聴き鉄、もしくは失われた音

乗り鉄、撮り鉄などという言葉を最近よく聞くが、写真を撮るだけでなく、音声を録音する「録り鉄」も結構いるらしい。前に「鉄道音楽」ということでその辺の話に触れたかどうか忘れたが、私にもなんとなく気持ちが分かる。とはいえ、モーター音の種類がどうとかいう話には、あまり興味がなくて、やはり鉄道が走るときのあのリズムが好きなのだと思う。
最近は車体が軽くなって素材も変わったため、そのリズムや音もずいぶん軽くなった気がする。重い鉄の車両が大きな鉄橋を渡るときのあのスリリングな感じは、もしかしたらもはや「失われた音」なのかもしれない(SLの音それ自体はむしろそれとして保存されているような気もする)。鉄道にかぎらず、こういう「もはや聞くことのなくなった音」というのは、黒電話の呼び出し音のように誰でも思いつくもの以外にも、結構あるのではないか。
「フィールドレコーディング作家の第一人者」であるというクリス・ワトソンの『El Tren Fantasma (幽霊列車)』は、メキシコの鉄道や駅を音を中心としたコラージュ的作品。ここには、まだ重い車体とあの懐かしい音がある。そして、鉄道の音は音楽と音楽じゃないもののあいだ、ぎりぎりのところを行ったり来たりする。非常に地味ではあるが、以上の話にわりとぴんとくる人々にはお勧めのCDだ。

周囲は変わってしまったが

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

周囲は変わってしまったが

あまりに長い夢を見ていたため、荘子は目を覚ましたとき、
自分がすっかり何者であるか忘れてしまった。
周囲は変わってしまったようだが、
以前とさして違わないようにも見えた。
誰も顔見知りがいなかったので、電車に乗り都会へ出た。
ミュージシャンとなってバンドを結成した。
そして「胡蝶」という美しい曲でデビューした。

*『おねしょの書』にはここで登場した荘子をはじめ、古今東西の著名人が多く登場するが、史実や文献をないがしろにしたものも多い。

針の穴に通すことより

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

針の穴に通すことより

あるときヨブが心配そうに尋ねた。
「神よ、私には慎ましいながらも蓄えがあり、
夜になると、小さな数字たちが私を苦しめます。
話によれば、富貴なる者が天国へ行くのは、
駱駝が針の穴を通るより難しいとか。
私が富貴ではないにしても、
恐らくそれは真実でしょうか?」
神は答えた。
「大きな動物を針の穴に通すことを考えるより、
駱駝の数を数えなさい。
数え続ければ、やがて眠れるであろう」

*「マルコによる福音書」にこれと似た冗談が書かれている。誤訳という説もある。

オースターとクラストル

ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』という「嘘みたいな、ほんとうの話」を集めた本のなかに、若い頃に訳したというピエール・クラストルの本について、刊行されないままゲラが行方不明になりその後古本屋で見つかるという話が出ている。数年前、私はそれを読んでピエール・クラストルに興味をもち、『大いなる語り―グアラニ族インディオの神話と聖歌』という魅力的な本を読んだ。どういうわけか、私はこれがオースターの訳した本だと思い込んでいたようだ。
さて、ごく最近クラストルの『グアヤキ年代記--遊動狩人アチェの世界』(インディアス群書)という本を読んだところ、あれ、オースターが訳したのはこっちじゃないのか? と焦り『トゥルー・ストーリーズ』を読み返すと、案の定その通りだった……。何をどう勘違いしていたのか、恥ずかしいかぎり。読んでみるとグアラニとグアヤキではずいぶん違うし、若き日のオースターが『大いなる語り』を訳したというのと、『グアヤキ年代記』を訳したのとでは、これまたずいぶん印象がちがう。なんにせよ、これでようやく私のなかでも「ほんとうの話」がつながったわけで、やれやれである。

そんなわけで、『グアヤキ年代記』の語りのおもしろさ、そしてグアヤキの豊穣な世界の魅力を的確に紹介することは、とてもできそうにない。
ここでは、誰もあまり注目しそうにない、豆にまつわる素晴らしい細部を引用するだけにしておこう。

