのではないか。空っぽだからこそ、コミュニティーが必要だし、神様の形が欲しい。それはすごく当たり前のことではないか。
心の問題を問うときに、その中に踏み込んでいこうとするのは方向が間違っているのではないだろうか。そういう意味で、『ワンダーゾーン』という本の中途 半端さは際立っている。何か問題があるようだ、と思ってそこに首を突っ込むと、そこにあるのは空虚だけ。問題の核心はおろか、そこで何が起こっているのか という大雑把な把握さえできない。現場にいる個人への虚しい攻撃が行われるだけ。でもこの著者だって分かっているのだ。問題の一部のなかに自分も生きてい ることを。
そういう意味で、何をどれだけ意識していたかはともかくとして、形に向かった前の二冊は実に正しかったのだと思う。心の闇が問題になるのは、心に集中し すぎるからかもしれないのだ。心を大切にし、心の価値を称揚し、心と心のつながったコミュニケーションを夢見る。病んだ心を見ると、その心にまっすぐぶつ かっていこうとする。敢えて乱暴な言い方をすれば、心を重んじすぎるのは現代人の悪い癖だろう。
形のなかに魂が宿るなどという陳腐な言い方をするまでもなく、目に見えるはずのない心をとりあえず離れる視点は重要である。実際、『ワンダーゾーン』と いう本は、金の動きとか勧誘の方法だとか、もっとしつこく深く取材すれば、より面白い本になったのは間違いないのだ。


モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
(2001年11月、武井みゆき・渡部良子訳、現代企画室、1300円)

嘘のなかにある希望

事件の大きさに比例して、言葉は増える。
今年九月一一日にニューヨークで起きた事件についても、もちろん多くのことが語られてきた。知識人と呼ばれる人から、新聞の投稿欄、果てはインターネッ トの掲示板まで。あらゆる種類の人々が意見を述べた。もちろん意見を言った人が悪いのではない。人々はさまざまな意見を求めていたし、不安だった。誰かの 「説明」を待っていたのだ。
この言論の洪水のような状況の特徴は、意外にシンプルである。言葉の量や話題のホットさとは裏腹に、新しいものは何もないということだ。この新しい状況について語る言葉はすべて「古い言葉」なのだ。
考えてみれば当たり前だ。崩れ落ちる二つの超高層ビルの映像を見て、何かを知ることなど誰にもできない。不可解なものを見たとき、人はなんとか自分の 知っている知識でそれを解釈しようとする。テレビの前で呆然としていた僕たち「一般人」も、世間で尊敬される知識人も、その点ではまったく同じなのだ。
驚きから我にかえって話しだす言葉は、馴染みの古い言葉だ。護憲論者は今こそ憲法が大切だと言い、改憲論者はやっぱり改憲だと言い、文明の衝突論者はこ れこそ文明の衝突であると言い、メディア論が得意な者はなぜかメディア論を語りだし、経済の先行きを懸念していた者の懸念はさらに増す。何も変わらない。 変わったのはボリュームの大きさだけだ。それまでも知っていたことを語り、それまで考えていたことを、誰もがこの機会を利用して語り直した、というわけ だ。
そんな訳だから、この一連の事件に関連して出された出版物のなかで、ぜひ読まれるべきであると僕が考えるこの本が、実は事件よりも前に書かれたものであるというのは、ある意味で象徴的だ。
素晴らしいタイミングでこの本が書かれていた、というのは簡単である。
だが大事なのは、どちらが「偶然に」起きた出来事であるかを、見誤らないことだ。書かれる「必然性」があったからこそ、この本には意味がある。テロ事件 という「機会」を利用した文章とは本質的に違う。みんなが待っていた「誰かの説明」はもうすでにあったのだ。そこに偶然、あの事件が起きた。今は、そう考 えたほうがむしろ正しい、とさえ僕は思うのだ。
というのも、今のところニューヨークのテロ事件そのものはかなり「訳の分からない事件」であるにもかかわらず、それに対してアメリカ合衆国をはじめとす る各国の対応は、非常に分かりやすいものであった。では一体、僕たちは何に目を向けるべきか(何を知るべきか)といえば、それは、やはりアフガニスタンな のではあるまいか、と思うのである。
僕たち「一般人」がほとんど何も知らない国。この本の著者である、隣国イランの映画監督でさえもが「イメージのない国」と呼ぶアフガニスタン。あのとんでもない事件が指さしたのは、なぜかこの「イメージのない国」アフガニスタンだったのである(*注)
この本のタイトルにある「仏像」はタリバーンが爆破して有名になったあの仏像だ。マフマルバフは、仏像が飢餓と貧困で瀕死の状態にある国(アフガニスタ ン)を「指さして」みずから崩れたのに、「誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指せば月でなくその指を見るのだ」と書く。
皮肉にもついに二つの超高層ビルが崩れ落ちるに至って、とんでもない形で「仏像の指の先にあるもの」は明らかになったのかもしれない。
アフガニスタンという国が今どんな状況にあるのか。想像を絶する飢餓と貧困、恒常化した内戦状態。それだけを綴った文章であるなら、類書はあるだろう。 この本で特筆されるべきなのは、「イメージのない国」アフガニスタンに、映像作家ならではのアプローチでなんとかイメージを与えようとする努力そのもの だ。
(そういう意味でも、この本はマフマルバフが撮ったという『カンダハール』という映画とセットになったものだろう。僕はまだこの映画を見ていない)
「イメージ」というのは、言い換えれば「嘘」という意味でもある。たとえば仏像が破壊された、というのが「事実」だとすれば、それを「恥辱のあまり崩れ落ちた」などと言うことは、イメージでしかなく、「嘘」であるとも言える。
だが、そのイメージでさえ、「嘘」でさえ存在しない国の悲惨さは耐え難いものであると、マフマルバフは言いたいのではないか。ステレオタイプで語られる ことさえできない、忘れられた、見えない国。そしてその悲惨さを救えるのは、イメージそのものでしかないという認識。
もちろん、映画に何ができるのだ、といえばその通りである。マフマルバフはまさにその点について繰り返し絶望している。ある意味でこの本のテーマは絶望の表明なのだ。

