読書など

あれ以来、しばらく読書の記録もつけてなかった。
読んでいた本は、なぜか20世紀クラシック音楽に関するものが多かった。

岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後』
これは入門編という感じ。

モードリス・エクスタインズ『春の祭典 新版――第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』
背筋が凍るほど恐ろしく、しかし面白い本。やや極端な見解も含まれるが、とても刺激的だ。

アレックス・ロス『20世紀を語る音楽』1、2
このテーマ(20世紀クラシック音楽の通史)にしては、確かに読みやすい。
上下巻でボリュームがあり、最後は気が遠くなってきたが、ミニマルとか比較的なじみのある話になってくると、じわじわ感動してくる(長い本というのは、こういう意味のない感動成分もある)。
巻末に音源案内もあるので、少しずつCDを聴いてみようと思う。

アジット・K・ダースグプタ『ガンディーの経済学――倫理の復権を目指して』
これは音楽関係じゃないけど、タイトルに惹かれて。
倫理と経済というこのテーマはいろんな意味でとても重要だと思うので、ぜひ日本の意欲的な筆者による新書レベルでわかりやすい本を読んでみたい。

変わってしまったものもあるし、変わらないものもある。
ところで海外のみなさん、この事態にあって冷静な日本人をあまり称えすぎないでください。
私たちは、恐れで凍っているだけなのです。本当は泣きたいし、叫びたい人もたくさんいる。
もっと泣こう。それから、笑える人から、笑おう。
そして、周囲にある「悪いもの」に気づいても、ヒステリックに叩かないようにしよう。
自然の猛威よりも人間が恐ろしい、という風にならないように。

被災したすべての人々のために祈ります。

スウィングタイム、あるいはもうひとつの日本文化

古い日本のジャズ、とりわけ戦前のものに心を惹かれるという話は前にもどこかで書いた。
そんなわけで、毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』は、期待して読んだ。帯には「昭和文化史の書き直しを迫る」とあり、勇ましい。確かにすごい情報量で、戦前にこれほどのジャズ文化が花開いていたんだということは伝わってくる。
そのうち、CD化されているのはごく僅か。もっとたくさん聴いてみたい。

とはいえ、読み進めていくうにちなんだか飽きてきてしまった。「ホットな演奏」だの「レベルが高い」だの「凝ったアレンジ」だの「アメリカンなフィーリング」だの、音の説明を聞いていても何か違うという気がしてしまう。
まあ、私自身ホットでもないしレベルも低いし、音楽に対するそういう見方が苦手というのもある。
私が漠然と惹かれている「戦前のジャズ」は、もうちょっと違うもののような気がした。もしかしたら、それは本当はジャズですらないのかもしれない。

そんな風に思いはじめたところで、読んだのが渡辺裕『日本文化モダンラプソディ』。これが、とにかく面白い。もっと早く読まなかったのが悔やまれる本だ。
邦楽改良と「新日本音楽」、大阪における洋楽の受容、宝塚と国民劇構想といったテーマを語りながら(その細部もひとつひとつが面白い)、今はなくなってしまった「日本文化のもうひとつのあり方」について語る。それは無理に要約していうと、折衷的であり、革新的であり、ついでにやや帝国主義的なものだ。
私が「戦前のジャズ」というものに惹かれていたのは、もしかしたらこういう部分であったかもしれない。もし、音楽をはじめとする文化をめぐる歴史が別なものになっていたら……という想像をかきたてられるだけでなく、自分のなかには隠れた右翼的な部分にも目を向けさせられる。
読みながら、「外に対しては自分もよく知らない日本文化を誇り、内に対しては外国文化の『本場度』を誇る」という訳のわからない態度の奥にある問題の根は深いなと思え、やや暗い気持ちになった。そういえば、私自身もそれとまったく無縁というわけではないし。
なんにせよ、とにかくお勧めの本です。

謹賀新年(うさぎあれこれ)

新年早々いきなりドメスティックな話題で恐縮だが、わが家は夫婦ともにフリーランスなので非常に不安定な仕事っぷりである。
なので、年賀状くらいはちゃんと書いて人々に思い出していただき、仕事でももらえたらなあなどと都合のよいことを考えている。もう年賀状なんかいらないんじゃないの? という意見もよく聞くようになり、私も「そうかも」とは思うのだが、そうなると、本当にダイレクトメールを出さなくてはならなくなるかもしれない……。

年賀状製作は妻の得意分野なので、私は主に横で見ていて応援するくらいなのだが、図案のアイディアをあれこれ言ってうるさがられたりもする。今年は兎年ということで、「ミッフィーとキャシーが仲良くお茶してるところはどうかね」とか「大きな日の出の写真に点ふたつと×つけようか」とか、なんとかミッフィーを忘れようと苦しんだ。私にとってうさぎ界におけるディック・ブルーナの存在は、いわばボサノヴァ界におけるジョアン・ジルベルトに近いものがあるのだ。
そんなこんなで、今年もますます調子はずれにやっていこうと思いますので、みなさまどうかよろしくお願いいたします!

