★注1
 ところでこういう話になると、犬好きや動物愛好家が黙っていないでしょう。「犬はちゃんと考えている、言葉にしないだけだ」「犬は人間よりずっと繊細で感じやすい生き物なのだ」などと彼らは言います。
「犬が犬を好きになる」がどういう意味なのか、本当のところはわかりません。確かなのは、犬は決して「なぜ私という犬はあの犬を好きななんだろう」などとは考えない、ということです。犬が異性を相手にするとき、もちろんそこにはさまざまな優しい感情や恋の不思議、矛盾といったものがあるかもしれませんが、それを意識したり悩んだりすることはないでしょう。
「恋愛は自然だ」というような議論で、人を犬と同列に論じることは「人間を犬のレベルに落とす」ことを意味するのだと感じます。私に言わせるなら、そもそも最初のところで犬を差別していて、次に人間を貶めている、訳のわからない態度です。
 一方、私がここで「人と犬は違う」と主張するのは、犬を蔑んでいるからではないつもりです。単に、犬は不自然な恋愛に悩んだりしない、自然と不自然を区別したりしない、と言っているだけなのです。私は、服を着た犬が嫌いなのと同様に、自然と不自然を区別する犬を望まないのです。もちろんそれが差別というなら、甘んじて自分が差別をしていることを認めましょう。

★注2
 ドニ・ド・ルージュモン『愛について--エロスとアガペ』(平凡社ライブラリー)参照。もちろん、ここで言われているのは「恋愛感情」が西欧で生まれたということではないでしょう。恋愛という概念、体系(もっと狭く限定するなら「宮廷風恋愛」)がここで生まれ、今も続いているという主張です。それにしてもあらゆる時代の人々がこの感情に名前をつけ、考えをめぐらせてきたことを考えると、この主張はちょっと受け入れがたいのです。

★注3
 もちろんこの「恋愛」という言葉は翻訳語です。かつては「恋」という言葉がこれに対応していたと考えられます。西洋文化の流入によって「恋愛」の価値観が大きく影響を受けたことは確かですが、二つの言葉が根本的に違うものであるとは言えないでしょう。ただ、たとえば英語のloveという言葉は「恋愛」以上に広い意味を持っていて、いわゆる恋愛感情だけを意味するものではありません。ここではそのあたりの細かい言葉の定義をしても仕方がないので、あくまでも現在の私たちが「恋愛」という言葉で想定するもの、という漠然とした前提で話しを進めることにします。

★注4
「自然なものとしてのセックス」という言い方をしたのは、人間のセックスは自然である、という意味ではありません。人間にとって自然なセックスなどというものは、存在しないのです。自然状態で放っておき、何も教えなかったら、人間の男女ははセックスをしないそうです。けれども、生殖行為それ自体は生物としての自然の営みであることには変わりありません。ここでいう「自然なものとしてのセックス」は、あくまでもこの「不自然なセックス」を生み出した大元の「自然」にすぎません。

★注5
 セックスと愛、エロティシズムについての考察はオクタビオ・パス『二重の炎--愛とエロティシズム』(岩波書店)に多くを負っている。「性愛というのは本源的でもっとも重要な火にあたるが、そこからエロティシズムの赤い炎が生まれてくる。そして、エロティシズムの赤い炎に支えられてもうひとつの青く震える炎が立ち昇っているが、それが愛の炎である。エロティシズムと愛、この両者がすなわち生の二重の炎である(木村栄一訳)」

★注6
 恋愛とは基本的に一対一のものである、という考え方にももちろん異論があるでしょう。たとえばフェミニストの上野千鶴子は「<対>がそのまま「よきもの」とは限らないというのに、人に「つがえ」と命ずるものは何か。対幻想は「一人では不完全。他者のいあないおまえは無だ」と、女を(そしてときには男をも)脅迫する」と著書『発情装置』(ちくま書房)のなかで警告しています。家父長制度のなかで「愛」という概念が女性支配の道具として使われてきたことは否定できません。けれども、この悪い歴史をもって「対幻想」自体までを否定することにはやや疑問があります。それは「戦争」という悪い歴史があるから「民族」や「宗教」を否定するのにも似て、「悪」の範囲を拡大しすぎている気がするのです。もちろん、<対>がそのまま「よきもの」とは限らない、という点は正しいでしょうが。

★注7
『アンアン』の占いなどで有名なG・ダビデ研究所のオフェリア・麗はインタビューの中で次のように語っています。「……内心気になっている欠点とか、そういうものがホロスコープに出ていたりすると、「私ってそういう人間なんだ」というショックを受ける。けれど、その場合でも、「しょうがないんだ」という開き直りが生まれれば、「それじゃあ、こういうふうに自分を伸ばそう」、というポジティブな方向に意識が変わっていきます。「あの人がそう考えるのは、山羊座だからかも……」と、人を見る目もやさしくなったりします」(anan 別冊『占星術で恋も仕事も「勝ち運」の女になる26の法則。』より)。「そういう人間」でなくなるように変えていくことは念頭にないし、山羊座の人に対して自分の意見をぶつけるのも回避したほうがよいと言っているようです。開き直りであれポジティブであれ、「しょうがないんだ」を勧めていることがお分かりいただけるでしょう。

★注8
 占いのスタイルを意識するあまり、結局同じメッセージを発しているのではないか、というのが「毒にやられてしまった」と感じる最大の理由ですが、もうひとつ重要な点があります。現在の世の中には「恋愛礼賛」の言説があまりにも多すぎます。占いの中に出てくる「恋愛至上主義」とはちょっとニュアンスが違いますが、歌謡曲であろうがマンガであろうが、映画、テレビドラマ、広告から小説まで、ともかくそういうものだらけなのです。「恋愛主義占い」はある意味で、これをちょっとちゃかして面白がってみよう、少し冷静になるための回路を作ろう、という狙いがあります。けれども、あまりに「恋愛」という言葉を多く繰り返すことで、逆効果になっているのではないか、と少し心配です。



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