「街道を眺める。これはこれ自身で、一つの映画だと思う。運転手は、この当たりのいくつかの家ではひそかに女子学校が作られ、何人かの少たちが家で勉強し ていると言う。私は思う。ここにもまた一つの映画の題材がある。私はヘラートに辿り着く。女性がブルカの下からマニキュアをしてもらっているのを見る。私 は思う。ここにもまた別の映画の題材がある。危険なアフガニスタンまで人の役に立ちたくてやってきた一九歳のイギリスの少女に会う。ここにもまた別の映画 の題材がある。(中略)いまにも死にそうな人びとが、通りを覆いつくしているのを見た。もはや言うことはできなかった。ここにもなた別の映画の題材があ る、と。映画を辞め、ほかの仕事を探したいと思った」

だが、「嘘」であるイメージを取り戻さないことには、何かに希望を持つことさえできない。マフマルバフが映画を撮りつづけ、文章を書く理由は、まさにこの一点にあると思われる。
彼の映画は二作しか見ていないが、フィクションとノンフィクションの境界を意識的に取り扱っている作家だという印象をもっている。言い換えれば、「事 実」とされるものと「イメージ」のあいだの曖昧性である。その間隙を名人芸によって描いて、最終的には「嘘」としての映画を、イメージそのものとして観客 にぶつける、その手腕は見事だ。
王政打倒を目指して地下活動中、警官の銃を奪おうとして失敗した若き日のエピソードを映画化した『パンと植木鉢』はまさにそんな映画だった。当事者同士の認識の食い違い。そして、過去の「再現」という作業に入り込む現在という時間。その複雑なパズルを解き明かすラストシーンの美しさは、とても言葉では言い表せないものだった。
唐突に現れたパンと植木鉢という「イメージ」。それはマフマルバフの「嘘」であるとともに、どうしてもそうでなければならない、世界への希望であった。若い男女が差し出すのは、銃やナイフではなく、パンと植木鉢でなければならないと。
苦渋に満ちたこの本は、まさにその希望がいかに小さなものかを、延々と書き連ねた本であると言えよう。ここではマフマルバフは純然たるノンフィクション を目指しているように見える。悲惨を表現するのに、数字を羅列することしかできない、という映画監督の嘆き。
だが『カンダハール』という映画が撮られたこと自体、それがどんなに小さなものであっても、希望が決してなくなってはいないことを示しているのではないか。世界に対して映像を、イメージを差し出すという行為そのものが示す何かを信じたい。
この小さな本とともにマフマルバフの映画がより多くの人の目に触れることを願ってやまない。

(注) ある友人から次のような批判をもらった。「テロ事件とアフガ ニスタンの問題は本当に関係があるのか。アメリカがアフガンを指差したときに世界はアメリカの指を見てただけなのではないか」。そう言われて読み返すと確 かに筆がすべっていると感じる。ここで語りたいのはあくまでもアフガニスタンの問題であり、テロ事件のことではない。テロの原因や解決をアフガニスタンの 国内問題に関連づけるのは間違いである可能性が高いと僕も思う。


アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』
(2001年9月、千野栄一・姫野悦子訳、集英社、1800円)

悪すぎた時間

読書にはタイミングというものがある。
たとえば恋愛小説を読むとき、読者自身がどんな恋愛状況にあるか。それによって評価が変わってしまうのでは困る、と思う人も多いかもしれない。
でも僕はそれを不可避と考えるし、仮に個人的な感情を離れた客観的評価なるものがあったとしても、そんなものには興味がない。現実世界で嫉妬に苦しんで いる読者が、ひとまずそれをおいて小説のなかに描かれた嫉妬を「平気で」読むなんて、ナンセンスだ。フィクションの独立性というのは、そういう意味ではな いと思う。現実と区別がつかないくらいのめりこんでこそ、フィクションの醍醐味が味わえるのではないか。
したがって読書のタイミングは重要である。次に読む本は何にするか。そこからすでに読書という行為は始まっている。どんな本を選択するか、も含めての読書なのである。
そんな訳で以下は、読書のタイミングを間違えた、という報告にすぎず、とりあげる本の客観的な評価からは、ほど遠いものであることをまず述べておきたい。

そもそもなぜこんな本を買ってしまったのか。
その理由は容易に想像できる。チェコ語のユダヤ系作家という点に興味をもった。装幀が気に入った。長すぎず、ちょうど読みごろのサイズと思った。などなど。
しばらく積んでおいたのを数日前にふと読みはじめたのだが、すぐに思った。
なぜ僕はこんな本を読んでいるんだろう?
強制収容所の最高司令官の道化師として生き延びた男たちの運命。イェルサレムに辿りついた彼らはやがて、「人間は神のためにつくられた道化師にすぎないのか」という問いに行き着く。
『宮廷の道化師たち』の粗筋はこんなところである。シンプルで無駄のない文章。計算されつくした語り。拍手。
確かに、途中で飽きるような要素のない、よくできた小説である。その証拠に、最後まであっという間に読んでしまった。しかし、面白いとか面白くないといかいう以前に、自分にとって今どうでもいいものを読んでいるな、という感覚は致命的だ。

今イスラエルで起きつつある出来事が頭の隅にあったのも事実だ。被迫害者としてのユダヤと、現在の「ユダヤ国家」のあいだにある断絶は何なのか。その問いにもかすかに触れるはずのこの小説だが、やはりどこか違う方向を見ている。
主人公の一人がアラブ人のテロによって負傷する場面は、ただ過去への入り口としてしか描かれない。
小説としては、それでいいのだ。そう思いながらも、どこか落ち着かないのは、やっぱり読むタイミングが悪かったとしか、言いようがない。
そして、この小説の重いテーマである、この世界が作られた「目的」。ユダヤ神学的な問いに、リアリティを感じられないのは僕だけじゃないだろう。唯一絶 対の神というコンセプトを共有しない人間にとって、神と強制収容所の最高司令官を重ねることは、よくできた冗談ではあっても、この身を震撼とさせる恐ろし い思いつきなどではない。
そしてこの本の主人公が辿り着いた解答をここでは明かさないけれども、問い自体ぴんとこないものの答えに、感動するわけがない。
チェコ語で書かれてはいるが、内容は明らかに現代イスラエル文学。僕にはそうとしか感じられなかったのだが、どうなんだろう。チャペック兄弟やカフカ(こちらはドイツ語だが)なんかと比べることに、どれだけ意味があるのか。
でも今はそれを考えるには、本当にタイミングが悪すぎる。


マヌエル・リバス『蝶の舌』

マヌエル・リバス『蝶の舌』
(2001年7月、野谷文昭・熊倉靖子訳、角川書店、1000円)

海の向こうが見える場所

同名映画が静かなヒットを記録しているらしいが、僕はその映画を観ていない。きっといい映画なんだろうと思う。
本のほうは、映画の元になった三つの短編を含めた短編集だ。スペイン西部、ガリシア地方出身の作家。映画の公開でもなければ翻訳出版さえ難しい、地味な本と言えるだろう。
スペインはさまざまな顔を持った国であるのに、どうも日本ではステレオタイプが強すぎるようだ。映画『蝶の舌』を観た人は、「これがスペイン?」と思ったのではないか。それほど、ガリシアという場所は、日本人がもつ一般的なスペイン像からかけ離れている。
十年近く前にガリシア地方に列車で入っていったときのことをよく覚えている。風景は劇的に変わった。スペイン中央部の渇いた茶色は、突如として緑に覆わ れ、空気は湿っぽくなった。実際に霧が出ていたかどうかは分からないが、僕の記憶のなかでは、ガリシアの緑は霧のなかに煙って見える。
スペインの辺境として今も豊かとは言えないこの地方には独自の言葉と文化があり、中央の政治にいつも翻弄されてきた歴史がある。でも、貧しい人々が見て いたのは「中央」だけじゃない。大西洋に面した地の利から、新大陸への移住というもうひとつの選択とのあいだに暮らしていた。僕にはこの地方の文化を深く 知るだけの時間がなかったけれど、すぐにこのスペインらしからぬスペインが好きになった。

