トラップの重要性

上手と下手については、もう何度も書いた気がする。
上手はどうしても薄味、退屈になりがちだという下手の自己弁護みたいな話。
とはいえ、これは下手そのものが好きという話ではないので、結構面倒だ。
結局、他が同じなら上手なほうがいいよね、とかいい加減な結論になりがちだ。

四方田犬彦『「かわいい」論』
上手というかなんというか、そつがない感じだ。
テーマもいいし、最初はぐっと引き込まれる。でも、なんか慣れた技でいなされて、おしまい。
よくよく考えるとテキトーな感じもするのだが、そこを技術でカバーしているわけだ。
そうでなければ、こんなにたくさんの本は書けないだろう。

市之瀬敦『砂糖をまぶしたパス―ポルトガル語のフットボール』
こちらは、テーマにはすごく興味があり(ポルトガル語圏のサッカー事情)、装丁もかわいいのだが、文章が非常に読みにくて困った本。
文章が下手だからといって味があるというわけでもない、ということを示す例でもある。
それはそれとして、サッカー日本代表がなぜ強くなれないかという分析については、妙に私と意見が一致する。
それは、トラップの下手さである。
つまり、基本中の基本を無視して高度な技術を磨いてもだめという話であり、よくよく考えてみると、自分の耳も痛い……。

ありふれた名前

ポルトガル語の歌詞を聴いていて「やたらに人間、人間と言っているな」と思ったことのある人は、多いかもしれない。私も、かつてそう思ったことがあるが、たぶんこの曲を聴いていたのだろう。
「マリア・ニンゲン」を「だめな人間」という歌にしたい気持ちも強くあったのだが、それをやりだすとどんどん脱線していくと思われたので、我慢してマジメに訳すことにした。
自分が愛する特別な人と同じ名前の人が、世の中に大量に存在するという事実。ふとした瞬間に、それがちょっとした驚異のように思われる……。
私にとって、この歌詞はすごくくだらないが、すごくピンとくる。

マリア・ニンゲン(ありふれたマリア)
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/maria.mp3

もしかしたら誰かほかの
人と出会っていたかしら
でもあなたのかわりになる人は
いないだろう

マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ
マリアなら ほかにも知ってるけど
冷たい他のたくさんのマリアたちとは合わない
マリアは特別なマリアさ
マリアだけがかけがえのない

マリアなら ありふれた名前だが
あなたは誰も まだ見たことのないマリアだよ
マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ

言い争いその2

この歌もカップルの言い争いの話らしいが、こっちのほうが深刻そうだ。
私も経験のあることであるが、言い争いというのはときにそれ自体が目的化してしまうことがあり、非常に困った状態になる。
そんなわけで、元の歌詞を聴きながらなんとなく「ためにする議論」という言葉が頭に思い浮かんだ。
しかし念のために調べてみると、「ためにする議論」というのは、こういう目的化してしまった議論のことではなく、あらかじめ結論を決めているような議論のことを言うのだそうだ。日本的というかなんというか……、こういう意味を微妙に取り違えている言葉というのが結構あるもので、これもまた困った状態である。

Discussao 議論
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/discussao.mp3

意固地になって 聞く耳もたない
売り言葉に買い言葉だけの議論
あなたの心は幸せになるの?
勝ち負け以外に何かがあるはず
心の迷いをあなたは
いつもの理屈と意見で隠すの? 隠せない
大切なもののすべてを失う
孤独と愛の違いも分からない

言い争いその1

世の中には言い争いばかりしているカップルというのがいて、そういうのが意外に仲良しということになっていたりする。
私などから見ると、仲がいいとか悪いとかいうより、そういう人たちは元気がありあまっているのではないかと思う。
当然のことではあるが、ブラジルにもそういうカップルが結構いるようである。

喧嘩はよそう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/brigas.mp3

笑顔が 涙にかわる 私あなたを慰める
仲直りしよう あやまるから
今は少し我慢しよう
そのあと 私が泣く
こんどはあなたが慰めてくれるよ
愛はもっと深まるのさ
仲良くしよう 喧嘩はよそう

夜明ケ

私の好きなマンガにしりあがり寿先生の『夜明ケ』というのがあって、だからというわけじゃないが、「夜明け」という言葉さえ入っていれば、勇気がわいてくるようなところがある。
そんなわけでこんど訳した曲も、非常にネガティブかつ暗いが、私には何やら希望が感じられる……。

E Preciso Perdoar 許してあげよう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/perdoar.mp3

