川口啓明・菊地昌子『遺伝子組換え食品』他

「論争的な新書」を読む

何年か前から新しい新書シリーズの創刊が相次ぎ、「ブーム」なんて言われた。要するに単行本が売れなくなり、場所をとらず単価の安い新書くらいしか売れなくなったというだけのことで、実際にみんなが新書に注目しているかどうかは、怪しい。
確かに新書の棚はヴァラエティー豊かに楽しくなった。その代わり、新刊が出されてすぐに買わないと、あっというまにどこかへ消えてしまう、回転も早くなった。
新書に求められるものがよりタイムリーな話題になったのも、同じ変化の一側面だろう。かつて新書といえばサラリーマンの教養本であり、ある種のステータ スがあった。今はある話題で一冊新書を読んでも、安心はできない。数が多くなって全体の品質が落ちたというだけではない、新書はより雑誌的、論争的なメ ディアに変わろうとしているのだと思う。
相変わらず、どこの新書も地味で「信頼のおけそうな」装幀ではあるが、中身は確実に変わりつつある。時代の空気の変化もあるだろう。古典は岩波文庫、現代的な話題は岩波新書さえ読んでいればまあ大丈夫なんて言っていられたのは遠い昔の話だ。
そんな訳で、最近の新書を何冊かまとめて紹介しようと思う。おもに僕が「一言言いたい」本だ。納得できない本に高いお金を払うのは嫌なものだが、新書く らいの値段なら、たまにはいいのではないかと思う。そんな訳で長々と書いたが、僕の「新書論」は「気に入らない新書を、批判的に読むべし」である。なんと いっても経験上「これは素晴らしい」と思える新書というのは、本当に数少ないのである。

さて一冊目は『遺伝子組換え食品』。最近ちょっと気になった話題なので買ったが、もちろんこれは読まなくても「遺伝子組換え食品は安全だ」という主張の本であることが分かるので、最初から対決姿勢で読んだ(謙虚さまるでなし)。
しかし敵もさるもの、遺伝子組換えの是非という「本題」に入る前に、なんと本のほとんど半分を割いて、遺伝子とは何か? 動物は食べ物をどうやって吸収するか、という教科書的な説明がなされるのである。
これには閉口した。著者の言うように、世の中には「遺伝子」という言葉だけで「危険な食べ物」と思うような人々がいるらしいが、しかしそういう人がこん な本を読むだろうか? 後半で「安全性」を強調するために、催眠効果を狙っていると勘ぐられても仕方ない作りである。
そんな訳でこの前半は読み飛ばし、肝心の後半を読む。著者の主張はいくつかあるのだが、大雑把にまとめるとこういうことになるだろう。

一、遺伝子組換え技術は人類が積み重ねてきた品種改良と基本的に同じであり、使い方を誤らなければ危険なものではない。
一、遺伝子組換え技術によって農産物の安全性をめぐる検査はより厳しくなっている。非遺伝子組換え作物のなかにも危険なものがあることを認識すべきだ。
一、「組換え」の表示はナンセンスである。危険なものならそもそも売るべきではない。「組換え作物不使用」の食品さえ食べていればいい、という消費者の選択はむしろ問題を悪化させる可能性がある。

このあたりの記述はなかなか説得的である。私も表示の問題についてはほとんど賛成だし、現在流通している遺伝子組換え作物それ自体が危険だとは、あまり 思っていない。遺伝子組換え技術について論じるとき、「安全か安全でないか」は水かけ論になることが多いので、むしろこういう主張をある程度理解しておい たほうがいいのではないかと思う。
だが、だからといって組換え技術万歳とはいかない。
遺伝子の説明やらに費やされたこの本の半分に書かれるべきことが、もっとあるだろうと思うからだ。
まずひとつはグローバル化時代における農産物貿易のあり方と肉食の問題である。大豆やトウモロコシの増産は何を狙ったものかといえば、南の国の飢餓を救 うためでは決してない。なんせこれらの作物のほとんどは牛や豚の餌になるのだから。「作物の増産は農民の切実な願い」などという話ではないのだ。経済の問 題として考える視点が必要だ。アメリカが進めるグローバル化と遺伝子組換え作物の問題は切っても切り離せないのだ。
もう一つは科学の倫理ともいうべき問題だ。この本でもちょっとだけ触れているが、この技術は植物だけでなく動物や人間にも応用可能だ。一体どこで技術の 使用に関してストップをかければいいのか。そのことをほとんど考えず、「感覚で」今のところいいんじゃないか、というのが多分この二人の立場のように感じ た。
今ある遺伝子組換え作物の「安全性」「素晴らしい特性(時には環境にやさしい!)」を説明するだけでこの技術は大丈夫、と説得する。なんとなく嫌な記憶 が蘇ってこないだろうか。「日本の原発の安全性」を強調して、原発の正当性が強調されていたのは、まだつい最近のことだ。今や、原発の問題は地球全体の環 境やエネルギー利用という展望なくして語れないのはもはや常識だろう。あるひとつの原発を見て、これは安全、これは安全でない、と判断するような問題では ないのは明らかなはずだ。

