恋愛主義宣言/恋愛論
なぜ「主義」を占うのか? 「恋愛主義占い」の解説=恋愛論です。

 人はなぜ恋を占うのでしょうか? 答えはとても簡単、恋愛には理性で割り切れないところがあり、悩みはつきものだからです。それに恋愛には神秘的な要素もあります。恋に悩む男女が、何か超自然的な存在(たとえば偶然や星の動き)に頼るのは、当たり前というより、むしろ論理的とさえ言えるのです。だから占いに合理性がない、科学的でないなどという批判はまったくの的外れです。科学的でない、合理的でないからこそ占いなのであって、だからこそ占いは人生にも恋愛にも必要なのです。
 けれども、今や占いの世俗化(ブーム)はまったく別の問題を引き起こしています。占いの神秘的で非合理的な側面は背景に遠のき、最近の占いは「誰もが楽しめ、納得できる占い」を目指しています。ここではそれがなぜ問題なのかを考えたいと思います。そのことが、なぜ「恋愛主義占い」などという奇怪なシロモノが作られたのか、その理解の手助けになるはずです。
 何、手助けなどいらない? まあそう言わずに、読んでみてくださいよ。

 恋愛は自然ではない

 人間が恋愛をするのは自然だと思っている人はいませんか。そういう人がいたら、ちょっと考え直してほしいものです。だって「自然な恋愛」て一体何でしょうか? 世の中に流通している常套句的にいうと「人が人を好きになるのは自然なことだし、セックスは恥ずかしいことではない」というところでしょうか?
 でもこれは、恋愛というより、セックスのことを言ってるんですね。つまりセックス=自然、好きになる=セックスしたい、という話で、確かにわかりやすい。簡単に言えば「あんまり考えずに、とにかくセックスしようよ」という意味、さらに言うならこれは「人間は動物と同じだ」という主張です。もちろんそんな風に「割り切った」考え方にも、それなりのメリットがあるのでしょうが、どこか変な感じがしませんか?
 しかも困ったことに、「人が人を好きになるのは自然なことだし、セックスは恥ずかしいことではない」という台詞は大抵後半が省略されるのです。本当は恋愛ではなくセックスについて話していることを隠したいためでしょうか。そして、時にそれは自然に「すぎない」と、わざわざ強調されたりします。
 おかげで世の中には、恋愛は不自然だ、などと言うと首を傾げる人のほうが多いくらいです。
「人が人を好きになる」というのは、「犬は犬を好きになり、猫は猫を好きになる」というのとは、言葉としての意味が違います(★注1)。この言葉のポイントは、わかりやすく言うと「私はあなたを好きになる」ということであって、ここには「なぜよりによって、あなたなのか」という疑問があるのです。疑問がある以上、簡単に「自然なことだ」などとは言えないはずです。
 だから、恋愛は自然であるという主張は、ある意味で恋愛の否定です。疑問や矛盾のない恋愛などありえないはずだからです。人は人を、犬は犬を、猫は猫を好きになる、すべてが自然であるなら、何も声高にそう主張することもないでしょうに、なぜ自然に「すぎない」などと言うのでしょうか? 人間は遺伝子にすぎない、という主張にも似て、実に怪しげです。そう主張することで、何か利益でもあるんだろうか、と疑いたくなるような感じです。
 
 恋愛の歴史

 もし恋愛が自然であるなら、学問、科学、芸術、経済、法律まで、あらゆるものが自然と言わなければなりません。なぜなら、恋愛には歴史というものがあり、私たちが今ここで話している「恋愛」は決して唯一絶対のものではないからです。
 実際、恋愛の歴史はそんなに古いものではないのです。ここでそれを詳しく述べる余裕はありませんし、何をもって恋愛の始まりとするかには諸説があります。恋愛の起源は西洋中世にあり、それ以前にはなかったなどという暴論を信じる人さえいます(★注2)。その場合、あの『源氏物語』に描かれているものは恋愛ではない、ということになります。私はもちろんそんな意見を受け入れませんが、 『源氏物語』に今の恋愛の常識が通用しないのは認めざるをえません。
 ここで余計なことを一つだけ指摘しておきたいのは、古代ギリシアにしろ、西洋中世にしろ、平安時代の日本にしろ、恋愛が成立する条件が「場所によって」そろっていた、という点です。古代なら自由な市民、中世なら裕福な貴族たち。つまり、暇と自由は恋愛の存在が許される必須条件であって、同時代でも、恋愛のありようは個人によって大きく異なっていたと考えられます。だから、貴族たちは貧乏人がまさか恋愛をしているとは考えていなかったでしょう。
 何が恋愛であるか、というのはとても人為的な定義であって、時代によって場所によって大きく変わってきました。それはたとえば今の日本でいう「恋愛結婚」と「見合結婚」の二項対立とも比較ができるでしょう。大方が認めるこの言葉は、恋愛と恋愛でないものの違いを、見合いと合コンの間で線を引いているのです。
「恋愛は自然である」という主張に従えば、人類はその誕生以来すべて同じように恋愛(セックス)してきた、ということになるでしょう。それはこの長い(あるいは短い?)恋愛の歴史を否定することであり、世界中に存在するあらゆる種類の恋愛に関する知識やテクニック、想像力を否定することになってしまいます。
 
