好きと嫌い、意見をもつ長い時間をください

インターネットの危険性を指摘する類いの本を3冊ほど読んでみた。

『閉じこもるインターネット–グーグル・パーソナライズ・民主主義 』

『つながりすぎた世界』
『インターネットは民主主義の敵か』

こういう本は、タイトルだけで大体まあ何を言いたいのか分かるのがよいところだ……。

最初の本を読んで、私もグーグルとfacebookから距離をとることにした。このふたつが怖いのは(私の理解では)、何が起きているのかユーザーに知らせないでいいと考えているところだ。たぶん、そのほうが便利で快適だからという理由による。
2冊目はそれほど面白くはないものの、つながらなくてもいいのにつながってしまう、しかも強く、ものすごいスピードで、というインターネットの性格をわかりやすくまとめているとは思う。
3冊目は10年も前の本。うちの本棚でも忘れられていたが、あらためて再読してみるとやや読みにくいものの、よい本だと感じた。

フィルタリング能力を賛美する人には、自由とは個人の好き嫌いを満たすこと、つまり個人の選択への拘束がないことを意味する。この見解を支持する人は、結構多い。実際、それは自由言論に関する現在の論調の基礎となっているが、大きな誤解といえる。自由とは好き嫌いを満たすだけでなく、それなりの条件の下で好き嫌いや信念を確立する機会のことでもある。

なぜ人はフィルタリングするのか、という問いを立ててみる必要がある。最も簡単な理由づけは、人間はそもそも何が好きで嫌いかを知っている、あるいは知っていると思っていることだ。

インターネットにかぎらず、私も意見や好き嫌いというものについて、いつも「もっと長い時間で」「瞬間的なものとしてでなく」捉えるべきと思っている。もしかしたら、罪は性急さのなかにあるのかも。
たとえば、街灯インタビューで意見を求められてすぐ簡潔に答えられるようなタイプ。それが現代の「有能な人」だろう。でも、「どうなんでしょう、3日くらい考えてみましょうか」というのんびりした態度がもっと推奨されていいと思う。
好き嫌いにも、ほぼ同じことがいえる。好き嫌いは瞬発力であるとともに、終わることのない紆余曲折であることも多い。好き嫌いを固定化しようとする他者の介入だけでなく、やはり好き嫌いを固定化しようとする自分の傾向も警戒すべきだ(分かりにくい表現でごめんなさい)。

そういう観点からいえば、今のインターネットは最悪のツールに近い。ほとんど瞬間的な判断ばかりで成り立っているように思えてならない。これは好き、これは嫌い、これは反対、これは賛成、これはイイネ、これは無視、これは重要、これはメモ、これは忘れる。この世界では「3日くらい考える」「少し時間をおいてみる」という行為すら、その前に判断しなければ成り立たない。もちろん、最大の原因はその量とスピードだろう。

幸い、どの著者も絶望しているわけではないようだ。確かに、インターネットの美点はたくさんあるし、その使い方や制限の方法にもさまざまな可能性がある。ここでとりあえず書いておきたいのは、「インターネットの自由」がすでに結構、悪夢めいたものになっていること。私自身、かなりインターネット・ジャンキーなので、この観察はわりと正しいんじゃないかと思う。そしてこれからは、「私にとってより重要で好きな情報を、効率よく集める」のとはまったく逆のアプローチが大切だろう……。


