短編集の一作目、アルバムの一曲目

冒頭の作品というのは、セールス的な意味でもキャッチーな力作を置くことが多いんじゃないかと思う。
少なくとも私はアルバムの一曲目に思い入れのあるものが多く、極端にいえば出だしの思い出せないアルバムというのは、イコールあまり好きじゃないアルバムと言えるくらいの気もする。
長編小説なんかでいえば、冒頭の一行に近いのかもしれない。場合によっては作品全体を決めてしまうような力があるわけだ。

さて、『変愛小説』は「れんあい」じゃなくて「へんあい」だそうだ。
恋と変の字が似すぎていてやや地味なタイトルになってしまっている気もするが、とても面白いので2冊とも読んでしまった。
ストレートすぎる恋愛小説はさすがに読むのが恥ずかしいんだけど、これなら、というところかもしれない。んでもって、どちらもみごとに一作目だけが記憶に残りそうで、それはそれでやや損をしたような気分もなくはない。
一冊目の冒頭は、木に恋した人を描いた散文詩のような美しい作品。
二冊目の冒頭は、イケメンばかりの島に流れ着いたギャルの愉快な語り。「彼氏島」というタイトルも、とにかく笑える。
どっちも、訳者である岸本佐知子さんの力量がなくてはここまで素晴らしくならなかっただろう。

ところで、たぶん時代は捨て曲は買いたくない、好きなものを好きなだけチョイスして読む、という感じなのだろう。本一冊、レコード一枚とかいう物理的な大きさはもう意味がないし。もしかしたら、2冊の短編集のうちでこの2作を読めばいい、という考えも成り立つのかもしれない。
しかし、なんとなく寂しい気がする。
装丁とかジャケットデザインも大事だけど、どちらかというと、この物理的制約による「無駄」や「余計なもの」「駄作の入り込む余地」がなくなってしまうのが、寂しいのだろう。
(とりあげた短編集に駄作がたくさんあったという意味ではありません)

伝統、あるいは元本保証

突然変異はランダムに起きるし、生命は否が応にも変わっていく。
そして生命の巧妙さは気の遠くなるような時間によって生まれた奇跡だ……。
そう教えられてきたような気がするが、なんとなく変だなとは思っていた。
「神の手」とまではいかないまでも、自然はもうちょっとだけ「意識的」であり、「方向性」や「傾向」のようなものが少しはあると感じられた。

進化のメカニズムなんてどうでもよいことではあるだろうが、気になるのは、やはりそれが文化や社会のメタファーとしてかなり力をもっているからだろう。
たとえば私はスポーツニュースなどで多用される「進化」という言葉がどうも好きになれないのだが、それにもたぶん理由がある。
私たちは日々喩えや擬人化の世界を生きているわけだ。

「元本保証された多様性の創出」を基本とする「不均衡進化論」は、まだ主流の理論としては認められていないのかもしれないが、非常にシンプルで妙に腑に落ちるところがあった。
生物学的な説明は私には難しいので、あくまでも文化的に譬えると、かなり身も蓋もない話となる。
伝統はちゃんと守りながら、新しい試みはどんどんやっていく、いわばメリハリをつけるという、ごく当たり前の話。
常に変わり続けるばかりが能ではないというのがポイントだろうが、どこかに伝統をしっかり守っておけば、あとは失敗してもいいからどんどんチャレンジしようね、という部分を強調することもできる。あるいは、変化は常に一定の速度で起きるというより、起きるときにまとめて起きるというというところも重要だろう。
それはともかく、私のような無駄の多い変異のほうにばかり心惹かれ、どちらかというとリスクの高い投資を好むタイプでも、誰かがどこかで「元本保証」をしていると思うと、心安らかに好き勝手をしていいよと言われたような安心感があるのだ(笑)。

反知的独占

いろいろ書くと墓穴を掘りそうなので、とりあえずお勧めするだけにします。
特許や著作権に違和感を感じている人だけでなく、イノベーションや創作について真剣に考え、経済的に、そして倫理的にも望ましいあり方を求める人にとって必読の書だと思う。
とはいえ、文章は難しくはないけどなんとなく読みにくく、必ずしも通読する必要はない種類の本だと思うので、図書館などで借りるのもいいかもしれない。

おっぱいとトラクター、そして誤訳について

ひさびさに本を読みながら涙がでてきた。理由はよくわからないが、よい小説だと思う。もしかしたらそのときお酒を飲んでたとか、ベタベタのメキシカン・ボレロを聴いてたとか、そういう理由も少しはあるかもしれない。

本を読み始めてしばらくは、実は誤訳のほうが気になって、「こりゃ、せっかくの本も翻訳がなあ」なんて意地悪なことを考えていた。
ウクライナの話なのに、ウクライナ国旗が空の青とトウモロコシの黄色なんて書いてある。コーンというのは穀物全般だから、この場合はどう考えても麦だろう。(*2012年追加:本当に麦なのか自信がなくなってきた。国旗はともかく、ウクライナって結構トウモロコシ食べているんでしょうか? もし詳しい方がいたら教えてください)あまりに初歩的かつ目立つ誤訳なので、きっと訳者もあちゃーと苦笑しているに違いない。
でも、読み進めていくうちに、そんなことはどうでもよくなってきた。小説だけでなく、その翻訳も勢いがあってすごくいいのだ。

