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ずいぶん前に噂をきいて眺めたときはチンプンカンプンだった。今回、ようやく少し理解できたので登録してみた。
どうなるか分からないけど、長いあいだmixiというものにぼんやりとした違和感があったので(すっかりお世話になってるけど……)、より気楽にできるんじゃないかという期待はある。

もうひとつ映画

先日、気楽な映画をみたいと書いたが、結局ボサノヴァ映画ではなく、『スラムドッグ$ミリオネア』にいってきた。

うーん、いまひとつかなあ。『トレイン・スポッティング』をとった監督という時点で、あまり期待しないほうがよかったかも。実は、これの原作小説『ぼくと1ルピーの神様』は前に読んだのだが、そのときの感想が、「映画化するとよさそうだなあ」というものだったので、きっと面白いだろうと思いこんでしまったのである。

「辛い境遇にある子どもたちの話」っていう意味では、ふたつの映画は少し似ている。
で、ハナ・マフマルバフの映画が、本気でつくりすぎちゃって辛い、怖い、というものだったとすれば、
こちらは、なにか本気さが足りないような、しかも奇跡や物語の力も信じていないような、中途半端さが伝わってくる……。しかし、味にうるさいグルメみたいで、嫌な感じだなあ(私が)。

「子供の情景」

はシューマンで、「子供の領分」がドビュッシーだったっけ。
この映画のタイトルは、どう考えたって「恥辱のあまり崩れ落ちたアフガニスタンの仏様」だろう。
邦題のせいにするつもりはないが、わりと無防備な状態でふらりとこの映画を見て、あまりに怖いのでびっくりした。
ほとんど、恐怖映画である。
子役は素晴らしいし、ハナ・マフマルバフの才能もすごいと思う。だけど、これは何かやりすぎという感じを受ける……。
気楽な映画を見たくなってしまった。
たぶん、こちらはかなりお気楽でありましょう。
でも、こういうのを喜んで見てる人々には、ちょっと上の映画も見て怖がってほしい気もする……。
爆弾よりも本を。

新しい録音機器 OLYMPUS LS-10

新しい玩具を買ってしまった。
実は仕事に使うという言い訳もあるのだが、最近はあまり仕事もないので、完全に玩具となっている。
高性能である。これを使っていろいろ弾いてみると、演奏上のいろんな欠点が耳につき、大変だ。勉強になる。

今日は雨ふり。
「三月の水」などを録音してみた。

シリアの花嫁とオフサイド・ガールズ

今回は珍しく映画の話だ。
友人のお誘いで『シリアの花嫁』という映画を見ることになった。
ゴラン高原のイスラエル占領地から、シリア側へ嫁ぐ結婚式の一日を描いた物語。
複雑な政治情勢を誰もが共感できる「家族の物語」にしっかり落とし込んだのは、素晴らしいと思う。
エンターテインメント性もちゃんとある。
NHKのドキュメンタリーなんかで、谷間の境界線を挟み拡声器で話す住民の様子を見たことがある人もいるだろう。このあたりの問題に興味のある方はぜひ映画を観てほしい。

とはいえ、私としては、大声では言えないような小さな不満が胸の奥に残った。
真面目で立派なよくできた映画ではあるけど、この映画には何かが足りない気がしたのだ。
映画ならではの「魔法」みたいなものだろうか。
もちろん、NHKのドキュメンタリーを観るより、ずっと強い印象は残す。でも、その延長線にあるような感じがしないでもなかったのだ。

どんな映画にそんな魔法があるのか、ということで、
今年DVDでみたイランの『オフサイド・ガールズ』を紹介したい。
男性社会で翻弄される女性たち、というテーマは、それなりに似ている。
だが、こちらは不真面目というわけでもないが、サッカー観戦をしたい女性たち、という政治的にも些細な出来事を描いている。出てくる「ガールズ」も、みな人格者とは言えない。
『シリアの花嫁』なんかに比べると、明らかに分が悪い。全然、立派じゃないのだ。
けれども、私はこの映画に夢中になったし、最後までその世界に吸い込まれたままだった。
『シリアの花嫁』を観ながら、いろいろ考え事をしてしまったのとは、ずいぶん違う体験だ。

