ナショナリストのサンバ

Canta Brasilという曲を録音してみた。

As selvas te deram nas noites seus ritmos barbaros
Os negros trouxeram de longe reservas de pranto
Os brancos falaram de amores em suas cancoes
E dessa mistura de vozes nasceu o teu canto

というのが最初の部分。面白いので、直訳ぎみに訳すことにした。

深い夜の森に響くリズム
黒い肌が歌う悲しみ、涙
白い肌、ささやく恋の歌
まざりあうたくさんの声

サンバの歌詞には、こういうものがけっこう多い。
ブラジル万歳調。しかも観念的、抽象的なやつ。
いくつかは、ボサノヴァのレパートリーとしてもよく歌われる。「ブラジルの水彩画」なんかも、その一例だろう。
ここで歌われている人種の混合は、ほとんどブラジル国家の「公式見解」であり、
たとえていうなら「平和国家、日本」みたいなお題目、理想である。
実際のところ、ブラジルにも人種差別は当然あるわけだが、サンバという夢の世界では、それは消えてしまっているのだ。
私のような日本人がこういう歌に惹かれるというのも、ヘンテコな話ではある。
(たぶん日系人は、この「黒い肌」「白い肌」が生んだサンバの世界に、簡単に入れてもらえないだろう。)
とはいえ、そういう胡散臭さをはらみながらも、こうした愛国サンバの魅力は否定しがたい。
ブラジルは、サンバという大衆音楽の一ジャンル(にすぎない、しかも被支配層の)を、いわば国家のアイデンティティ、象徴として採用した稀有な国だと思う。
このほとんどアクロバティックともいえる出来事は、たとえばジャズやロックをいつのまにか横取り(?)してしまったアメリカの白人と比べると、より際立って見えると思う。
ブラジルの支配層がなんでこんなことをやったのか、私には正直いってよく分からないのだが、このことがブラジル音楽の特別な面白さにつながっていることは、ほぼ間違いないだろう。

ゴリラの鼻歌

全体に不調である。
お店の経営状態も苦しいので、私はレイオフ状態になっている。週末など忙しいとき以外は「自宅待機」しているのである。
そんなわけで時間もあるし、本業をばりばりやるとか、音楽活動をがんがんやるとか、すればいいのだが、なんとなくだらだら暮らしてしまっている。
優雅に本でも読もうと思って一冊買ってきたのだが、これがいけない。エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』。「書けない症候群に陥った作家たち」についてのお話。まあ、これだけで不調なときに読むべき本じゃないということは、分かりそうなものだけど……。昔読んでいたら、きっと面白いと思ったのだろうとは思う。でも、今はだめ。半分くらい読んだところで、全然進まない。

そんなわけで、ぼんやりテレビを眺めていると、NHKの番組でゴリラの鼻歌を紹介していた。テレビ番組も、たまには素晴らしいものを映して(聴かせて)くれるもんだと思ったが、それにしてもなんとも地味な鼻歌である……。

だいぶ前に、『歌うネアンデルタール人』という本を読んだのだが、これが面白かった。
人間が言語以前にもっていたコミュニケーションのあり方について語ったもので、著者はこれを「全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的な」といった意味で「Hmmmmm」と呼んでいる。歌は「音楽」と「言葉」に分解できるが、かつては一体のものとして分けることができないものだったのだろう。
で、私は決して聴くことのできないネアンデルタール人の「歌みたいなもの」を、これまでなんとなく力強い、攻撃的なものと想像していた。
でも、ゴリラの鼻歌を聴いて、あ、こんな感じだったのかも、と考えなおした次第。まあ、実際のところはゴリラとネアンデルタール人では骨格も違うだろうし、もちろん分からない。
河童の鼻歌の言い伝えとか、セイレーンの歌声とか、そういう「聴くことのできない音楽」には妙に心惹かれるものだ。『バートルビーと仲間たち』を思わず買ったのも、きっと「書かれなかったテキスト」というものに惹かれたからだろう。
でも、今の私にはゴリラの鼻歌くらいのほうがピンとくる。

lobo bobo

なんだか文字通り調子外れの日々が続いている。

前からやろうと思っていた「ロボ・ボボ」を訳してみた。
歌詞は特に好きじゃないのだが、こういう客観性とか冗談みたいなものは、
今のJ-POPでは、ほとんど見られなくなっているように思う。
たぶん、受け手が真面目にとってしまうからかもしれない。

他にも何曲か、ひさびさに録音してみた。
6月の後半から7月前半に3つほどライブの予定があるので、
そのときにでも配ろうかと思っている。

choppとcerveja

ジョアン・ジルベルトが出演するビールの宣伝が面白いので、日本語化してみた
CMソングは独特の寸詰まり感があって、結構好きだ。

ところでブラジルにはビールを呼ぶのにchoppとcervejaの2種類の言葉があるが、前者がいわゆる「樽生ビール」、後者が瓶や缶のビールと思っていた。
この歌にも2種類がでてくる。
前者は商品名、後者は普通名詞として。
で、これは映像にも見える通り樽生の宣伝ではないので、どうやら日本と同じく、ブラジルでも「生」という言葉の使い方には少し混乱があるようだ(もしかしたら、まったく同じ状況にあるのかもしれない)。
そんなことを考えながら「なまで」を繰り返してみたのだが、この部分、すごく気に入っている。

