ひさびさに新訳

「私とそよ風」を訳してみた。
演奏も録音もへなへな。カラスの声まで入ってる。
夏なので、お許しを。

ジョニー・アルフっていうと、よくボサノヴァの誕生と絡めて語られたりする人でもある。
今年はボサノヴァ50周年てことになってるけど、
それ以前から活動していたこの人が「教祖」だと言われてみたり。
そのへんのことは正直言ってよく分からないが、この曲は結構好きだ。
ジョアン・ジルベルトもやってたっけ、と思って改めて聴いてみたが、
案の定、すごいことになっている。
私のはごくシンプル。

最近の録音

Feitico Da Vila(ヴィラの魔法)
ノエル・ホーザがリオデジャネイロのエスコーラ・ヂ・サンバ、ヴィラ・イザベルを称えた歌。
オリジナルとジョアン・ジルベルトのヴァージョンを聴き比べると面白い。
私のはゆるゆる。

Fotografia(フォトグラフィア)
名曲だと思うが、私にはどうもあまり合わない感じがする。
フォトグラフィア、というニュアンスがいまいち理解できていない。
元の詞にはフォトグラフィアという言葉は出てこなかった気がする。

Preconceito(偏見)
白い金持ち女に恋した、暑い地方出身の黒くて貧しい男の歌。
こういう歌が可能なところが、ブラジルの面白さという気もする。
彼女のほうは周囲に「あいつは黒すぎる」とか言ってるらしいが、
サンバにおける「黒(moreno)」はブラジルらしさでもあるわけだから。

Louco(ばか)
知人のリクエストにより訳してみた。
原詞「vagabundo」のところが「ばかもん」になってるのがポイント。
はい、くだらないです、すみません。

choppとcerveja

ジョアン・ジルベルトが出演するビールの宣伝が面白いので、日本語化してみた
CMソングは独特の寸詰まり感があって、結構好きだ。

ところでブラジルにはビールを呼ぶのにchoppとcervejaの2種類の言葉があるが、前者がいわゆる「樽生ビール」、後者が瓶や缶のビールと思っていた。
この歌にも2種類がでてくる。
前者は商品名、後者は普通名詞として。
で、これは映像にも見える通り樽生の宣伝ではないので、どうやら日本と同じく、ブラジルでも「生」という言葉の使い方には少し混乱があるようだ(もしかしたら、まったく同じ状況にあるのかもしれない)。
そんなことを考えながら「なまで」を繰り返してみたのだが、この部分、すごく気に入っている。

ディス・イズ・ボサノヴァ

「ディス・イズ・ボサノヴァ」という映画が公開されるらしい。
「名曲に乗せて明かされるボサノヴァ誕生秘話」だそうで、これに合わせてホベルト・メネスカルやカルロス・リラも来日しているらしい。
塩・太陽・南、そして愛・微笑み・花、それがボサノヴァと言われれば、私も黙るしかない(笑)。
ついでにというか、私も映画館併設のカフェで少し演奏させてもらうことになった。別に主催者から声がかかったわけではなく、募集中と書いてあったから応募したら、特に審査もなくOKになったのである。ありがたいというか、やや心配である。
私のはたぶんどちらかというと「イズ・ディス・ボサノヴァ?」になりそうで恐い。
日時: 2007年8月19日(日曜) start 16:00
場所: Prologue (渋谷区円山町1-5 Q-AXビル1F 地図
チャージなどはないようです。映画を見るなら、ぜひこの日にどうぞ。

トニーニョ礼賛

素晴らしいCDである。
韓国でやったライブ盤がこれまですごく好きだったが、それを上回る。
トニーニョ・オルタは、弾き語りというものの魅力を余すところなく伝えてくれる稀有なミュージシャンのひとり。
ギターがあまりにも上手なので、そっちに気をとられがちだが、やっぱり声と一緒になったときの魅力は比較にならない。

O Encontro au Bon Gourmet

O Encontro au Bon Gourmet という1962年の録音で、ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モラエスが3人で「イパネマの娘」を歌っている。
その前に3人が芝居めいた掛け合いをするのが素晴らしいので、それを訳して歌ってみた
マニアックな世界というかなんというか、自分のやっていることが馬鹿馬鹿しくて笑える。

ジョアン:愛の秘密を教えてくれる、そんな歌をつくってよ、トム

トム:できないよ。ヴィニシウスの歌詞がなければ、ただのメロディー

ヴィニシウス:この歌を歌うのは、この世でジョアン一人

ジョアン:お二人は偉大です。三人で一緒に歌いましょう
(以下、イパネマの娘を三人で歌う)

João Gilberto (in sweet voice):
Tom e se você fizesse agora uma canção
Que possa nos dizer
Contar o que é o amor?

