岩戸を閉じることはできなかった

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

岩戸を閉じることはできなかった

あるとき、パジャマの神さまがお隠れになった。
ようやく日も暮れようとするころ、
なんと、もうひとつの眩しい光が東にのぼった。
冷えはじめた大地の熱は、再び耐えがたいものとなり、
ふたつの太陽が、かわるがわる現れては肌を焼き、
草木を枯らした。
神々は日没とともに再び一日のはじまりを迎え、
眠ることも許されず働いたり、
あるいは遊びつづけたりした。

ある神が言う。
「このままでは体がもたないよ。パジャマの神さまにお出まし願おう」
別の神が言う。
「このままでは心まで折れてしまうよ。パジャマの神さまにお出まし願おう」
そこで神々が相談し巨大な岩戸の前に集まった。
大小の太鼓、さまざまな弦楽器や管楽器、
巨大なアンプやスピーカーなどをもって集まった。
「神さまは、ここに隠れ眠っておいでだ。
われらの楽しい歌と踊りで、目を覚ましてもらわなければ」

心地よい夢のなかにいたパジャマの神さまの耳に、
がなりたてるような、出来の悪い音楽が聞こえてきた。
「ああ、頼むからやめてくれ。もう少し静かに」
ほんの少しだけ重い岩戸をあけ、そう懇願した。
だが、それには知らんぷり、聞こえないふり。
神々の歌と踊りは、ますますひどくなる。
「頼むからやめてくれ、もっといい音楽を教えてあげよう」
そのとき、さらにもう少しひらいた岩戸の隙間に、
力自慢の力士が「えい」とばかり、大きなドアストッパーを投げた。

音楽は終わり、静けさが戻った。
パジャマの神さまは再び眠りについたが、
もう岩戸を閉じることはできなかった。
日が暮れて、涼しげな風が吹いた。
歌と踊りに疲れ果てた神々も、それぞれの家と寝床に戻り、
望むだけの眠りをえることができた。

*パジャマ教の特徴として、音楽についての言及が多いことが一般に知られる。

枕を丸めよ

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

枕を丸めよ

時は迫っているぞ。
今すぐパジャマに着替えよ。
枕を丸めよ。
布団の四隅は揃えよ。

*近代以降に創唱された他の宗教と同じく、パジャマ教にもやはりキリスト教をはじめとする一神教の大きな影響が見られる。

アラブ・エクスプレス

無人島の領有権についてはあまり関心がないが、連日伝えられるシリアの惨状には心を痛めずにはいられない。
そんななか、私は六本木で「アラブ・エクスプレス展」を見に行き、その後は付近でクスクスを食べられるところを、などと考えていた。我ながら能天気なものだ。そして、美術館は六本木の夜景をバックにした完全な観光スポット。きらびやかなライトのなか、何か不吉な威圧感めいたものを感じる場所だ。
アートも「ところかわれば」だな、と思う。たとえば、シリアの「処刑場広場」を映した写真がある。解説を読まなければ単なる風景写真にも見えるし、恐らく今となってはそれ以上に悲惨な場所となっているかもしれない。このようにかぎりなく報道写真に近い作品もあれば、抗議運動に近い作品もあり、また政治や戦争と離れた芸術が成り立たないことを嘆く作品もある。私たちのいる場所では、アートはむしろ娯楽や消費、虚栄などに近いだろう。それに慣れきっているので、いちいち解説を読まなくてはならないことが面倒だと思ったりもしてしまうが、これは単に文脈を共有していない異文化というだけのことかもしれない。
もちろん、解説なしにぐっとくる作品、笑える作品もいくつかはある。でも、それを素直に喜べないような六本木の夜であった。

シリアの人々のために祈ります。

ベイルート

シーツには皺もなかった

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

シーツには皺もなかった

昔の前、はじまりの最初。
まだ朝はなく、昼もなかった。
長い夜だけがあり、シーツには皺もなかった。
布団のなかは温かく、おそろしい火はなかった。
枕はちょうどよい堅さで、つらい肩こりもなかった。
ゆったりとした鼓動や吐息は感じられたが、
耳をつんざく大きな声はまだなかった。

夢だけがあり、パジャマの神さまも夢をみていた。
はじめに神さまはおつくりになった。そして歌った。
雲のような軽やかなリズム。海のような音色。
メロディーと言葉は、まだひとつのもの。
光あれと歌うと、光があった。
雨ふれと歌うと、雨がふった。
風ふけと歌うと、風がふいた。

*パジャマ教の信者は全世界に約10万人(教団発表)というが、恐らく誇張された数字であろう。

アウグスト・モンテロッソ礼賛

ラテン・アメリカ文学マニアというほどではないものの、本屋でもこの分野の棚は大体チェックしているつもりでいた。それなのに、こんな素晴らしい作家がいたことを知らなかったなんて、とても恥ずかしい。おまけに、もう亡くなっているではないか(2003年)。遅れたぶんを取り返すというわけでもないが、なんとかその素晴らしさをここにきちんと書いておきたい(たぶん無理だろう)。

