変人論


 「変人」あるいは「変なヤツ」という言葉がちょっと気になっている。
というのも、大抵の人は自分のまわりには変な人が多い、と思っているようだからである。世の中そんなに変な人ばかりでは成り立たないから、これはどうや ら一種の愛情表現であるらしい。簡単に言えば、通勤電車に乗っている他人は無個性に見え、深い付き合いをもった相手は個性的でかけがえのない、「変なヤ ツ」ということになるのであろう。
したがって、「変人」「変なヤツ」に囲まれていると信じて暮らしている人は、その他大勢の人々を「普通」と認識していることになるから、これは意外に排他的な言葉なんじゃないか。
「普通」であること、「変」であること。この二つはどうやらかなり複雑な問題をはらんでいるようだ。「個性」やら「独創性」やらが重要だと言われるよう になって久しいが、現実には普通の人たちが仲間をつくって自分たちを「変人」と呼び合っているだけなのかもしれない。(2002.4.10)

追記:渋谷のカラオケボックスにて大学時代の友人と遊んだときに撮影。

絨毯


 前にちょっと書いたイランの遊牧民カシュガイ族特産の絨毯「ギャッベ」を、ついに買ってしまった。
そんなわけで絨毯をあっちの方向から眺めたり、こっちの方向から眺めたり、あるいはのっかってみたりしながら暮らしている。これまで、こういった工芸品 (?)を所有したいと思ったことは一度もなかったのだが、やっぱ30歳になってついに「大人化」したのだろうか。
布とか織物の類の魅力というのは本当に不思議だ。世界を布に喩えたくなる気持ちもなんとなく分かる。一度でいいから自分で糸から布をつくってみたいと思 うのだが、手先が器用とはいえない私には無理かもしれない。手軽なところではやっぱ編み物だろうか。この絨毯の上で編み物をすることを考えるとちょっと恍 惚としてしまうが、なんとなくヤバイ世界に突入してしまいそうな気もする。(2002.4.10)

斎藤美奈子『文章読本さん江』

斎藤美奈子『文章読本さん江』
(2002年2月、筑摩書房、1700円)

もう一つの文章読本?