誰にも避けることのできない間違いいうものと付き合うには、2つの方法ある。
ひとつはもちろん、なるべく気をつけて慎重になること。もうひとつは、間違いを積極的に味方につけてしまうというもの。前者の欠点は、細かい点を考慮すればするほど、間違えたり、間違えに気づいたりする可能性はさらに高まるということ。そして、間違えの少ないものというのは、なんでも結構つまらないものだ。
冗談ではなくて、トウモロコシの黄色には詩的な真実があるかもしれない。そういうことは、人生のなかですごく多い気がする。
なんか自己弁護っぽくなってきたのでこの辺でやめておこう。

サンパウロへのサウダージ

最初に見たブラジルはサンパウロで、私はそこで2週間近くうろうろした。
ご存知の通りコンクリートだらけの巨大都市であり、リオやサルヴァドールに比べれば、色気はない。
でも、長い時間を経て記憶のなかでは、美しいリオやサルヴァドールよりもサンパウロのほうが存在感を放っていたりするから不思議である。
遠い昔にレヴィ・ストロースが撮影したこれらの写真が魅力的なのも、やはり時間の経過があってこそだろうか?
今福龍太さんが撮った写真との「今昔」の対比も面白いし、同氏のちょっと気取った文章も悪くない。
それでも、ちょっとやりすぎの本という感じは否めない。

今福氏とほぼ同じ頃サンパウロへ行った私が探したのはレヴィ・ストロースが見たこの街じゃなくて、若き日のカエターノ・ヴェローゾが見た風景。
「サンパ」という歌のなかにある「サン・ジョアン通りとイピランガ通りの交差点」に立って想像してみたが、正直言ってよく分からなかった。

この名曲をジョアン・ジルベルトが素晴らしいカヴァーにしてしまった。
ジョアンの素晴らしい演奏はたくさんあるが、原曲をうまく料理したカヴァーという意味では、聴くたびに感心して凄いと唸ってしまう。
私は必死に日本語の歌詞をつけてみたが、2つのヴァージョンに挟まれて迷子になってしまったようだ。
レパートリーとしてなんとかもう一度復活させたいのだが、手直しすればするほどヘンテコになってしまう。
これを無理に訳そうとすること自体が「やりすぎ」なのかもしれない。

語り物の魅力

ときどき、たぶん二年に一度くらい「邦楽ブーム」みたいなのがやってくる。
もちろん、あくまでも自分のなかだけ、「マイブーム」のお話だ。
今回きっかけとなったのは、『〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代』という本。
「国民意識」を鼓舞しながら、日本という近代国家の誕生を祝うかのように大流行した浪花節を論じた刺激的な本だ。

そういえば、浪花節って苦手だよなあと思いながらも、youtubeやCDでいろいろと聴いてみた。
ほとんど世界観を共有できぬままにも惹かれるのは、やっぱりこれが音楽と言葉のあいだに横たわる「語り物」という領域だからだろう。

当時の人々が、たとえば桃中軒雲右衛門のなんとも表現しがたい独特の声に耳を傾けながら、あるいは自分でも一節「唸って」みるうち、ある種の思想や帰属意識が身体化されていったというのは、まあわからないでもない。
しかし、気味の悪い話ではある。
冗談めかして今の時代で無理に譬えるならば、EXILEの踊りを真似て鏡に向かっているうち、いつのまにか若者みんなが皇居前で踊っていた、みたいな話。
しかし、もちろんそれが絶対にありえないこととは言えない。
かつて、私たちは「東京音頭」を夢中になって踊りながら、戦争へと突入していったこともあるのだから。

さて、浪花節がどうもしっくりこないなか、同じ兵藤裕己氏の『琵琶法師―“異界”を語る人びと』も読んでみた。
というか、まず本のオマケについてくる「最後の琵琶法師」たる山鹿良之の演奏に衝撃を受けた。爺の魅力がすごいのである(笑)。
そんなわけで、今はこのCDに夢中である。

私のもっとも思い上がった野心は、新たな日本の語り物のスタイルを確立することかもしれない。
もちろん私には音楽的才能も文学的才能も欠けおり、いつか……と夢想するだけなのだが。
それにしても、一体何を語るというのか?
全然、見当がつかない。
このCDのなかでいうと『道成寺』が近いような気がする。たとえばこれを携帯小説みたいな感じにアレンジしたらどうだろう。
さらにカフカのアフォリズム(掟の門)とか、テレビの「すべらない話」みたいな笑いの要素を少し入れるのはどうだろう?
いずれにせよ、現代は忙しい時代なので、少し短くする必要があるだろう。
そんなわけで、夢を見るのは楽しいのである。

*追記*
木村理郎『肥後琵琶弾き 山鹿良之夜咄―人は最後の琵琶法師というけれど』もよい本。上の『琵琶法師』、DVDは素晴らしいが本としてはやや抽象的すぎる気もする。