ああ、夜明けが告げる 悲しみの歌
私は今、心決める
夢は消える 恋は終わる

愛すること 与えること 許すこと
間違うこと 恐れること 迷うこと

でも、これで終わりさ
あなたは決して変わらないし
苦しむのはいつも私 恋は終わる

科学あれこれ

ジェニファー アッカーマン『かぜの科学―もっとも身近な病の生態』
ウイルスによる風邪は、冷えることが原因とはなりえないというのが、いまだにぴんとこない……。
ここで否定されている風邪の治療や予防のあれこれを読んでいると、いろいろな思い込みというのは、死んでも治らないというか、科学的に考えるなんて私には無理だとも思えてくる。

アンドリュー・キンブレル『すばらしい人間部品産業』
そして、科学の進歩というよりも、この社会で当たり前とされている哲学のほうが問題というのが、たぶんこの本の立場。
私もまあそうかもとは思うが、この本はちょっと読むのがしんどかった。
もう少し多面的に書かれていれば、説得力も増しただろう。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』
3冊のなかで一番はこれ。ただし、原書のタイトルはThe Art of Choosing、サイエンスじゃなくてアート(技)としての選択。まあ、日本で売るには妥当なよいタイトルだとは思う。
たとえば、スーパーで品揃えを豊富にすると売り上げが下がるという話は、私のようにサブウェイ的な「オプション」にうんざりしているタイプにはピンとくる。
ちょっと前に流行った(?)行動経済学の話に近いが、この著者にはそれとちょっと違うしゃんと背筋の伸びた誇りのようなものを感じる。
選択というものの不思議さ、尊さ、神秘をそのまま受け入れている感じがするのだ。
そういうとき、科学というのはそのまま芸術にもなりうるのかもしれない。
私たちは無限に枝分かれした選択の森を生きているように感じることがあるが、そんなとき、ふと紐解いてみることをおすすめする。

以下、ちょこっと引用。

選択は、最良の状態では、主導権を取り上げようとする人々や体制に抵抗する手段となる。だが選択の自由がだれにでも平等に開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑圧になる。選択は、性別や階級、人種差などから生じる不平等を無視する口実になる。

世代から世代へ 話から話へ

ポピュラー音楽研究の世界にも新しい世代が台頭しつつあるようで嬉しい。

大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』
輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』

どちらも、すばらしい。
ページをめくるたびに新しい発見があるというような読書は、そう頻繁にあるものではない。

考えてみると、昔から演歌や黒人音楽、あるいはロックなんかについて書かれたものに違和感を感じることが多かった。
演歌が日本のブルース? ブルースは底辺の人間による抵抗のうた? え、ジャズもロックも抵抗ですか?
なんか妙に力が入ってるかなり上の世代。んでもって、こんどは逆に思想だの歴史だのは無意味とか強調しだした、ちょっと上の世代……。
ようやく、音楽の歴史も思想も経済もテクノロジーも、わりとニュートラルに語れる世代が出てきた感じがする。

(私はこれまで、自分を含むこの世代は「橋渡し」みたいな地味な役割を担うんじゃないかと、ぼんやり思ってきた。ホリエモンの世代でしょって言われるのは、悪くないけど、ちょっと違うなという感じ。
いや本当はホリエモンも、上と下をつなぐ橋渡し役なのかもしれない。)

あともしかしたら、ラテン音楽に対する意識が高いのも、この二人の共通点かもしれない。
ほぼ同世代というだけでなく、そんな意味でも親近感がわく。
最大限の賞賛をおくるとともに、今後とも応援したい。

猫と雀

いつも一般性の低い本の話ばかりで恐縮だが、お勧め本というより個人的な読書記録ということで、どうか大目に見てほしい……というこのコーナーであるが、今回は動物の本二冊。「お勧め」でも行けるんじゃないか思う。

ところで、私は今マンションの7階という生涯最高地点で暮らしているのだが、こんな蚊すらあまり近づかない場所にもときどき、動物の気配がある。
猫と雀だ。
猫はご近所さんが放し飼いに近い形で飼っているらしい。ときどき、窓の外をアクロバティックに移動したり、こちらを窺ったりしている。
先日、近所で猫を呼ぶ子どもの声がして「チビ、チビ」と聞こえた。
なんと、ちょうど読んでいた本(平出隆『猫の客』)に出てくる猫と同じ名前だ。フリーランスの子どもなし夫婦といい、他人事とは思えないが、やっぱりだいぶ違う。

