悲しき編集人生

誕生
1972年4月6日、脇坂家の次男坊として生まれた。東京都大田区の病院らしいが、よく覚えていない。巨大で、お世辞にも可愛いとはいえない赤ん坊だったらしい。口の悪い祖母は「この子は…」と絶句し、母はそれを無言でたしなめたと伝えられている。

就学前
多摩湖の南岸、東大和市ですくすく育つ。毎日のように野球をしていたが、近所のガキ大将があの王貞治を超えるホームランを記録し(自己申告)、それを見て野球選手になることを断念。この頃ピアノを習いはじめたが、今でもときどき夢のなかでお稽古に通って冷や汗をかいている。

小学生時代
家族が中野区の鷺宮に引っ越した。ここで友人と三人で最初の漫画雑誌『ちゅるるん』を刊行。なぜそんな名前になったのか、今となっては分からない。四年生の夏、大分県大分市に引っ越し。ここでは壁新聞、ガリ版刷り新聞などを大量に発行していた。五年生の夏に九州一周旅行に出かけ、すべて手書き、イラスト入りの旅行記を夏休みの宿題として提出。新聞の発行と配達(こちらは朝日新聞)に明け暮れた大分での二年間であった。東京へ戻ってくると、友人と再会し漫画雑誌『ちゅるるん』を復刊。私はあまり面白くない歴史漫画を執筆、二号でまた休刊。

中学生時代
父親がワープロを買い、そのハイテクぶりに驚く。考えてみればその頃、あとコピー機さえあれば一生楽しく暮らしていけると思ったものだが、コピー機はいまだに持っていない。二年生の夏に中野区の交流プログラムでニュージーランドへ行き、その旅行記をワープロで書き、コピー屋に走り、袋とじ製本して夢見心地になる。『朝日中学生ウィークリー』の取材を受ける。その後は書くことがないので小説を書き、短編集を二冊作った。

高校生時代
入学祝と称して新しいワープロを買ってもらい、さらに熱心に小説を書き続けた。表紙の絵や挿絵を描くことやコピー、製本の作業も楽しく、一冊できあがったときの気分はとてもよかった。編集者の性であろうか。二年生の夏から一年間はアメリカのウェスト・ヴァージニア州に交換留学。日本語のない、ワープロのない辛い一年間を過ごす。この間はもっぱら絵を描いていた。


大学生時代

同人誌に小説を寄稿しながら、バイトと旅行に明け暮れる。髭を伸ばし、長髪になる。四年生の春、大学院へ進学するのは大変だが、こんな容姿で採用してくれる会社はないかなあ、と友人に相談すると、「出版社なら大丈夫だよ」との答え。言われるままに日曜日の新聞(また朝日)を開き、求人広告に応募する。

会社時代
目黒の出版社に自転車で通い、仕事に励む。本を作るのは結構楽しいなあ、と思っていたら、百科事典のCD-ROM制作部門へ異動。さらに雑誌へと移り、あっという間に四年目に突入、最近の若者らしく何もかもが嫌になる。「インドへ行く」という理由により退社。結局インドへは行かず、ここにいる。嘘つきである。

フリーター時代
今のことである。会社を辞めてすぐ、前から一度行きたかったブラジルへ旅行。約二ヵ月滞在し、ライブ三昧の日々を送り、サラリーマン時代の疲れを癒す。初めてギターを買い、練習する。高田馬場の四畳半から石神井公園に引っ越し、やがてわずかな貯金もつきはじめ、なし崩し的にフリーライター兼編集者の仕事を開始、今に至る。こうして誇張して書いてみるとなかなか首尾一貫した人生であるなあ。(2002年6月現在は江古田に住んでいる)

以上の文章は、自分がまだ「最近の若者」と思っていたらしい2002年ころ書かれた。フリーランスとなって10年をこえたが、ぱっとしないのは相変わらず。住居はその後も江古田→高円寺→東新宿と引っ越しを重ね、2012年現在は小金井市で暮らしている。移動ばかりしているようで、ほとんど同じところをうろうろしているばかりの人生である。