Tom Jobim (in reedy voice):
Olha Joãozinho
Eu não saberia
Sem Vinicius pra fazer a poesia

Vinicius de Moraes (in deep voice):
Para essa canção
Se realizar
Quem dera o João
Para cantaaaaaaaaaaaaaar

[audience laughter]

João:
Ah, mas quem sou eu?
Eu sou mais vocês.
Melhor se nós cantássemos os três.

[more audience laughter and applause]

All three:
Olha que coisa mais linda
mais cheia de graça […]

参考サイト
http://daniellathompson.com/Texts/Reviews/Bon_Gourmet.htm


↑これは30年くらい後の映像。

聴くことができないと思っていたのに

ちょっと前に「ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ」というCDが発売された。

これは、ボサノヴァ先進国(?)日本編集版ならではというか、衝撃的なものであった。
ジョアン・ジルベルト信奉者にとっては、ボサノヴァ以前のジョアンの歌声にまず驚かされただろう。
そして、ジョアン・ジルベルトがカヴァーした数々の曲のオリジナルというか、貴重な音源の数々。
でも本当のことをいうと、聴かないほうがよかったんじゃないか、これって罪なCDなんじゃないか、とも思う。
 
ジョアン・ジルベルトが古いサンバの記憶を独自の手法で追求していることは、知られている。私たちのような「非ブラジル人」にとって、それは過去というより、けっこう未知のものであったりする。
もちろん、その一部は古い音源の再発によって知ることができたし、当時のサンバがもっていた雰囲気やサウンドをまったく知らない、というわけではい。しかし、故郷の拡声器のようなスピーカーから流れるラジオで若き日のジョアン・ジルベルト聴いたという古いサンバがどのようなものであったかを考えるのは、かなり想像力を刺激する作業だった。
 
こうしてあっけなく音源として差し出されてしまうと、これまで必死で探していた「聴くことのできないもの」の答えを見せられてしまったようで、少しつまらない。
いや、これは音源にがっかりした、という意味ではない。
むしろ逆で、実に素晴らしいものが多いのではあるが。
 
ジョアン・ジルベルトだって、必ずしも古いレコードを聴きながら、コピーしているわけではない。記憶のなかにある美しいものを実際に見たら、聴いたら、ちょっと違うと感じることは珍しくないだろう。
そんなわけで、これほど素晴らしいCDを聴いて、これほど悲しい気持ちになったのは、はじめての経験である。

悲しき裏ボッサ

さて、ここまで何やら長々と書いてきたのは、「裏ボッサ」とは何かを説明するためだった。
乱暴に要約すると、裏ボッサとは、ボサノヴァという伝統芸能のなかにある一種の異端である。
自分はあくまでもボサノヴァをやっていると主張しつつ、何やら怪しげな音楽を奏でる人々である。

などと書きながらも、すでに「裏ボッサ」というジャンルが成立するかどうかは、かなりどうでもよくなっている。
とりあえず、まずは人知れず活動している2人のミュージシャンを紹介したい。
私がこんなことを書き出したのも、最近この人たちの存在を知ったからだ。

まず、菩薩ノバ
名前の通り、お坊さんである。怪しさではとにかく群を抜いている。
そして、たぶん実力も。

もうひとつ、4畳半BOSSA NOVA というサイトをやっているramuchi2000GTという人。
名前の意味は今のところ不明だ。
この方とは5月に一緒にライブをやらせていただくことになっている。
光栄というほかない。

僭越ながら、私のやっていることも加えさせていただくことにしよう。
3人の共通点は、 ポルトガル語というボサノヴァのたぶん最重要構成要素を無視しているところだ。
にもかかわらず、あくまでもボサノヴァであると言い張る。
たぶん、ポルトガル語でうまく歌えなかっただけなんじゃないかと思うが(少なくとも私はそうだ)、
その挫折をポジティブに(?)乗り越え、あるいは無視し、とにかくボサノヴァを続ける。
このほかにも、実は何人か「裏ボッサ」的な存在を確認しているが、とりあえず例としては十分だろう。

他に、ギターというやはり重要な構成要素を無視した人もいるかもしれない。
海外ではあるが、バンジョーでボッサという人もいる。
たぶん、他にもいろんな楽器が考えられるだろう。
ピアノなどではなく、ショボい楽器であればあるほど、裏感は強まる。
しかし、楽器の違いによって「裏ボッサ」と呼ぶのはどうも的を射た感じがしない。

そんなわけで(?)、「裏ボッサ」情報がありましたら、ぜひお知らせください。

表ボッサ、裏ボッサ

古典芸能などというが、お前のやってることは、めちゃくちゃじゃないか。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。

そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。

ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。

重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。

表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。

古典芸能としてのボッサ

すでに多くの人がご存知のことと思うが、今のブラジルに、これがボサノヴァと呼べるようなものは、ほとんどない。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だ から、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、 ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。

というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。

小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。

ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。