陰気な読書週間

このあいだ一冊の本を読み通せなかった話を書いた。
なんだか訳者である木村榮一センセイに申し訳ない気がして、同氏訳のフリオ・リャマサーレス『黄色い雨』を読み始めた。
センセイとは別に知り合いというほどでもないが、一度だけお会いしたことがあり、なんとなく一方的に尊敬している。
村人たちが次々と去り、廃村と化した村に一人残った男が死んでいくまでを描いた小説。
ひたすら陰気な話ではあるが、これは最後まで一気に読んだ。
その暗さとは関係なく、ひさびさに読書の快楽というものを感じた。
文章が美しく、そしてどこかに自然や人間の生活に対する愛情のようなものがあるからだと思う。

続いて、よせばいいのに今度はニューヨークの地下で暮らすホームレスを描いた『モグラびと』。
ニューヨークの治安がひどかった頃の話だから、今はどうなのか分からない。
私はこの頃ニューヨークへ行き、地下鉄は確かに怖かった。
その後、7年くらい前に行ったら、地下鉄もずいぶん変わっていて驚いた。
モグラびとはどうなったのか、気になるところだ。
もっとも印象的なのは、地下にグラフィティの大作を描いていたアーティストたちのエピソード。
そして、地下にコミュニティやファミリーみたいなものがあって、
人間はそこでも食べ物ではなく、他人からもたらされる「尊厳」を糧に生きているという事実だ。

アメリカほど貧富の差が激しくない日本で、自殺者が多いことを考えた。
ときに自殺にまで至る危険な病としてのうつ病について語った新書があったので読んでみた。
臨床医の立場で書いた、その症例や治療の考え方は大いに参考になったが、最後に日本の高い自殺率や社会の状況との因果関係について述べた部分は印象論に終始しているようにも思え、やや検証が物足りない気がした。
これは他の専門家が書くべき部分なのかもしれないが。

そして最後に、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』。
だいぶ前に出た本なのでいまさらという感じはあるが、とにかく面白い、素晴らしい。
まあ、これも話は陰鬱だし、キリシタン弾圧なんて、現代日本社会の暗部にそのままつながっているとも言えるだろう。
それでも、ここには私の愛するものや恐れるものがすべて描かれているといってもそれほど誇張ではないし(まあちょっと誇張だけど)、
とにかく今は亡き著者に最大限のリスペクトを表明したい。

ちなみに、「らくだ節」はまさにこの時代の日本を想像してつくった私なりのフィクションだが、
若桑さんの本を読んだ後に聴くと、なんとショボいことか……。
いや、読まなくてもショボいんだけど(笑)。

ゴリラの鼻歌

全体に不調である。
お店の経営状態も苦しいので、私はレイオフ状態になっている。週末など忙しいとき以外は「自宅待機」しているのである。
そんなわけで時間もあるし、本業をばりばりやるとか、音楽活動をがんがんやるとか、すればいいのだが、なんとなくだらだら暮らしてしまっている。
優雅に本でも読もうと思って一冊買ってきたのだが、これがいけない。エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』。「書けない症候群に陥った作家たち」についてのお話。まあ、これだけで不調なときに読むべき本じゃないということは、分かりそうなものだけど……。昔読んでいたら、きっと面白いと思ったのだろうとは思う。でも、今はだめ。半分くらい読んだところで、全然進まない。

そんなわけで、ぼんやりテレビを眺めていると、NHKの番組でゴリラの鼻歌を紹介していた。テレビ番組も、たまには素晴らしいものを映して(聴かせて)くれるもんだと思ったが、それにしてもなんとも地味な鼻歌である……。

だいぶ前に、『歌うネアンデルタール人』という本を読んだのだが、これが面白かった。
人間が言語以前にもっていたコミュニケーションのあり方について語ったもので、著者はこれを「全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的な」といった意味で「Hmmmmm」と呼んでいる。歌は「音楽」と「言葉」に分解できるが、かつては一体のものとして分けることができないものだったのだろう。
で、私は決して聴くことのできないネアンデルタール人の「歌みたいなもの」を、これまでなんとなく力強い、攻撃的なものと想像していた。
でも、ゴリラの鼻歌を聴いて、あ、こんな感じだったのかも、と考えなおした次第。まあ、実際のところはゴリラとネアンデルタール人では骨格も違うだろうし、もちろん分からない。
河童の鼻歌の言い伝えとか、セイレーンの歌声とか、そういう「聴くことのできない音楽」には妙に心惹かれるものだ。『バートルビーと仲間たち』を思わず買ったのも、きっと「書かれなかったテキスト」というものに惹かれたからだろう。
でも、今の私にはゴリラの鼻歌くらいのほうがピンとくる。