 恋愛とは何か

 では、恋愛とは一体何なのでしょうか? 簡単に言えば、恋愛とは、人が「恋愛」であると考えているものすべて、ということになるでしょう。その意味では「恋愛は自然である」という主張もありえるし、これを「恋愛自然主義」と命名することも出来るでしょう。
 けれども皆さんもうお気づきのことと思いますが、「恋愛主義占い」は「恋愛自然主義」に対する批判です。恋愛自然主義を認めないばかりか、徹底的にへこまさなければならないのですから、恋愛とは一体何なのか、という問いを避けるわけにはいきません(★注3)。
 結論を先走るなら、恋愛=セックスではないと言わなければなりません。でもそれはとても難しいでしょう。恋愛とセックスはあまりにも不可分であり、とても切り離して考えることができそうにありません。プラトニック・ラブなどという言葉もありますが、確かに恋愛とはセックスの周辺にあるものです。多くのセックスには恋愛感情がともないますが、明らかな例外もあります。やはり恋愛=セックスではありません。行為としてのセックスをともなわない恋愛というのも存在しますが、だからといってセックスと完全に無関係な恋愛がありうるのか、疑問です。
 どうやら、自然なものとしてのセックスがまずあり、その上に築かれた人工的なものが恋愛であると考えたほうがよさそうです(★注4)。
 ところで、この定義はまだちょっと広すぎます。たとえば、ビニール製の下着を身につけた女性とのセックスを求めることは、明らかに人工的な、実に人間的な行為ですが、これを恋愛と呼ぶのはちょっとためらわれるでしょう。なぜかというと、こういうエロティシズムは個性なしに存在しうるものだからです。ある程度の条件(たとえば体型、職業、人種、容姿の特徴など)を満たせば、あとは誰でもいい、というものと、恋愛は分けて考えるべきだと思います(★注5)。
 もちろん、セックスと同様、エロティシズムは恋愛にとって不可欠な要素です。どちらが大事かという話ではありません。それにしても、「人が人を好きになる」というのは、どんなに細かい条件を満たしても代え難い、一人の人間を好きになるということです。私は浮気やその他「軽い恋愛」を否定しているのではありません。「AさんもBさんも好き」を「AタイプとBタイプが好き」から区別しようとしているだけです。
 恋愛はあくまでも相手の個性と自分の個性を前提としている、という意味です(★注6)。

 恋愛は「思いこみ」である

 さて、占いの話からずいぶん遠くへ来てしまいました。ここまでの要点を整理すると、
 1.恋愛は不自然な、人工的なものである。
 2.恋愛を他のもの(セックスやエロティシズム)から離すことはできないが、区別することはできる。
 ということになるでしょうか。それにしても、ますます恋愛が分からなくなるばかりです。
 長い歴史の中で、人間は恋愛についてあれこれと思いをめぐらせてきました。結局何も分からないのは今も同じですが、はっきりしているのは、人間は自分で恋愛を「作ってきた」ということです。恋愛が人工的なものだからこそ、人はそれぞれに恋愛はこういうものだと思いこんでいるのです。
 そしてそういう思いこみは人それぞれに少しずつ違いますが、いくつかのパターンに分けることができます。いよいよ「恋愛主義」の話です。
 思いこみというのは、長い伝統のなかで作られるものです。さっき「自分で」と書きましたが、もちろん個人で作るものではありません。周囲の言葉や行動、そして限られた自分の経験のなかで作られるものです。これに似たものといえばやはり「文化」ですが、それではあまりにも漠然としています。いっそこれを「主義」としてとらえたらわかりやすいのではないか、というのがこの占いの原点です。