韓国を旅する司馬遼太郎

昔から司馬遼太郎という人にはやや苦手意識がある。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』なんかの文体や価値観にどうも馴染めなかった。やたらに人気があるので、それに対する警戒もあったかもしれない。
だから、韓国の紀行モノを探していて手にとった『街道をゆく』が意外に面白く、済州島編、対馬・壱岐編まで読んでしまったというのは、自分でもちょっと意外な展開だ。
文体など鼻につくところはもちろんあるが、それなりにバランスはとれているし、興味深いエピソードがバランスよく紹介されている。金達寿や姜在彦といった在日の文化人らが魅力的に描かれているのもいい。朝鮮文化の基層みたいなものと儒教社会のあり方を整理する視点も、私にとってはひじょうにわかりやすかった。
とはいえ、日韓の歴史というやつはどんな風に書いたって誰かから非難されるという厄介なものであることは確かだ。私が「バランスよく」などと言ったところで、冗談にしか聞こえないかも。あるいは、これらを読んで司馬遼太郎の「隠れた朝鮮蔑視」が見えるなどと言われれば、まあその通りなのかもしれないし、そういう次元でいえば私にも当然あるだろう。私としてはそんなことよりも、日韓を船で往復する愉快な旅を夢想しているところ。結構、たくさん航路があるんだなあ。対馬にも行ってみたいし、でもやっぱ関釜フェリーとフグとエイの旅か。


地図はフェリーで海外旅行へ行こう!より

ところで、この「街道をゆく 壱岐・対馬の旅」のなかで壱岐に伝わる愉快な豆腐譚が出てくる。豆腐が病気になり、それを知ったダイコンとゴボウとニンジンが見舞いにいくというような話だ。途中は省略するが、最後に豆腐が「しかし私アもう、もとのまめ(健康)にはなれまっせんでつせう」と泣き出す。ここから、日韓の豆腐事情について調べるあたりも、ちょっと楽しい。
韓国のドラマなどには、刑務所に豆腐をもって迎えにいくというシーンがある。これはどうも「豆腐のように真っ白になって出直せ」という意味のほか、「二度と監獄に戻らないように
(豆腐が豆には戻れないように)」という意味もあるらしい。だとすると、まめ=健康は日本起源ぽいが、豆には戻れないというのは韓国起源かもしれない……。


野生の探偵たち

ずいぶん昔、大学生のころ。私はメキシコシティのカフェに座って本を読んでいた。
若いイケメンの兄ちゃんが声をかけてきて、何を読んでいるのかと問う。私は本の表紙を見せる。
たしかそれはオクタビオ・パスが愛について書いた評論で、兄ちゃんはそんなものはつまらないぜという顔をする。
「それよりカスタネダを読みなよ。僕の人生を変えた本だ」
彼はそう力説して、すたすたと行ってしまった。

当時、私はメキシコの詩人についてのインチキな論文を書いて卒業しようとしていた。カスタネダという名前には聞き覚えがあったが、どんな人かは知らなかった。
日本に帰国してから私はカスタネダのドン・フアン・シリーズにはまり、だんだんメキシコ文学なんかどうでもよくなってきた。
以上、もしかしたら私の人生を狂わせたのかもしれない、しかし比較的どうでもいいエピソードだ。
20年も経ってみると、かつての自分やその兄ちゃんは、かなりイカれた感じに思い出す。
たぶん、客観的には今の私のほうがイカれているかもしれないが、まあ年齢というのはそういうものなのだろう。

ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』のメキシコの若い詩人たちへの視線は、いわばイカれたものへのフェティッシュな愛なのかもしれないが、上下巻にわたりここまで大量に登場してくると、少しうんざりしてくるのも事実だ。この作家に興味があるのなら、まずは普通に面白い短編集『通話』をおすすめする。
とはいえ、確かに印象的な場面はいくつかある。オクタビオ・パスの名がさんざん言及された後、本人もちょっとだけ登場する。その頃にはフィクションかフィクションじゃないかはかなりどうでもよくなっているし、登場人物はことごとく狂っているんじゃないかという気がしてきている。
こういう長編小説は、読み終わってほっとしたのか、いい作品なので感動したのか区別がつかないことがある。