やっと出た、ついに出た、ようやく出た。『妊娠小説』につぐ本格的な文芸評論!
というわけで、前回に引き続き評者がうかれているだけの書評になりそうでコワイ。なんといったって僕は斎藤氏の大ファンである。集めモノの時事的な評論もいいし『紅一点論』『モダンガール論』もそれなりに面白かったが、待ってたのはやっぱこれであった。
さて今回斎藤氏の攻撃の的になっているのは、小説ではなく「文章読本」である(「妊娠小説」同様、これもオトコの独壇場である)。僕はそういう種類の本 をちっとも読んだことがないのだが、それはそれ。悪口は知らない人の悪口でも面白い、というわけでもないのだろうが、十二分に楽しめる。
そんなわけで、「文章読本」ていうヘンテコなジャンルがあるよね、というところからこの評論は始まる。「文章読本」というのは偉い作家や学者の先生たち が、素人向けに「文章の書き方」を教えてくださる、というありがたい本であるらしい(ただし実用性はあまりない)。僕は谷崎潤一郎がこの分野の先駆者であ ることすら知らなかったのだが、確かに書店にはこのテの本がごろごろしているのを見たことがある。
んでもってこの「文章読本」てやつはどれもなんか胡散臭いし、そもそもジャンル自体がヘンだぞ、という話がこの本の前半戦。蒼々たる顔ぶれの筆者たちを おちょくり、からかう斎藤節はいつもの通りなのだが、より面白いのは後半戦である。学校教育における文章教育(作文、かつての綴り方)の変遷と印刷メディ アとの関連を辿りながら、どうやら「文章読本」のヘンテコ具合はここに根っこがあるらしい、と進んでいくのだが、このあたりの目のつけどころと分析の鋭さ には目を見張るものがある。いやあ、素晴らしい。
しかしながら、斎藤氏の本を読んでいつも思うのは、何のことはない、「いやあ、文章が上手いなあ」だったりするから、これはちょっと問題である。なんと いったって、「文芸批評的、私小説的」として「文章読本」を批判するこの本を読んで、こんな個人崇拝じみたことを書いていてよいのかと思うのであるが、そ こは大目に見てほしい。引用文がたくさんあって、既成の「文章読本」への批判があって、文章の書き方に対する意見が散りばめられている、という点では、こ れだって「文章読本」の一種と言えないこともないのである。
文章についての斎藤氏の基本的な考え方を要約すると、「文は人なり」を否定し、「文章はファッションである」という一言につきる。これはごく平凡な結論 であって、この本がウリとするところは決してそこじゃないのだが、その通りというほかない。ついでに、文章というファッションのスペシャリストたる斎藤氏 の自負のあらわれでもあろう、という点でこれはやっぱ「文章読本」的なのである(別に悪口ではない)。
「あとがき」でも本人が触れている通り「もう降りた」「無責任な野次馬の立場で」というのが、彼女の一貫したスタンスである。それで「上手な文章などには 何の興味も未練もなく」などとすらっと書くわけであるが、先ほども書いた通り、斎藤氏の文章はサイコーに上手である。ファッションでしかない文章をファッ ションとして冷静に扱っているから上手なんだとも言えるわけで、話は複雑である。
ところが僕のような助平なファンは、それでは納得しなかったりする。「斎藤美奈子の書いたもっと生々しい文章が読みたいなあ」、そんな阿呆なことを考え たりするわけである。とはいえこれは明らかに間違った期待であり、斎藤氏がそんなものを書くのは、彼女が呆けたときか、あるいは彼女を混乱させ、驚愕させ るような問題作が登場したときであろう。本当は、こっちのほうの登場を期待するのが筋というものである。

高層ビル


 住んでいるマンションの目の前に高層マンションが完成した。引っ越してきてからずっと工事の進捗具合を眺めながら暮らしてきたわけだから、びっくりした、というのとはちょっと違うのだが、なぜか惚けたように口を開けて見上げてしまう。
再開発にともなって、周囲は古い店が取り壊され、新しく道路が整備されたりと大忙しである。こうした巨大な工事を見ていつも感じるのは、「どう変わるん だろう」という一種の高揚感と、何やらよく分からない無力感のようなものである。この二つはセットになって、子供のころからずっと続いてきたように思う。
たぶん「進歩」と名のつくものは、ほとんどの人にとってそういうものだったのだろう。ときどき、少しは自分もそれに関わったり、あるいは少しは自分にも 関係がありそうだなどと思うが、基本的には自分の意志とは無関係のところでそれは進行していく。(2002.3.18)

追記:まるで進歩の象徴であるかのように取り上げたこの高層マンションであるが、この後、大学の友人がここに引っ越してきたことが判明した。同世代の所得格差が広がりつつあることを実感させる出来事であった。

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』
(2002年2月、木村榮一訳、岩波書店、2700円)

物語が生まれる瞬間

小説の書き方、みたいな本はよくあるけれど、あまり読みたいと思ったことはない。一冊の本で「書き方」が分かるわけはないし、それが分かっているなら、 じゃあなぜ読むんだという話になる。たぶん「お金持ちになる方法」と言われるとなんとなく気になるのと同じ理由なんだろう。
だからこの本を読んでも「物語」が作れるわけじゃない。じゃあなぜ読むんだ? もちろん、もっと別の面白さがあるからである。
30分もののテレビドラマのシナリオを作る。それがこの本に登場する人々の課題である。メンバーが持ち寄ったストーリーをたたき台に、あれこれと話し合いながら、この枠におさまるストーリーを作っていく。
話し合いをリードするのが、作家のガルシア=マルケス。まずはこの場に居合わせたメンバーたちに嫉妬する。なんて楽しそうなんだろう!
この本の面白さのひとつはもちろん、希代のストーリーテラーであるガルシア=マルケス自身の言葉にある。彼が常に話し合いの中心にいることで、よくある 会社の会議みたいにダレることは絶対にない。独自の物語論や映画論はもちろん、絶妙のタイミングで話題を転換し、時に脱線する。率直な言葉は、書き言葉で は味わえない人間味がある。

