米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』
(2002年10月、集英社、1800円)

嘘つきになれない作家の真実

米原氏が素晴らしい通訳であるだけでなく、卓越したエッセイの書き手だということは知っていた。今度は長編小説、大丈夫なんだろうかと思いながら読み始め た。以下はちょっと複雑な話なので、まずは素直な感想を書こう。面白い。読もうかどうか迷っているなら、買うべし(あるいは借りるべし)。

さて、ここからは本というものを素直に読めない可愛そうな読者の意見である。
問題はごくシンプル。これは本当に「小説」なのか? である。もちろんそりゃ、ご本人が小説だと言っているのだから、小説なんだろう。小説というのは フィクション、創作、嘘のまじった物語ということである。この本のなかにはどんな間の抜けた読者にも作り話と分かる部分がたくさんあるから、なるほどこれ は小説には違いあるまい。
そうでありながら僕は、あれ、これって小説だっけ? ノンフィクションだっけ? とはっきりしない気分のまま読みつづけてしまい、最後まで没頭できかなかった。こんな小説はそう多くない。それのどこが問題かといえば、これは大きな問題である(個人的には)。
ノンフィクションというものは、本がノンフィクションだと言い張るから、書かれていることは真実なのである。もちろん実際には嘘がたくさん混じってい る。それでいいのだ。同じように、フィクションというのは、本がフィクションだと言い張るから、書かれていることは嘘なのである。もちろん実際には真実が たくさん書かれている。したがって、実際にどのくらい嘘がまじっているか、が両ジャンルの違いなのではない。
そして問題を簡単にいえば、前提が違えば読み方も違うのである。どちらのジャンルもその前提でもって読者を魔法にかける。いわば、その世界に「安心して」読み進めるのである。
ところがこの作品、どう考えたってその魔法が機能していない。要するに嘘が上手じゃないのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。考えてみれば答えはけっこう単純だ。作者はいくつかのノンフィクションを継ぎ足して、その接合部分、糊の部分だけ を創作したのである。糊の部分が嘘だから小説ですと言われても、ノンフィクション部分があまりに生々しいから、読者は困るわけだ。
この問題を解決する二つのアプローチが考えられる。嘘が嘘とばれないような糊を使って、ノンフィクションに仕立て上げること。もうひとつは、ノンフィクション部分も最初から嘘つきの文法で語りなおすことだ。
実は、前者の方法なら、作者はもう立派に使いこなしている。前作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店)はまさにそうした大傑作である。
実はこの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、内容的にも手法的にも今回の小説とほとんど同じである。過去の友人を探し当てる旅、その過程で見えてくる東 欧の現代史、そして多感な少女時代の思い出。この本のなかの「白い都のヤスミンカ」を読んで僕は泣いてしまった。まさに魔法にかけられたのである(もちろ んノンフィクションの魔法だ)。当然のことながら、この本のなかにだってフィクションは混じっている。三人の友人を訪ねる旅を三つのエピソードに分けたこ と自体、作為でなくて何であろう? とはいえ、そのくらいは普通、嘘とは言わない。したがってこの本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することができ た。
内容はまったく同じなのに、あっちはノンフィクション、こっちは小説。『オリガ・モリソヴナの反語法』を書くにあたって、ノンフィクションとして書かなかった、あるいは書けなかった理由は何なのだろうか?
作家はすべてを語る必要はない。作家には隠す権利があり、まさにその権利によってフィクションは成り立つと言える。だが米原氏は習慣からかその人柄から か、見せられる真実はすべて明らかにしてしまった。読者としてはある意味で有り難いが、これは小説の面白さとはまったく別の話である。
したがって無理やり結論を書けば、こういうことになる。この本は面白いが、小説として面白いのではない。それでも読者は最後まで小説としてこれを読まなければならない。キツイんだけっこう、これが。


ハミルトン『人間だって空を飛べる』 バートランド『エルヴィスが社会を動かした』

ヴァージニア・ハミルトン『人間だって空を飛べる』
(金関寿夫訳、2002年6月、福音館文庫、700円)

マイケル・T・バートランド『エルヴィスが社会を動かした--ロック・人種・公民権』
(前田絢子 訳、2002年8月、青土社、2800円)