既に疲れはじめているが、次の新書(二冊)へ行こう(今日は珍しくとことん攻撃的なのだ)。
話題はうってかわって「人権」である。昨年、『人権を疑え!』というオムニバスの新書が出て、さらに最近『反「人権」宣言』というのが出た。
確かに「人権」という言葉には水戸黄門の印籠じみた力があり、一体これは何なのか? と問うのは実に結構なことである、ということで一気に両方読んでみたわけである。
さて、偶然というか、この二冊の本もやはり二つの部分に分けて読まれるべきものと感じた。
この二冊の場合、二つの部分とは「人権を疑ってみよう」と「その代わりになるものは何か?」である。
「人権」という言葉がいかに便利で、いかに多く使われているかを考えてみれば、最初の問いの有効性は明らかなのではないだろうか。二冊の本の著者たちが指 摘するように、子供や若者が「それって人権無視じゃん」などと喜んで使うのは、この概念をほとんどの人が「無条件に」受け入れてしまっていることを証明し ている。
人権思想の怪しい来歴を語り、その弊害を指摘する部分については、二冊ともよく出来ている。だが、問題はその先にある。西洋近代的な個人主義の広がりとともに神格化された「人権」を否定するならば、社会の基準は何であるべきなのか?
その点になると、著者たちの言葉は途端に幼稚になる。複数の著者が書いているわけだから一概には言えないが、ざっと読んだ印象はそんな感じである。そこまで踏み込まなければ、それはそれで印象がよいのに、とさえ思われた。
人格、家族、法律、国家、さまざまな言葉が飛び出すが、決して説得力があるとはいえない。「人権」の胡散臭ささえ指摘すればあとは何でも言える、という 感じさえ受ける。全体に懐古主義なのはよいとしても、一体何をどこまで戻そうとしているのか、実に曖昧で感覚的な言葉が多いのだ。
『人権を疑え!』の編者、宮崎哲弥氏が喝破しているように、「人権」は国家権力など「公」に対して用いられるべき言葉である。「人権」という言葉がいかに 誤用されていようと、国家が存在する以上は必ず「人権抑圧」は存在するのであり、簡単に「疑う」から「否定」に向かうのはおかしいと感じる。もちろん『人 権を疑え』の著者の何人かは「必要悪としての人権」というほどのスタンスに立っているから、これも一概には言えないのだが。そういう意味では、この二冊の うちどちらかを読むなら、『人権を疑え!』を勧める。どこまでが「疑う」で、どこからが著者のイデオロギーの表明か、それがある程度見えるように作られて いるからだ。
それにしても僕にとっては、「国家」もまた「人権」と同じくらいに疑うべき神話であるのだが、これら多くの筆者たちの、国家をあまりに自明のものとする 姿勢には今更ながら驚いた。きっと「国家」に対してよほどいいイメージを持っているのだろう、と思ってしまった。

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』
(2001年6月、講談社文庫、819円)

徹夜後のリアル

ミステリーだ。このジャンルの読者は大抵「ミステリ」と呼ぶらしいが。
つまり僕はミステリ(ー)なるジャンルがよく分からないのだが、なぜかこのシリーズだけは新刊が出るたびに買うことにしている。出たら書評を書こうと思っていたら、出てしまった。そして、どんな風に書こうか、今頭を抱えている。

このジャンルが気になったのはたった一度のことで、その頃僕は人が「いいよ」と言うミステリ(ー)を片っ端から読んでみた。短い時間のことなので大した量ではないのだが、そもそも読書量のそれほど多くない僕としては、これはちょっと例外的な出来事だった。
それでどういう感想をもったかというと、「どれもこれも結構面白いな」ということだった。よいアドヴァイザーが周りにいたからかもしれない、という可能性はおいておくとして「どれもこれも面白い」というのはまたちょっと投げやりな態度でもある。
つまりこういうことだ。謎解きという強力なエンジンをもったこのジャンルは、そもそもある種の面白さを前提にしている。途中で投げ出してしまうようなミ ステリ(ー)というのは、そもそもミステリ(ー)と呼べるのかさえ疑問がある。もちろんミステリ(ー)を読み過ぎて舌(目?)が肥えてしまった読者という のはまた別だが、僕のような初心者には、その面白さに優劣は感じても、途中でやめるような理由はほとんど見当たらなかったのだ。
でもやがてその面白さには飽きてしまった。飽きてしまったというより、それまでの読書習慣にあまりにも異質なものが入ってきて困った、といったほうが正しいかもしれない。
それまで僕は読書を全然違うふうに捉えてきたからだ。
一冊の本を読み始めるのには、大変なエネルギーを必要とする。そもそも活字を追うのは大変面倒くさい作業である上に、ある一人の人間の思考や想像力を追 うのは、とてもパワーのいることだ。ところが、ミステリ(ー)はそうでない。数ページ読めばもうほとんど何の努力もなく徹夜くらいへっちゃらだ。
さて、こう書くとまるで読書における「努力」「苦痛」が大切であるみたいな感じだが、そうではない。僕は基本的に読書の「苦痛」と「快楽」を天秤にかけ ながら本を読んでいるのだと思う。その片方がとても少ないジャンルというのは、得られる「快楽」の判断基準を大きく狂わせてしまう、それだけの話である。

えらく個人的な話で恐縮なのだけれど、ミステリ(ー)にはまった時期というのは、僕の比較的平坦な人生のなかでも、ちょっと辛い時期と重なっていた。そ んな時に、ミステリ(ー)にはずいぶん慰められた。なかでもとりわけこのデイヴィッド・ハンドラ(ー)の「スチュワート・ホーグ・シリーズ」はまるで麻薬 のように(大袈裟か?)僕を痺れさせてくれた。
すでに書いたように「謎解き」は単なるエンジンにすぎない。たぶんミステリ(ー)で重要なのは読者が浸るための世界観というか、もっと大雑把な言い方をすれば、作品の持つ「雰囲気」ではないかと思う。
「謎解き」というエンジンに導かれて出会う人間や場所は、必ずしもリアルである必要はない。「リアル」とは別の次元で読者はもうその世界にハマっているのだ。そうだとすると、あとの問題はその世界、その登場人物が好きかどうかだ。
僕はすっかりこのスチュワート・ホーグという探偵(本職は作家、ゴーストライター)、それに彼の元妻である女優メリリー・ナッシュをはじめ、彼の言葉で (まあ作家の言葉だが)描かれる人物たち、彼の言葉で描かれる「有名人たち」の世界に幻惑されてしまった。皮肉っぽくて、傷つきやすくて、いきがってい る。気の利いたアメリカン・ジョークを飛ばす彼らはちっとも「リアル」じゃないが、魅力的だ。
もしかしたらワイドショーとかに出てくる日本の芸能人たちも、見る人が見ればこんな風に見えるのかもしれないなどと思いながら、とにかく「うっとり」させられるわけだ。
最後までとても眠るどころでなく朝を迎え、ミステリ(ー)は終わる。終わってしまえば「謎解き」のエンジンなんてどうでもいいのだ。始電の走る音が聞こえ、朝の光は見事に「リアル」だった。
たぶんこんな紹介で読んみよう、と思う人がいるとは思えないが、それでいいのだ。ミステリ(ー)・ファンの間ではこのシリーズ、結構有名らしいし、わざわざ門外漢の私があれこれ言ってみても、たぶんあまり意味がないだろう。
それより、ミステリ(ー)から戻ってきたときの朝の感じこそ、アンチ・ミステリ(ー)な方にぜひ味わって欲しいと思って、こんな文章を書いた。