能動的な技術と受動的な技術(なぜか写真論)

前にもどこかで書いたことがあるような気はするけど、写真を撮るのが下手だ。
幸い最近はデジカメ全盛の時代なので、そのことが瞬間的に分かるが、昔は現像するまでの時間がかなりあって、いつも非常に大きな失望を感じていたものである。

先日、アラーキー(荒木経惟)のインタビューをテレビで見ていたら、もう最近は撮る写真撮る写真イケてる、みたいなことを言っていた。見ていると、もう考える時間なんかなく、構えて撮る、構えて撮るという感じなのに、撮れた写真はどれもある意味、奇跡的なところがある。私はこういう写真の不思議さというか魅力に憧れていて、だからこそ自分が撮った写真を見るといつも絶望してしまうのである。

ところで知人の写真家に宮島さんという人がいて、私はとても尊敬している。
この人とは、一緒に数日間かけて伊勢まで路線バスに乗って旅行するとか、庭をテーマに庭じゃない場所で写真を撮るとか、そういう訳の分からない仕事をさせていただいてきた。
それにしても、写真の不思議さは、カメラマンが作品を撮る現場のなかにあると言っても嘘ではない。写真の美しさとか面白さ自体、わりと言葉で説明できたり、頭で理解できたりする類のものであることが少なくない。それなのに、それを撮っているカメラマンの動きは、けっこう不可解なのだ。
仕事柄、カメラマンの動きは結構見てきたが、根本的なところで、どうも自分にはできないと感じることが多かった。一体、それは何なのか?

そんなことをあれこれ考えているうちに、アーティストには大きく分けて2つの技術と才能があると思うようになった。
能動性のなかにある技術(才能)と受動性のなかにある技術(才能)。
何かを意図してつくる表現という行為は、能動性のなかに、その本質を見いだすことが多いだろう。だが、実際のアーティストという人種は驚くほど受動的な人々である。
そして、向こうからやってくるものを、研ぎ澄まされた感覚とスピードと的確な反応でもっていかに受け入れるか……、それは簡単に真似できるものではなかったりする。私のような頭でっかちの能動バカには、とりわけ難しい課題なのだ。
たぶん、2つの技術は両方あってはじめてバランスを見出すようなものなのだろう。ただ、写真というのはとりわけこの受動性(の技術)が大切な気がする。

そんなわけで、宮島氏のウェブサイト製作を手伝えたのは、実に素敵な体験だった。
http://www.geocities.jp/dwxmj960/
タイトルは最終的に「Bath Birthday」となった。
実はこれ、私の間違いから生まれたタイトルでもある。本来は「Bath Birth」となるはずだった。宮島氏から「間違いですがこのほうが面白いので、これでいきます」と言われ、私は慌てた。
このエピソードのなかに、受動的な技術の神髄があるとは、もちろん言えない。
音楽においても、受動的な技術が重要なのは言うまでもないが、正直いって私にはそのことを語る自信がまったくない……。

そっとナイト、そっと

2年ほど前から、「そっとナイト」というイベントを開催してきた。
小さなお店で貧弱なPAのみでそっと歌ったりギターを弾いたりする、とても地味な会。
主催者の人徳のなさというか、いつも盛況とはいかなかったが、もう四十回以上、実にいろんな方たちに来ていただいた。

6/10(木)大塚のエスペト・ブラジルというお店でやるライブは、
ある意味、この「そっとナイト」の拡大版みたいなものだ。
よくこの会に参加してくださっている2組のアーティストと私、そのあとはたぶん飛び入り歓迎。アットホームな雰囲気になると思う。ブラジル料理をつまみに、私もゆっくりビールを飲ませてもらいます……(普段のイベントでは店員もやっている)。

2010/6/10(木)19:00~22:00 場所: Espeto Brasil (豊島区南大塚3-29-5光生ビルB1 )
出演: as praias desertas(ケニー小泉+立石レイ), heli, OTT
Charge 1500yen

「そっとナイト」のほうは、諸事情あって次回(6/28月曜 19:00~)をもって、そっと長い休みに入る予定です。
ご縁のあったみなさま、本当にありがとうございました。
そして、またどこかでお会いしましょう!

