靄にかかったような古文

学生時代から、わりと外国語は好きでした。それにくらべ、古文はどうもピンとこなかいのが自分でも不思議な感じがします。高校生のころ、担任の教師から「現代文学だけじゃなくて『源氏物語』も読んだら?」などと勧められて嫌な気持ちになったことも思い出します。そのとき、「雅な恋」「和歌を通した恋愛」みたいなゲーム的な要素に少し反感があったような気がしないでもありませんが、当時の気持ちはよく思い出せません。

齢をとり、今も古文を読むと何か霞にかかった世界を見るような感じがあり、苦手意識はぬぐえません。一方で日本の古典に対する興味は年齢相応に(?)増したようであり、そんなわけで最近は「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」を少しずつ読んいます。もともと素晴らしい作品が多いのはもちろん、現代の書き手である訳者と作品の距離みたいなものも、興味深いのです。結局、私は「翻訳」という作業を通した何かが好きなのかも知れません。

ところで、もうずいぶん前から、いつか「語り物」を弾き語ってみたいなという到底実現できそうにない夢を抱いています。それは漠然と中世の語り物、たとえば説経節とかではないかと思っていました。あるいは、そのころの説話文学みたいなもの(この辺の用語やジャンル分けについては、まったく分かっていません)。

実際、伊藤比呂美の訳した「説経節」や「発心集」、町田康の「宇治拾遺物語」などを収めた巻あたりは、すごく面白くて夢中になって読みました。でも、なんか私がやっているような音楽、あるいは歌との相性が悪いような気がして、「やっぱり語り物は無理かな~」なんて思っておりました。

その意味で発見だったのは、「伊勢物語」です。恥ずかしながら、最初に書いたように、これまでまったく興味のない世界でした。でも、これってある意味、ボサノヴァみたいなもんじゃん(笑)という、なんともいい加減な感想とともに、すごく面白く読めたのです。やっぱり年齢でしょうか。

訳したのは川上弘美。シンプルだが丁寧な訳で、ほんのときどき、ここぞってときに原文を逸脱してジャンプしてくれる。素晴らしい訳だと思います。感激したので、ちょうど、すごく話題となっていた髙樹のぶ子『小説伊勢物語 業平』も読んでしまいましたが、やはり何か違う。ここまで書かれていない部分を補って小説化してしまうと、たとえば「日経新聞臭さ」みたいなものが、出てきてしまうのです。

ご存知の通り、「伊勢物語」には他にも多くの派生作品やパロディ、訳があって、いろいろ想像して遊び甲斐のある作品です。私は最初、在原業平のように多くの女と浮き名を流した詩人であるヴィニシウス・ヂ・モライスに京都から東へ日本を旅してもらおうと思ったのですが、だんだんそれはどうでもよい気もしてきました。

そんなわけで、「伊勢物語」については原文も少しずつ読んでいます。相変わらずぼんやりとした内容しか頭に入らないのですが、さすがに何度もいろいろなヴァージョンを読んでいると、だんだん言葉そのものではない形で情景が浮かんでくるようになるわけです。「伊勢物語」の成立からして、最初に歌があって物語を後からつけた部分も多いようです。歌が先か? 物語が先か? 実現できそうにない楽しい夢は諦めずに、のんびり歌ったり読んだりを続けていこうと思います。


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