月曜日はカーニバル

ひさびさに新訳ができたので録音。
こういう趣旨のはっきりした曲はあっというまに訳せるな、と思ったのだが、
一度できたあと、あちこちいじっているうちに一ヶ月くらいすぎてしまった。
詩の理屈というのは強固なもので、一度できあがると簡単には壊せないものなのだが、普通に理屈っぽく訳してしまったということかもしれない。
内容的には、暗いテーマも徹底して追求すると、結構ポジティブな話になるという話でもあるのか?
しかし、どんだけ祭りが楽しかったんだ、という気もちょっとする。
日本は灰の水曜日が続いているような感じもするので、もしかしたら時局に合っているのかも(涙)。

灰の水曜日のマルシャ

http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/quartafeira.mp3

月曜日はカルナヴァル 火曜日はカルナヴァル
でも今朝は祭りのあと 水曜日 それは灰の水曜日
誰もいない街 歌声消えた街
昨日までは笑顔が 溢れてた 音楽が溢れてた
歌を私たちに 今こそたくさんの 愛と喜び 平和の歌
悲しみもいつか きっと終わるだろう
微笑みは 希望の日はのぼるだろう 幸せは戻るだろう
青空見上げれば 輝ける世界に まだ見ぬ愛が溢れている
もう一度カルナヴァル 懐かしいカルナヴァル
美しいあのマルシャ 歌ってた
あのときの あの歌を あのときの あの歌を

スムーズに眠りへと誘う

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

スムーズに眠りへと誘う

人魚は自分の声がもつ催眠的な力を誇っていたが、
本当をいうと、ひそかにもっと別の音楽にも憧れていた。
いつか、派手な電飾と仕掛け花火のあるステージに上がり、
巨大なアンプとスピーカーを震わせてみたい。
低音のビートに乗せ、耳がおかしくなるようなシャウトを連発し、
踊る若者たちの熱狂と恍惚に危険な油を注ぐような曲を、
エロチックに体をくねらせて歌ってみたいと思うのだ。
ときどき、いたずら心を起こした人魚は、
すこし音程をずらしてみたり、違うアクセントをつけてみたりして、
自分の歌がもつ可能性を試してみることがある。
しかし、いつもと同じくその歌は、なめらかな絹織物のシーツみたいに、
聞く者をスムーズに眠りへと誘う。

*人魚の歌に誘惑される神話・伝説は多いが、パジャマ教ではそれを催眠効果と断言している。

敗北主義

なんとか主義というのはたいてい冗談でしか使わないが、「敗北主義」という言葉はわりと本気で気に入っている。

ちょっと前に「無人島の領有権に興味はない」などと書いたが、さすがにだんだん話がエスカレートしてくると、そうも言ってられなくなってきた。中国本土には友人もいるし、何らかの危険に直面していると思うと、心が痛む。
もっとも、私のような「敗北主義者」が、いくら「あんな島など、思い切って明け渡してしまえ」とか言っても仕方ないので、ここではもう少しちがうことをメモしておきたい。

私のような少数派をのぞき、世論というものは大抵「強硬姿勢」を喜ぶものである。したがって外交には、お互い現状を維持しながら、相手を殴っているフリみたいなものが求められる。結構、危険な技と言わざるをえないが、しばらく日中も日韓もそうしてきた。強硬姿勢のフリをやめて、本気で現状を打開しようとするのは、いわばルール違反ということだ。

それはともかく、孫崎享『戦後史の正体』(創元社)という本によれば、北方領土もふくめ、日本が抱える3つの厄介な領土問題はすべてアメリカ合衆国が戦後の外交政策として意図的に埋め込んだ仕掛けのようなものだということらしい。それはそれで、なるほどと思える見方である。もちろん、孫崎氏は敗北主義などでなく、これはひじょうに立派な本である。話題の書らしい。ミュージシャン関係の知り合いでも複数の人が同時多発的に読んでいると言っていた。けっこう珍しい現象だ。

眠りは弱虫のためのもの

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

眠りは弱虫のためのもの

悲しいとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
苦しいとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
辛いとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
怖いとき、泣きなさい。そして眠りなさい。
眠りは弱虫のためのもの。

*パジャマ教はどちらかというと現世利益を追求する側面が強いものの、その発想はひたすらにへたれである。

またしても神さまの眠りは妨げられ

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

またしても神さまの眠りは妨げられ

昔のはじまり、はじまりの最初。
神さまは愛情をこめて人間をつくったという。

ところが、眠っているあいだに、人間たちはどんどん殖える。
この世に生を受けた喜びを発散させる彼らは、
敬虔な祈りとともに、さまざまな騒音を天と地に響かせた。
やがて、それは神さまの眠りを妨げるようになる。

辛抱強い神さまも次第にイライラしはじめ、
やがて人間を懲らしめるべく、恐ろしい懲罰を与えた。
大地は水で溢れ、生き残った者は少なかった。
生き残った者らは、命に感謝して祈った。

神さまのご加護のもと、人間はまた殖えていった。
すると、またしても神さまの眠りは妨げられ、
懲罰的な天災や戦争も繰り返された。

しかし神さまもやがて騒音のなかで眠るコツをおぼえ、
人間の祈りもめったに届くことはなくなった。
だから神学者たちは、最近の天災や戦争が、
神さまの不眠とは、何ら関係のないものと解釈している。

