鳥を探しに

何冊かの本を並行して読んでいると、その中身や登場人物がごっちゃになる。
酒を飲んでいるうちに、誰かの言ったことを、自分の言ったことや考えたことと勘違いしてしまう。
あの歌とこの歌も、いつのまにか混ざってしまう。
そんな現象は歳をとるとともに増えていくが、何も老化だけに特有の現象でもない。
時を遡っていけばいくほど、つまり脳のなかの過去というのは基本的にそういう特徴をもっている。
そういう混乱は苦手という頭脳明晰(?)な人にはあまりお勧めできないが、頭の中の霞んだような状態も積極的に好きだという人(?)には、強く勧めたい素敵な本だ。

平出隆『鳥を探しに』
コラージュという手法を使った600ページを超える大著。寝転がって読むとさすがに腕が痛いが、読みにくいという感じはない。(一部、北極圏の冒険譚をのぞき)劇的なストーリーが展開するわけでもないのに、不思議である。
読み進めていくとすぐ、「私の祖父」が翻訳したという探検家の文章から翻訳者の声が聞こえはじめ、国境としてのベルリンが対馬海峡やロンボク海峡と重なり、あの時代とこの時代、あの鳥のとこの鳥といった具合に話がまざり、ととにかくごっちゃになっていく。そういう仕掛けになっている。
この面白い本が終わってしまっても、私たちは心配する必要がない。いくつかの本を並行して読みながら、夢うつつに暮らしていけばいいのである。

あまり関係ないが、最近ときどき鳥の鳴き声を集めたCDを聞いている。
いつになっても鳴き声と名前が一致してこない。
もちろんこれは、いろんな記憶がまざってしまっているのではなく、最初から違いをろくに認識できていないのである。

トラップの重要性

上手と下手については、もう何度も書いた気がする。
上手はどうしても薄味、退屈になりがちだという下手の自己弁護みたいな話。
とはいえ、これは下手そのものが好きという話ではないので、結構面倒だ。
結局、他が同じなら上手なほうがいいよね、とかいい加減な結論になりがちだ。

四方田犬彦『「かわいい」論』
上手というかなんというか、そつがない感じだ。
テーマもいいし、最初はぐっと引き込まれる。でも、なんか慣れた技でいなされて、おしまい。
よくよく考えるとテキトーな感じもするのだが、そこを技術でカバーしているわけだ。
そうでなければ、こんなにたくさんの本は書けないだろう。

市之瀬敦『砂糖をまぶしたパス―ポルトガル語のフットボール』
こちらは、テーマにはすごく興味があり(ポルトガル語圏のサッカー事情)、装丁もかわいいのだが、文章が非常に読みにくて困った本。
文章が下手だからといって味があるというわけでもない、ということを示す例でもある。
それはそれとして、サッカー日本代表がなぜ強くなれないかという分析については、妙に私と意見が一致する。
それは、トラップの下手さである。
つまり、基本中の基本を無視して高度な技術を磨いてもだめという話であり、よくよく考えてみると、自分の耳も痛い……。

科学あれこれ

ジェニファー アッカーマン『かぜの科学―もっとも身近な病の生態』
ウイルスによる風邪は、冷えることが原因とはなりえないというのが、いまだにぴんとこない……。
ここで否定されている風邪の治療や予防のあれこれを読んでいると、いろいろな思い込みというのは、死んでも治らないというか、科学的に考えるなんて私には無理だとも思えてくる。

アンドリュー・キンブレル『すばらしい人間部品産業』
そして、科学の進歩というよりも、この社会で当たり前とされている哲学のほうが問題というのが、たぶんこの本の立場。
私もまあそうかもとは思うが、この本はちょっと読むのがしんどかった。
もう少し多面的に書かれていれば、説得力も増しただろう。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』
3冊のなかで一番はこれ。ただし、原書のタイトルはThe Art of Choosing、サイエンスじゃなくてアート(技)としての選択。まあ、日本で売るには妥当なよいタイトルだとは思う。
たとえば、スーパーで品揃えを豊富にすると売り上げが下がるという話は、私のようにサブウェイ的な「オプション」にうんざりしているタイプにはピンとくる。
ちょっと前に流行った(?)行動経済学の話に近いが、この著者にはそれとちょっと違うしゃんと背筋の伸びた誇りのようなものを感じる。
選択というものの不思議さ、尊さ、神秘をそのまま受け入れている感じがするのだ。
そういうとき、科学というのはそのまま芸術にもなりうるのかもしれない。
私たちは無限に枝分かれした選択の森を生きているように感じることがあるが、そんなとき、ふと紐解いてみることをおすすめする。

以下、ちょこっと引用。

選択は、最良の状態では、主導権を取り上げようとする人々や体制に抵抗する手段となる。だが選択の自由がだれにでも平等に開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑圧になる。選択は、性別や階級、人種差などから生じる不平等を無視する口実になる。

世代から世代へ 話から話へ

ポピュラー音楽研究の世界にも新しい世代が台頭しつつあるようで嬉しい。

大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』
輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』

どちらも、すばらしい。
ページをめくるたびに新しい発見があるというような読書は、そう頻繁にあるものではない。

考えてみると、昔から演歌や黒人音楽、あるいはロックなんかについて書かれたものに違和感を感じることが多かった。
演歌が日本のブルース? ブルースは底辺の人間による抵抗のうた? え、ジャズもロックも抵抗ですか?
なんか妙に力が入ってるかなり上の世代。んでもって、こんどは逆に思想だの歴史だのは無意味とか強調しだした、ちょっと上の世代……。
ようやく、音楽の歴史も思想も経済もテクノロジーも、わりとニュートラルに語れる世代が出てきた感じがする。