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』
(2001年4月、岩波書店、1700円)

爺礼賛

僕の「お爺ちゃん」は二人とも割合に早く亡くなってしまった。
母方の祖父については、記憶がない。音楽の好きな人だったようだ。
父方の祖父については、ぼんやりと記憶がある。訪ねていくと、いつも時刻表を調べて、帰りの列車の時間を心配してくれた。僕は時刻表が好きだ。時間を忘れて「読みふけって」いると、あまり話すことのなかった祖父のことをときどき思い出す。
そんなわけで、爺さんというものへの、憧れがある。
僕にとっての憧れの爺さん像、それが加島祥造なのだ。

加島祥造を知らない人のためにちょっと紹介しておこう。彼はフォークナーの名訳で知られるアメリカ文学者、事典の使い方などの啓蒙的な文章を書いた知識人、あまり有名とはいえない詩人、ほとんど世間では知られていない画家である。
最近の著作では老子の口語訳『タオ――ヒア・ナウ』(パルコ出版、筑摩書房の『タオ――老子』もほぼ同じ内容)がとにかく素晴らしい。英語を迂回して韻文的に訳された老子は、わかりやすくて、美しくて、心に響く。一家に一冊おいてほしい名作である。
この本であるが、著者が長年知人に配信しつづけた「晩晴館通信」に書かれた随筆を集めたものである。配信といってもメルマガではない。今もときどき郵便で知人に届けられるという「通信」には、著者がその時々に感じた思いが自由につづられている。
六十三歳から、十五年間。僕にとっては想像しがたい年齢である。
でも、六十、七十を超えたって、瑞々しい、ときには激しく、ときには恥ずかしい心の動きはある。このごく当たり前のことに、猛烈に感動してしまった。
このちょっと相田みつをみたいな表紙(そしてこのタイトル…)の本を電車のなかで読みながら、涙を流していた僕はちょっと異様な感じだったにちがいない。

さて、いよいよこの本の素晴らしさを言葉にしようとして、すっかり手が止まってしまった。ここに書かれたエピソードや言葉を、ちょちょいと紹介すればい いのだろうか? なんだかちょっと違う気がする。僕のような若造が、「こんなこと言ってます、素晴らしいですねえ」なんて言えるような種類のものではない のだ。
この年齢のちがい、経験のちがいに、ちょっと目眩がする。
同時にとてつもなく大きな共感をおぼえる。
そうだ、このエピソードならこの文脈に合うかもしれない。
加島祥造が大学を退官するとき、同じときに卒業する学生たちに向かって挨拶をしたのだそうだ。こんなとき僕の記憶では、学校の先生というものは「私も一緒に卒業します、頑張りましょう」なんて訳の分からないことを言ったものだ。
加島先生はかわりにこう言う。
「いま社会に入ってゆくあなたたちを、そこから出てゆこうとする私が、どのように祝福すべきだろうか。……苛烈な物質追求の社会に入ってゆく。そこは能率本位で、計算ずくの競争社会です」
そう言いながら、ではお互いに共通する何かがあるとすれば何だろう? と問う。そこで出てくるのがこの書のタイトルでもある「いまを生きる」である。こ う書くとなんだかしょぼいが、でも「いまを生きる」のひとつしか分かちあえないほど、大学を卒業していく若者と、これから退職して隠居する先生は遠いの だ。遠いけれど、その一点でつながっている。
子供が爺さんに感じる愛情、爺さんが子供に感じる愛情というのは、そういうものかもしれない。なんて遠い世界を生きているんだ、と思いながら、どこかでつながっている。でも、そのどこか、こそ一番大切なものなのではないか。
だからこそ、子供は爺さんが好きなのだ。時刻表の難解な世界は分からないけど、なぜかその一点で僕のことを心配してくれた「お爺ちゃん」。
かつて加島先生にお会いしたとき、彼がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今の四、五十代の人間はまったく駄目だ。これから君みたいな若い者が世の中を変えていく。今の若い者にはその力を感じる」
もちろん僕には四、五十代の人間が駄目かなんて分からないし、自分も含めて今の若い者がどれほどのものか、とも思う。でも、なんだか根拠のないそのメッセージのおかげで、僕はすごく楽になったのを覚えている。
爺さんでなければ言えない言葉はたくさんある。そんな言葉がたくさんつまった本、ぜひ騙されたと思って読んでほしい。不意の涙にも注意しつつ。

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 』

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 ――新しいコミュニティ通貨の誕生』
(2000年9月、小林一紀他訳、日本経済評論社、2300円)

