聴くことができないと思っていたのに

ちょっと前に「ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ」というCDが発売された。

これは、ボサノヴァ先進国(?)日本編集版ならではというか、衝撃的なものであった。
ジョアン・ジルベルト信奉者にとっては、ボサノヴァ以前のジョアンの歌声にまず驚かされただろう。
そして、ジョアン・ジルベルトがカヴァーした数々の曲のオリジナルというか、貴重な音源の数々。
でも本当のことをいうと、聴かないほうがよかったんじゃないか、これって罪なCDなんじゃないか、とも思う。
 
ジョアン・ジルベルトが古いサンバの記憶を独自の手法で追求していることは、知られている。私たちのような「非ブラジル人」にとって、それは過去というより、けっこう未知のものであったりする。
もちろん、その一部は古い音源の再発によって知ることができたし、当時のサンバがもっていた雰囲気やサウンドをまったく知らない、というわけではい。しかし、故郷の拡声器のようなスピーカーから流れるラジオで若き日のジョアン・ジルベルト聴いたという古いサンバがどのようなものであったかを考えるのは、かなり想像力を刺激する作業だった。
 
こうしてあっけなく音源として差し出されてしまうと、これまで必死で探していた「聴くことのできないもの」の答えを見せられてしまったようで、少しつまらない。
いや、これは音源にがっかりした、という意味ではない。
むしろ逆で、実に素晴らしいものが多いのではあるが。
 
ジョアン・ジルベルトだって、必ずしも古いレコードを聴きながら、コピーしているわけではない。記憶のなかにある美しいものを実際に見たら、聴いたら、ちょっと違うと感じることは珍しくないだろう。
そんなわけで、これほど素晴らしいCDを聴いて、これほど悲しい気持ちになったのは、はじめての経験である。

ライブ@アクビ

珍しくライブが続いている。
土曜日は代官山のアクビにて川島イタルさんとのライブ、
今週末にも吉祥寺で同じユニットで出演することになっている。
それが終わったら、しばらくおとなしくしていようと思う。

私には似合わぬお洒落なお店での演奏。
お客もちょっと東横線沿線風(?)の知らない方が多く、緊張するかと思ったが、妙にいい感じで入った。
不思議なもんである。
川島さん(写真右)とのユニットも前回よりだいぶよくなった気がする。
スティールパンの音が心地よい。

裏ボッサ大会

先週、下谷のチェスさんにて「第一回裏ボッサ大会」が執り行われた。
参加者は私と「宇宙語ボッサの巨匠」ことRAMUCHI2000GTさん、その他数人。
本人たちの意気込みのわりには、慎ましい大会である。

しかし、このライブ、意外によかったんじゃないかと私は疑っている(?)。
RAMUCHI2000GTさんの男気溢れるボッサは、格好良くて、可笑しい。
裏の裏たる所以は、どうもポルトガル語がどーだとか、そんな細かいことではないようにも思えてきた。
一体それは何なのかと問われれば、一言でいうのは難しい。
一度大会を見にきてください。

歌詞はおまけ?

詩というものに少し興味をもちはじめた頃、欧米のポピュラー音楽をよく聴くようになった。
でも、この2つはちっとも結びつかなかった。
もちろん、好きな歌を歌ってみたいという欲求はあり、仕方なく英語の歌詞を覚えたりはした。
でも、正直いって歌詞の内容はどうでもよいと思っていた。
日本のポップスをあまり聴かなかったこともあるかもしれない。
歌はサウンドの一部で、なんとなく響きがよければ十分だと思っていたのだ。
面白いことに、日本のアーティストではほとんど例外的に聴いていた矢野顕子が、歌詞の内容は重要ではなく、音楽がよければいいと思っている、という趣旨の発言をしているのを読んだことがある。

そして、その後は考えを変えたのかというと、実はあまり変わっていない。
私は基本的に、歌詞はそれほど重要じゃないと思っている。
歌詞なんかに頼らず、音楽を音楽として存在させることのできるミュージシャンを尊敬する。
じゃあなぜ今みたいなこと(歌詞中心に見える活動)をやっているかといえば、端的にそれしかできないからだ。