さらにもう一つの面白さは、物語が生まれる瞬間をとらえた、この本の作りそのものからくる。すんなりと30分におさまるストーリーを求めて、繰り返され る試行錯誤、採用されないアイディア。一度忘れられた展開が復活し、脇役だったはずの人物が主人公になり、邪魔な人物には死んでもらう。あらゆる可能性の なかから一つを選ぶことは、物語を作る人間が神になったかのような錯覚さえ抱く悪しき快楽かもしれないが、同時に、物語は最初から一つの形でしかありえな かったような、そんな気もしてくる。パズルの答えは一つで、その回答は人間が作ったものではないんじゃないか、という気さえしてくる。
そのパズルの答えこそが、ガルシア=マルケスのいう「真実らしさ」なのであろう。どんな突飛な展開でもいい、自分が「信じる」ことのできる物語は、そう多くないのだ。
そんな「物語の生まれる瞬間」をとらえることができたのは、ここにたくさんの「天才じゃない」クリエイターたちが集合したからだろう。彼らの持ち寄った 「物語の種」はいずれも未完成で、でも可能性を隠している。それに彼らが気づかないからこそ、この瞬間が対話のなかで見事に表現できたのだろう。
人物のイメージ、あるシチュエーション、場所の雰囲気。メンバーたちがこだわる細部はさまざまだが、それにこだわるあまり、「語る」というある意味では 冷徹な作業がおざなりになっている。そこへ我らがガルシア=マルケスがやってきて不必要な部分を痛快なくらいにばっさりと片づける。彼は「面白ければなん でもいい」と思っているフシさえある。
やっぱガルシア=マルケスは語りのヒーローなのだ。

ところで話は変わるが、「物語ること」は何も映画やテレビ、小説などに限られない。僕たちはみな日頃から物語を作りながら、語りながら暮らしている。と きどき、びっくりするくらいそれの上手な人がいて、羨ましく思う。みんな物語に騙されるのが好きだから、そういう人は当然人気者だ。
そういえば、ガルシア=マルケスにまつわる「物語の種」を、僕も一つ持っている。
高校生の頃、ガルシア=マルケス本人じゃないかと思う人に会ったのだ。いや、「物語る」なら思い切って「会った」と書くべきかな。
そのとき僕は銀座を歩いていた。映画『予告された殺人の記録』のプロモーションで、ガルシア=マルケスが来日していた。僕は「あ、マルケスだ」と思った ものの、確信はなかった。あるいは単にちょっと顔が似ているラテン・アメリカ人だったかもしれない。小説のカバーにある小さな写真しか見たことがなかった から、自信がなかったのだ。
僕はその人物と連れの二人をこっそり追跡した。
さてここから何か面白い話が展開しそうな気がするのだが、事実はつまらないものだ。しばらく銀座の街をそのラテン・アメリカ人を尾行しながら歩いた僕は、結局怖じ気づいて追跡をやめてしまったのである。
別に、オチは「全然別人だった」でもいいのだ。どうやったらこれを面白く語れるのかな。ガルシア=マルケスにアドバイスをもらえたら、どんなにいいだろう。まずは話しかけたことにしないと物語が展開しないぞ、とでも言われるのかな。

歯医者


 歯医者に通っている。たぶん二十年ぶりくらいじゃないだろうか。麻酔をかけた口腔の感覚や歯を削る不快な音など、すっかり忘れかけていた感覚を思い出した。歯医者への道すがら、どうしても行くのが嫌で足が止まりそうになったこともあったっけ。
今だって歯医者へ行くのが嬉しいわけではないのだが、やめて遊びに行っちゃおうか、などと考えないところがやはり大人になったのだと思う。嫌だなと思いつつも足はすたすたと歯医者へ向かう。
途中、団地の屋上に時計塔があり、その向こうに月が見えたので写真を撮った。でも別に歯医者が嫌で時間稼ぎをしたわけではないのである。(2002.2.22)

