マヌエル・リバス『蝶の舌』

マヌエル・リバス『蝶の舌』
(2001年7月、野谷文昭・熊倉靖子訳、角川書店、1000円)

海の向こうが見える場所

同名映画が静かなヒットを記録しているらしいが、僕はその映画を観ていない。きっといい映画なんだろうと思う。
本のほうは、映画の元になった三つの短編を含めた短編集だ。スペイン西部、ガリシア地方出身の作家。映画の公開でもなければ翻訳出版さえ難しい、地味な本と言えるだろう。
スペインはさまざまな顔を持った国であるのに、どうも日本ではステレオタイプが強すぎるようだ。映画『蝶の舌』を観た人は、「これがスペイン?」と思ったのではないか。それほど、ガリシアという場所は、日本人がもつ一般的なスペイン像からかけ離れている。
十年近く前にガリシア地方に列車で入っていったときのことをよく覚えている。風景は劇的に変わった。スペイン中央部の渇いた茶色は、突如として緑に覆わ れ、空気は湿っぽくなった。実際に霧が出ていたかどうかは分からないが、僕の記憶のなかでは、ガリシアの緑は霧のなかに煙って見える。
スペインの辺境として今も豊かとは言えないこの地方には独自の言葉と文化があり、中央の政治にいつも翻弄されてきた歴史がある。でも、貧しい人々が見て いたのは「中央」だけじゃない。大西洋に面した地の利から、新大陸への移住というもうひとつの選択とのあいだに暮らしていた。僕にはこの地方の文化を深く 知るだけの時間がなかったけれど、すぐにこのスペインらしからぬスペインが好きになった。

そんなガリシアの地方性がにじみ出た最初の三作(映画の原作)は、この短編集では異色といえる部類に入る。スペイン内戦を描いた表題作と、新大陸への憧 れを描いた「霧の中のサックス」(ガルシア・マルケスが激賞しているらしい)。この二つをもって、ガリシアが経験した極端な二者択一がうかがわれるが、残 りの作品は、意外にも(?)現代的でポップな作品が多い。
そのポップのあり方に、すごく感心した。なんというか、すごくバランスがいいのだ。
短編の多くが世代間のギャップを扱っている。子供と大人、大人と老人、さまざまなすれ違い。あるいは、年を重ねるとともに感じる、一人の人間のなかの世代ギャップ。ある意味ではすごく普遍的で、ありふれた物語たち。
ガリシアのサッカーチーム、デポルティーボ・ラ・コルーニャを応援しながら喧嘩する親子の話、「ミスターとアイアン・メイデン」なんか、実に他愛もな い。アイアン・メイデンのTシャツを着た息子と、熟練漁師の父親。二人は喧嘩の後、無言のまま漁に出かけるのだが、突然舟が座礁する。以下は息子が父親を 助けようとする最後の場面。

「彼はアイアン・メイデンの妖怪のように身体に電流を受け、腕をぐるぐる回しながら、タッチラインめがけて走る。敵の選手を次々にかわし、ロスタイムに 三つ目のゴールを決めたところだった。そして今、彼はデポルティボのサポーターたちが振る青と白の旗の前で、長い髪をなびかせながら、タッチラインめがけ てスローモーションで走る。若者は白髪のコーチを抱きしめようと両腕を広げ、タッチラインを越えて走り続ける」

若者の物語だからポップなのではない。若者の風俗が描かれるからポップなのでもない。むしろ世代間のギャップをささやかな形で乗り越えてみせるからこ そ、時代の軽さが表現できるのであり、世代という重い鎖からふと自由になれるのだと感じた。明らかに、日本の多くの若手作家が怠っている試みだと思う。
ちなみに翻訳本では、「アイアン・メイデン」や「エアロスミス」に大真面目な注釈が入っていて、結構笑える。フェルメールやブルトンには注釈がない。と いうことは、想定読者対象がおのずと見えてくる。僕にはむしろフェルメールに注釈が必要な世代に読んでほしい気もしたのだけれど。
もっとも、こういう作家が存在すること自体、やっぱりガリシアの地方性と無関係ではないのかもしれない。大きなメジャーな文化ほど、世代のギャップは大きくて、乗り越えがたいものなのかもしれない。
仮にそうだとしても、この素敵な作家に見習うべき点は多い気がする。

ところで僕のスペインの旅行はカスティリャからガルシア、アンダルシアときて、カタルーニャの首都、バルセロナにたどり着いた。カタルーニャといえば、 ヨーロッパの中心にもっとも近い、これまた誇り高い地域。ここの名門サッカーチーム、バルセロナFCとデポルティーボ・ラ・コルーニャの試合へ行った。
スタジアムはバルセロナの応援一色、カタルーニャ語の応援歌がとどろいていた。ラ・コルーニャの劣性は明らか。あっという間にスコアは3対〇だ。僕は覚えたてのスペイン語を口に出してみた。「かわいそうなラ・コルーニャ」。
遠く日本を離れてスペインを旅行していた僕の心境は、どうしたってガリシア人に感情移入せざるをえない感じだったわけだ。それを耳にした隣のカタルー ニャ人は私がラ・コルーニャを応援しているらしいのを、笑った。「かわいそう」は何も知らない東洋人だとでも思ったのだろう。
ラ・コルーニャの貧しい港町を思い出す。その先には見えない新大陸があって、僕は、コロンブス以来多くの人がそこで感じてきた憧れをちょっとだけ共有した。ヨーロッパの名門チームが何だ。頑張れ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ!


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