私が言いたいのは、どちらが優れているということとは、ちょっと違う。
検閲の厳しいイランでささやかな反抗を試みることと、別の意味でやはり厳しい状況にあるイスラエルにおいて、センシティブな政治問題を正面から扱うことは、同列に論じるべき事柄ではない。
けれども、ひとつの映画のなかにある「立派さ」「真面目さ」、もうひとつのなかにある「ユーモア」「悪戯」。
結果的にはどこか似た結論で終わってる2つの映画だけに、これは、比べずにはいられない。
面白い作品の創作というのは、そもそもやや不道徳的なことなんじゃないだろうか、と考えてみたりする。

ジェムレ

最近、暇なのでよくテレビを見ている。
スポーツやニュースも見るが、特になごみ系のドキュメンタリーが多い。
しかし、あまりにもぼんやり観ているので、観たそばからすぐに忘れてしまうようだ。
昨日、友人と話していて、すごく感動した番組があったのを思い出したので、メモしておこう。
「世界ふれあい街歩き」のトルコ・サフランボルの回。
ジェムレが三回降ってくると春が訪れるというので、ジェムレって何だろうと街の人々に聞いてみると、バラバラの答えがかえってきて訳がわからない、という素敵な話だ。
この番組のアバウトなつくり方は、非常に面白い。
毎回、このように面白くはならないのだが、たまに奇跡的なことが起こるから見逃せない。

そんなわけで、私も毎回奇跡的なことが起きないかと願いつつ、懲りもせずにアバウトな録音をしているわけだが、もちろん、そんなことはめったに起きない。

サウダージがサンバを作った
ずっと訳そうと思っていたのだが、意外に難しくてできかなかった。
恋人と別れて歌だけが残った。その「所有権」を主張している、というのが私の解釈だ。
しかし、本当にそうなのか、ちょっと自信がない。

あなたは愛を知らない
これも別れた女への嘆き節。

ヴォセ・エ・リンダ
カエターノ・ヴェローゾの代表曲。
ボサノヴァとは言い難いが、私にとってはとても思い出深い曲。
ようやく録音できた。

チェコのはなし

チェコ料理を出すバーをはじめた、などというと「ブラジルじゃないの?」と聞かれたりする。
「なんでチェコなんだ」と怒ったような顔で言う人も。
(私がブラジル音楽バーでも開けば、話は分かりやすいのだろう。
だが、それはあまり想像したくない事態ではある……。)
というわけで、私は大抵「相棒である共同経営者がチェコ好きなので」、と答えることにしている(実際、それは正しい)。
とはいえ、私もそれなりにチェコという国への思い入れがあるので、こっそりここに書いてみよう。

といっても、話は実に単純だ。
私はかつて文学青年だった(今でもちょっと文学おじさんだ)。
そして、フランツ・カフカが私のアイドルだった。
以上、終わり。

そんなわけで、私は大学生時代にカフカのいた街、プラハへと旅立った。
まだ、かの国に入るのにビザが必用だった頃の話である。
今回、店を開いてから、
ふとガイドブックとしてそのとき持っていった本が手元にないことに気づいた。
私はよく、大切な本を捨ててしまったり売ってしまったりするのだ。
(店に置くのによい本だろうと思ったので、ヤフオクで買いなおした。)

当時の私はこの本を片手にカフカの墓参りなんぞしながらプラハの街を歩いていたわけだが、
人間とはいい加減なもので、覚えているのはビールがうまかったこととか、
トイレを探してうろうろしたことくらいであったりする。
ついでに、プラハで泊まった家のお婆さんと一緒にオペラをみにいったことも、よく覚えている。
(中途半端なチェコ語とドイツ語で、ろくに意志疎通のできないまま、そのときは婆さんもお洒落をして、なんかデートのような状態だったのである。)

ほかに、
小岸昭「スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて」「マラーノの系譜」も、
ガイドブックがわりになっていた。
これらの本を通じて、私のなかではチェコもイベリア半島も新大陸も、どこかでつながっているように思えたのだろう。
んでもって、当時から鼻歌はいつもボサノヴァだった。

