こどもが生まれた 太郎をめぐるあれこれ

1月26日、こどもが生まれた。
性別は最後まで聞きそびれていたので、名前は男女両方のものを考えていた。男なら太郎、これはわりとすんなり。女のほうは苦労した。やや理屈ぽく、きらきらネームぽくもあるものをひねりだし、そのときを待った。
そんなわけで最初から、この子は太郎だったのかもしれない。そういえば年が明ける前、近所にある岡本太郎の墓へ散歩した。偉大な芸術家にあやかろうというわけでもないのだが、太郎といえばまず誰を思い出すかといえば、やはりウルトラマンと岡本だ。まあでも、ポチみたいな、ジョンみたいな、ジョアンみたいな、由緒正しくもありきたりな名前である。
私の父方のおじさんも太郎という。実はこれがひっかかって、最後の最後で迷った。姓はちがうが、同じ名前が近い親戚にいるというのは、どうなのか。そこで、女用の名前が再び候補にあがった。べつにこっちを男につけちゃってもいいのではないか(ノリという名前だった。もちろん、音楽用語だ)。ちょっとイケメンぽくもあるし、きらきらネームが似合うような気もしてきた……。

しかし結局、この子は太郎となった。
みなさま、どうかよろしくお願いいたします。

たろう01
たろう01 posted by (C)ottwaki
たろう02
たろう02 posted by (C)ottwaki

ヨーロッパの一地方としてのブラジル

たぶん半年くらい読書記録をブログに書いてなかったので、少しだけまとめておこうと思う。
まずは、このブログの読者にも少しは関連のありそうな、ブラジル関係の本。
もともと翻訳がひじょうに少なかったブラジル文学だが、少しずつでも増えていてうれしい。まずは、なんと文庫にはいったマシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』 (光文社古典新訳文庫)。マシャードは『ドン・カズムーロ』(彩流社)もあり、『ブラス・クーバス……』のほうも同訳者によるものが重なって出ていて、やや不幸なことではある。二冊を読んでみると、どちもそれなりに面白いのだが、どこかのヨーロッパ文学だと言われてもほとんど気づかないような内容である。そのへんが、ブームにもなった最近のラテン・アメリカ文学とは違う。描かれているのは、あくまでもヨーロッパの一地方としてのブラジルなのだという感じが否めない。

こういう感覚は、実はより土俗的な文学を紹介したジョゼフ・M. ルイテン『ブラジル民衆本の世界―コルデルにみる詩と歌の伝承』(お茶の水書房)のような本を読んでも感じることだ。ヨーロッパで古くから盛んだった韻文による語りという文化が、ブラジルの北東部だからこそ残っているという視点は、当たり前ではあるのだが、日本人にはそれほど馴染みがない。たぶん、ブラジルを地球の反対側にある国として意識しすぎなのだろう。

そんなわけでもう一冊、本当はこの本だけ紹介すればいいのかもしれないが、リオデジャネイロで活躍した現代詩人4人を紹介した福嶋伸洋『魔法使いの国の掟―リオデジャネイロの詩と時』(慶應義塾大学出版会)。マヌエル・バンデイラ、カルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、セシーリア・メイレーリス。訳もいいので、たぶんボサノヴァの詩に興味のある人は、すごく楽しめるだろう。ただ、やはりここでも感じるのは、たぶん上の3冊と同じことかもしれない。
実をいうとこの著者、どうやら私と同じ学科を出ている、いわば後輩なのであった(! ただし面識はまったくない)。しっかりと研究の道を歩んでおられる著者にくらべ、もちろん私は自分が情けなく感じられるわけであるが、それはともかく、この学科はそもそもヨーロッパ文学という枠組みのなかでなら、ラテンアメリカ文学をやってもいいよ、という場所だった。私も、その間隙をついて、テキトーな学生生活を送ったという次第。だから、ある意味で、たぶんこの著者にとっても私にとっても、ブラジルがヨーロッパの辺境であるということは、ひとつの共通理解、常識ではある。