ある女流詩人伝

ユーリエ・シュラーダー。ずいぶん前にドイツでちょっと風変わりなエロチックな詩を書いて新聞に発表したりした人らしい。
魅力的だがどこかピントがはずれた感じは、たぶん定型詩という伝統に忠実だったせいもあるだろう。もちろん彼女の人格的な魅力も。
言葉が詩になるとき、一体何がそこで起きているのか。一人のごく平凡な詩人の人生を通してそれを描いた素敵な本だ。複雑な文学論とか、破天荒で偉大な詩人の人生のなかにはない何かがあって感動してしまう。
ちょっと忘れ去られたかけた、そしてものすごく偉大というわけでもない人々の文章を「再発見」して魅力的に紹介するのは、池内紀の得意技?のひとつだ(もちろん訳もいい)。早川良一郎、そしてリヒテンベルク先生……教えてくれてありがとうございます。


ラクダが踊る

らくだが好きで「らくだ節」なんていう曲をつくったりしたが、どうやら、らくだは本当に音楽が好きらしい(?)。

モンゴルの映画「らくだの涙」はラクダの授乳を促すために楽士を呼ぶストーリーである。
内モンゴルの映画「長調(Urtin Duu)」にも、ほとんど同じようなシーンがあった。
以上は、フタコブラクダの話。

以下は、アラブのヒトコブラクダについて書かれた堀内勝著『ラクダの文化誌』という本からの抜粋。

その小ざかしこく、さとい耳は主人の声を聴きつけ、その調子に合わせて歩を歩む音楽を理解する耳であった。したがって茫漠とした砂漠を旅する者には、その大海を航海する舟をどのように操ったり、スピードを調整したりするかを知っている必要があった。その操縦術は偏に彼等の声にかかっているのだった。それ故大規模な隊商qaflahには、必らずラクダ群を指揮し、一隊の先頭に立って、その美声で並居る音楽の理解者達を魅了しながら導いていく者、hadin(先導者)がいた。批評の耳をもったラクダの聴衆を相手にするからには、hadinは美声の持ち主であらねばならなかった。hadinの美声がラクダ達をどれ程狂喜させるかは、アラビア、ペルシャの古典の著作物の中に夥多の例を見いだすことができる。

この章だけ、妙にテンションが高いのも面白い。私も、大部のため途中で読むのを辞めようかと思ったところであったが、この「ラクダが踊る」という章だけ妙に盛り上がってしまった。

その一生を砂漠のなかで全うするが故に、静寂に慣れ、聞くものといえば己の砂を踏む音しかないラクダの耳は、それだけに他の音に敏感であった。特に歌声のように旋律をもった音に対しては反応が著しかった。しかもその歌が美しいならば、さらにその反応が増した。彼の歩みは歌の律に自ずと歩調が合っていた。そしてあまりの上手さ、あるいは甲高い声の持つ情緒性はラクダの反応を前述の例に見た如く、恍惚とさせ、有頂点(ママ)に導いてはその果てに動物的本能である性への執着心をも忘れさせる程であった。

砂漠の静寂とらくだの音楽好きが結びついているところも、なんだか面白い。
このような人間とラクダの交流からアラブのキャラバンソングが生まれ、アラブの歌謡や詩はここに深い伝統をもつという話が、さらに展開されていくわけだ。

静けさのなかにラクダの砂を踏む音だけが例えばタタンタタン、タタンタタンと一定の律で響いていたとする。その一定の律は、やがてラクダの上に乗る人間にとっても無意識のうちに一定の拍子となるであろう。ましてや、ラクダに乗れば気づくことであろうが、その歩調に合ったコブの揺れが乗り手をリズミカルに大きく前後に揺すり続けるから、人獣のリズムが両者の体内で一体化してしまう。単調な自然と、昼間ならば太陽の直射と夜ならば暗黒からの恐怖感とを主な原因として、遣る方なき理性はやがて慰め手となるものを本能的に求める。慰めの対象は最早、熱さ或いは恐怖と疲労から深い思索を求めはしない。すでに体の一部と化している一定の拍子に従って。情緒に訴えるものを発散し、理性の浄化を計るわけである。そこで彼等はその拍子に乗って歌い出すのである、恰もストレス解消に肉体的運動が不可欠の生理的現象であるかの如くに。

つい引用が長くなってしまったが、まさに理性を浄化してくれる名文である(笑)。