チェコは出版文化も素晴らしいし、「もぐらくん」をはじめとしたキャラクターも大好きだ。
なんといっても、ビールがうまい(繰り返し、失礼)。
とはいえ、チェコ料理のレストランをやるほどかといえば、これは確かに怪しい。
そんなわけで、「なぜチェコなの?」と問われれば、私はやはり口ごもってしまう。
チェコがどうとかいうより、私は単にお店をつくりたかったのだと思う。
出来てみると、自分でも「なぜチェコなんだろ?」とぼんやり考えていることに気づいたりする。

アート

昨日、ふと時間があいた。
ひさびさにCDを買おうと思ったら、財布の紐が完全に切れ、
ものすごい勢いで買ってしまった……。危険である。

あと、アートフェア東京なるイベントに行ってきた。
まったく行くつもりがなかったのだが、時間もあるし、たまにはそういうものを見るのもいいかなと思ったのだ。
現代アートのなんたるかが相変わらずさっぱり分からない私だが、
カミン・ラーチャイプラサートというタイのアーティストの作品を見て、ちょっとほっとした。
仏像をアレンジしたような作品。
まあ日本だと円空仏とかあるし、こういうのはなかなか成立しにくいかもしれない。
でも、これならちょっと家に飾ってもいいかなと思った(高くて買えないが)。
これを見ながらギターを弾いたら、ちょっと楽しいだろう。


作品は、どれも仏教的な警句みたいなのがタイトルになっている。
「我が子は真の喜び。だが人生のあるじではなかろう」
「愛情の細部に注意を払え」
「地球は回れど心は動かず。日の出も日没もない」
「幸せは移ろいやすい」
「鳥に羽があるように、人には友がいる」
などなど。
上のやつは、「アートを作ることばかり考えるのはアートではない」。
確かにそうだろうと思う。
アートフェアは、そんな感じの場所であった。

くるくる

先日、『メヴレヴィー教団のセマーの儀式 日本公演』を見に行った。
日本では旋舞教団なんて言われている、くるくる廻る、アレである。
↓こんな感じ。

なんというか、「芸能として」、すごく洗練された舞台であった。
しかし、私は予備知識がないので、いろいろ分からないことだらけである。
そもそも今年はルーミー生誕800年(!)だとかいう話なのだが、
私はなんとなくこの人、ペルシャの詩人・思想家というイメージをもっていた。
でも歌はやっぱりトルコ語だったんだろうか。
やたらに民族や宗教の違いを超えた博愛主義みたいなことを強調してたから、たぶん、何語かなんて重要じゃないんだろう。
でも、近代国家の政策として教団自体は禁止されたともいうし、それが今トルコ政府の観光キャンペーンと一体になってるんだから、その辺の事情はなんか複雑である。

子どもの頃くるくるまわったことを、観客はみんな思い出してたに違いない。
だが、そういう共有できる体験や文化の普遍性みたいなのを超えて、ヘンな世界であることも事実だ。
神がかり状態を目指す舞踊は世界にたくさんあれど、くるくる廻るという直接的な方法を取り入れ、
かつこれだけの完成度があるというのは、スゴイことのように思える。

グレイソン・ペリー


出張先の金沢で素晴らしい展覧会を見た。

我が文明:グレイソン・ペリー展

ヘンリー・ダーガーの強い影響を受けているらしいが、アウトサイダー・アートの文脈とはちょっと違う気もした。

とにかく、作品がモノとして美しく、可愛く、かつ笑えて、同時に先鋭的でしかも思慮深い感じがする。
美術展に行ってこれほど嬉しかったのは久しぶりだ。

あと同じ美術館のもうひとつの展覧会では、ソフィ・カルの「ヴェネツィア組曲」などがあった。
こちらは21世紀美術館のこだわりなのか、キャプションというか説明が英語だったので、見てもちゃんと読んで理解する人は少ないんじゃないかと思う。少し残念な気もする。
(この作品は『本当の話』として翻訳もされているので美術館で見るより本で読んだほうがいいのかもしれない)

私自身はこのとき、ちょうどポール・オースターの『Travels in the Scriptorium』を読みはじめたところだったので、オースター風のちょっとした偶然を感じた。