SF的思考で「お金」を考える

昨年『エンデの遺言――根源からお金を問うこと』(NHK出版)という本を読んだ。それ以来、「地域通貨」あるいは「オルタナティヴ通貨」というものの存在が気になっている。
われわれの身のまわりに、当たり前のように存在しているお金。それをもう一度考え直してみること、それは簡単なようで難しい。まるで空気の存在を疑ってみることのように。
『エンデの遺言』は実に単純な問いから出発する。それは、お金にはなぜ利子がつくのだろうか、という問いだ。おそらく交換の利便性のために作られたお金 は、同時に価値の保存という重要な役割を持っている。食べ物をはじめ、あらゆるモノは古くなって価値を減じていくが、お金はそうではない。この特権的な性 質から、人々はみなお金を欲しがる。お金の希少性が「利子」を生むようになったのが先か、お金が単なる「手段」であることを超え「価値そのもの」になった のが先か、私は知らない。ともかく、歴史の中で人間の手で「作られた」性質をもつお金の存在を私たちは受け入れ、それとともに暮らしているわけだ。
利子の存在は、単にモノであるはずのお金に神秘的な性格を与えることになった。モノを必要以上に持つことは大きなコストとリスクを伴うが、お金の場合は そうではない。持っていれば持っているほど、その力は大きく、限りがないのだ。利子の存在は、お金をめぐる人間の競争状態のはじまりといっていい。
利子のないお金は存在しうるのか? そうだとすると、そのお金を使う人々の暮らしはどんな風に変わるだろうか? これが『エンデの遺言』の主題であっ た。過去、実際に導入された「時とともに減価する」通貨、あるいは現在も世界各国で現在使われている地域通貨を考えながら、新しい時代の通貨を予感させ る、そんな本だった。

この話題はいまだ遠い世界にあると感じる。国内でも現実的な取り組みが始まっているというにもかかわらず、私たちはお金のことを真剣に考えるのにいまだ SF的な思考を迫られる。「生活感覚の延長で」などと言ってはいられないのだ。それほど根深く、お金のあり方は人間にとって当たり前になっているというこ とだ。
『エンデの遺言』がなぜM・エンデから始まらなければならなかったのかも、よく分かる。「すでに当たり前になったもの」を見直すことほど、人間の想像力が不可欠なのだ。
そういう意味では、今回紹介する『マネー崩壊』もまたSF的である(やっと登場した……)。
SFとしてとらえたとき、『エンデの遺言』はやや不満の残る内容であった。エンデだからファンタジーと言うつもりもないのだが。「予感」に満ちてはいて も、どこか説得力に欠ける。その説得力こそ、SFのサイエンスでありフィクションである所以であろう。あるいは『エンデの遺言』は、現時点におけるドキュ メンタリーとして優れていたともいえる(実際、この本はNHKのドキュメンタリーを元にしている)。それは変化の兆しをうつしだしはするが、未来へ向けて の提案とまではいかなかった。
端的にいえば、疑問はこうである。新しい地域通貨が国家通貨の存在に影響を与えるような力をもちはじめたときに、一体何が起きるのか? ある通貨を発行 するのが国家でなくなったとして、「誰か」がその発行の権限を持っているとしたら、最終的にそれは同じことなのではないか? その「誰か」の良心に期待す るなどという馬鹿げた前提に立って、地域通貨を全面的に応援することなどできない。

さて、長々と前置きをしたのは、『マネー崩壊』がある意味で胡散臭い感じのする本だからでもある。このあたりはこの書物の本質にも関わるし、同時に日本語版の提示の仕方にもやや問題があるのだと思う。固い本なのか柔らかい本なのか、どっちつかず。
でも騙されたと思って、読んでみてほしい。これはSFとして読んだとき、実に面白いのだ。記述のスタイルからして、かなりSF。前述のような、現在広ま りつつある地域通貨が「国家通貨を脅かすほどの」影響力を持ち始めたとき、世界はどうなっていくのか? という問いに、いくつかのシナリオを提示している ところなどは、SFそのものである。結果的に、いくつかの種類の通貨が同時に共存していくのが望ましいという著者の結論が引き出されるのであるが、その予 測が楽観的であるかどうかはともかく、こうした可能性の提示から、いくつかの問題点が浮き彫りになるのは見事というほかない。
欧州でユーロの誕生に深く関わったという著者だけあって、グローバル経済の現状に対する目配りも行き届いている。だからなぜ今お金を問い直すかという、出発点もはっきりしている。
などなど、この本の美点はいくつもあるのだが、それでもなおこれをSFとして読むことを勧める(しつこいか?)。まずは楽しんでほしいのだ。当たり前を 疑うこと、現在とは違う前提のうえに成り立つ未来を想像すること、そのスリリングな行為は、かつて科学技術が世界を変えるだろうと信じられた頃に読んだ SFの面白さに通じる。
科学だって想像力から出発したのだ。経済もそうであって悪いはずがないのである。

周防正行『インド待ち』

周防正行『インド待ち』
(2001年3月、集英社社、1700円)

日本が見たインド

またしてもインド本である。
「シコふんじゃった」「shall we ダンス?」などで知られる映画監督が書いたインド旅行記。なぜ映画監督がインドなのかといえば、テレビが例の『ムトゥ』ブームに乗ってインド映画についてのドキュメンタリーを企画した。その取材のついでに旅行記も書いてしまったということらしい。インド映画→ダンス→周防監督という実に単純な思いつきっぽい企画なのであるが、きっと番組も面白かったのではないかと思う。見る機会がなかったのが残念だ。
さて、本書であるが、思い入れたっぷりのインド本が巷に溢れるなか(というほどでもないか)、普通の日本人が普通の感覚のままインドへ行き、普通に感想を漏らすというなかなか貴重なものになっている。こりゃスゴイという派手な面白さはないが、どういう訳かとても新鮮な感じがした。
一つには、周防監督のインドへの(インド映画を含め)思い入れのなさがその理由だろう。