チェコのはなし

チェコ料理を出すバーをはじめた、などというと「ブラジルじゃないの?」と聞かれたりする。
「なんでチェコなんだ」と怒ったような顔で言う人も。
(私がブラジル音楽バーでも開けば、話は分かりやすいのだろう。
だが、それはあまり想像したくない事態ではある……。)
というわけで、私は大抵「相棒である共同経営者がチェコ好きなので」、と答えることにしている(実際、それは正しい)。
とはいえ、私もそれなりにチェコという国への思い入れがあるので、こっそりここに書いてみよう。

といっても、話は実に単純だ。
私はかつて文学青年だった(今でもちょっと文学おじさんだ)。
そして、フランツ・カフカが私のアイドルだった。
以上、終わり。

そんなわけで、私は大学生時代にカフカのいた街、プラハへと旅立った。
まだ、かの国に入るのにビザが必用だった頃の話である。
今回、店を開いてから、
ふとガイドブックとしてそのとき持っていった本が手元にないことに気づいた。
私はよく、大切な本を捨ててしまったり売ってしまったりするのだ。
(店に置くのによい本だろうと思ったので、ヤフオクで買いなおした。)

当時の私はこの本を片手にカフカの墓参りなんぞしながらプラハの街を歩いていたわけだが、
人間とはいい加減なもので、覚えているのはビールがうまかったこととか、
トイレを探してうろうろしたことくらいであったりする。
ついでに、プラハで泊まった家のお婆さんと一緒にオペラをみにいったことも、よく覚えている。
(中途半端なチェコ語とドイツ語で、ろくに意志疎通のできないまま、そのときは婆さんもお洒落をして、なんかデートのような状態だったのである。)

ほかに、
小岸昭「スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて」「マラーノの系譜」も、
ガイドブックがわりになっていた。
これらの本を通じて、私のなかではチェコもイベリア半島も新大陸も、どこかでつながっているように思えたのだろう。
んでもって、当時から鼻歌はいつもボサノヴァだった。

チェコは出版文化も素晴らしいし、「もぐらくん」をはじめとしたキャラクターも大好きだ。
なんといっても、ビールがうまい(繰り返し、失礼)。
とはいえ、チェコ料理のレストランをやるほどかといえば、これは確かに怪しい。
そんなわけで、「なぜチェコなの?」と問われれば、私はやはり口ごもってしまう。
チェコがどうとかいうより、私は単にお店をつくりたかったのだと思う。
出来てみると、自分でも「なぜチェコなんだろ?」とぼんやり考えていることに気づいたりする。

越境の時

鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』

ひさびさに会った友人が勧めるので、読んでみた。
すごかった。今年の新書ナンバーワンだな。

内田樹『私家版・ユダヤ文化論』も、
福岡伸一『生物と無生物のあいだ 』も、
斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』も、
この本の迫力にはちょっとかなわない気がする。
著者にこの本を書くように説得したという上野千鶴子にも、感謝すべきだろう。
内容については、とても解説できる自信がない。
なので騙されたと思って読んでみてください。

ソル・フアナ

ソル・フアナ『知への賛歌』(光文社古典新訳文庫)

文庫名なんて書かなくてもいいと思うんだけど、尊敬をこめて。
ロダーリ『猫とともに去りぬ』でこの文庫シリーズに注目し、『カラマーゾフの兄弟』が売れてると聞き、スゴイと唸った。
でも、さすがに、これが出るとは思わなかった。

弱小出版社でもいいから、訳はあまりよくなくていいから(旦敬介訳はもちろん素晴らしかった)、とにかくソル・フアナの詩集が読んでみたかった。
だから、感謝してもしきれないんだけど、本当はできれば詩の割合をもう少し増やしてほしかった……。
バロック的で私の理解が及ばないんだということは想像できるが、ここで訳された多分比較的分かりやすい作品から想像するに、この数倍分かりにくい作品だとしても、結構イケるんじゃないか。
まあしかし、詩集というだけで売れないらしいし、あまり贅沢は言えない。

実際問題、彼女の詩のよさをここで説明するのはちょっと難しい。
私が「ボサノヴァ日本語化計画」でやっていることにも通じるが、そこには私の誤読が大いに含まれていると感じるから。
だから、この日本では無名の作家を取り上げるのに、書簡2つを選んだというのは、それなりに正しい選択なのだろう。

女性なのに、修道女なのに、詩なんか書きやがって。
そういう時代の話。彼女はこれらの書簡で自己弁護を試みる。
それがなんとも言えず面白くて、機知に富んでて、軽やかで、深みもあって、そして時代を先んじていた。
それはまあ、そうだろう。
「私だけの部屋」をもてなかった彼女は、作家であり続けるために修道院に入った。
でも今を生きる男の端くれとして感じるのは、女性は今もこんな感じでキツい状況にいるよなあ、それに比べて男はテキトーなことを、不用意な差別発言を、軽率な自慢を、垂れ流しているよなあ、というようなことだ。