ソル・フアナ

ソル・フアナ『知への賛歌』(光文社古典新訳文庫)

文庫名なんて書かなくてもいいと思うんだけど、尊敬をこめて。
ロダーリ『猫とともに去りぬ』でこの文庫シリーズに注目し、『カラマーゾフの兄弟』が売れてると聞き、スゴイと唸った。
でも、さすがに、これが出るとは思わなかった。

弱小出版社でもいいから、訳はあまりよくなくていいから(旦敬介訳はもちろん素晴らしかった)、とにかくソル・フアナの詩集が読んでみたかった。
だから、感謝してもしきれないんだけど、本当はできれば詩の割合をもう少し増やしてほしかった……。
バロック的で私の理解が及ばないんだということは想像できるが、ここで訳された多分比較的分かりやすい作品から想像するに、この数倍分かりにくい作品だとしても、結構イケるんじゃないか。
まあしかし、詩集というだけで売れないらしいし、あまり贅沢は言えない。

実際問題、彼女の詩のよさをここで説明するのはちょっと難しい。
私が「ボサノヴァ日本語化計画」でやっていることにも通じるが、そこには私の誤読が大いに含まれていると感じるから。
だから、この日本では無名の作家を取り上げるのに、書簡2つを選んだというのは、それなりに正しい選択なのだろう。

女性なのに、修道女なのに、詩なんか書きやがって。
そういう時代の話。彼女はこれらの書簡で自己弁護を試みる。
それがなんとも言えず面白くて、機知に富んでて、軽やかで、深みもあって、そして時代を先んじていた。
それはまあ、そうだろう。
「私だけの部屋」をもてなかった彼女は、作家であり続けるために修道院に入った。
でも今を生きる男の端くれとして感じるのは、女性は今もこんな感じでキツい状況にいるよなあ、それに比べて男はテキトーなことを、不用意な差別発言を、軽率な自慢を、垂れ流しているよなあ、というようなことだ。

そんなわけで(どんなわけで?)、光文社文庫からは今後も目が離せない。

ポルトガル語

ときどき、ポルトガル語がスラスラだと誤解されることがあるのだが、実は半年しか習ったことがない。それも、ブラジル人ではなくポルトガル人から。週一回、きわめて怪しいポルトガル語歴である。
スペイン語を少し習っていたので、またブラジル音楽が好きだったので、その先生は私が発音をすると露骨に嫌そうな顔をした。スペイン語風、かつブラジル訛りというのが、許せなかったようだ。対照的に、フランス語風に発音する女の子などには、極めて嬉しそうな顔をしていたように思う。

ポルトガル語の歴史はそれほど古くないが、大航海時代にいきなり「国際語」になって、そして速やかに衰退した。
『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』は、ポルトガルから西アフリカ、大西洋、ブラジル。また東アフリカからゴア、東ティモール、マカオなど、世界中に辛うじて残った「ポルトガル語圏」と言葉について語る。
クレオールをはじめ、現地での経験をまじえた具体的な著述はとても面白いが、少し舌足らずな印象もある。
日本もまた、わずかな語彙を残すのみだが、かつてポルトガル語圏と接した歴史がある。
また、今、ブラジルからの移民によって、有数の「ポルトガル語話者の多い国」になった。
感慨深いといえば、感慨深い。
私は「ボタン」「ジュバン」「金平糖」など、日本語のなかに残るポルトガル語起源の言葉だけを使って歌でもつくれないかと一瞬考えたが、今のところうまくいってない。

ポエシーア

先日、吉祥寺のイルカッフェというところでライブをやらせていただいた。
そのとき、一緒に演奏した川島イタル君に「大学では何をしていたのか?」などと質問されて、少しうろたえた。
まあ、特に何もしていなかったのであるが、所属していた学部や学科のことを話すうちに、 詩について書いた恥ずかしい卒論を思い出してしまった。

これはメキシコの詩人について書いたもので、実にいい加減なものである。
今考えるとこれらの詩は正直いって難解でよく分からなかった。
それで適当な理屈をこね、最後にメキシコへ旅行にいったときに見た夢について書いた。
夢オチの卒論で卒業できるなんて、有難い学校である。

夜の屋台で不思議な食べ物を売っていた。
葉っぱに巻かれているのだが、中には蒸した白い美味しそうなものが湯気を立てている。
食べてみたいなあ、と思って、売っているオッサンの呼び声を聞いていると、どうやら、
「ポエシーア、ポエシーア」
と言っているようである。あれ、ポエシーアって何だっけ。
あ、詩(ポエジー)のことじゃないか、と思ったという夢だ。
この食べ物はチマキに似ているが、たぶん実際にはタマレスというトウモロコシの料理だったと思う。
そのときは、まだ名前を知らなかったのだ。

歌詞はおまけ?

