デイヴィッド・ハンドラー『傷心』

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』
(2001年6月、講談社文庫、819円)

徹夜後のリアル

ミステリーだ。このジャンルの読者は大抵「ミステリ」と呼ぶらしいが。
つまり僕はミステリ(ー)なるジャンルがよく分からないのだが、なぜかこのシリーズだけは新刊が出るたびに買うことにしている。出たら書評を書こうと思っていたら、出てしまった。そして、どんな風に書こうか、今頭を抱えている。

このジャンルが気になったのはたった一度のことで、その頃僕は人が「いいよ」と言うミステリ(ー)を片っ端から読んでみた。短い時間のことなので大した量ではないのだが、そもそも読書量のそれほど多くない僕としては、これはちょっと例外的な出来事だった。
それでどういう感想をもったかというと、「どれもこれも結構面白いな」ということだった。よいアドヴァイザーが周りにいたからかもしれない、という可能性はおいておくとして「どれもこれも面白い」というのはまたちょっと投げやりな態度でもある。
つまりこういうことだ。謎解きという強力なエンジンをもったこのジャンルは、そもそもある種の面白さを前提にしている。途中で投げ出してしまうようなミ ステリ(ー)というのは、そもそもミステリ(ー)と呼べるのかさえ疑問がある。もちろんミステリ(ー)を読み過ぎて舌(目?)が肥えてしまった読者という のはまた別だが、僕のような初心者には、その面白さに優劣は感じても、途中でやめるような理由はほとんど見当たらなかったのだ。
でもやがてその面白さには飽きてしまった。飽きてしまったというより、それまでの読書習慣にあまりにも異質なものが入ってきて困った、といったほうが正しいかもしれない。
それまで僕は読書を全然違うふうに捉えてきたからだ。
一冊の本を読み始めるのには、大変なエネルギーを必要とする。そもそも活字を追うのは大変面倒くさい作業である上に、ある一人の人間の思考や想像力を追 うのは、とてもパワーのいることだ。ところが、ミステリ(ー)はそうでない。数ページ読めばもうほとんど何の努力もなく徹夜くらいへっちゃらだ。
さて、こう書くとまるで読書における「努力」「苦痛」が大切であるみたいな感じだが、そうではない。僕は基本的に読書の「苦痛」と「快楽」を天秤にかけ ながら本を読んでいるのだと思う。その片方がとても少ないジャンルというのは、得られる「快楽」の判断基準を大きく狂わせてしまう、それだけの話である。

えらく個人的な話で恐縮なのだけれど、ミステリ(ー)にはまった時期というのは、僕の比較的平坦な人生のなかでも、ちょっと辛い時期と重なっていた。そ んな時に、ミステリ(ー)にはずいぶん慰められた。なかでもとりわけこのデイヴィッド・ハンドラ(ー)の「スチュワート・ホーグ・シリーズ」はまるで麻薬 のように(大袈裟か?)僕を痺れさせてくれた。
すでに書いたように「謎解き」は単なるエンジンにすぎない。たぶんミステリ(ー)で重要なのは読者が浸るための世界観というか、もっと大雑把な言い方をすれば、作品の持つ「雰囲気」ではないかと思う。
「謎解き」というエンジンに導かれて出会う人間や場所は、必ずしもリアルである必要はない。「リアル」とは別の次元で読者はもうその世界にハマっているのだ。そうだとすると、あとの問題はその世界、その登場人物が好きかどうかだ。
僕はすっかりこのスチュワート・ホーグという探偵(本職は作家、ゴーストライター)、それに彼の元妻である女優メリリー・ナッシュをはじめ、彼の言葉で (まあ作家の言葉だが)描かれる人物たち、彼の言葉で描かれる「有名人たち」の世界に幻惑されてしまった。皮肉っぽくて、傷つきやすくて、いきがってい る。気の利いたアメリカン・ジョークを飛ばす彼らはちっとも「リアル」じゃないが、魅力的だ。
もしかしたらワイドショーとかに出てくる日本の芸能人たちも、見る人が見ればこんな風に見えるのかもしれないなどと思いながら、とにかく「うっとり」させられるわけだ。
最後までとても眠るどころでなく朝を迎え、ミステリ(ー)は終わる。終わってしまえば「謎解き」のエンジンなんてどうでもいいのだ。始電の走る音が聞こえ、朝の光は見事に「リアル」だった。
たぶんこんな紹介で読んみよう、と思う人がいるとは思えないが、それでいいのだ。ミステリ(ー)・ファンの間ではこのシリーズ、結構有名らしいし、わざわざ門外漢の私があれこれ言ってみても、たぶんあまり意味がないだろう。
それより、ミステリ(ー)から戻ってきたときの朝の感じこそ、アンチ・ミステリ(ー)な方にぜひ味わって欲しいと思って、こんな文章を書いた。


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