古典芸能としてのボッサ

すでに多くの人がご存知のことと思うが、今のブラジルに、これがボサノヴァと呼べるようなものは、ほとんどない。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だ から、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、 ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。

というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。

小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。

ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。

タイトルなど

ふと思いついてブログをつくってみた。 いくつか、書きたいことがあるのだが、他にちょうどいい場所がないからだ。 実は、すでにブログは何度かやってみたのだが、割とすぐ挫折してしまった。 飽きっぽいのだ。サイトの数がやたらに多いのも同じ理由だろう。 したがって、これもいつか放置される可能性が高い。 でもまあ、ぼちぼち書いていこうと思う。 タイトルのポルトガル語は文法的に正しいのかどうか、よく分からない。 でも、このブログのタイトルとしては、ぴったりだと思う。

*注 以前のブログはタイトルを「Os dias desafinados 調子外れな日々」としていた。

野球、メキシコ、WBC

マーク・ワインガードナー『メジャーリーグ、メキシコへ行く―メキシカンリーグの時代』

ひさびさに愉快な小説を読んだ。
第二次世界大戦後、まだ黒人がメジャーリーグから締め出されていた時代に、
メキシコのリーグが多くの選手を引き抜いて盛り上がったというお話。
あくまでもフィクションだが、かなり事実に基づいて書いているらしい。
金や人種をめぐるあれこれのなかに、
純粋に丸いボールを追いかける野球の楽しさがチラリと見える、
そんな瞬間があちこちにある。
アメリカ人が書いたにしては、メキシコの描写もよくできている。

この本を手に取ったのは、WBCの影響がないとはいえない。
あれは、がっかりだった。
カリブ海のチームをもっと見たかったのだ。
なぜ、日韓戦を3回も見なければならないのか。
一説によれば、あれはアメリカが優勝する前提で組まれたトーナメント方式とのことだが、
まあ確かに、野球はカリブ海が主戦場で、太平洋はどうでもいいのかもしれない。

実は、もっとがっかりだったのは、イチローだ。
私はこの選手があまり好きではなかったのだが、
今回の騒ぎで、すっかり嫌になってしまった。
そう、この本はイチローとは対極の世界にいる選手がたくさん出てくる。
日本でいえば、新庄とかがまあ近いのかな……。

残念ながら、メキシコで野球を見たことはないのだが、
サッカーの試合は一度だけ見た。かの有名なアステカ・スタジアムではなく、
もっと小さな球場。アトランテ対タンピコという、かなりどうでもいい試合だった。
あれ、よかったなあ。

アーノルド・ローベル礼賛

「座右の書」は特にないんだが、強いていえばこれか。

『ふくろうくん』は私にとって師で、
『ふたりはともだち』のがまくん、かえるくんは、憧れの親友で、
『きりぎりすくん』は幸福なときの自分自身。

ふくろうくんは一人遊びの天才である。
吹雪のときの遊び方も、ベッドで一人寝るときの遊び方も心得ており、
涙の味を知り尽くしており、自分が一人であることの不思議さを知っている。

がまくん、かえるくんの友情は有名だろう。

そして「ほこりっぽい道」を歩き続けるきりぎりすくんに対し、
世間はいろいろ教え諭し、押しつけようとするが、
きりぎりすくんは明日も自分がその道を歩き続けることを知っている。

慎重さについて

島田裕巳『宗教としてのバブル』

バブル時代の話をする人の目は遠くを見ているかのようで、まるで来世を夢見る人のようだね、といった話は、よく飲み会なんかでしたものだ。
それを膨らませるとこういう本が出来るわけだが、
せっかく宗教学者がそれを書くなら、もっと宗教論として徹底的に書いてほしいものだ。
ちょっと物足りない。
オレンジレンジに妙に共感しているあたりが、ウケた。