プロアアンは一種の大きなインゲン豆である。ヨーロッパのそら豆に似ていて、森のツタ植物の鞘になっている。プロアアン・マタという遊びのなかで、男と女はこれらのインゲン豆の一つを自分の腋の下か、握った手のなかに入れる。持っている者にそれを手放すように仕向ける遊びである。彼らは持っている者をくすぐり、くすぐられたものは遅かれ早かれそれを手放さざるを得ない。……(中略)……子どもたちはこの遊びに参加しない。あまりに熱狂が大きく、その激しさが危険なものになる可能性があるからだ。……(中略)……部族が集まっている間中、彼らはインゲン豆の取り合いをして遊ぶ。それぞれが代わるがわるにその持ち主になり、それから奪われる者になる。青年や娘にとって、彼ないし彼女が望んでいる異性にインゲン豆を盗ませるのは簡単である。特定の彼ないし彼女のくすぐりに降伏することは、いわば愛の宣言のようなものである。私はあなたにインゲン豆をあげる、あなたから別のものをもらうために。私はあなたからプロアアンを奪うために努力する。それはあなたが欲しいからだ。……

岩戸を閉じることはできなかった

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

岩戸を閉じることはできなかった

あるとき、パジャマの神さまがお隠れになった。
ようやく日も暮れようとするころ、
なんと、もうひとつの眩しい光が東にのぼった。
冷えはじめた大地の熱は、再び耐えがたいものとなり、
ふたつの太陽が、かわるがわる現れては肌を焼き、
草木を枯らした。
神々は日没とともに再び一日のはじまりを迎え、
眠ることも許されず働いたり、
あるいは遊びつづけたりした。

ある神が言う。
「このままでは体がもたないよ。パジャマの神さまにお出まし願おう」
別の神が言う。
「このままでは心まで折れてしまうよ。パジャマの神さまにお出まし願おう」
そこで神々が相談し巨大な岩戸の前に集まった。
大小の太鼓、さまざまな弦楽器や管楽器、
巨大なアンプやスピーカーなどをもって集まった。
「神さまは、ここに隠れ眠っておいでだ。
われらの楽しい歌と踊りで、目を覚ましてもらわなければ」

心地よい夢のなかにいたパジャマの神さまの耳に、
がなりたてるような、出来の悪い音楽が聞こえてきた。
「ああ、頼むからやめてくれ。もう少し静かに」
ほんの少しだけ重い岩戸をあけ、そう懇願した。
だが、それには知らんぷり、聞こえないふり。
神々の歌と踊りは、ますますひどくなる。
「頼むからやめてくれ、もっといい音楽を教えてあげよう」
そのとき、さらにもう少しひらいた岩戸の隙間に、
力自慢の力士が「えい」とばかり、大きなドアストッパーを投げた。

音楽は終わり、静けさが戻った。
パジャマの神さまは再び眠りについたが、
もう岩戸を閉じることはできなかった。
日が暮れて、涼しげな風が吹いた。
歌と踊りに疲れ果てた神々も、それぞれの家と寝床に戻り、
望むだけの眠りをえることができた。

*パジャマ教の特徴として、音楽についての言及が多いことが一般に知られる。

枕を丸めよ

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

枕を丸めよ

時は迫っているぞ。
今すぐパジャマに着替えよ。
枕を丸めよ。
布団の四隅は揃えよ。

*近代以降に創唱された他の宗教と同じく、パジャマ教にもやはりキリスト教をはじめとする一神教の大きな影響が見られる。

アラブ・エクスプレス

無人島の領有権についてはあまり関心がないが、連日伝えられるシリアの惨状には心を痛めずにはいられない。
そんななか、私は六本木で「アラブ・エクスプレス展」を見に行き、その後は付近でクスクスを食べられるところを、などと考えていた。我ながら能天気なものだ。そして、美術館は六本木の夜景をバックにした完全な観光スポット。きらびやかなライトのなか、何か不吉な威圧感めいたものを感じる場所だ。
アートも「ところかわれば」だな、と思う。たとえば、シリアの「処刑場広場」を映した写真がある。解説を読まなければ単なる風景写真にも見えるし、恐らく今となってはそれ以上に悲惨な場所となっているかもしれない。このようにかぎりなく報道写真に近い作品もあれば、抗議運動に近い作品もあり、また政治や戦争と離れた芸術が成り立たないことを嘆く作品もある。私たちのいる場所では、アートはむしろ娯楽や消費、虚栄などに近いだろう。それに慣れきっているので、いちいち解説を読まなくてはならないことが面倒だと思ったりもしてしまうが、これは単に文脈を共有していない異文化というだけのことかもしれない。
もちろん、解説なしにぐっとくる作品、笑える作品もいくつかはある。でも、それを素直に喜べないような六本木の夜であった。