そんなガリシアの地方性がにじみ出た最初の三作(映画の原作)は、この短編集では異色といえる部類に入る。スペイン内戦を描いた表題作と、新大陸への憧 れを描いた「霧の中のサックス」(ガルシア・マルケスが激賞しているらしい)。この二つをもって、ガリシアが経験した極端な二者択一がうかがわれるが、残 りの作品は、意外にも(?)現代的でポップな作品が多い。
そのポップのあり方に、すごく感心した。なんというか、すごくバランスがいいのだ。
短編の多くが世代間のギャップを扱っている。子供と大人、大人と老人、さまざまなすれ違い。あるいは、年を重ねるとともに感じる、一人の人間のなかの世代ギャップ。ある意味ではすごく普遍的で、ありふれた物語たち。
ガリシアのサッカーチーム、デポルティーボ・ラ・コルーニャを応援しながら喧嘩する親子の話、「ミスターとアイアン・メイデン」なんか、実に他愛もな い。アイアン・メイデンのTシャツを着た息子と、熟練漁師の父親。二人は喧嘩の後、無言のまま漁に出かけるのだが、突然舟が座礁する。以下は息子が父親を 助けようとする最後の場面。

「彼はアイアン・メイデンの妖怪のように身体に電流を受け、腕をぐるぐる回しながら、タッチラインめがけて走る。敵の選手を次々にかわし、ロスタイムに 三つ目のゴールを決めたところだった。そして今、彼はデポルティボのサポーターたちが振る青と白の旗の前で、長い髪をなびかせながら、タッチラインめがけ てスローモーションで走る。若者は白髪のコーチを抱きしめようと両腕を広げ、タッチラインを越えて走り続ける」

若者の物語だからポップなのではない。若者の風俗が描かれるからポップなのでもない。むしろ世代間のギャップをささやかな形で乗り越えてみせるからこ そ、時代の軽さが表現できるのであり、世代という重い鎖からふと自由になれるのだと感じた。明らかに、日本の多くの若手作家が怠っている試みだと思う。
ちなみに翻訳本では、「アイアン・メイデン」や「エアロスミス」に大真面目な注釈が入っていて、結構笑える。フェルメールやブルトンには注釈がない。と いうことは、想定読者対象がおのずと見えてくる。僕にはむしろフェルメールに注釈が必要な世代に読んでほしい気もしたのだけれど。
もっとも、こういう作家が存在すること自体、やっぱりガリシアの地方性と無関係ではないのかもしれない。大きなメジャーな文化ほど、世代のギャップは大きくて、乗り越えがたいものなのかもしれない。
仮にそうだとしても、この素敵な作家に見習うべき点は多い気がする。

ところで僕のスペインの旅行はカスティリャからガルシア、アンダルシアときて、カタルーニャの首都、バルセロナにたどり着いた。カタルーニャといえば、 ヨーロッパの中心にもっとも近い、これまた誇り高い地域。ここの名門サッカーチーム、バルセロナFCとデポルティーボ・ラ・コルーニャの試合へ行った。
スタジアムはバルセロナの応援一色、カタルーニャ語の応援歌がとどろいていた。ラ・コルーニャの劣性は明らか。あっという間にスコアは3対〇だ。僕は覚えたてのスペイン語を口に出してみた。「かわいそうなラ・コルーニャ」。
遠く日本を離れてスペインを旅行していた僕の心境は、どうしたってガリシア人に感情移入せざるをえない感じだったわけだ。それを耳にした隣のカタルー ニャ人は私がラ・コルーニャを応援しているらしいのを、笑った。「かわいそう」は何も知らない東洋人だとでも思ったのだろう。
ラ・コルーニャの貧しい港町を思い出す。その先には見えない新大陸があって、僕は、コロンブス以来多くの人がそこで感じてきた憧れをちょっとだけ共有した。ヨーロッパの名門チームが何だ。頑張れ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ!