アウグスト・モンテロッソ礼賛

ラテン・アメリカ文学マニアというほどではないものの、本屋でもこの分野の棚は大体チェックしているつもりでいた。それなのに、こんな素晴らしい作家がいたことを知らなかったなんて、とても恥ずかしい。おまけに、もう亡くなっているではないか(2003年)。遅れたぶんを取り返すというわけでもないが、なんとかその素晴らしさをここにきちんと書いておきたい(たぶん無理だろう)。

もっとも言い訳ではないが、ホンジュラス生まれのグアテマラ人(メキシコで活動)という経歴も地味なら(失礼)、日本の出版社や装丁も地味(失礼)、ついでに作風も決して派手とはいえない。ご本人もそれは分かっておられるようで、グアテマラの片田舎でシューベルトの「未完成交響曲」の残りを発見したのに世界から完全に無視されるという愉快な話も書いておられる(「完成交響曲」)。たとえば、先のオリンピックのサッカーで目立ったのは明らかにメキシコとホンジュラスの活躍だと思うが、大抵の人はもうそれを忘れているだろう。この人がフランス人だったらとかいう仮定は成り立たないとは思うものの、ちょっと悔しい感じはある。

アウグスト・モンテロッソについてもっとも知られているのは、この人が世界でもっとも短いひとつの文章だけでできた短編作品を書いたということにあるようだ(「恐竜」。気になるようなら、検索するだけでこの短編は数秒で読める)。しかし現在2冊でている邦訳のうち、どちらを先に読むべきかといえば、この名高い世界最短小説を収録した『全集 その他の物語』よりも、『黒い羊 他』を勧めたい。

『黒い羊 他』にはさまざまな動物たち、神話上の有名人、などなどが登場する。作家になりたいサル、相対性理論に気づいたキリン、趣味に没頭するペネロペ、矢に追われながらゴールしたカメ、詩を書くブタさん、ロバと横笛の恋(?)などなど、愉快な話だらけ。イソップ童話のような雰囲気をもちつつ、笑いと謎にあふれ、カフカのアフォリズムのような切れ味もあるような、ないような。冒頭に掲げられた謎のエピグラフ(?)「動物たちは、あまりにも人間に似ていて、ときとして区別がつかないほどである」だけで、なんとなく笑ってしまう(これにはオチがあるのだが、ここではもったいないので触れないでおく)。ついでに、翻訳もすごくいい。

訳者のあとがきによればラテン・アメリカでも「作家のための作家」として、通好みな作家らしい。たしかに、書くことや表現することそのものをテーマにした面白い作品がいくつかあって(私のお気に入りは朗読したくてうずうずしている大統領夫人の話)、こういうのは意外に一般ウケしないのかもとも思う。しかしそれだけではないし、全体にとても読みやすく、笑いにあふれ、難解さとはほど遠い。短くて味わい深く、何度も読み返せる。人に読んであげたくなる。だんだんTVショッピングの宣伝みたいになってきたから、この辺でやめよう。まあ、モンテロッソの短編集をコマーシャルでラクダとかキツネが宣伝していたら、それはそれでモンテロッソの作品ぽくはある……。

もっとも影響を受けた本?

子どものころうちにあったシリーズ、「母と子のむかし話シリーズ」(研秀出版)。セールスマンが訪問販売などで売っていたらしい。20冊あるなかで、私がたぶん一番影響をうけたのがこの最終巻「中南米の神話物語」である。あらためて再読してみると、自分が何にひかれたのかよく分からないのだが、何か不穏な感じ、明らかに他とは違うひりひりとした(?)世界感であろうか。文章よりも、絵だったのかもしれない。やたら人が死ぬのにもびっくりする(笑)。

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私の人生はつねにこの本の弱い影響下にあったように感じられ、何だか今見ると不思議だ。後にこの本の元ネタのひとつがマヤの神話『ポポル・ヴフ』であることを知った。三島由紀夫が推奨していて、挿絵をかのディエゴ・リベラが描いていて、これも大変美しい本(特に1972年に再版されたものがカラーの挿絵ですばらしい)。私はそれも知らずに学生時代メキシコへ出かけチチェン・イツァーなどマヤの遺跡をいくつも巡ったが、不気味さとともになんとなく懐かしさを感じていた。
ところで他にも、「中近東の神話」「日本の神話」などが好きだったこのシリーズ。私を含めた3兄弟は読むだけでなく粘土遊びなどかなり手荒な遊びにも酷使し(高さの調整に便利だった覚えがある)、最後は捨てられてしまったようだ。懐かしいので、古本屋などで見つけたらまた買おうかとぼんやり思っている。

上達は錯覚か

松本幸四郎主演のミュージカル「ラ・マンチャの男」が1200回だとかで、その舞台稽古のドキュメンタリーをTVやっていた。私にとってドン・キホーテは特別なヒーローなので、その描き方や解釈にはいろいろ不満はあるものの、松本幸四郎の役にかける情熱とともに、付け眉毛を動かす芸などに感心させられた。
とりわけ印象に残ったのは、中村歌右衛門に言われたという「だんだん上手くなっていると感じるのは錯覚。ずっとやり続けていると、ダメになっていく」という教え。

もちろん、稽古をして上達するということを否定するわけではない。松本幸四郎が練習を続けたであろうことはもちろん、私も他人の演奏などを見て、上達したなあ、よくなったなあなどと思うことがよくある。
でも、この言葉にはっとするということは、きっとそれが今の自分にとっての真実なのだろう。

サウダージと恨(ハン)

以下、すこしメモ的に書いてみる。あまり整理はされていない。

ブラジルでいうサウダージは、いわゆる「懐かしさ」に近いが、自分が本来あるべき場所やともにいるべき人、時間、状態から離れていると感じることではないだろうかとぼんやり思う。
韓国の恨(ハン)についてはもっと分からないが、小倉紀蔵という人が「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所への『あこがれ』と、それへの接近が挫折させられている『無念』『悲しみ』がセットになった感情」と説明しているらしい。

こうして並べてみると、ほとんど同じだ。もしかしたら、程度の問題とすら言えるかもしれない。
共通するのは日本語の「懐かしさ」「恨み」がより一人称的、個別的あるのに対して、サウダージや恨は他者と共有できるものとして一種の美的概念にまで昇華されていることだろう。
もちろん、どちらがいいという話ではない。サウダージも恨も、月並みになりかねない。
ただ、どちらもより深い感情を共有したいという文化なのだなとは思う。日本文化には、他人の心に近づきすぎないという掟があるように思うことがある。

ムリウイでのライブ(ボサノヴァ三国志)

祖師谷大蔵のムリウイでのライブ、お越しくださったみなさま、ありがとうございます!

このお店には客としてもときどきお邪魔するのだが、本当に素晴らしいところだと思う。
ライブも素晴らしいものが多いので、まだの方はぜひスケジュールをチェックして出かけてみてほしい。

「日本語ボサノヴァの夜」という、なんだかすごく狭いようにも思えるタイトルなのだが、実は3人ともまったく別な方向を向いていて、意外にバラエティ豊か。

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オリジナル日本語ボッサのheliさんとはご一緒させていただくことが多いのだが、今回は特にいい演奏だった気がする。
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東輝美さんは何度みても素晴らしい。日本語はたぶん彼女の歌にとっては「第二言語」なのかもしれないが、手放しで見事というほかなない。ストーリー性があって、しかも雄大な感じがするのは、彼女の三国志好きとも関係があるのかないのか。

そんな三者三様三つどもえ、というわけでライブの最後には「らくだ節」を「ボサノヴァ三国志」ヴァージョンで歌わせていただいた。

劉備、孫権、曹操も
歌えボサノヴァ日本語で
レッドクリフも真っ青の
それがボサノヴァ三国志

Beira Mar(海辺)のおもいで

夏の前半はほとんど家にひきこもっていて、ひたすら暑さと戦っていた。一度だけ、葉山の海に行ったら、突然あまりの眩しさの下に引っ張りだされたようで、びっくりした。
太陽の眩しさだけでなく、あらゆるすべての眩しさ。
さて、ちょっと前にブログのコメントで読者の方からリクエストをいただいた曲を訳してみた。カエターノ・ヴェローゾの曲で、ジルベルト・ジルがよく歌っているBeira Mar(海辺)。

http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/beiramar.mp3

Beira Mar(海辺)

私の生まれたあの海へ戻ろう
ほら、聞こえるだろう?
繰り返す波が胸の鼓動さ

波間で生まれた魚と同じ網にまかれて
ここへ来たんだ ここへ来たんだ

たぶんあるいは浜の椰子の木
海のそばにある木陰に夢見る
大きな葉を広げる 椰子の実ひとつ

はじめて恋した愛の渚よ
ただそばにいて海辺を歩いた 海辺を歩いた

海は海でもただそれだけで 終わらない海
世界にひとつ 遠い島影
あれはイタパリカ

ああバイーアの海は特別なのさ
ああバイーアどこまでも 透明な海 透明な空

心のなかは海と同じ色 あらゆる空の色
すべてを映した海は歌っている
ああサンバが聞こえる
青い海、青い海バイーア
生まれたときと同じ
心のなかは 心の色は青

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IMGP3913 posted by (C)ottwaki

ところで以前、知り合いが「トロピカリアを題材にしたドラマがアメリカかどこかで作られているらしい」と教えてくれた。まったくの未確認情報でガセネタの可能性もあるが、カエターノやジル、ガル・コスタやマリア・ベターニアなどが登場し、海辺を舞台にした恋物語らしく、なんでもカエターノとジルのホモ・シーンもあるのだとか……。
たぶんこの曲は、葉山の海に連れ出された引きこもりが歌うよりも、そういうドラマの主題歌とかにぴったりだと思う。

8月26日らいぶ

ひさびさにライブのお知らせです。ちょっと遠いですが素敵な場所なので、気軽に遊びにいらしてくださいませ~。

★日本語ボッサノヴァの夜Ⅱ@ 祖師ヶ谷大蔵カフェムリウイ
日時: 2012/8/26(日) 19:00~
出演:Live ・東輝美(歌、ギター) heli (歌、ギター) OTT (歌、ギター)
Music Charge 投げ銭
場所: カフェムリウイ (世田谷区祖師谷4-1-22-3F)
前回ご好評の(?)イベント第二弾です。東さんの日本語弾き語りは素晴らしいです。heliさんも素敵なオリジナルを聴かせてくれます。カフェ・ムリウイは、夏の終わりに相応しい場所。きっと夕暮れどきが素晴らしいでしょう。

ボサノヴァへの憎しみ

ずいぶん昔の話で恐縮だが、私がまだ若かった大学生時代のこと。
友だちが学園祭か何かでボサノヴァのライブをやるというので、見に行ったことがある。出演者はそれなりにお洒落をしていたように思う。背伸びをして、曲の背景について気取った解説をしたり。
私はそれを後ろのほうの席で見ていた。隣に、一目でロック好きと分かる長髪の男がいた。たぶん、彼も私と同じく出演者の友人だったと思う。なんとなく見覚えがあった。
その彼の様子がおかしい。ライブがはじまると、体をよじったりうなり声をあげたりしている。最初は何か喜んでいるのかと思ったが、そうではないらしい。なんとか隠そうと努力をしながらも、体中から吹き出てしまうのは、どうやら今ここで行われていることへの怒り、あるいは嫌悪らしかった。
それは「ボサノヴァへの憎しみ」だった。
想像を膨らませてみると、たぶん、彼は出演していた女の子が好きだったのかもしれない。ロックへの愛を共有していたと思ったら、こんなチャラい音楽をやっているではないかとか。曲間で繰り広げられるトークも、なんだか妙に気取っていて腹が立つ……。まあ、そんなところではないかと思う。
ともかく、その長髪ロック青年が、おさえ切れない嫌悪感を我慢しながらそのライブを聴いていた様子が、今も忘れられないというわけ。

すでにボサノヴァ好きだった私はそれを見て、音楽というのはジャンルだのスタイルだのに縛られて大変だなと思ったことだろう。せっかくジャンルを超えたいい曲があっても聞こえてこないんじゃないかとか、そういうお節介な意見。
それでも、私が繰り返しこの出来事を思い出してしまうのは、きっとこの「ボサノヴァへの憎しみ」をどこかで共有しているからだと思う。
この世の悪しき仕組みを認めてそれにどっぷり浸かっているような、といったら大げさだが、あのときのロック青年はそれを認められない反抗的な魂を燃やしていたに違いない。そして、私もことあるごとにそれと似た、ボサノヴァにつきまとう何やら逃げたくなるような雰囲気を感じることがある。それは演奏や歌唱スタイル、アレンジに衣裳やらトークも含めた、一種の「ボサノヴァ的世界観」とでもいうべきもの。
私はいつも大抵この世界観から逃げたい逃げたいと思っているのだが、むしろからめとられていることのほうが多い。

ずいぶん前に、私の歌をきいて「寝ながらケツを掻いているようでひじょうにいい」と褒めてくれた人がいる。私としては、わりとしっくりくる言葉だ。
ロックのコンサートでケツを掻けば笑われるか、場合によってはかっこいいだろう。
ボサノヴァのライブでケツを掻くと、観客は見なかったフリをしてくれる。
まあ、大げさに書くととそんな感じだ。