抑圧と反抗をめぐるちょっと複雑な話

まずは全然テーマと関係のない話から。
福音館文庫の創刊が嬉しい。落ち着いた装幀や編集は読者として大人も視野に入れた感じだ。児童文学にかぎらず、子ども向けの本というのは宝の山だ。無駄 なものがそぎ落とされたというか、読書力が衰え、おまけに忙しくて時間のない現代人にはぴったりのものも多い。僕はときどき図書館の児童室へ行くのだが、 そこにある本を片っ端から読んだら、非常に面白いのではないかと思ったりする。まあこれは忙しい現代人というより、暇人の発想であるが。
それでどうしてもこのシリーズから一冊買いたくて選んだのがこれ。アフリカ系アメリカ人の口から口へ伝わる民話を集めた本だ。

前にディズニーのアニメ作品『南部の唄』についてちょっと触れたが、これが問題になったのは、あからさまな黒人差別というより(むしろ内容は「好意的」 とさえいえる)、黒人の描き方におけるステレオタイプだったのではないかと思う。南部において白人が黒人に対して支配的な態度をとっていたのは「事実」な のだから、むしろそれを描かないことのほうが問題なのだから。だからは問題は、黒いリーマスおじさんを白い作り手たちが勝手に「理想化」して描いたことに あった。
子どもたちの人気者、話し上手のリーマスおじさん。
この本のなかには、彼の口から直接聞いたらさぞ愉快であろう(そしてディズニーならそれを喜んでアニメ化したくなるような)、お話でいっぱいだ。動物を 擬人化したドタバタ劇や、辛い境遇でも忘れないユーモア、そしてほんのちょっと感じられる音楽性やリズム、そして自由への憧れ(人間だって空を飛べる!) などなど……。
さて、これらはみなある意味で僕たちが知っているお馴染みの黒人像ではある。いやもしかしたら、そのような存在であってほしいと願っているということか もしれない。そういう意味ではこれは先のディズニー・アニメのネタ本であって、リーマスおじさんの「理想化」と紙一重だ。
訳者のあとがきなんかにもそれは見てとれる。「私はこの本を読んでいて、思わずアメリカのジャズを連想してしまいました。……ジャズの持つ楽しい、軽快なリズムの底には、いつもあの黒人ブルースの、悲しいむせび泣きの声が、はっきりと聞き取れるのです」
間違いだと言うつもりはないけれど、本当にこれでいいんだろうか?

そんなわけで、ここからは「大人の本」の話。
差別というものを仔細に観察すれば、必ずそこには単純化できない複雑な構造があるものだ。白人=抑圧者、黒人=被抑圧者、というような図式ではどうしても抜け落ちてしまうものがある。
『エルヴィスが社会を動かした』が焦点を当てたのはまさにそういう存在としてのエルヴィス・プレスリー、つまり南部の白人労働者階級(いわば白人のなかの 被抑圧者。文化的、階級的には黒人に近い場所にいるが、時にそれは大きな憎悪となって黒人に向かった)である。公民権運動によって人種隔離の撤廃が始まる 前の南部にあった複雑な人種状況に目を向けることで、ロックンロール誕生の意義を解き明かそうというのがこの本の趣旨である。
したがってこの本によればロックンロールは、変わりつつあった白人労働者階級の若者たちの人種観を反映したものであり、その後の人種統合を先取りするとともに文化的な面で促進する大きな役割を果たした、ということになる。
ロックンロールは音楽産業によって作られたものだとか、白人中産階級が黒人文化を物真似し一方的な憧れを託したものにすぎないとか、あるいはどの時代に も見られる若者の反抗的な態度のひとつにすぎないとか、さまざまな見方に一つ一つ批判を加え反証していく努力が涙ぐましく、そしてこの本は大変長い。
エルヴィスがゴスペルやR&Bといった音楽にどのような尊敬の念を抱いていたか、あるいは逆に当時の上層階級がエルヴィスの音楽にどう反応したか。全体はやや冗長であるが、細かいエピソードの積み重ねが非常に面白いので、この分野に興味のある向きにはお勧めだ。

さて今回もうまく話がまとまりそうにないので、さらに話を飛躍させることにしよう。
このあいだ深夜にテレビを見ていたら、奇妙なライブを放送していた。それが、エリザベス二世の在位五〇年(だったかな?)を祝うバッキンガム宮殿での記念ライブだと理解するまでに、結構時間がかかった。
登場したのは、エリック・クラプトン、オジー・オズボーン、ジョー・コッカー、ポール・マッカートニー……などなど毎度お馴染みの年寄りロック・ミュー ジシャンばかり。「アメリカからの代表」ということで「本当はエルヴィスがよかったんだけど(司会)」ということで登場したのはブライアン・ウイルソン。
女王や王子たちを前に、まるでかつての宮廷お抱えの音楽家のようにうやうやしくロックが演奏されるという不思議な光景を見ながら思ったのは、「みんな成り上がったんだなあ」という非常に身も蓋もない感想だった。
そこに集まって大騒ぎをしている観客、そして優雅に深夜一人でテレビなんかを見ている僕も含めてである。今われわれは女王さま王子さまたちと同じものを 楽しんでいるわけだ。労働者階級の音楽は宮廷音楽になり、人々はみんなそれを平等に楽しみました。めでたしめでたし、というわけである。
人は成り上がって豊かになったとき、世界全体がよくなったような錯覚を抱くものだが、もちろんそれは勘違いである。この場合成り上がったのはアメリカや イギリスの労働者(もちろん黒人も含めて)であり、日本人でもあるが、なぜそんなことが可能だったかといえば、ここから先はまああの悪名高い「一〇〇人の 村」でも有名なお話だ。

昔話にせよロックンロールにせよ、かつての「純粋形態」を探し懐かしむことはできる。けれどももっと大事なのは、これからどうしようという話だ。ちょっ と生真面目な言い方をすれば、どんな音楽を奏で、どんな物語を紡いでいくべきなのか。もちろん答えが簡単にでるわけもないのだけれど、少なくとも「成り上 がってしまった」僕たちとしては、抑圧されたもの、あるいは権威への反抗というイメージそのものを、ちょっと見直してみる必要がありそうなことは確かだ。


ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』
(芝まりこ訳、2002年7月、ブルース・インターアクションズ、1900円)

イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』
(菅啓次郎訳、2002年7月、国書刊行会、2400円)

ラテン・アメリカの女性たち

書評などといつつ自分のことばかり語っているようでちょっと恥ずかしいのだけど、またしても思い出話から。
ブラジル音楽が大好きな僕にとっては幸運というより他にないのだけれど、雑誌の編集者になって初めてインタビューの仕事をした相手がこのジョイスだった。そのとき初めてこの本の話を聞いたのだが、まさか翻訳は出ないだろうと思っていたから、ちょっと驚きだ。
初めてのインタビューということで、僕は緊張していた。気合いを入れていくつかの質問を用意していたのだが、インタビューというものはあまり思い入れが強すぎるとうまくいかない、と知ったのはもう少し後のこと。
中でも覚えている恥ずかしい質問は、彼女が作曲家として、歌手として、ギタリストとして、もっとも尊敬する人は誰か? と尋ねるものであった。ジョイス の答えはというと割と普通で、作曲家はアントニオ・カルロス・ジョビン、歌手はエリス・レジーナ、ギタリストは三人いて、トニーニョ・オルタとジョアン・ ジルベルト、ドリ・カイミ。こういう聞き手の思い入ればかりが強すぎる質問は後でうまく記事にならないのである。
そして加えて、僕はもう一つ訊いたのだった。ではフェミニストとしてもっとも尊敬するのは誰? それに彼女は「私の母」と答えた。
会社に帰った僕はテキトーな記事を一つでっちあげたが、もっとも感銘を受けたこの最後の答えについては何も書けなかった。思えば実に情けない話である。
さて、ジョイスのお母さん、どんなお母さんだったのかと思ってこの自伝を読めば、こんな具合だ。
「私の母は働き者の代表ともいうべき公務員で、持ち前のバイタリティで生をのぼりつめた人」「八十歳代の今でもビーチで過ごし、肌の色はブロンズ色のままである」「彼女にとっては、家はビーチに歩いていける距離でなければ話にならないのだ」