 性格ではない、主義である

 「恋愛主義占い」と最近はやりの占いとのもっとも大きな違いは、主義と性格の違いです。主義は人間が考えたもので、性格は自然にそうなったものです。
 「そういう性格なんだから仕方がないだろ」「それがあいつの性格だから」などという言葉を考えれば分かるはずです。「性格」という言葉は常に言い訳として使われます。主義なら、仕方なくないし、主義だからという理由はなかなか認められないでしょう。主義というのは、「勝手に」そう考えているだけであり、主義を変えることだって可能だからです。
 血液型占い(?)に始まり、星占い、最近の動物占いにいたるまで、その特徴は各キャラクターの「性格づけ」にあります。人間をいくつかの性格に分類し還元する。そのことで「ああ私はこういう性格なんだ」という安心感を与えようとしているのです。
「あいつはB型のねずみ年、牡羊座だからね、しかもコアラだってよ」
「なるほど、そうだったんだ」てな具合で、それは仕方がない、性格だから諦めようということになるわけで、そこで思考を停止させてしまうのです(★注7)。
 こういう占いは明らかに「恋愛は自然である」あるいは「人間は遺伝子である」という主張と共通するところがあります。そのどれにも通じるメッセージは「何も変えることはできない。すべては決められているのですよ」というものです。
よい占いというのは、人間にインスピレーションを与え、普通の思考では乗り超えられないことを示唆するものです。それは詩にも似て、何通りにでも解釈できるものです。
 例を挙げるなら、よい占いというのは「東の星を目指せ」といったもので、悪い占いというのは「あなたは大雑把な性格です」といったものです。そもそも「当たってる」と喜んで終わりというのなら、何のために占うのか、よく分からないではないですか。

「恋愛主義占い」も悪い占いである

 さて、「恋愛主義占い」は最近はやりの占いのパロディーです。
 人間は長い歴史のなかでさまざまな主義(イデオロギー)を生み出してきましたが、結局誰もが認める「正解」はまだ生まれていません。恋愛についても同じことがいえます。
 最近は「主義(イデオロギー)」など流行りません。でもその代わりに人が何を信じているのか、ちょっと考えてみてください。「遺伝子」や「性格」「自然」はその一つです。他にも「お金」「宗教」など、人が信じていることはさまざまですが、どれも「主義」との根本的な違いはありません。どれもこれも、人間が勝手に考えて主張していることです。
 それが悪いことである、という意味ではありません。むしろそれが人間の素晴らしさであると言ってもいいくらいです。でも、「主義(イデオロギー)」が格好悪く見えてしまう最近の風潮はどこか不気味です。それによって人それぞれが個性的になったというより、むしろ事情は逆だと思えるからです。「自分の主義を押しつけるな」と言いあっているあいだに、もっと大きな洗脳が進行しつつある、そんな風にも見えるのです。
 偉そうなことを言ってますが、「恋愛主義占い」はよい占いではありません。ある意味で「毒をもって毒を制する」精神で作られたものです。でも正直に言えば、逆に毒にやられてしまった気がしないでもありません(★注8)。
「恋愛主義占い」はかなり現代の恋愛事情に忠実に作られていますが、これに納得されては困るのです。「そうじゃない、私はこう思う」「私はどの主義にも当てはまらない」などと、文句を言いながら読んでください。「主義」という言葉には「納得」よりも「反論」「議論」が似合います。
「恋愛主義占い」はいわば酒のつまみ、恋愛話の香辛料といったところです。お酒でも飲みながら、恋愛主義談義に花を咲かせていただければ幸いです。
 やがて人それぞれがバラエティー豊かな独自の「恋愛主義」を編み出し、主義(イデオロギー)のグループ化などが不可能になったなら、この占いの存在価値はなくなります。そうなることを祈ってやみません。

 さあ、あとは占うのみ。最後に「恋愛主義宣言」を高らかに謳い上げましょう。

 恋愛は性格でするものではない、主義でするものである!
 恋愛は自然ではない、人間が作り上げた素晴らしい不自然である!
 恋愛にもっと主義を! もっと想像力を! もっと占いを!


 皆様に素晴らしい恋がありますように。

プラトン・アカデミー代表 OTT


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