んー、『ムトゥ 踊るマハラジャ』にあるリアリティとはどんなものなのだ。

この一文を読んで僕は周防監督の映画監督としての資質を疑った(そんなもの疑っても仕方がないが)。僕に言わせれば、『ムトゥ』はリアルのかたまりなのである。
数週間にわたる取材を克明に綴った結構長い本なのだが、周防氏はひたすらインド人に尋ねつづける。インド映画のリアルとは何か? なぜ歌と踊りがあるのか? インド映画の魂とは?
これにはやや呆れた。最初は番組づくりのためにわざと答えを先延ばしにしているのかと思ったが、そうではないらしいのである。そして、最後の最後になってようやく理解する。どうやらそれがこの本の「ストーリー」らしいのだ。
無理もない、とも言える。確かに『ムトゥ』は荒唐無稽でリアルとはほど遠く、歌と踊りは映画の必須要素とはとても言えず、インド映画の魂といわれてもピンとこない。これは日本人のほとんどが共有する感覚であろう。しかし、そのためにこんな分厚い本をまるまる一冊読まされるのでは……。(その「答え」はもちろんここでは書きません。書いちゃえばつまらないことなのはお分かりでしょう。)
ところが、すでに書いたようにこの本は別の意味で結構面白いのだ。
感心したのは、周防氏の几帳面さである。毎日、自分が何を食べ、何時にベッドに入ったか、などということが全部書いてある。映画監督というのはみんなこんなに几帳面なのであろうか。小津安二郎やタルコフスキーなんかが書いた日記は、確かにそういうマメさを感じる。
この几帳面さのおかげで、取材中のインド人たちとの会話も、かなり正確に再現されている。ディスコミュニケーションのあらわになったやりとりに、周防氏がツッコミを入れていくというスタイルなのであるが、ツッコミよりもその会話自体が面白い。テレビ番組では大部分がボツにしたであろう、とぼけた会話があちこちで展開されている。これは貴重だ。

「この映画のことを聞いて見にきました」(中略)
「どういう評判を聞いたのですか」
「すごくいいという噂を聞いたから、奥さんに言われて見に来たいなと思いました」
「その噂は、スターがいいのか、ストーリーがいいのか」
「見ないと分からない」

こんな調子である。さすが映画監督、リアルが分かってますねえ。
そんな訳で、この本では最終的に「インド映画って何?」という疑問がなんとなく分かった、というところで終わるのであるが、それは周防氏個人の問題であって、読者にはいまいちぴんとこない。むしろ、読者にとっては理不尽さがきわだったところで終わる。それはまあ仕方がない。前に紹介した『喪失の国、日本』とはレヴェルがまったく違う本なのだ。一ヶ月にも満たない滞在でそれを求めるのは無理だし、周防氏も最初からそんなことは意図していない。普通の日本人がインドに行って抱いた普通の感想。そこに終始したところがこの本の成功なのではないだろうか。

M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

M.K.シャルマ『喪失の国、日本』
(2001年3月、山田和訳、文芸春秋社、1762円)

インドが見た日本

まだほんの少し疑っている。というのも、この本がとにかく素晴らしくて手放しでほめたいのだけど、だからこそ余計に疑念はアタマの隅に残り続けるのである。
M.K.シャルマ氏なる人物は本当に存在するのか? これは「訳者」山田和氏が書いたまったくのフィクションなのではないか?
「訳者の序」によると、山田氏がこの本に出会った経緯はまさに小説のようである。インドの本屋で偶然見つけ買ったこの本(ヒンディー語版)を持って旅をし ていると、ある町で中年のインド人に声をかけられ、食事に誘われる。彼に興味をもった山田氏は招待を受けて彼の家を訪ねる。話をしていくうちにますますこ の男に興味をもった山田氏が件の本を彼に見せると、「それを見て男の表情が変わった。急に立ち上がり、奇声を発して、それから大声で笑いだした」。
こうしてその本の著者であるM.K.シャルマ氏は山田氏のためにその本を英訳して送ってくれることを約束したというのである。スゴイ。
この本がありふれた日本見聞記であるのなら、こういう経緯がフィクションであろうとなかろうとどうでもよいのであるが、とにかく滅法面白い日本論なのだ。この複雑な気分がお分かりいただけるであろうか。
内容はこれといって派手なものではない。エリートビジネスマンとして来日したシャルマ氏の目に映った日本は我々のよく知っている日本(それもバブル期 の)である。登場する日本人がやたらに博識で冷静な解説をするのにはちょっと驚くが、きっとそういう人も日本にいるのであろう、という以外、描かれている 事実自体はどうということもない。食文化のちがいやビジネスのやり方、その背景にある価値観のちがい。シャルマ氏はあくまでもインドのビジネスマンの視点 でこれに驚き、解釈し、理解しようとする。
この本が新鮮なのは、ひとつにはヨーロッパ人でもアメリカ人でも東アジアの人間でもなく、インドの人間が日本を描いたところにあるだろう。インドと日本 という二つの国を並べたときに浮かび上がってくる相似と差異はそれ自体実にエキサイティングであるし、同時にそこから、ヨーロッパ近代がアジアにもたらし たものが一体何だったのか、「近代化」や「資本主義」は人間をどう変えるのか、が鮮明に見えてくるのだ。日本はふだんインドを見ていないし、インドも日本 を見ていない。だからこそ二つの出会いは混じりっけのない文化と文化のぶつかり合いとして、見応えがあるのだと思う。
この本の裏ストーリーは、出世を夢見ていた若いシャルマ氏が、日本という異文化、そして「近代化」の進んだ国と出会い、みずからの人生を問い直していく というものである。それは実に控えめな形で読者に伝わり、日本語版では訳者の解説を借りて、読者はその方向転換の意味の大きさを考えさせられる。なんだか 舌足らずであるが、こればかりはとにかく読んでいただきたいとしか書きようがない。
でも結局、この本を読んでいて思ったのは、本の面白さはやはり細部に宿るのだという当たり前の事実であった。シャルマ氏の深い教養と鋭い観察力、そして 文章力。そしてもちろん、訳者の山田氏によるところも大きいであろう。ちょっとした訳語の選び方、さりげなく入れられた補足の説明などが、この書の本質的 な部分を損なうことなく細部に輝きを与えているのだ。
ちょっとだけそんな「細部」を引用しよう。