もっとも言い訳ではないが、ホンジュラス生まれのグアテマラ人(メキシコで活動)という経歴も地味なら(失礼)、日本の出版社や装丁も地味(失礼)、ついでに作風も決して派手とはいえない。ご本人もそれは分かっておられるようで、グアテマラの片田舎でシューベルトの「未完成交響曲」の残りを発見したのに世界から完全に無視されるという愉快な話も書いておられる(「完成交響曲」)。たとえば、先のオリンピックのサッカーで目立ったのは明らかにメキシコとホンジュラスの活躍だと思うが、大抵の人はもうそれを忘れているだろう。この人がフランス人だったらとかいう仮定は成り立たないとは思うものの、ちょっと悔しい感じはある。

アウグスト・モンテロッソについてもっとも知られているのは、この人が世界でもっとも短いひとつの文章だけでできた短編作品を書いたということにあるようだ(「恐竜」。気になるようなら、検索するだけでこの短編は数秒で読める)。しかし現在2冊でている邦訳のうち、どちらを先に読むべきかといえば、この名高い世界最短小説を収録した『全集 その他の物語』よりも、『黒い羊 他』を勧めたい。

『黒い羊 他』にはさまざまな動物たち、神話上の有名人、などなどが登場する。作家になりたいサル、相対性理論に気づいたキリン、趣味に没頭するペネロペ、矢に追われながらゴールしたカメ、詩を書くブタさん、ロバと横笛の恋(?)などなど、愉快な話だらけ。イソップ童話のような雰囲気をもちつつ、笑いと謎にあふれ、カフカのアフォリズムのような切れ味もあるような、ないような。冒頭に掲げられた謎のエピグラフ(?)「動物たちは、あまりにも人間に似ていて、ときとして区別がつかないほどである」だけで、なんとなく笑ってしまう(これにはオチがあるのだが、ここではもったいないので触れないでおく)。ついでに、翻訳もすごくいい。

訳者のあとがきによればラテン・アメリカでも「作家のための作家」として、通好みな作家らしい。たしかに、書くことや表現することそのものをテーマにした面白い作品がいくつかあって(私のお気に入りは朗読したくてうずうずしている大統領夫人の話)、こういうのは意外に一般ウケしないのかもとも思う。しかしそれだけではないし、全体にとても読みやすく、笑いにあふれ、難解さとはほど遠い。短くて味わい深く、何度も読み返せる。人に読んであげたくなる。だんだんTVショッピングの宣伝みたいになってきたから、この辺でやめよう。まあ、モンテロッソの短編集をコマーシャルでラクダとかキツネが宣伝していたら、それはそれでモンテロッソの作品ぽくはある……。

もっとも影響を受けた本?

子どものころうちにあったシリーズ、「母と子のむかし話シリーズ」(研秀出版)。セールスマンが訪問販売などで売っていたらしい。20冊あるなかで、私がたぶん一番影響をうけたのがこの最終巻「中南米の神話物語」である。あらためて再読してみると、自分が何にひかれたのかよく分からないのだが、何か不穏な感じ、明らかに他とは違うひりひりとした(?)世界感であろうか。文章よりも、絵だったのかもしれない。やたら人が死ぬのにもびっくりする(笑)。

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私の人生はつねにこの本の弱い影響下にあったように感じられ、何だか今見ると不思議だ。後にこの本の元ネタのひとつがマヤの神話『ポポル・ヴフ』であることを知った。三島由紀夫が推奨していて、挿絵をかのディエゴ・リベラが描いていて、これも大変美しい本(特に1972年に再版されたものがカラーの挿絵ですばらしい)。私はそれも知らずに学生時代メキシコへ出かけチチェン・イツァーなどマヤの遺跡をいくつも巡ったが、不気味さとともになんとなく懐かしさを感じていた。
ところで他にも、「中近東の神話」「日本の神話」などが好きだったこのシリーズ。私を含めた3兄弟は読むだけでなく粘土遊びなどかなり手荒な遊びにも酷使し(高さの調整に便利だった覚えがある)、最後は捨てられてしまったようだ。懐かしいので、古本屋などで見つけたらまた買おうかとぼんやり思っている。

上達は錯覚か

松本幸四郎主演のミュージカル「ラ・マンチャの男」が1200回だとかで、その舞台稽古のドキュメンタリーをTVやっていた。私にとってドン・キホーテは特別なヒーローなので、その描き方や解釈にはいろいろ不満はあるものの、松本幸四郎の役にかける情熱とともに、付け眉毛を動かす芸などに感心させられた。
とりわけ印象に残ったのは、中村歌右衛門に言われたという「だんだん上手くなっていると感じるのは錯覚。ずっとやり続けていると、ダメになっていく」という教え。