それでも、なんとなくこの枠組みを抜け出したいという感覚がどこかにある。たとえば、川田順造『「悲しき熱帯」の記憶―レヴィ=ストロースから50年』(中公文庫)は、ちょっとしたヒントになりそうな本だと思った。海を渡ってきたポルトガル人とぶつかった文化という意味で、たとえばポルトガル人の衣裳を真似たアフリカの首長と織田信長が重なる。ブラジルと日本は遠いようでいて、そうでもないのだ。

もちろん、ヨーロッパと非ヨーロッパをめぐる問いは、簡単ではない。おそらく日本では夏目漱石がいたような場所に、マシャード・ジ・アシスはいたのだろうと思う。マシャードのほうが、ずっとヨーロッパよりではあったにしても。こんな風にぐるぐると回転していると、地球をまわっているような妙な感覚があり、私はたぶんそれが好きなのだろうか。
ブラジル文学、もっとたくさん翻訳を出してください。

眠らない神

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

眠らない神

あの神さまは、なんと活力に溢れて輝いていることだろう。
昼も夜も横になることはなく、その目はいつも何かを見ている。
アイディアに溢れ、この世に有用なものをつぎつぎと創造する。
情熱と意欲に溢れ、この世の改良に努力を怠らない。
正義と倫理を重んじ、この世の悪を懲らしめることを躊躇しない。
誰からも敬愛され、崇められる神よ。
力強く、眠ることのない神よ。
夢を見るときですら、かっと目を見開いたまま。
一度でも見たものは決して忘れることがないとか。

*「眠らない神」はパジャマの神と対立する存在であるが、パジャマ教にはこの神への傾倒というか、憧れのようなものがときどき感じられる。

手芸ぽいことをしてみた

おもちゃを買った。
ズーム ストリーミング機能搭載ハンディレコーダー Q2HD
写真だの動画だのを録ることができ、しかも安っぽい機械ばかり増やしてどうするんだとは思ったのだが、USTもやってみたいし、やっぱ音質が大事だよとか、家族もふえるしとかあれこれ理由をつけて自分を騙した次第。
届いてみると、たしかにおもちゃっぽい。とはいえ、乾電池で使える気楽さがいい気もする。さっそく外へもっていくと、鳥の声とかも入っていい感じなのだが、やはり風が気になる。ウィンドスクリーン(風防)がほしいが、専用のは単品では売っていないらしい。そして、(アクセサリセットに入っている)ACアダプターはほしくない。そこで、ちょっと調べてみると自作している方がけっこういるようなので、真似させていただいた。

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100円ショップで買った手袋を切って縫っただけ。いい感じだ。当然、手袋は2つあるので、少し長めにしてケース状にした。

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窓を開けっ放しにしてテキトーに演奏してみた。窓を背にしてやればよかったかな。

月曜日はカーニバル

ひさびさに新訳ができたので録音。
こういう趣旨のはっきりした曲はあっというまに訳せるな、と思ったのだが、
一度できたあと、あちこちいじっているうちに一ヶ月くらいすぎてしまった。
詩の理屈というのは強固なもので、一度できあがると簡単には壊せないものなのだが、普通に理屈っぽく訳してしまったということかもしれない。
内容的には、暗いテーマも徹底して追求すると、結構ポジティブな話になるという話でもあるのか?
しかし、どんだけ祭りが楽しかったんだ、という気もちょっとする。
日本は灰の水曜日が続いているような感じもするので、もしかしたら時局に合っているのかも(涙)。

灰の水曜日のマルシャ

http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/quartafeira.mp3

月曜日はカルナヴァル 火曜日はカルナヴァル
でも今朝は祭りのあと 水曜日 それは灰の水曜日
誰もいない街 歌声消えた街
昨日までは笑顔が 溢れてた 音楽が溢れてた
歌を私たちに 今こそたくさんの 愛と喜び 平和の歌
悲しみもいつか きっと終わるだろう
微笑みは 希望の日はのぼるだろう 幸せは戻るだろう
青空見上げれば 輝ける世界に まだ見ぬ愛が溢れている
もう一度カルナヴァル 懐かしいカルナヴァル
美しいあのマルシャ 歌ってた
あのときの あの歌を あのときの あの歌を