*不眠に悩まされる神というモチーフは古代オリエントを中心に見られる。

聴き鉄、もしくは失われた音

乗り鉄、撮り鉄などという言葉を最近よく聞くが、写真を撮るだけでなく、音声を録音する「録り鉄」も結構いるらしい。前に「鉄道音楽」ということでその辺の話に触れたかどうか忘れたが、私にもなんとなく気持ちが分かる。とはいえ、モーター音の種類がどうとかいう話には、あまり興味がなくて、やはり鉄道が走るときのあのリズムが好きなのだと思う。
最近は車体が軽くなって素材も変わったため、そのリズムや音もずいぶん軽くなった気がする。重い鉄の車両が大きな鉄橋を渡るときのあのスリリングな感じは、もしかしたらもはや「失われた音」なのかもしれない(SLの音それ自体はむしろそれとして保存されているような気もする)。鉄道にかぎらず、こういう「もはや聞くことのなくなった音」というのは、黒電話の呼び出し音のように誰でも思いつくもの以外にも、結構あるのではないか。
「フィールドレコーディング作家の第一人者」であるというクリス・ワトソンの『El Tren Fantasma (幽霊列車)』は、メキシコの鉄道や駅を音を中心としたコラージュ的作品。ここには、まだ重い車体とあの懐かしい音がある。そして、鉄道の音は音楽と音楽じゃないもののあいだ、ぎりぎりのところを行ったり来たりする。非常に地味ではあるが、以上の話にわりとぴんとくる人々にはお勧めのCDだ。

周囲は変わってしまったが

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

周囲は変わってしまったが

あまりに長い夢を見ていたため、荘子は目を覚ましたとき、
自分がすっかり何者であるか忘れてしまった。
周囲は変わってしまったようだが、
以前とさして違わないようにも見えた。
誰も顔見知りがいなかったので、電車に乗り都会へ出た。
ミュージシャンとなってバンドを結成した。
そして「胡蝶」という美しい曲でデビューした。

*『おねしょの書』にはここで登場した荘子をはじめ、古今東西の著名人が多く登場するが、史実や文献をないがしろにしたものも多い。

針の穴に通すことより

--『おねしょの書』(パジャマ教の聖典)より

針の穴に通すことより

あるときヨブが心配そうに尋ねた。
「神よ、私には慎ましいながらも蓄えがあり、
夜になると、小さな数字たちが私を苦しめます。
話によれば、富貴なる者が天国へ行くのは、
駱駝が針の穴を通るより難しいとか。
私が富貴ではないにしても、
恐らくそれは真実でしょうか?」
神は答えた。
「大きな動物を針の穴に通すことを考えるより、
駱駝の数を数えなさい。
数え続ければ、やがて眠れるであろう」

*「マルコによる福音書」にこれと似た冗談が書かれている。誤訳という説もある。

オースターとクラストル

ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』という「嘘みたいな、ほんとうの話」を集めた本のなかに、若い頃に訳したというピエール・クラストルの本について、刊行されないままゲラが行方不明になりその後古本屋で見つかるという話が出ている。数年前、私はそれを読んでピエール・クラストルに興味をもち、『大いなる語り―グアラニ族インディオの神話と聖歌』という魅力的な本を読んだ。どういうわけか、私はこれがオースターの訳した本だと思い込んでいたようだ。
さて、ごく最近クラストルの『グアヤキ年代記--遊動狩人アチェの世界』(インディアス群書)という本を読んだところ、あれ、オースターが訳したのはこっちじゃないのか? と焦り『トゥルー・ストーリーズ』を読み返すと、案の定その通りだった……。何をどう勘違いしていたのか、恥ずかしいかぎり。読んでみるとグアラニとグアヤキではずいぶん違うし、若き日のオースターが『大いなる語り』を訳したというのと、『グアヤキ年代記』を訳したのとでは、これまたずいぶん印象がちがう。なんにせよ、これでようやく私のなかでも「ほんとうの話」がつながったわけで、やれやれである。

そんなわけで、『グアヤキ年代記』の語りのおもしろさ、そしてグアヤキの豊穣な世界の魅力を的確に紹介することは、とてもできそうにない。
ここでは、誰もあまり注目しそうにない、豆にまつわる素晴らしい細部を引用するだけにしておこう。

プロアアンは一種の大きなインゲン豆である。ヨーロッパのそら豆に似ていて、森のツタ植物の鞘になっている。プロアアン・マタという遊びのなかで、男と女はこれらのインゲン豆の一つを自分の腋の下か、握った手のなかに入れる。持っている者にそれを手放すように仕向ける遊びである。彼らは持っている者をくすぐり、くすぐられたものは遅かれ早かれそれを手放さざるを得ない。……(中略)……子どもたちはこの遊びに参加しない。あまりに熱狂が大きく、その激しさが危険なものになる可能性があるからだ。……(中略)……部族が集まっている間中、彼らはインゲン豆の取り合いをして遊ぶ。それぞれが代わるがわるにその持ち主になり、それから奪われる者になる。青年や娘にとって、彼ないし彼女が望んでいる異性にインゲン豆を盗ませるのは簡単である。特定の彼ないし彼女のくすぐりに降伏することは、いわば愛の宣言のようなものである。私はあなたにインゲン豆をあげる、あなたから別のものをもらうために。私はあなたからプロアアンを奪うために努力する。それはあなたが欲しいからだ。……