ジャック・グッディ『食物と愛』
ある意味で上のものとは対照的な本。
食文化、家族、階級など、テーマは広いのだが、全体としては、
「西洋(もしくはイギリスなど特定の地域)文化には●●という特徴があって、それが近代化を促した」
といった主張への反論ということになる。
該博な知識をもって慎重に議論をしていけば、こういう話は大抵自民族中心的なものである、というある意味当たり前の結論となっている。
日本でも最近ときどき、アジアのなかで唯一早く近代化を成し遂げたとかで、
こういう怪しげ文化論を耳にするような気がするなあ。
しかし、慎重なだけに(しかも分厚い)、こういう本はあまり注目を浴びないのだろう。
ユーラシア大陸の東西の違いより、ユーラシアとブラック・アフリカの方が違うぞ、と言われても、そりゃまあそうかも、という感じだろうし。
しかし、食文化や愛、懐疑といったテーマについて書かれた細部はかなり面白い。

ところで、話をバブルに戻すと、
バブル大好きの友人が、「今回のバブルはショボい」と言っていた。
前回よりも、おこぼれにあずかる人の数は圧倒的に少ないということらしいが、
ある意味で冷静な分析である(笑)。

韓流おそるべし

韓国のドラマ『フルハウス』をみた。
なぜこんなものを借りて見たかというと、
主演のピ(RAIN)に注目していたからだが、歌手・ダンサーとしてのピについては、また改めて書くことにして、とりあえずは「韓流ドラマ」について。

私は韓流ブームとはほとんど縁がなく、例の『冬ソナ』をちょっと見たくらいだ。
『フルハウス』も、出来のいいドラマとはいえないだろう。
しかし、『冬ソナ』を見たときと同様に、すごく感心した。

なんといっても、制作者の圧倒的なパワーというか、気合いである。
とにかく見ている人を楽しませようという執念、サービス精神が随所に感じられる。
日本のドラマの場合、ときどき、制作者が視聴者のことを忘れて「ひとりよがっている」瞬間がある気がするのだが、それがほとんどないのだ。
そして、『冬ソナ』の場合もそうだが、
このドラマの場合も、視聴者として念頭にあるのは、やっぱり女性だろう。
女性へのサービスという点で、やはり日本のドラマは完全に負けている気がする。
どんなシーン、どんなストーリーが女性をうっとりさせるのか、
それを徹底的に追求した結果、このドラマはリアリズムを逸脱しまくり、
まったくクレイジーなものになっている。
だが、それでいいいいのだ。
とにかく恋愛の一番盛り上がる瞬間をひたすら引き延ばせば、
テレビドラマは成り立つのだという恐るべき事例を見せられた感じだ。
(粗筋としては、主人公の男女は、ひとつ屋根の下で「契約結婚」生活を送るのだが、実は愛し合いながらも、すれ違い、喧嘩を繰り返し続けるというもの。これが16回にわたり延々続く……)
日本でこれに似ているものといったら、やっぱり少女マンガくらいだろう。

しかし一方で、こういうものが成立するのは、
それだけ韓国では男尊女卑が激しく、いろんな意味で差別的な社会というか、
厳しい社会だからかもしれない。
もちろん、日本にそれがないわけではなくて、
日本ではそれを「隠す」「かっこつける」「言い訳をする」ことによって、
つまらないドラマが量産されているように思えてならない。

やる気の感じられない読書

本当は、こういう読書が一番楽しいのかもしれない。

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』

……
現物をとれ、あの世の約束に手を出すな
遠くきく太鼓はすべて音がよいのだ

……
ないかと思えばすべてのものがあり、
あるかと見ればすべてのものがない。

訳者が言うようにえらくモダンな世界観だと思う。
オマル・ハイヤームというとどうしても酒のイメージだが、
この合理性というか、明晰な感じは、酒ぽくない。
むしろ、私のイメージではアラビアン・ナイトのほうが酒ぽい。