ジョイスはブラジルのミュージシャン、イサベル・アジェンデはチリ出身の作家であるけれども、ラテン・アメリカを代表する女性の表現者ということで、無 理やり一緒にとりあげた。もっとも、とりとめのない組み合わせのようではあるが、年齢も六歳しか違わないし、意外と共通点が多いようにも思える。二人と も、若い頃にフェミニズムの洗礼を受け、ある時代には彼女たち自身が「フェミニスト」と考えられた。ただ今はそこからちょっと距離をとっているように見え る。
ところで、フェミニストとして私は自分の母親を尊敬する、という言葉の意味は意外に深いんじゃないだろうか、と僕は思った。それは彼女の母親がフェミニ ストとして模範的な人生を送ったという意味ではないはずだ。たぶんそれは、自分が女性であることを肯定的にとらえることと関係があるのではないだろうか。 母を認めることができずに、どうやって自分を認めることができるだろう?
フェミニズムに限らず、「新しい思想」の弱点はいつだって、古いものを否定するあまり、自分の足下をも堀崩してしまうことだろう。

一方、『精霊たちの家』で知られる作家のノンフィクションはといえば、不治の病の床にあって意識のない娘パウラに、「きみが目を覚ましたとき、自分は いったい誰なのかと、途方にくれないですむように」、母イサベルが一族の歴史を語りきかせるという物語。ちなみに、有名なアジェンデ大統領(1970年世 界で初めて普通選挙によって選ばれたマルキシストの大統領。のちにクーデターによって殺される)は彼女の親戚だ。
ここでも母と娘、である。こちらは母のほうが娘に語りかけるのであるけれども、彼女自身の母親もまた重要な役割を果たすから、祖母、母、娘の三代にわた る物語であるとも言える。もちろんアジェンデのほうがジョイスよりもずっと意識的に自分とフェミニズムの関係、そして母親との関係についても書いている が、もちろんそれが物語の本筋というわけではない。物語の中心はあくまでも死にゆく娘の人生と母の人生、そしてチリと一族の「歴史」だ。
母は娘に「きみ」と語りかける。スペイン語の二人称 tu をこう置き換えた訳者の菅啓次郎に敬意を表するべきだろう。ふつう母親が娘に語りかける小説的な日本語は「お前」だろうか「あなた」だろうか。いずれにせ よ不自然で、普通は○○ちゃんとか○○さんとでも呼ぶのかもしれないが、この小説では、この親密で対等な「きみ」がなんともぴったりなのだ。
「目を覚ますとき、きみはどんな風になっているかしらね。おなじ女性にまた会えるんだろうか、それとも私たちは、二人の未知の女どうしとして、知りあいなおす必要があるのだろうか」
結局、パウラは「精霊」となってこの世を去ってしまうのであるが、小説の最初から意識のない彼女は、読者にとって最初から「精霊」のような存在である。 その「精霊」に母親が語って聞かせる物語のほうは、女として生きる苦労、喜び、痛み、矛盾だらけの人間らしさそのものである。そのあたりの対比が文学とし ては見事ということになるのだろうが、先のフェミニズムの話に戻れば、これはすごく示唆的な状況でもある。
伝統的な母と娘の関係とは、まさに娘を「霊化」しようとすることの失敗ではないか。つまり娘の性的な側面を否定し、どこまでも抽象的な「女」にすること。もちろん同時に、娘が大人になることは、母親が「精霊」ではないことの発見に他ならない。
「フェミニスト」たるアジェンデ家の母娘関係は恐らくその反対であったことであろう。母も娘もつとめてお互いに対等な「人間=女」あろうとしたはずだ。だからこそ、娘を「生のほうへ」呼び戻そうとして、母は物語るのだ。

あれれ、えらく理屈ぽくなってしまった。
ジョイスの音楽は好きだけど、自伝のほうは内容も翻訳もイマイチ。でも二冊に共通したある「臭い」があって、僕はそれがすごく気になったのでそれを無理に理屈にしたらこんな風になってしまった。
たぶん二人は言うだろう。そんな理屈はいいから、私の音楽を、私の物語を楽しみなさい。そのあたりがなんかリアルに想像できるところも、似ている。


斎藤美奈子『文章読本さん江』

斎藤美奈子『文章読本さん江』
(2002年2月、筑摩書房、1700円)

もう一つの文章読本?