もちろん、稽古をして上達するということを否定するわけではない。松本幸四郎が練習を続けたであろうことはもちろん、私も他人の演奏などを見て、上達したなあ、よくなったなあなどと思うことがよくある。
でも、この言葉にはっとするということは、きっとそれが今の自分にとっての真実なのだろう。

サウダージと恨(ハン)

以下、すこしメモ的に書いてみる。あまり整理はされていない。

ブラジルでいうサウダージは、いわゆる「懐かしさ」に近いが、自分が本来あるべき場所やともにいるべき人、時間、状態から離れていると感じることではないだろうかとぼんやり思う。
韓国の恨(ハン)についてはもっと分からないが、小倉紀蔵という人が「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所への『あこがれ』と、それへの接近が挫折させられている『無念』『悲しみ』がセットになった感情」と説明しているらしい。

こうして並べてみると、ほとんど同じだ。もしかしたら、程度の問題とすら言えるかもしれない。
共通するのは日本語の「懐かしさ」「恨み」がより一人称的、個別的あるのに対して、サウダージや恨は他者と共有できるものとして一種の美的概念にまで昇華されていることだろう。
もちろん、どちらがいいという話ではない。サウダージも恨も、月並みになりかねない。
ただ、どちらもより深い感情を共有したいという文化なのだなとは思う。日本文化には、他人の心に近づきすぎないという掟があるように思うことがある。

ムリウイでのライブ(ボサノヴァ三国志)

祖師谷大蔵のムリウイでのライブ、お越しくださったみなさま、ありがとうございます!

このお店には客としてもときどきお邪魔するのだが、本当に素晴らしいところだと思う。
ライブも素晴らしいものが多いので、まだの方はぜひスケジュールをチェックして出かけてみてほしい。

「日本語ボサノヴァの夜」という、なんだかすごく狭いようにも思えるタイトルなのだが、実は3人ともまったく別な方向を向いていて、意外にバラエティ豊か。

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オリジナル日本語ボッサのheliさんとはご一緒させていただくことが多いのだが、今回は特にいい演奏だった気がする。
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東輝美さんは何度みても素晴らしい。日本語はたぶん彼女の歌にとっては「第二言語」なのかもしれないが、手放しで見事というほかなない。ストーリー性があって、しかも雄大な感じがするのは、彼女の三国志好きとも関係があるのかないのか。

そんな三者三様三つどもえ、というわけでライブの最後には「らくだ節」を「ボサノヴァ三国志」ヴァージョンで歌わせていただいた。

劉備、孫権、曹操も
歌えボサノヴァ日本語で
レッドクリフも真っ青の
それがボサノヴァ三国志

Beira Mar(海辺)のおもいで

夏の前半はほとんど家にひきこもっていて、ひたすら暑さと戦っていた。一度だけ、葉山の海に行ったら、突然あまりの眩しさの下に引っ張りだされたようで、びっくりした。
太陽の眩しさだけでなく、あらゆるすべての眩しさ。
さて、ちょっと前にブログのコメントで読者の方からリクエストをいただいた曲を訳してみた。カエターノ・ヴェローゾの曲で、ジルベルト・ジルがよく歌っているBeira Mar(海辺)。

http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/beiramar.mp3

Beira Mar(海辺)

私の生まれたあの海へ戻ろう
ほら、聞こえるだろう?
繰り返す波が胸の鼓動さ

波間で生まれた魚と同じ網にまかれて
ここへ来たんだ ここへ来たんだ

たぶんあるいは浜の椰子の木
海のそばにある木陰に夢見る
大きな葉を広げる 椰子の実ひとつ

はじめて恋した愛の渚よ
ただそばにいて海辺を歩いた 海辺を歩いた

海は海でもただそれだけで 終わらない海
世界にひとつ 遠い島影
あれはイタパリカ

ああバイーアの海は特別なのさ
ああバイーアどこまでも 透明な海 透明な空

心のなかは海と同じ色 あらゆる空の色
すべてを映した海は歌っている
ああサンバが聞こえる
青い海、青い海バイーア
生まれたときと同じ
心のなかは 心の色は青

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IMGP3913 posted by (C)ottwaki

ところで以前、知り合いが「トロピカリアを題材にしたドラマがアメリカかどこかで作られているらしい」と教えてくれた。まったくの未確認情報でガセネタの可能性もあるが、カエターノやジル、ガル・コスタやマリア・ベターニアなどが登場し、海辺を舞台にした恋物語らしく、なんでもカエターノとジルのホモ・シーンもあるのだとか……。
たぶんこの曲は、葉山の海に連れ出された引きこもりが歌うよりも、そういうドラマの主題歌とかにぴったりだと思う。