春山行夫『ビールの文化史1』
私はといえば、酒なんぞ飲みながら、こんな本をダラダラ読んでいる。
豆の文化史を夢想する。

山際素男『踊るマハーバーラタ』
そういや、まだ『マハーバーラタ』も読み通してないな。
その訳者がエッセンスをぎゅっとまとめた小さな本。
こういう試みがもっと多くあっていいのにと思う。
原書もしくは原典訳のよさもあるが、やはり訳注だらけの長い本を読むのは苦しい。
現代に生きる紹介者の視点で、面白さを抜き出したこういう本は、有り難い。

美女を前にした王が「うーむ、抱きたい……」などと独り言をつぶやき生唾をのむシーンなど、訳もなかなか愉快な感じになっている。
牡牛へのこだわりも面白い。

特に感心したのは、「性の化身」と題された章。
老婦人のなかに若々しく美しい性を発見するシーンは、ちょっと驚きだ。

文芸評論?

小谷野敦『反=文藝評論』
タイトルにある文藝評論だとか文壇についてはピンとこないのだが、いくつか面白い文章があった。
特に「七五調と「近代」の不幸な結婚」という文章は、とても重要なテーマに触れている気がした。

以下引用。
「宮 廷の歌合が、うたげのなかから孤心が立ち上がる場だったとすれば、近代の叙情は、元来孤心として表出されたものが、より大きな読者共同体に改宗されてしま うという構造を持っていたのである。……「内なるわたし」は、多くの読者を獲得すればするほど、その内実は乏しくなってゆく」
「「色」の世界においては、唄われる情感は、必ず共同化されるという性質を持っている」

『ノルウェイの森』の徹底批判も面白いが、要は主人公が都合よくモテすぎる、という話。
まあ私も村上春樹他何人かの作家にずっと感じ続けてたことであり、特に目新しい感じはしないのだが。
M.クンデラも同じ、と言ってるあたりは、そうかもと思った。もう少し客観化されてる気がするけど、私の評価が甘いのかな。
なんにせよ、こういう作家の小説を多くの女性が読んで喜んでるのは、本当に謎だ。単に彼女らもモテる男が好きなだけだろうか?

アラビアン・ナイト

アラビアン・ナイトの世界

『アラビアン・ナイト』はいまだに最後まで読んでない。2つの版で読み始めたのだが、二度とも途中でやめてしまった。面白いのだが、どこかでもういいや、という気がしてしまうのだ。
これはその概説書だが、筋を追った部分はやはり面白く、また本編が読みたくなった。
それにしても枠物語というのは、なんと魅力的な仕組みだろう。
この本によれば、どうもインドあたりの説話集がその原点らしく、語り手がオウムだという『おうむ七十話』なんてのも読んでみたくなった。

と ころで、私は不遜にもしりあがり寿氏に「『アラビアン・ナイト』を書いてください」と頼んだことがある。その返事は、「弥次喜多はアラビアン・ナイトのつ もりで描いた」というものであった。それで、その代わりにということで書いていただいたのが、今はなき『抄』で2回連載された「セカイノフシギナハナシ」 である。

ブックオフ

随分ほったらかしにしてしまった。
ほったらかしついでに、読書日記はブログ上で書いてみることにした。この間、読んだ本のことは無視することにしよう。
最近、すっかり物忘れがひどくなっているし、そもそもそんなに大量の本を読んでいる訳ではない。

読書環境という意味では、大きな変化があった。
引っ越しをしたのである。
あまり胸を張って言うことではないが、私はこれまで、ブックオフで大量の本を購入していた。それがたまると、売りにいく。便利なものだった。

と ころがいざ新居へ引っ越しして一番近いブックオフへ行ってみると、これがよくないのである。分類もめちゃくちゃ、ほとんどゴミ捨て場を漁るような気分とな り、一刻も早く出たくなった。本に対するリスペクトがまったくないというか、とにかく悲しい店である。今まで、ブックオフが店舗によってこれほど違うと は、考えてもみなかった。ちなみに、これまで通っていたのは江古田店である。今思えば、あそこは素晴らしかった……。

そんなわけだから、これからは近くにある図書館を活用しようと思う。
たぶん、読む本が若干古くなるかもしれないが、仕方ないだろう。