もっとも、母語である日本語の歌詞を聴いた場合、それが音楽を邪魔することは多くある。
一体、何を馬鹿なこと言ってるんだ? と思ったり、
かっこつけてんな~、と思ったり、
どこかの企業の宣伝文句みたいだなあ、と思ったり、
むしろ「音楽を邪魔しない」と感じる歌詞のほうが少ないとすらいえるかもしれない。
そういうレベルでは、やっぱり矢野顕子の歌詞は結構好きだ。

でも、本当のことをいうと、こういう意識では、いい音楽はつくれても、
「いい歌」はできないんじゃないだろうか。
言葉と音楽がどうしても切り離せないところで生まれた歌。
なんとなくはじめてしまったこの「日本語化」という作業のなかで、
期せずして私はその領域に触れてしまい、少し戸惑っているところだ。

情けなさ

情けない歌詞が好き、などというと誤解されることがある。
いわゆる「暗い歌詞」が好きなのだろう、と勘違いされるのだ。
「情けなさ」というのは、一体どいういうものだろうか?

池内紀というドイツ文学者・作家がこんなことを言っていた。
「ギャンブルが好きな人は、負けた後のあの情けない感じが好きで、ついやっちゃうんだよね」

つまり、「情けない」というのは一種の反省であり、相対化である。
悲しみとか苦しみとか怒りとか、そういうネガティブな感情を、そのまま表現するのではない。
「情けなさ」にかぎらず、こうした相対化によってもたらされるのは、
やはりユーモアだろうと思う。
大笑いするようなギャグではなく、そこはかとなく可笑しい、ユーモア。
だから、「情けなさ」はネガティブをポジティブに変換する一種の通路なのだ。

小さいもの、弱いもの、ダメなもの、美しくないもの……。
そういったものをたとえば「可愛い」と表現することができる。
それによって人々は、一般にネガティブな要素もポジティブに変換しているわけだ。
私にとって、「情けなさ」は「可愛さ」と似ているかもしれない。

益子陶器市

昨年に引き続き、 4月29日、30日と益子陶器市に行ってきた。

場所は、益子でも有名なモーホ(?)、かまぐれの丘。若い作家が集まり、テントを出している。陶器市全体は人混みがすごく、たぶん観光客としていったらただ疲れ果てるだけだが、ここにいる分にはのんびり休日を満喫できる。

今回は大学時代の友人であるWADAくんにベースで参加してもらった。

前回のライブで初めて合わせたのだが、なかなかいい感じだ。
特にこういう屋外では、ベースが入ったほうが安心感がある気がする。
↓一年ぶりにいったら、子どもが「豆事情」の歌詞をほぼ覚えていた。
親に私のCDを聴かされまくっているらしい。
気の毒というよりほかない……。
他にもいくつか期間限定で動画を公開してます。
クオリティは恐ろしく低いですが、お暇な方はどうぞ~。

ポエジーと情けなさ

私はわりと昔から文章を書くのが好きだったが、最初に詩を書いたのがいつかは覚えていない。
たぶん、ふつうに学校で先生に書かされたのだろう。
そして、恐らくものすごくつまらないものだったに違いないと思う。
というのは、当時の私はわりと「優等生」であり、先生が喜ぶようなツボを知っていたからだ。
ポジティブであり、子どもらしく(胡散臭い言葉だ)、素直であり(これも)、明るいもの。
実際に、先生はそういう詩ばかりを褒め称えた。