スムーズに眠りへと誘う

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

スムーズに眠りへと誘う

人魚は自分の声がもつ催眠的な力を誇っていたが、
本当をいうと、ひそかにもっと別の音楽にも憧れていた。
いつか、派手な電飾と仕掛け花火のあるステージに上がり、
巨大なアンプとスピーカーを震わせてみたい。
低音のビートに乗せ、耳がおかしくなるようなシャウトを連発し、
踊る若者たちの熱狂と恍惚に危険な油を注ぐような曲を、
エロチックに体をくねらせて歌ってみたいと思うのだ。
ときどき、いたずら心を起こした人魚は、
すこし音程をずらしてみたり、違うアクセントをつけてみたりして、
自分の歌がもつ可能性を試してみることがある。
しかし、いつもと同じくその歌は、なめらかな絹織物のシーツみたいに、
聞く者をスムーズに眠りへと誘う。

*人魚の歌に誘惑される神話・伝説は多いが、パジャマ教ではそれを催眠効果と断言している。

敗北主義

なんとか主義というのはたいてい冗談でしか使わないが、「敗北主義」という言葉はわりと本気で気に入っている。

ちょっと前に「無人島の領有権に興味はない」などと書いたが、さすがにだんだん話がエスカレートしてくると、そうも言ってられなくなってきた。中国本土には友人もいるし、何らかの危険に直面していると思うと、心が痛む。
もっとも、私のような「敗北主義者」が、いくら「あんな島など、思い切って明け渡してしまえ」とか言っても仕方ないので、ここではもう少しちがうことをメモしておきたい。

私のような少数派をのぞき、世論というものは大抵「強硬姿勢」を喜ぶものである。したがって外交には、お互い現状を維持しながら、相手を殴っているフリみたいなものが求められる。結構、危険な技と言わざるをえないが、しばらく日中も日韓もそうしてきた。強硬姿勢のフリをやめて、本気で現状を打開しようとするのは、いわばルール違反ということだ。

それはともかく、孫崎享『戦後史の正体』(創元社)という本によれば、北方領土もふくめ、日本が抱える3つの厄介な領土問題はすべてアメリカ合衆国が戦後の外交政策として意図的に埋め込んだ仕掛けのようなものだということらしい。それはそれで、なるほどと思える見方である。もちろん、孫崎氏は敗北主義などでなく、これはひじょうに立派な本である。話題の書らしい。ミュージシャン関係の知り合いでも複数の人が同時多発的に読んでいると言っていた。けっこう珍しい現象だ。

眠りは弱虫のためのもの

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

眠りは弱虫のためのもの

悲しいとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
苦しいとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
辛いとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
怖いとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
眠りは弱虫のためのもの。

*パジャマ教はどちらかというと現世利益を追求する側面が強いものの、その発想はひたすらにへたれである。

またしても神さまの眠りは妨げられ

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

またしても神さまの眠りは妨げられ

昔のはじまり、はじまりの最初。
神さまは愛情をこめて人間をつくったという。

ところが、眠っているあいだに、人間たちはどんどん殖える。
この世に生を受けた喜びを発散させる彼らは、
敬虔な祈りとともに、さまざまな騒音を天と地に響かせた。
やがて、それは神さまの眠りを妨げるようになる。

辛抱強い神さまも次第にイライラしはじめ、
やがて人間を懲らしめるべく、恐ろしい懲罰を与えた。
大地は水で溢れ、生き残った者は少なかった。
生き残った者らは、命に感謝して祈った。

神さまのご加護のもと、人間はまた殖えていった。
すると、またしても神さまの眠りは妨げられ、
懲罰的な天災や戦争も繰り返された。

しかし神さまもやがて騒音のなかで眠るコツをおぼえ、
人間の祈りもめったに届くことはなくなった。
だから神学者たちは、最近の天災や戦争が、
神さまの不眠とは、何ら関係のないものと解釈している。

*不眠に悩まされる神というモチーフは古代オリエントを中心に見られる。