食におけるブルジョワ意識、あるいは幸福感を満足させるために、肉には百グラム数十円から一万円ちかくまで、細分化された「肉の身分(カースト)」がある。
その構造は危しくも、われわれのカースト構造とぴったり重なる代物だ。
たとえばわれわれの四種姓(ヴァルナ)、つまりバラモンやクシャトリア、バイシャなどに相当する大枠を、日本人の獣肉に対するランキングに当てはめると、上位から、「牛肉」「豚肉」「鶏肉」「その他の肉」となる。
各ヴァルナ内部の、より細分化されたサブ・カースト、つまり出自(ジャーティ)に関しては、豚肉の場合ならば「ヒレ」「ロース」「モモ」「バラ」「切り落とし」というふうに肉の部位などに分けられる。
このような肉の種類と部分との階級分けが、日本では魚肉まで含めて数百分割されているのである。
インドにも豊かな商人(バイシャ)と貧しい僧侶(バラモン)がいるように、牛の切り落としよりはシャモと呼ぶ血統のいい鶏のモモのほうが上だったりする現実もある。
肉屋の店頭で顔見知りの中産階級の客同士が鉢合わせになると、二人の間で「どの肉を買うか」が、献立と関係なく争われることがしばしばあるという。
いっぽうが豚肉の切り落としを買おうとしていたのに、相手が豚肉のロースを買ったのを見て、見栄でそれより高いヒレを買うといった具合にである。
インドの社会は生きた人間の分類によって身分を拘泥し、日本社会は死んだ肉の分類によって経済的優位(プライオリティ)に固執する。

やや長くなってしまったが、細部は細部である。あとは読んでいただくしかない。

中島義道『働くことがイヤな人のための本』

中島義道『働くことがイヤな人のための本』
(2001年2月、日本経済新聞社、1400円)

「感受性のちがい」でよいのか

しばらく前から本屋で何度か見かけ、手に取ってみたりはしたものの、読むのをためらっていた。なんとなくイヤな予感がしたからである。中島氏の本はちゃ んと読んだことがない。今まで読まなかったのも、気になってはいたがという同じようなパターンであった。でもこのテーマには興味があるし、そもそも自分自 身かなり働くことのイヤな人間であるし、おまけに世間でも結構評判がいいらしい(まあいくつか書評を読んだだけだけど)ので、えいやっと読んでみた。
結局、イヤな予感は的中したのだが、そのイヤな感じは思っていたようなものとは少し違っていた。どうしてこんなにイヤな感じがするのかなあ、と読みながら不思議で仕方がなかった。それがまた、なんとも気持ち悪い感じなのである。
そもそも、僕自身はこの本の読者としては不適格なのかもしれない。「はじめに」で著者はこう釘をさしているのだから。

本書は私と異なった感受性を持つ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない。それでいいのだ。そうした一人であるあなたは、この本を読む必要はない。
さようなら。またいつか、どこかでお会いしましょう。

これだけ紹介するとなんだかひどく尊大な感じだが、著者がこう宣うのにはもちろん理由がある。というのも、この本は基本的に「先生」と呼ばれる中島氏本 人と、その他数人の対話形式になっている。これら数人の「生徒たち」はある意味で中島氏の分身、あるいは過去であり、彼らの悩みは中島氏本人のものであっ たのだと説明される。「先生」としての自分と、悩みを抱えた自分の対話というちょっと気持ち悪い設定でもあり、同じような悩みを抱えた人以外にはあまり読 んでも意味がないかもしれません、というのが先の警告なのである。
そんなわけで、ここでやめずに読んでおいて文句を言うのはどうかと思うのだが、お許しいただきたい。
イヤな感じは決してこの悪趣味な設定だけが理由ではないと思う。そもそも、本の最初から最後まで、僕は中島「先生」の見解にほとんど賛成しっぱなしだっ たのだ。そして、ここに登場する「生徒たち」の考えていることも、なんとなく分かる。ほとんど、とかなんとなく、というところに「感受性」の違いがあるの かもしれないが、その微妙な違いには何か重要な点があるような気がして、それは何だろう? と思いながら、ついに最後まで読んでしまった。

これは世間で騒がれているいわゆる「ひきこもり」といった人々も含め、あらゆる世代の「仕事に生きがいを見いだせない」人間に向けた本である。そうした人々に向けて「仕事をせよ」と言う。その理由は簡単に要約するとこんなふうであろうか。
人生とは不条理である。生まれて死ぬというこの基本設定、生まれながらの不平等、他人の評価の不平等など、すべてが不条理である。どんな慰めもごまかし も、この不条理の前では救いにはならない。仕事をするというのは、その不条理に向き合うことに他ならない。どんなに報われなくても、その労働によって金を 稼ぐことで、不条理そのものである他者と向き合うのだ。
まあ、こんな具合である。もちろん実際に読めばもっと説得力がある。それに、僕はこの見解に基本的に賛成だ。それでも、この議論の先で、必死に自らの 「仕事」と格闘する無名の芸術家たち、哲学者たち、そしてその他の職業(このあたりは曖昧、基本的には何でもいいらしい)についた人々を称え、自分の生き 方、あるいは彼の弟子たちであるらしい「無用塾」の学生たち(さまざまな職につきながら哲学を学ぶ人々)の生き方を称えるとき、なんとなくイヤな感じがす るのはなぜであろうか。
たとえば、不条理の最たるものである死について、「先生」は考える。何もかも、死んでしまえば無になるのだ、という事実を否定することはできない、だか ら死について考え続けるのだと。そのこと自体を否定するつもりはまったくない。人間が他者とつき合うときに、どこかで死を念頭に置いて相対する必要がある とさえ思う。だが、中島氏の議論には何かが決定的に欠けている気がするのだ。
それはたとえば、「人間は喜びを求めるものである」とか「人間は他者を求めるものである」といったやはり同じように基本的で大事な「事実」ではないか。 もちろん、これらは「死」を前にしたら何の意味もないのであるが、生きている人間にとっては、「人間は死ぬものである」のと同じくらいに大切な前提だ。そ うした部分をはしょって死について考える姿勢は、どこか気持ちが悪い。喜びや他者は死の前で幻想であるかもしれないが、人間はこの二つ(生きる人間と死ぬ 人間)のあいだを往復する必要があるのではないかと思う。それは氏の言う「感受性」の違いなのであろうか。なんだかすごく陳腐な言葉であると思うが。
もう一つ感じたのは、「働くことがイヤ」という現象に対する基本的な認識の違いからくる疑問だ。現代においてなぜ働くことはこんなにもイヤなのか、という問題である。著者はあまり直接的にこの問題に触れていない。まるでそれは当然とでもいうような感じだ。
もちろん人生は不条理なものであり、すべての不条理がなくなった世界もありえないのと同様、仕事はいつも不条理なものであり続けるだろう。それでも、も うちょっとイヤじゃない仕事のあり方はないのかなあ? と考えるのは人間の自然な感情だろう。そもそも便利にしたい、とか楽をしたい、という人間たちが築 いたこの社会が、現代の労働のあり方を生んだのである。これを「人生は不条理だから」といってそのままのみこむ必要はない。なぜこんなにイヤなのか? も う少し楽で楽しい生き方はないのか? それを真剣に考えたっていいんじゃないだろうか?
まあ、著者はきっと「考えたっていい、真剣に考えなさい。それも仕事だ」とでも言うのだろうか。それこそ「感受性」の違いか?
(一般的な意味での社会に対する関心が薄い人なんでしょうか。そういえば『うるさい日本の私』な んてタイトルの本も話題になってたなあ。でもやっぱり「私」のほうに関心があるのかなあ。他の著書は読んでないので、とりあえずここでは「仕事に生きがい をもてない現象」に対する見解についてのみ、もう少し社会全体のあり方を問う姿勢があっていいのではないかと主張するにとどめます。各論については大いに 賛成しつつ、全体としてはなんとなくイヤな気持ちで読み続けたという珍しい読書の報告でした。)