あるとき、私はそういうものが詩ではないことを突然感じた。
6年生のときだ。私はちょっとした反抗期を迎えていた。
クラスメイトが書いた詩を、先生が批評していた。
「悪い詩」としてやり玉に挙げられていたのが、サカちゃんの書いた詩だ。
彼は私と同じように、大変痩せている。
そして彼は自分の育てた植物が、なぜか自分に似てひ弱なことを、詩で指摘していた。
先生はたぶん、植物がひ弱なのは「似ているから」ではなく、単に世話の仕方が悪いのだと捉えているようだった(その通りである可能性は、高い)。
そのため、このやや無責任な感じのするサカちゃんの詩に怒りをぶつけていたのだった。
しかし、私には「自分の育てた植物が自分に似る」というこの不思議な現象のなかにこそ、詩があるのだと感じられた。
先生への反感もあって、私はそのような趣旨のことを発言した。
この詩が一番いい、自分はそういう詩を書いたことがない。

私にとって「ポエジー」の原点は、ここにある。
したがってそれは、どこかで「情けなさ」と結びついたものだ。
花といえばポジティブなものという、J-POPの歌詞は、だから全然ピンとこないのだ。

お土産

GWに益子の陶器市で演奏させてもらうので、そのときにもっていくお土産としてCD-Rを製作した。
本当はいくつか新しい録音も入れたかったのだが、どうもうまくできず、最近一年間にHPで公開した音源だけで構成することにした。
益子にはダウンロードできないからCDくれ、などという方もいるから、それなりに意味はあるのだ。
とはいえ、前に2回つくった歌詞カード付きのCD-Rとちがって、ジャケットもないいい加減なものである。

1. トロリーソング
2. ベサメ・ムーチョ
3. おうちにはかえらない
4. 蛙
5. あなたと私
6. 四葉
7. バナナの木
8. レオンジーニョ
9. Moon Is Mine
10. マシュケナダ
11. 三月の水(ライブ録音)
12. らくだ節

かなりいい加減に順番を決めたが、全体を通して聴くとけっこういい(自画自賛炸裂)。
興味のある人はしばらくライブの折などにもっていき配りますので、お声をおかけください。

悲しき裏ボッサ

さて、ここまで何やら長々と書いてきたのは、「裏ボッサ」とは何かを説明するためだった。
乱暴に要約すると、裏ボッサとは、ボサノヴァという伝統芸能のなかにある一種の異端である。
自分はあくまでもボサノヴァをやっていると主張しつつ、何やら怪しげな音楽を奏でる人々である。

などと書きながらも、すでに「裏ボッサ」というジャンルが成立するかどうかは、かなりどうでもよくなっている。
とりあえず、まずは人知れず活動している2人のミュージシャンを紹介したい。
私がこんなことを書き出したのも、最近この人たちの存在を知ったからだ。

まず、菩薩ノバ
名前の通り、お坊さんである。怪しさではとにかく群を抜いている。
そして、たぶん実力も。

もうひとつ、4畳半BOSSA NOVA というサイトをやっているramuchi2000GTという人。
名前の意味は今のところ不明だ。
この方とは5月に一緒にライブをやらせていただくことになっている。
光栄というほかない。

僭越ながら、私のやっていることも加えさせていただくことにしよう。
3人の共通点は、 ポルトガル語というボサノヴァのたぶん最重要構成要素を無視しているところだ。
にもかかわらず、あくまでもボサノヴァであると言い張る。
たぶん、ポルトガル語でうまく歌えなかっただけなんじゃないかと思うが(少なくとも私はそうだ)、
その挫折をポジティブに(?)乗り越え、あるいは無視し、とにかくボサノヴァを続ける。
このほかにも、実は何人か「裏ボッサ」的な存在を確認しているが、とりあえず例としては十分だろう。

他に、ギターというやはり重要な構成要素を無視した人もいるかもしれない。
海外ではあるが、バンジョーでボッサという人もいる。
たぶん、他にもいろんな楽器が考えられるだろう。
ピアノなどではなく、ショボい楽器であればあるほど、裏感は強まる。
しかし、楽器の違いによって「裏ボッサ」と呼ぶのはどうも的を射た感じがしない。

そんなわけで(?)、「裏ボッサ」情報がありましたら、ぜひお知らせください。

表ボッサ、裏ボッサ

古典芸能などというが、お前のやってることは、めちゃくちゃじゃないか。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。

そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。

ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。

重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。

表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。