シリアの人々のために祈ります。

ベイルート

シーツには皺もなかった

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

シーツには皺もなかった

昔の前、はじまりの最初。
まだ朝はなく、昼もなかった。
長い夜だけがあり、シーツには皺もなかった。
布団のなかは温かく、おそろしい火はなかった。
枕はちょうどよい堅さで、つらい肩こりもなかった。
ゆったりとした鼓動や吐息は感じられたが、
耳をつんざく大きな声はまだなかった。

夢だけがあり、パジャマの神さまも夢をみていた。
はじめに神さまはおつくりになった。そして歌った。
雲のような軽やかなリズム。海のような音色。
メロディーと言葉は、まだひとつのもの。
光あれと歌うと、光があった。
雨ふれと歌うと、雨がふった。
風ふけと歌うと、風がふいた。

*パジャマ教の信者は全世界に約10万人(教団発表)というが、恐らく誇張された数字であろう。

アウグスト・モンテロッソ礼賛

ラテン・アメリカ文学マニアというほどではないものの、本屋でもこの分野の棚は大体チェックしているつもりでいた。それなのに、こんな素晴らしい作家がいたことを知らなかったなんて、とても恥ずかしい。おまけに、もう亡くなっているではないか(2003年)。遅れたぶんを取り返すというわけでもないが、なんとかその素晴らしさをここにきちんと書いておきたい(たぶん無理だろう)。

もっとも言い訳ではないが、ホンジュラス生まれのグアテマラ人(メキシコで活動)という経歴も地味なら(失礼)、日本の出版社や装丁も地味(失礼)、ついでに作風も決して派手とはいえない。ご本人もそれは分かっておられるようで、グアテマラの片田舎でシューベルトの「未完成交響曲」の残りを発見したのに世界から完全に無視されるという愉快な話も書いておられる(「完成交響曲」)。たとえば、先のオリンピックのサッカーで目立ったのは明らかにメキシコとホンジュラスの活躍だと思うが、大抵の人はもうそれを忘れているだろう。この人がフランス人だったらとかいう仮定は成り立たないとは思うものの、ちょっと悔しい感じはある。

アウグスト・モンテロッソについてもっとも知られているのは、この人が世界でもっとも短いひとつの文章だけでできた短編作品を書いたということにあるようだ(「恐竜」。気になるようなら、検索するだけでこの短編は数秒で読める)。しかし現在2冊でている邦訳のうち、どちらを先に読むべきかといえば、この名高い世界最短小説を収録した『全集 その他の物語』よりも、『黒い羊 他』を勧めたい。

『黒い羊 他』にはさまざまな動物たち、神話上の有名人、などなどが登場する。作家になりたいサル、相対性理論に気づいたキリン、趣味に没頭するペネロペ、矢に追われながらゴールしたカメ、詩を書くブタさん、ロバと横笛の恋(?)などなど、愉快な話だらけ。イソップ童話のような雰囲気をもちつつ、笑いと謎にあふれ、カフカのアフォリズムのような切れ味もあるような、ないような。冒頭に掲げられた謎のエピグラフ(?)「動物たちは、あまりにも人間に似ていて、ときとして区別がつかないほどである」だけで、なんとなく笑ってしまう(これにはオチがあるのだが、ここではもったいないので触れないでおく)。ついでに、翻訳もすごくいい。

訳者のあとがきによればラテン・アメリカでも「作家のための作家」として、通好みな作家らしい。たしかに、書くことや表現することそのものをテーマにした面白い作品がいくつかあって(私のお気に入りは朗読したくてうずうずしている大統領夫人の話)、こういうのは意外に一般ウケしないのかもとも思う。しかしそれだけではないし、全体にとても読みやすく、笑いにあふれ、難解さとはほど遠い。短くて味わい深く、何度も読み返せる。人に読んであげたくなる。だんだんTVショッピングの宣伝みたいになってきたから、この辺でやめよう。まあ、モンテロッソの短編集をコマーシャルでラクダとかキツネが宣伝していたら、それはそれでモンテロッソの作品ぽくはある……。