リー・ソトリンガー著『グランドセントラル駅・冬』他

リー・ストリンガー著『グランドセントラル駅・冬』
(中川五郎訳、2001年11月、文芸春秋、2190円)

アメリカのまわりをうろうろする読書

本を読むことと書評を書くことはまったく別の作業なのだけれど、それがだんだんそうじゃなくってくる、というお話。結論を先に書くと、書評はあまりたくさん書くべきではない。たくさん読んだなかで、「お、これは」と思ったものについてだけ書くのがやはりベストだろう。

まず最初に読んだのは『グランドセントラル駅・冬』。ニューヨークの路上生活者が書いたという本だ。これがすごくよかった。書評を書こうかなと思いつつ、よい切り口がなかなか思いつかなかった。
そうこうしているうちに、続いて人に勧められた『ファストフードが世界を食いつくす』を読んだ。これも全然別の意味で大変面白い。とはいえ、ちょっと前 に出た本であるし、内容を紹介するだけではつまらない。どうしようかと思っているうちに、ふと思いつく。ファストフード産業についての本であるけれども、 原題はFast Food Nationである。もちろん、このネイションはアメリカ合衆国だ。もう一冊読んで、いっちょアメリカのことでも書いてやろう。
アメリカといえばやっぱディズニーである、ということで(なんといういい加減な)買った本が『ディズニーとは何か』。前の二冊ほどではないが、不純な動 機で買った割には、楽しめた。ついでに本のなかで紹介されていた『南部の唄』という黒人差別で問題になったディズニー作品も見て(これはイマイチだっ た)、準備は整った。さあ、あとは書評を書くだけだ。

僕が思い描いた筋書きは大体こんな具合である。
普通の人が考える「アメリカらしさ」のほとんどは、「大衆文化」と言い換えられるんじゃないか。ディズニーの何がアメリカらしくて、何が大衆文化的なの か。それを問うのは難しいけれど、ディズニーの歴史をひもとくと、アメリカの産業史とパラレルにこの「アメリカらしさ」が作られていった経過がなんとなく 見えてくる。
そして「アメリカらしさ」がダイレクトに世界に対して影響するのは、娯楽よりも食文化を通してだろう。もちろん、コカ・コーラやマクドナルドのハンバー ガーなんかを通してである。ここでも「アメリカらしさ」は、ある恣意的な歴史によって作られたものであり、ハンバーガーやフライドポテトの「アメリカらし さ」には文化と産業が分かちがたく結びついた独特の意味内容を持っている。
だからこそ、「アメリカらしさ」は海を超えて世界を席巻しているのだ。それは決して単なる二つの文化の争いではない。アメリカ文化優位に進められるアン バランスな戦いですらない。それは常に何か違う次元のものとして僕たちの生活に入り込む。この「アメリカらしさ」は一種の発明なのだ。
ざっとこんなところまでは、なんとかまとまりそうに思えた。

問題は最後に『グランドセントラル駅・冬』をどう位置づけるかであった。世界経済の中心たるニューヨークの路上生活を描いたこの本をある種のアンチテーゼとしてもってくるのはよいとして、一体これはアメリカ的なのかそうじゃないのか。
カート・ヴォネガットも賞賛するこの著者の文才を、むしろ「本当の」アメリカ文化の最良の部分として考えるのか、あるいは上でまとめた「アメリカらしさ」と戦う最前線の闘士として取り上げるべきなのか……。
そんなことを考えていたら、なんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。結局、どちらだっていいのだ。どちらを「アメリカらしさ」と捉えたところで、自分の尻尾をつかまえて走っているようなものだ。
大体、アメリカのことを書くのに、本三冊で十分なわけがない。
アメリカのことを書くのに、実際に住んだ経験のことは書かなくていいのか。
ディズニーのことを書くのに、好きなドナルドダックの『三人の騎士』のことは書かなくていいのか。
ファストフードについて書くのに、自分がかつてマクドナルドで働いた経験のことは書かなくていいのか……。
アメリカをめぐる僕の考えはひたすら空転した。