やっと出た、ついに出た、ようやく出た。『妊娠小説』につぐ本格的な文芸評論!
というわけで、前回に引き続き評者がうかれているだけの書評になりそうでコワイ。なんといったって僕は斎藤氏の大ファンである。集めモノの時事的な評論もいいし『紅一点論』『モダンガール論』もそれなりに面白かったが、待ってたのはやっぱこれであった。
さて今回斎藤氏の攻撃の的になっているのは、小説ではなく「文章読本」である(「妊娠小説」同様、これもオトコの独壇場である)。僕はそういう種類の本 をちっとも読んだことがないのだが、それはそれ。悪口は知らない人の悪口でも面白い、というわけでもないのだろうが、十二分に楽しめる。
そんなわけで、「文章読本」ていうヘンテコなジャンルがあるよね、というところからこの評論は始まる。「文章読本」というのは偉い作家や学者の先生たち が、素人向けに「文章の書き方」を教えてくださる、というありがたい本であるらしい(ただし実用性はあまりない)。僕は谷崎潤一郎がこの分野の先駆者であ ることすら知らなかったのだが、確かに書店にはこのテの本がごろごろしているのを見たことがある。
んでもってこの「文章読本」てやつはどれもなんか胡散臭いし、そもそもジャンル自体がヘンだぞ、という話がこの本の前半戦。蒼々たる顔ぶれの筆者たちを おちょくり、からかう斎藤節はいつもの通りなのだが、より面白いのは後半戦である。学校教育における文章教育(作文、かつての綴り方)の変遷と印刷メディ アとの関連を辿りながら、どうやら「文章読本」のヘンテコ具合はここに根っこがあるらしい、と進んでいくのだが、このあたりの目のつけどころと分析の鋭さ には目を見張るものがある。いやあ、素晴らしい。
しかしながら、斎藤氏の本を読んでいつも思うのは、何のことはない、「いやあ、文章が上手いなあ」だったりするから、これはちょっと問題である。なんと いったって、「文芸批評的、私小説的」として「文章読本」を批判するこの本を読んで、こんな個人崇拝じみたことを書いていてよいのかと思うのであるが、そ こは大目に見てほしい。引用文がたくさんあって、既成の「文章読本」への批判があって、文章の書き方に対する意見が散りばめられている、という点では、こ れだって「文章読本」の一種と言えないこともないのである。
文章についての斎藤氏の基本的な考え方を要約すると、「文は人なり」を否定し、「文章はファッションである」という一言につきる。これはごく平凡な結論 であって、この本がウリとするところは決してそこじゃないのだが、その通りというほかない。ついでに、文章というファッションのスペシャリストたる斎藤氏 の自負のあらわれでもあろう、という点でこれはやっぱ「文章読本」的なのである(別に悪口ではない)。
「あとがき」でも本人が触れている通り「もう降りた」「無責任な野次馬の立場で」というのが、彼女の一貫したスタンスである。それで「上手な文章などには 何の興味も未練もなく」などとすらっと書くわけであるが、先ほども書いた通り、斎藤氏の文章はサイコーに上手である。ファッションでしかない文章をファッ ションとして冷静に扱っているから上手なんだとも言えるわけで、話は複雑である。
ところが僕のような助平なファンは、それでは納得しなかったりする。「斎藤美奈子の書いたもっと生々しい文章が読みたいなあ」、そんな阿呆なことを考え たりするわけである。とはいえこれは明らかに間違った期待であり、斎藤氏がそんなものを書くのは、彼女が呆けたときか、あるいは彼女を混乱させ、驚愕させ るような問題作が登場したときであろう。本当は、こっちのほうの登場を期待するのが筋というものである。


G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』

G・ガルシア=マルケス『物語の作り方 ――ガルシア=マルケスのシナリオ教室』
(2002年2月、木村榮一訳、岩波書店、2700円)