追記:『うるさい日本の私』を読んだ。これはいろいろな意味でけっこう面白かった。

梁石日『睡魔』

梁石日『睡魔』
(2001年4月、幻冬舎、1800円)

小説のなかの「お仕事」

夜中などになんとなくテレビをつけてみると、TVショッピングというのをやっている。これが結構、楽しい。ぼんやり眺めながら、眠くなるのを待つ。一種の催眠効果があるのだ。とりわ け、アメリカ製のシェイプアップ用器具などの宣伝はよく出来ている。同じ説明を聞くというのは普通嫌なものだが、ほんの少しだけ、それを受け入れるのがコ ツだ。ああ、これは効きそうだなどとぼんやり思ってみる。宣伝文句通り、健康的で引き締まった自分の肉体などを思い浮かべてみる。
梁石日の『睡魔』は、そんな「説得されること」「洗脳されること」の快楽を描いた小説である。と言い切っていいのかどうか、よく分からないが、少なくとも出版社の謳い文句はそんな感じである。
主人公は在日朝鮮人の作家。かつて大阪で事業に失敗し、東京に出てタクシー運転手をす る。その経験を元に二冊の小説を書いたが、お金に困っている。これはどう考えても梁氏本人である。大体、書いている本人を思わせる登場人物が出てきたりす ると、妙にしらけたりするものだが(私小説好きというのは、そのへんが逆にたまらないのだろうなあ)、この本の場合、それが不思議なユーモアとリアリ ティーをかもし出す。
健康マットを売るマルチ商法を冷静に観察し、距離をとっていたはずの主人公が、あれ れ? と思っているうちにいつの間にかどっぷりとはまっていく様子に、それはないでしょうといちいち突っ込みを入れたくなる。大笑いするような場面もいく つかあるし、これは実によくできたユーモア小説だと思う。深夜のTVショッピングを観て笑いながら、いつのまにかちょっと欲しくなっている、そんな時に感じる頭の痺れみたいなものを味わわせてくれる。

ところで、梁石日という人は「仕事」を書くのが上手な人だといつも思う。そもそも出世作『狂騒曲』(『タクシー狂騒曲』ちくま文庫)は上でも少し触れたように自身のタクシー運転手としての経験を踏まえたものだったし、その後もさまざまな小説を書いているが、不思議に、後まで記憶に残っているのは、登場人物が何か「仕事」をしている場面なのだ。
小説が描く仕事には大きく分けると二種類あると思う。
ひとつは、著者にとって関心のないものとしての仕事。これはたとえば恋愛小説などでよく見られる。仕事はおざなりに描き、アフターファイブや休日の生活ばかりが強調される。登場人物の職業はほとんど肩書きのみでしかない。
もうひとつは、職業そのものに関心のある小説。これは、たとえばミステ リーの探偵や警部だとか、企業小説の登場人物などが代表例だろう。歴史小説の登場人物も当然このカテゴリーに入るし、ある特殊な仕事がいわば小説の「主人 公」になることもある。これらの小説では仕事そのものに作者の関心の焦点があるために、登場人物にはまるで私生活というものがないかのような錯覚に陥る。
この二つは対極に位置するが、どこか不完全な感じがするという点で、共通する。
言うまでもなく多くの人にとって、仕事は人生に大きな位置を占める重大 関心事だが、一方でそれはやらなくてはならないから仕方なくしているものでもある。そこに生きがいを見出すことができるのは、ごく僅かな幸運な人々だと僕 は思うし、逆に仕事のことをほとんど考えずに生きる人生というのもそうはないだろう。
梁石日の描く仕事は、まさにそういう仕事なのである。不承不承ではある けれども、必死になって仕事をする。宝くじが当たったら明日にでもやめてしまうだろうけれど、今は仕事のことが頭から離れない。そういう仕事の細部に宿る 「面白さ」は、やっている本人たちの「やり甲斐」などということとはまったく別の話である。そこに人間の営みの不思議さ、無意味さ、愛おしさ、馬鹿馬鹿し さ、などなどが浮き彫りになる。それは小説の焦点ではないかもしれないが、「ちゃんと」描かれている。
今回の『睡魔』では、マルチ商法がその「仕事」であるし、競馬のノミ屋や運転手の仕事も描かれる。前作『死は炎のごとく』はテロリストを描いた小説で、全体的に完成度はやや低いのだが、主人公が消火器を売り歩くシーンがなぜかひどく印象に残った。話題になった『血と骨』でいえば、蒲鉾工場の描写が素晴らしい。ここでは梁石日の小説すべてに触れるつもりはないが、そんな調子である。
小説に出てくる人たちはいつ排便をするのか、などと訳のわからないことを言う人がいる が、僕は別に排便を描いた小説がいいとは思わない。でも、こうした仕事を「ちゃんと」描いた小説というのはもっとあってもいいのではないか。それが少ない こと自体が、この社会のあり方にどこか問題のあることを示しているとも言えそうである。
全然関係ないけど、僕はトイレを探してパニックに陥ったりすることがよくあるので、そのへんのスリルと恐怖を描いた短編は、ひとつくらいあっていいのではないかとふと思った。

レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』

レイナルド・アレナス『ハバナへの旅』
(2001年3月、安藤哲行訳、現代企画室、2200円)

亡命の終わりⅡ

キューバ生まれの作家。『夜明けのセレスティーノ』が 文芸家協会のコンクールで入賞するが、その後の作品発表は国内での発表を認められない。反体制的発言と同性愛者であることを理由に逮捕されること数度。 1980年に合衆国へ亡命する。以後、ニューヨークで作家活動を続けるが、1990年、エイズによる体調悪化などが原因で自殺。
『ハバナへの旅』は彼が生存中に刊行された最後の小説集だ。執筆時期も異なる3作品は、テーマやモチーフに通低するものはあるものの、これが一冊の本になっているのは、おもに編集上の都合だろう。ここでは、表題作「ハバナへの旅」を中心に話を進めていきたい。
アレナスの分身とも考える主人公が、亡命から十五年を経て、故郷ハバナへと旅する物語。アレナスが実現することのできなかった、いわば想像上の帰還だ。
同性愛への迫害を経験した主人公は、ニューヨークで平穏な生活を手にするが、そこも彼にとって「あるべき場所」にはなりえなかった。そこへハバナに住む 妻からの手紙が届く。苦い記憶を呼び覚ますようなその手紙にうながされ、彼はその過去を清算すべく、合衆国市民として故郷へ旅立つ。
アレナスが描くハバナは重苦しい。まるで戒厳令が敷かれたかのようなその街のなかで、彼は失われた自分の居場所、自分の青春時代の面影を探す。想像上の 旅は、どこかでアレナス得意の幻想世界に迷いこんだにちがいないのだが、読者はそのことになかなか気づかない。アレナスの筆致はめずらしく(たとえば前の 二作品にくらべて)冷静である。亡命者の悲劇的な帰還ではなく、幻想のなかで故郷に救われる物語なのだと気づいたとき、物語はすでにクライマックスを迎え ている。
そして、アレナスの亡命はまだ終わっていないのだと思い出す。
小説のオチとしてはどうかと思われるのだが、読後に涙が出てきた。ありえないハッピーエンドほど悲しいものはないからだ。そのあたりに、幻想小説家とし てのアレナスの魅力がある。失われた故郷を夢見つづけたアレナスは亡くなり、キューバをめぐる亡命の物語もまだ終わっていない。
天国にいるアレナスのことを想像してみると、なんだかとても幸せに暮らしている姿が浮かんでくる。上天気の浜辺に仲間と寝そべりながら、故国キューバの状況を嘆きつつ、きっともう小説は書いていないんじゃないだろうか。

ミラン・クンデラ『無知』

ミラン・クンデラ『無知』
(2001年3月、西永良成訳、集英社、1900円)

亡命の終わりⅠ

チェコスロヴァキア生まれの作家。『冗談』で世界の注目を浴びるが、「プラハの春」以降、作品は国内発禁になる。1975年フランスへ亡命する。以後パリで作家活動をつづけ、89年の「ビロード革命」後もフランスに留まり、フランス語でも著作を発表している。
クンデラの最新作『無知』は亡命の終わりを描いた作品だ。永遠に続くかと思われたソヴィエト・ロシアの支配が終わりを告げ、それぞれの国で新しい生活を送っていた亡命者たちが複雑な思いを抱きながら故国へ帰る。
男女関係の不条理と歴史の不条理を、哲学的に、文学的に綴ったクンデラの読者にはお馴染みの手法である。『オデュッセイア』を引き合いに出しながら、故国に戻ったオルフェウスは果たして幸せだったのか? と問いかける。
亡命という「物語」はつねに、故国から離れることの悲劇性と帰還の美しさを語ってきたわけだが、いざ亡命者が故郷に帰ればそこに彼らの居場所などありは しない。そうしたエピソードから炙りだされるのは、記憶はあまりにも小さく、経験や知識は常に何の役にも立たない、という人間の本質的な状況である。それ が悲しくも愛すべき人間の「無知」というわけだ。
クンデラが描くプラハに、幻想の入りこむ隙はほとんどない。あっという間に資本主義化したこの街を、ただ客観的に眺めているという感じだ。主人公の目に 一瞬垣間見えた、愛すべき自分だけのプラハでさえ、それが彼女の住むパリへと続く人生の個人的な断片でしかないことをクンデラは意識している。
クンデラにとって「亡命」は明らかに終わったのだ。
「懐かしい」という言葉、そして感覚を愛すること。当たり前のようでいて、ちょっと不思議でもある。何かが「失われた」ことに気づくからなのか、それがほ んの少しばかり「戻ってきた」と感じるからなのか。いずれにせよ、この言葉への甘い幻想を打ち砕いてみせたこの小説は、読んでいて苦しい。それを軽いタッ チで描いてさらりと流してしまうあたり、さすがクンデラと言うべきなんだろうか。
フランスで暮らすクンデラのことを想像してみると、なんだかとても幸せに暮らしている姿が浮かんでくる。人間の「無知」を愛しつつ嘆きつつ、ゆっくりと次の小説の構想を練っているんだろうと。