想像していた以上に、僕はアメリカのなかにどっぷり浸かって生きているようだ。アメリカに関する問いは単純ではない。それはたとえばアメリカという国が なかったとしても、きっと「アメリカらしさ」は存在するだろうということでもあるし、自分がすでにかなりアメリカ人である、ということでもある。批判はす ぐにすべてのものに、とりわけ自分のほうへと向かってくる。
アメリカ人の多くがほとんど世界=アメリカ合衆国という宇宙観(?)を持っていたのに僕は驚いたけれど、それはある意味で真実をついているのかもしれない。今や世界にはアメリカが濃い場所とアメリカの薄い場所があるだけなのかもしれないからだ。

そんな訳で(どんな訳か?)、三冊の本を紹介しながらアメリカについて考察するという大それた野望はもろくも失敗に終わり、結局、無理をしてたくさん書 評を書くべきではない、という教訓だけが残った。そして冬季オリンピックがアメリカで開幕し、僕はいかにも「アメリカ的な」演出に文句を言いながらそれを 見ている。
そんなことはともかく、せめて『グランドセントラル駅・冬』の面白さだけでもちゃんと伝えられなかったのか。非常に残念な気持ちでいっぱいである。

トンネル

 小説や映画の冒頭でトンネルが出てくれば、ほぼそれは異世界への入口という約束に なっている。暗黒の向こう側には雪国があったり、妖怪たちが湯屋に通う世界があったり。けれども私たちがよく知っているこの世界では大抵の場合、トンネル の向こうはこちら側と何も変わったところのない、見慣れた世界である。そういう意味で非日常は、トンネルの向こう側ではなく、中にあるのだ。
この比喩は人生とか歴史とかにも応用できるかもしれない。トンネルのなかに長くいると、向こう側に過剰な期待をかけてしまいがちだ。実際、暗闇に慣れた 目に外はまぶしく輝いて見えることだろう。トンネルを抜けるあいだに、自分が変わったと感じられるからかもしれない。でも美しく感じられた日常の世界はじ きに新鮮さを失っていくだろう。
かつて、トンネルに入ることは人生の一大事だった時代があったのであろうな、と想像する。今や人間はトンネルに出たり入ったり、大忙しだ。トンネルの数 は増えたが、それぞれは短く、穴だらけになってしまった。穴だらけの世界に長い立派なトンネルを掘るのは大変だ。(2002.1.31)

追記:写真は鎌倉にて撮影。

ボウリング

ボウリングが好きだ。
なぜ好きなのかと問われるとよく分からない。「ボウリングは10本のピンと向かい合う宗教のようなものだ」とか(?)、テキトーな嘘を言ってごまかす。
本当はたぶんあの何とも言えない情けない気分がいいのだ。今度こそいい点が出ると思ってやると、やっぱりうまくいかない。ほんの少し調子がよいとすぐにいい気になったりするのも、実に情けない。
もしプロのように上手だったら逆に面白くないのではないかとも思うのだが、それは単にレベルが違うだけで、本質は同じなのかもしれない。つまりプロだっていつも落胆している、という仮説だ。
ボウリングのもう一つの魅力は、投げるときの独特のフォームだ。人それぞれ実に個性的で、友人が投げているのを見るだけでなんとなく愉快になる。前方か ら写真が撮れたら、友人たちのフォームを並べて楽しみたいのだが、そのためには禁止されているレーンの上を歩かなければならない。ボウリング場はプリクラ 機能のついたカメラを設置すべきだ。(2002.1.11)

追記:写真は高田馬場シチズンボウルにて撮影。