物語が生まれる瞬間

小説の書き方、みたいな本はよくあるけれど、あまり読みたいと思ったことはない。一冊の本で「書き方」が分かるわけはないし、それが分かっているなら、 じゃあなぜ読むんだという話になる。たぶん「お金持ちになる方法」と言われるとなんとなく気になるのと同じ理由なんだろう。
だからこの本を読んでも「物語」が作れるわけじゃない。じゃあなぜ読むんだ? もちろん、もっと別の面白さがあるからである。
30分もののテレビドラマのシナリオを作る。それがこの本に登場する人々の課題である。メンバーが持ち寄ったストーリーをたたき台に、あれこれと話し合いながら、この枠におさまるストーリーを作っていく。
話し合いをリードするのが、作家のガルシア=マルケス。まずはこの場に居合わせたメンバーたちに嫉妬する。なんて楽しそうなんだろう!
この本の面白さのひとつはもちろん、希代のストーリーテラーであるガルシア=マルケス自身の言葉にある。彼が常に話し合いの中心にいることで、よくある 会社の会議みたいにダレることは絶対にない。独自の物語論や映画論はもちろん、絶妙のタイミングで話題を転換し、時に脱線する。率直な言葉は、書き言葉で は味わえない人間味がある。

さらにもう一つの面白さは、物語が生まれる瞬間をとらえた、この本の作りそのものからくる。すんなりと30分におさまるストーリーを求めて、繰り返され る試行錯誤、採用されないアイディア。一度忘れられた展開が復活し、脇役だったはずの人物が主人公になり、邪魔な人物には死んでもらう。あらゆる可能性の なかから一つを選ぶことは、物語を作る人間が神になったかのような錯覚さえ抱く悪しき快楽かもしれないが、同時に、物語は最初から一つの形でしかありえな かったような、そんな気もしてくる。パズルの答えは一つで、その回答は人間が作ったものではないんじゃないか、という気さえしてくる。
そのパズルの答えこそが、ガルシア=マルケスのいう「真実らしさ」なのであろう。どんな突飛な展開でもいい、自分が「信じる」ことのできる物語は、そう多くないのだ。
そんな「物語の生まれる瞬間」をとらえることができたのは、ここにたくさんの「天才じゃない」クリエイターたちが集合したからだろう。彼らの持ち寄った 「物語の種」はいずれも未完成で、でも可能性を隠している。それに彼らが気づかないからこそ、この瞬間が対話のなかで見事に表現できたのだろう。
人物のイメージ、あるシチュエーション、場所の雰囲気。メンバーたちがこだわる細部はさまざまだが、それにこだわるあまり、「語る」というある意味では 冷徹な作業がおざなりになっている。そこへ我らがガルシア=マルケスがやってきて不必要な部分を痛快なくらいにばっさりと片づける。彼は「面白ければなん でもいい」と思っているフシさえある。
やっぱガルシア=マルケスは語りのヒーローなのだ。

ところで話は変わるが、「物語ること」は何も映画やテレビ、小説などに限られない。僕たちはみな日頃から物語を作りながら、語りながら暮らしている。と きどき、びっくりするくらいそれの上手な人がいて、羨ましく思う。みんな物語に騙されるのが好きだから、そういう人は当然人気者だ。
そういえば、ガルシア=マルケスにまつわる「物語の種」を、僕も一つ持っている。
高校生の頃、ガルシア=マルケス本人じゃないかと思う人に会ったのだ。いや、「物語る」なら思い切って「会った」と書くべきかな。
そのとき僕は銀座を歩いていた。映画『予告された殺人の記録』のプロモーションで、ガルシア=マルケスが来日していた。僕は「あ、マルケスだ」と思った ものの、確信はなかった。あるいは単にちょっと顔が似ているラテン・アメリカ人だったかもしれない。小説のカバーにある小さな写真しか見たことがなかった から、自信がなかったのだ。
僕はその人物と連れの二人をこっそり追跡した。
さてここから何か面白い話が展開しそうな気がするのだが、事実はつまらないものだ。しばらく銀座の街をそのラテン・アメリカ人を尾行しながら歩いた僕は、結局怖じ気づいて追跡をやめてしまったのである。
別に、オチは「全然別人だった」でもいいのだ。どうやったらこれを面白く語れるのかな。ガルシア=マルケスにアドバイスをもらえたら、どんなにいいだろう。まずは話しかけたことにしないと物語が展開しないぞ、とでも言われるのかな。