マツリ・ダンスと松本ぼんぼん その1

何から書きはじめるべきだろうか。
大糸線の有明駅前にあるブラジル系ショップのことかな?
それとも、サンパウロで食べた薩摩揚げのこと?
あるいは、数年前から盆踊りの将来が気になってることかも?
もしかしたら、高校のときの友だちでブラジル人のホドリゴはサッカーやダンスが苦手だったという思い出話かも……。
なんにせよ、マツリ・ダンスがこれほど気になるのは、そういう前史もあったということだ。

細川周平『遠きにありてつくるもの―日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』という本については、前に少し書いた。この本によれば、ブラジルに渡った日系人たちはカーニヴァルやサンバというあちらの「メイン・カルチャー」にはいまひとつ馴染めず、細々と日本独自の芸能文化を楽しんでいたようなところがあるようだ(私の解釈では、やっぱ日本人にサンバはかなり敷居が高いのだ)。
もちろん盆踊りも、そんな日系文化のひとつである。だが、どうも三世の時代になって盆踊りカルチャーは変容を遂げ、日系人の外へまで広がりはじめたようなのだ。

この記事によると、北パラナの中心都市ロンドリーナ(Londrina=人口約50万)発の日系文化である「マツリダンス」が熱いという。

マツリダンスは、毎年9月に行なわれるロンドリーナ祭りで踊られる創作盆踊りで、15年ほど前に「ボンオドリ・ノーヴォ」(新しい盆踊り)としてこの地域ではじまったという。盆踊りを基礎にした振り付けにポップスやストリードダンスの動きを加え、日本のポップミュージック「松本ぼんぼん」、「島唄」、「ギザギザハートの子守唄」、「ランナー」など、ジャンルもテンポも異なる曲をアレンジしているのが特徴だ。生演奏をバックに男女の歌い手が歌い、お神輿を据え付けた舞台の上では祭り太鼓と踊り部隊が盛り上げる。

どうやら、こんな感じらしい。
(最近はここに書いてあるようなサンパウロだけでなく、バイーアあたりにも広がりを見せ、本家ロンドリーナでの祭りの参加者もこの記事以降さらに増えているようだ)

そして、ここで流れているのがが上記の「松本ぼんぼん」である。
「島唄」「ギザギザハートの子守唄」「ランナー」はまあ分かるとして、この曲は一体何なのか?
ブラジルの人気曲なのか……。

(よく見ると2つはバイーアの同じ場所みたいだけど)
いい感じで盛り上がっている。

さて、この「松本ぼんぼん」、私はまったく知らなかったが、信州出身の妻によれば松本ではかなりメジャーな存在だという。

ウィキペディアによると……。
略して、「松ぼん」というところが、ちょっと可笑しい。

それにしてもYouTubeなどの動画を見ると、毎年8月に行われているというこの祭りの様子は、私たちにはごく見慣れたものだ。
ただひとつ、ちょっと異様なのが曲調である(笑)。
リズムもアレンジも、盆踊りの伝統を完全に無視している。
浮き立つような楽しさは、ちょっと他にないのではないだろうか。
言葉で説明すると難しいが、あのノリノリな阿波踊りでさえ、地面に吸い付くようなベタっとしたところがあるのに対し、この洗練とはほど遠い「松本ぼんぼん」には、逆に地面から浮き上がるようなところがある。

ちなみに、MP3と歌詞はここにあるから、興味のある人はじっくり聴いてみてほしい。

私が聞いたところでは、松本というところはとても真面目な文化を大切にする土地柄である。たぶん、学問や伝統を愛する松本の良識派は、この曲を苦々しく思っているのかもしれない……。

だが、たぶん松本か安曇野あたりに出稼ぎにやって来た日系人は、この曲が延々とループされる夏の祭りに魅了されたに違いない。私はそんな風に想像している。
私自身も、いろいろ動画を見ているうちに、この曲が頭から離れなくなり、いつか絶対松本ぼんぼんに行くぞと心に誓ったのである……。
(次号に続く)

一区切り

終わりというのは唐突にやってくるもので、しかも、それは実にあっけなかったりする。
一週間ほど前、「ボサノヴァ日本語化計画」のサイトから音源を削除することにした。
大変、辛いことだ。
まあでも、仕方がない。
私自身にとっての音楽や歌が終わったわけじゃないし。
しばらく、おとなしく地下に潜って「あな☆ホリデー」でも歌おう。

タイトルなど

ふと思いついてブログをつくってみた。 いくつか、書きたいことがあるのだが、他にちょうどいい場所がないからだ。 実は、すでにブログは何度かやってみたのだが、割とすぐ挫折してしまった。 飽きっぽいのだ。サイトの数がやたらに多いのも同じ理由だろう。 したがって、これもいつか放置される可能性が高い。 でもまあ、ぼちぼち書いていこうと思う。 タイトルのポルトガル語は文法的に正しいのかどうか、よく分からない。 でも、このブログのタイトルとしては、ぴったりだと思う。

*注 以前のブログはタイトルを「Os dias desafinados 調子外れな日々」としていた。