フェミニーナ

長年の課題だったジョイス女史の「フェミニーナ」の訳、ようやく一応録音できた
今回は、ここにちゃんと歌詞を書いておこう。

ママ、大人になったら あのフェミニーナ 女らしさ私に
分かるときがくるかな?
あなたは笑った このフェミニーナ
長い可愛い 笑顔だけじゃないのと
紡いだ糸が切れたら 大きな空へと飛び立つ

ママ、あなたが教えた このフェミニーナ 女らしさ私が
私であることだと
終わりと始まり 同じものなら 長い道のどこから
どこへ行くの私は?
世界のご馳走並べ テーブル燃やしてしまう

この歌は彼女なりの「フェミニスト宣言」だと思うので、訳していて緊張した。
もう十何年も前のことだが雑誌のライターとして彼女にインタビューをして、「フェミニストとして尊敬しているのは誰ですか?」と質問したことがある。
答えは、「お母さん」。
そのとき私は、この歌の意味をちゃんと考えずに聞いていたのである。
そういえば彼女の自伝にも、この素敵なお母さんは出てくる。

タクアベ

新年早々、目の前に仕事がなくなってしまったので、ちょっと部屋を片づけたり、途中で止まっていた本を再び読み始めたり。

以下は、ウルグアイ最後のインディオ(チャルア人)がパリの自然科学アカデミーに送られたというエピソードの一部。

タクアベは楽人の才であった。博物館の観客が立ち去ると、音楽を奏でていた。唾で湿した細い棒きれで弓をこすり、馬のたてがみの弦をかき鳴らし、甘くふるえる調べを響かせたものだ。カーテンの陰で彼の様子を窺ったフランス人たちによれば、彼が生み出すのは実に静かな、抑えた音色、聞き取れるか取れないかの内緒話にも似た響きだという。
(エドゥアルド・ガレアーノ『火の記憶2』より)

ガルシア=マルケス→シャキーラ(脱線)

こっそりホームページを復活させてデザインを一新させたりしている。特に意図はないが、まあいいやという感じである。
作業はまだだいぶ続きそうなので、とりあえずお休みしていた読書の話など。

この間のメインイベントは、なんといってもガルシア=マルケスの自伝「生きて、語り伝える」。待ってました。嬉しい。
vivir para contarla というのが原題。最後のlaは人生なのかな。だとすると、人生を語るために人生を生きる、みたいな意味だろうか。なんとなく、へびが尻尾を噛んでいるような、軽くていいタイトルだ。
それにくらべると「生きて、語り伝える」というタイトルはどうも好きになれない。
というか、歌手とか音楽家なんかもよく使う「伝える」という言葉自体が、私はどうも苦手である。基本的に、何をやっても「伝わる」とは思ってないし、別にそれでいいじゃないかという投げやりな気持ちがあるのだろう。
とはいえ、素晴らしい日本語タイトルも思い浮かばない。タイトルって難しい。そして翻訳も。

だいぶ脱線してしまった。
さて。急ぐ読書でもないので、じっくり楽しませてもらった。最近の読書で大きく変わったことといえば、電源のついたパソコンがそばにあることではないだろうか。それは当然のことながらインターネットにつながっている。
昔は分からないことがあっても読み飛ばしていたことが多い。
辞書はたまに調べるとしても、百科事典をひもといたりするほどの真面目な読者ではなかった。気になることがあっても、そのうちなんとなく見当がつくだろうし、わからなくても、そのうち忘れてしまう。
でも、インターネットなら気軽である。
だから、たとえばコロンビアの現代史や都市名など、分からないことがあれば、ちょこちょこっと調べてしまう。これは勉強になるが、なんとなくお気軽すぎる気もする。
そんなこんなで、読書がいつのまにかネットサーフィンになってたりしていることもある。

今回でいうと、一番の収穫は、ガルシア=マルケスからシャキーラへの脱線かもしれない。
ガルシア=マルケスが同郷であるシャキーラをたたえる賛辞が気になった。ついでに、彼女が生まれ、マルケスも暮らしたバランキーヤという街について。

「シャキーラの音楽は、誰のものとも似つかない個性の刻印が押されてあり、例え何歳であったとしても、彼女のようにイノセントなセクシュアリティを持って踊ったり歌ったり出来るような人間はいない。彼女はまるで自分で自分を発明してしまったかのようである」

いかにもマルケスらしい言い方。それはともかく、彼女の踊りをユーチューブで見たりしているうちに、私も「誰のものとも似つかない個性の刻印」に魅了されたというわけ。
でも、シャキーラのことはまた機会があったら別のところで書こう。

ロダーリ再び

ジャンニ・ロダーリのことは前も書いただろうか?
特に素敵なやつを引用してやろうと思いながら読んでいたのだが、これだ!というのはなかった。全体にはとてもいい本だと思う。でも、お話を毎日できる父親には絶対なれそうにない(涙)。

あとは、ニザーミー『ホスローとシーリーン』(東洋文庫)なんかを読んだり。
どんだけ美男美女なんだ! とか想像しながら読むのは楽しい。