この本に描かれるのは、猫それ自体というより、猫を愛してしまう人間の心のほうだ。
美しい文章で淡々と描かれるチビをめぐるストーリーはあっけなく終わるが、最後に小さな謎を残す。読後感がいいとは言えないが、私のようなまっとうに動物とつきあった経験のない人間にはぐっとくる。
たぶん、ムツゴロウさんなら鼻で笑うだろう。

窓の外にときどきやってくる雀は、猫とは比較にならないほど、さらに交流が困難な動物である。
私などは、視線を向けただけで逃げられる。
そういう意味で、クレア・キップス『ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯』は驚くべき本ではある。
生まれた直後から老衰で死ぬまでの雀の記録。ピアノとともに歌い(聴いてみたい)、飼い主と友情を結んだ雀……。
訳者はかの梨木果歩だし、いかにも文句なしの名著といった風情。
とはいえ、読みながらなんとなく違うと感じた。中身が特に悪いというわけではないのだが、たとえば、この日本語タイトルの物欲しげな感じが気になる。
原タイトルのSold For a Farthingは、ほとんど逆の意味だろう。

私は動物への過剰な愛情表現みたいなものが苦手で、その点でかなりひねくれているのだと思う。
憧れとともにこれらの本を読むと、少し悲しくもなる。
そして、窓辺に何か生き物がこないかと思って少し待ってみるが、猫も雀もそんなときに姿を現すことはない。

ペルシャ細密画の世界を歩く

出たらいいなあと思っていた本。

浅原昌明『ペルシャ細密画の世界を歩く』
この分野の概説書は、美術全集などを除けばほとんど皆無といっていので、大変ありがたい。
とはいえ、記述はかなり教科書的だし、いきなりこの本を読んでも訳がわからないかもしれない。
なので、ここでは私がこの世界に興味をもつようになったきっかけの本を挙げておきたい。

山田和『インド ミニアチュール幻想』
文庫になっていたのか! というわけで未読の方はぜひ。
美術を語ったものというより、骨董紀行みたいな感じ。
十数年も前に読んだ本だが、大英帝国時代のインドの地図について書かれた一あたりの情景がいまだに記憶の片隅に残っている。

オルハン パムク『わたしの名は「紅」』
こちらはノーベル賞作家による、トルコを舞台にした小説。

ペルシアじゃなくてインドとトルコ、それも紀行と小説じゃないか、というわけで、平易な解説書はありがたいわけである。
そんなわけでペルシア細密画の教科書的な話に戻ると、「七つの特徴」というのが書かれている。
それによると……
「六、地面の向こう側から人物の顔が、こちらをのぞいているように描写」とある。
「地面の向こう」とはヘンテコな表現であるが、確かにそんな状態。
なんというか、穴から上半身だけ出たモグラのように、背景にいる人々が向こう側からこっちを見ているという感じでユーモラスなのだ。

以上の記述は、別にペルシア細密画の神髄とはまったく関係がない。
西洋美術の世界に飽きてきて、こういう絵に惹かれるようになったのは、年齢かもしれない。
一方で、微笑を誘うような絵が好きといえるようになって嬉しいという感じもある。

ボールとたま(読書)

いろんな意味で対照的な2つの本だが、どっちも好きだ。

若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』
文章も内容も繰り返しが多く、まるで整理されていないが、正義感に満ちた本。最近、ようやく原発の悪口を公の場で誰もが言えるようになった感じがするが(そうでもないのか?)、パチンコはまだまだな気がする。
パチンコは球がないと成り立たないと思ってたが、韓国のそれは「球なし」だったようだ。つまり、たまは「遊戯である」という苦しい言い訳に相当するが、本質は「たまのないところ」にあるわけだ。

平出隆『ベースボールの詩学』
詩人によるベースボール論であり、同時にボールの形をした詩論でもある。本自体がひとつの詩のような、ある意味で完全な姿をしている。こういう本は、これからなかなか生まれにくいのではないか、とぼんやり思う。

小学生の頃、私は野球チームに所属していて、それなりに野球を愛していた。もっと遡れば、公園や道路でカラーバットとゴムボールの野球を日が暮れるまでやっていた世代。怪しげな妄想とともに一人で壁にむかって野球をするのも、楽しかった。
不幸なことに、その後、野球とはどうも仲良くなれない。たぶん、野球を愛していたのに、自分があまりに下手なのでギャップが大きすぎたのだろうか? 
剛速球を打撃する欲望というこの本の中心テーマはすごく理解できるのだが、「そうだよね!」と力強く言い切れないのがもどかしい。まあ、野球の上手な人はこんな本を読まなくても十分に幸せということかもしれないが……。