好きと嫌い、意見をもつ長い時間をください

インターネットの危険性を指摘する類いの本を3冊ほど読んでみた。

『閉じこもるインターネット–グーグル・パーソナライズ・民主主義 』

『つながりすぎた世界』
『インターネットは民主主義の敵か』

こういう本は、タイトルだけで大体まあ何を言いたいのか分かるのがよいところだ……。

最初の本を読んで、私もグーグルとfacebookから距離をとることにした。このふたつが怖いのは(私の理解では)、何が起きているのかユーザーに知らせないでいいと考えているところだ。たぶん、そのほうが便利で快適だからという理由による。
2冊目はそれほど面白くはないものの、つながらなくてもいいのにつながってしまう、しかも強く、ものすごいスピードで、というインターネットの性格をわかりやすくまとめているとは思う。
3冊目は10年も前の本。うちの本棚でも忘れられていたが、あらためて再読してみるとやや読みにくいものの、よい本だと感じた。

フィルタリング能力を賛美する人には、自由とは個人の好き嫌いを満たすこと、つまり個人の選択への拘束がないことを意味する。この見解を支持する人は、結構多い。実際、それは自由言論に関する現在の論調の基礎となっているが、大きな誤解といえる。自由とは好き嫌いを満たすだけでなく、それなりの条件の下で好き嫌いや信念を確立する機会のことでもある。

なぜ人はフィルタリングするのか、という問いを立ててみる必要がある。最も簡単な理由づけは、人間はそもそも何が好きで嫌いかを知っている、あるいは知っていると思っていることだ。

インターネットにかぎらず、私も意見や好き嫌いというものについて、いつも「もっと長い時間で」「瞬間的なものとしてでなく」捉えるべきと思っている。もしかしたら、罪は性急さのなかにあるのかも。
たとえば、街灯インタビューで意見を求められてすぐ簡潔に答えられるようなタイプ。それが現代の「有能な人」だろう。でも、「どうなんでしょう、3日くらい考えてみましょうか」というのんびりした態度がもっと推奨されていいと思う。
好き嫌いにも、ほぼ同じことがいえる。好き嫌いは瞬発力であるとともに、終わることのない紆余曲折であることも多い。好き嫌いを固定化しようとする他者の介入だけでなく、やはり好き嫌いを固定化しようとする自分の傾向も警戒すべきだ(分かりにくい表現でごめんなさい)。

そういう観点からいえば、今のインターネットは最悪のツールに近い。ほとんど瞬間的な判断ばかりで成り立っているように思えてならない。これは好き、これは嫌い、これは反対、これは賛成、これはイイネ、これは無視、これは重要、これはメモ、これは忘れる。この世界では「3日くらい考える」「少し時間をおいてみる」という行為すら、その前に判断しなければ成り立たない。もちろん、最大の原因はその量とスピードだろう。

幸い、どの著者も絶望しているわけではないようだ。確かに、インターネットの美点はたくさんあるし、その使い方や制限の方法にもさまざまな可能性がある。ここでとりあえず書いておきたいのは、「インターネットの自由」がすでに結構、悪夢めいたものになっていること。私自身、かなりインターネット・ジャンキーなので、この観察はわりと正しいんじゃないかと思う。そしてこれからは、「私にとってより重要で好きな情報を、効率よく集める」のとはまったく逆のアプローチが大切だろう……。

ぴったりの恋、ぴったりこない演奏

普段ボサノヴァばかり聴いているんだろうと思われそうだが、そうでもない。
でも、たまにはCDも買ったりもする。今回は、ホベルト・ギマランエスという人。
大好きな曲のひとつに「Amor Certinho(ぴったりの恋)」というのがあって、名著『ボサノヴァの歴史』にこんなエピソードが載っている。

ロベルトは、彼(ジョアン・ジルベルト)に「ぴったりの恋」を披露し、ジョアンはこの曲に一目ボレしたような気持になった。だが、一聴きボレではない。あの夜彼は、これで完全に覚えたと思えるまで最低五十回はロベルトにその曲を歌わせたからだ。しかし学生ロベルトは、自分の曲がジョアン・ジルベルトの次のLP『愛と微笑みと花』に録音されることになろうとは、夢にも思っていなかった。

この話が好きで忘れられないのは、何度も繰り返して歌わせるのにふさわしい感じの曲調と歌詞だからだ。繰り返しているうちにこんがらがって、つい笑ってしまうような感じ。音楽家の世界では一度聞いて覚えてしまったというようなエピソードがよくあるが、それとは逆なのもいい。
そんなわけで、この尊敬すべき作曲家のCDをさっそく買ってみることにした。他にもいい曲がたくさんある。いいアルバムだと思う。
ただ、演奏や歌については、なんだかあまり耳に入ってこない。どうも最近、この手のサウンドや芸風を冷静に楽しめなくなっているようなところがある(だから、このCDの問題じゃなくて、たぶん私のなかの問題)。
この辺のことは、回を改めてまた書いてみようと思う。