詩というものに少し興味をもちはじめた頃、欧米のポピュラー音楽をよく聴くようになった。
でも、この2つはちっとも結びつかなかった。
もちろん、好きな歌を歌ってみたいという欲求はあり、仕方なく英語の歌詞を覚えたりはした。
でも、正直いって歌詞の内容はどうでもよいと思っていた。
日本のポップスをあまり聴かなかったこともあるかもしれない。
歌はサウンドの一部で、なんとなく響きがよければ十分だと思っていたのだ。
面白いことに、日本のアーティストではほとんど例外的に聴いていた矢野顕子が、歌詞の内容は重要ではなく、音楽がよければいいと思っている、という趣旨の発言をしているのを読んだことがある。

そして、その後は考えを変えたのかというと、実はあまり変わっていない。
私は基本的に、歌詞はそれほど重要じゃないと思っている。
歌詞なんかに頼らず、音楽を音楽として存在させることのできるミュージシャンを尊敬する。
じゃあなぜ今みたいなこと(歌詞中心に見える活動)をやっているかといえば、端的にそれしかできないからだ。

もっとも、母語である日本語の歌詞を聴いた場合、それが音楽を邪魔することは多くある。
一体、何を馬鹿なこと言ってるんだ? と思ったり、
かっこつけてんな~、と思ったり、
どこかの企業の宣伝文句みたいだなあ、と思ったり、
むしろ「音楽を邪魔しない」と感じる歌詞のほうが少ないとすらいえるかもしれない。
そういうレベルでは、やっぱり矢野顕子の歌詞は結構好きだ。

でも、本当のことをいうと、こういう意識では、いい音楽はつくれても、
「いい歌」はできないんじゃないだろうか。
言葉と音楽がどうしても切り離せないところで生まれた歌。
なんとなくはじめてしまったこの「日本語化」という作業のなかで、
期せずして私はその領域に触れてしまい、少し戸惑っているところだ。

情けなさ

情けない歌詞が好き、などというと誤解されることがある。
いわゆる「暗い歌詞」が好きなのだろう、と勘違いされるのだ。
「情けなさ」というのは、一体どいういうものだろうか?

池内紀というドイツ文学者・作家がこんなことを言っていた。
「ギャンブルが好きな人は、負けた後のあの情けない感じが好きで、ついやっちゃうんだよね」

つまり、「情けない」というのは一種の反省であり、相対化である。
悲しみとか苦しみとか怒りとか、そういうネガティブな感情を、そのまま表現するのではない。
「情けなさ」にかぎらず、こうした相対化によってもたらされるのは、
やはりユーモアだろうと思う。
大笑いするようなギャグではなく、そこはかとなく可笑しい、ユーモア。
だから、「情けなさ」はネガティブをポジティブに変換する一種の通路なのだ。

小さいもの、弱いもの、ダメなもの、美しくないもの……。
そういったものをたとえば「可愛い」と表現することができる。
それによって人々は、一般にネガティブな要素もポジティブに変換しているわけだ。
私にとって、「情けなさ」は「可愛さ」と似ているかもしれない。

ポエジーと情けなさ

私はわりと昔から文章を書くのが好きだったが、最初に詩を書いたのがいつかは覚えていない。
たぶん、ふつうに学校で先生に書かされたのだろう。
そして、恐らくものすごくつまらないものだったに違いないと思う。
というのは、当時の私はわりと「優等生」であり、先生が喜ぶようなツボを知っていたからだ。
ポジティブであり、子どもらしく(胡散臭い言葉だ)、素直であり(これも)、明るいもの。
実際に、先生はそういう詩ばかりを褒め称えた。

あるとき、私はそういうものが詩ではないことを突然感じた。
6年生のときだ。私はちょっとした反抗期を迎えていた。
クラスメイトが書いた詩を、先生が批評していた。
「悪い詩」としてやり玉に挙げられていたのが、サカちゃんの書いた詩だ。
彼は私と同じように、大変痩せている。
そして彼は自分の育てた植物が、なぜか自分に似てひ弱なことを、詩で指摘していた。
先生はたぶん、植物がひ弱なのは「似ているから」ではなく、単に世話の仕方が悪いのだと捉えているようだった(その通りである可能性は、高い)。
そのため、このやや無責任な感じのするサカちゃんの詩に怒りをぶつけていたのだった。
しかし、私には「自分の育てた植物が自分に似る」というこの不思議な現象のなかにこそ、詩があるのだと感じられた。
先生への反感もあって、私はそのような趣旨のことを発言した。
この詩が一番いい、自分はそういう詩を書いたことがない。

私にとって「ポエジー」の原点は、ここにある。
したがってそれは、どこかで「情けなさ」と結びついたものだ。
花といえばポジティブなものという、J-POPの歌詞は、だから全然ピンとこないのだ。