そんなわけで(どんなわけで?)、光文社文庫からは今後も目が離せない。

荘子

加島祥造氏については、ずいぶん前にこんな文章を書いた。
もう最後にお会いしてずいぶん時間が経つ。伊那谷のお宅に伺ってお前はインタビューの仕方がダメだと言われ、その後気持ちよさそうに庭で小便をしておられたのを思い出すと涙が出そうになる。
いい加減な仕事ばかりしてきた私にとって、加島さんは直接に影響を受けた数少ない作家、心から師と呼びたい数少ない人物だ。まあ、ご本人はこんな私に師匠などといわれれても嫌がられるだけであろうが。

老子の名訳に続く『荘子 ヒア・ナウ』がついに出たので読んでみた。
意外というか、どこかで聞いたことのあるような話が多かったが(荘子を読み通したことはないのに)、期待通り加島節が炸裂してて面白かった。
そしてご本人の「解説」もすごくいい。
ユーモアと思想の関係を明快に語っている。
素晴らしい仕事だ。

ポルトガル語

ときどき、ポルトガル語がスラスラだと誤解されることがあるのだが、実は半年しか習ったことがない。それも、ブラジル人ではなくポルトガル人から。週一回、きわめて怪しいポルトガル語歴である。
スペイン語を少し習っていたので、またブラジル音楽が好きだったので、その先生は私が発音をすると露骨に嫌そうな顔をした。スペイン語風、かつブラジル訛りというのが、許せなかったようだ。対照的に、フランス語風に発音する女の子などには、極めて嬉しそうな顔をしていたように思う。

ポルトガル語の歴史はそれほど古くないが、大航海時代にいきなり「国際語」になって、そして速やかに衰退した。
『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』は、ポルトガルから西アフリカ、大西洋、ブラジル。また東アフリカからゴア、東ティモール、マカオなど、世界中に辛うじて残った「ポルトガル語圏」と言葉について語る。
クレオールをはじめ、現地での経験をまじえた具体的な著述はとても面白いが、少し舌足らずな印象もある。
日本もまた、わずかな語彙を残すのみだが、かつてポルトガル語圏と接した歴史がある。
また、今、ブラジルからの移民によって、有数の「ポルトガル語話者の多い国」になった。
感慨深いといえば、感慨深い。
私は「ボタン」「ジュバン」「金平糖」など、日本語のなかに残るポルトガル語起源の言葉だけを使って歌でもつくれないかと一瞬考えたが、今のところうまくいってない。

低調な日々の充実した読書記録

わりと低調な日々である。
風邪もひいたし、音楽もなんかピンとこない。
でも、そういうときこそ読書生活が充実してたりするものだ。

ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 誰がカラヤンを帝王にしたのか』
クラシックの指揮者というのが何となく胡散臭いなあと昔から思っていた。
これを読んで謎が解決されたというわけではないが、面白い部分もあった。
しかし長すぎる。翻訳も読みにくい。

福岡正信『自然に還る』
この人の本ははじめて読んだ。冒頭の写真にインパクトがある。
爺リーグにノミネートできるだろう。
中身も、言いたい放題で面白い。
欲が出て(?)松茸の培養に挑戦したあたりが個人的にもっとも笑えた。

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
話題の書。海岸の砂でできた城の喩えが美しい。
ちょっと名文を気取りすぎな気も少し。でも、もっと読みたい。

マオバ・タハン『アラビア数学奇譚』
ブラジルの数学者が書いたという不思議な本。
アラビア数学の本というより、数学を小道具に使ったアラビアン・ナイト風の物語という感じ。

杉本良男『インド映画への招待状』
分かりやすくまとめてもらって有り難いが、これを読んでも特に「この映画見たい!」とならないのは、まあそういう性格の本じゃないということか。

極悪人としての小説家

藤原章生『ガルシア=マルケスに葬られた女』

ガルシア=マルケスについては、前にこんな文章を書いた。

面白い物語をつくるためなら何でもする、そんないわばモラルを欠いた作家が、現実の事件を元にした小説を書き(『予告された殺人の記録』)、モデルたちを苦しめた。
日本では割と最近、柳美里の本が出版差し止めになった記憶があるけど、そんな感じだろう。
著者の怒りや疑問も、それなりにもっともである。
でも、まだ見ぬ被害者の女性への手紙という何やら思い入れたっぷりの形式には、最後まで馴染めなかった。

どう考えても「真っ赤な嘘」であるのに、もっともらしく書くことで、現実よりも本当らしい物語をつくる。
これが、ガルシア=マルケスの一番面白い部分だと思う。
だから著者が指摘するように、フィクションの名を借りた現実の歪曲や、ノンフィクション執筆時のでっちあげといった悪事と、深い関係がある。
その部分を、もっと鋭くえぐってほしかった。

ガルシア=マルケスがついた「真っ赤な嘘」のなかで、
『予告された殺人の記録』で女性が手紙を書き続けたエピソードは、それほど上手な嘘ではなかったように思う。
ついでに、『わが悲しき娼婦たちの思い出』が悲しき失敗作であるという見解にも同意せざるをえない。