(私はこれまで、自分を含むこの世代は「橋渡し」みたいな地味な役割を担うんじゃないかと、ぼんやり思ってきた。ホリエモンの世代でしょって言われるのは、悪くないけど、ちょっと違うなという感じ。
いや本当はホリエモンも、上と下をつなぐ橋渡し役なのかもしれない。)

あともしかしたら、ラテン音楽に対する意識が高いのも、この二人の共通点かもしれない。
ほぼ同世代というだけでなく、そんな意味でも親近感がわく。
最大限の賞賛をおくるとともに、今後とも応援したい。

猫と雀

いつも一般性の低い本の話ばかりで恐縮だが、お勧め本というより個人的な読書記録ということで、どうか大目に見てほしい……というこのコーナーであるが、今回は動物の本二冊。「お勧め」でも行けるんじゃないか思う。

ところで、私は今マンションの7階という生涯最高地点で暮らしているのだが、こんな蚊すらあまり近づかない場所にもときどき、動物の気配がある。
猫と雀だ。
猫はご近所さんが放し飼いに近い形で飼っているらしい。ときどき、窓の外をアクロバティックに移動したり、こちらを窺ったりしている。
先日、近所で猫を呼ぶ子どもの声がして「チビ、チビ」と聞こえた。
なんと、ちょうど読んでいた本(平出隆『猫の客』)に出てくる猫と同じ名前だ。フリーランスの子どもなし夫婦といい、他人事とは思えないが、やっぱりだいぶ違う。

この本に描かれるのは、猫それ自体というより、猫を愛してしまう人間の心のほうだ。
美しい文章で淡々と描かれるチビをめぐるストーリーはあっけなく終わるが、最後に小さな謎を残す。読後感がいいとは言えないが、私のようなまっとうに動物とつきあった経験のない人間にはぐっとくる。
たぶん、ムツゴロウさんなら鼻で笑うだろう。

窓の外にときどきやってくる雀は、猫とは比較にならないほど、さらに交流が困難な動物である。
私などは、視線を向けただけで逃げられる。
そういう意味で、クレア・キップス『ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯』は驚くべき本ではある。
生まれた直後から老衰で死ぬまでの雀の記録。ピアノとともに歌い(聴いてみたい)、飼い主と友情を結んだ雀……。
訳者はかの梨木果歩だし、いかにも文句なしの名著といった風情。
とはいえ、読みながらなんとなく違うと感じた。中身が特に悪いというわけではないのだが、たとえば、この日本語タイトルの物欲しげな感じが気になる。
原タイトルのSold For a Farthingは、ほとんど逆の意味だろう。

私は動物への過剰な愛情表現みたいなものが苦手で、その点でかなりひねくれているのだと思う。
憧れとともにこれらの本を読むと、少し悲しくもなる。
そして、窓辺に何か生き物がこないかと思って少し待ってみるが、猫も雀もそんなときに姿を現すことはない。

ペルシャ細密画の世界を歩く

出たらいいなあと思っていた本。

浅原昌明『ペルシャ細密画の世界を歩く』
この分野の概説書は、美術全集などを除けばほとんど皆無といっていので、大変ありがたい。
とはいえ、記述はかなり教科書的だし、いきなりこの本を読んでも訳がわからないかもしれない。
なので、ここでは私がこの世界に興味をもつようになったきっかけの本を挙げておきたい。

山田和『インド ミニアチュール幻想』
文庫になっていたのか! というわけで未読の方はぜひ。
美術を語ったものというより、骨董紀行みたいな感じ。
十数年も前に読んだ本だが、大英帝国時代のインドの地図について書かれた一あたりの情景がいまだに記憶の片隅に残っている。

オルハン パムク『わたしの名は「紅」』
こちらはノーベル賞作家による、トルコを舞台にした小説。

ペルシアじゃなくてインドとトルコ、それも紀行と小説じゃないか、というわけで、平易な解説書はありがたいわけである。
そんなわけでペルシア細密画の教科書的な話に戻ると、「七つの特徴」というのが書かれている。
それによると……
「六、地面の向こう側から人物の顔が、こちらをのぞいているように描写」とある。
「地面の向こう」とはヘンテコな表現であるが、確かにそんな状態。
なんというか、穴から上半身だけ出たモグラのように、背景にいる人々が向こう側からこっちを見ているという感じでユーモラスなのだ。

以上の記述は、別にペルシア細密画の神髄とはまったく関係がない。
西洋美術の世界に飽きてきて、こういう絵に惹かれるようになったのは、年齢かもしれない。
一方で、微笑を誘うような絵が好きといえるようになって嬉しいという感じもある。

ボールとたま(読書)

いろんな意味で対照的な2つの本だが、どっちも好きだ。

若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』
文章も内容も繰り返しが多く、まるで整理されていないが、正義感に満ちた本。最近、ようやく原発の悪口を公の場で誰もが言えるようになった感じがするが(そうでもないのか?)、パチンコはまだまだな気がする。
パチンコは球がないと成り立たないと思ってたが、韓国のそれは「球なし」だったようだ。つまり、たまは「遊戯である」という苦しい言い訳に相当するが、本質は「たまのないところ」にあるわけだ。

平出隆『ベースボールの詩学』
詩人によるベースボール論であり、同時にボールの形をした詩論でもある。本自体がひとつの詩のような、ある意味で完全な姿をしている。こういう本は、これからなかなか生まれにくいのではないか、とぼんやり思う。

小学生の頃、私は野球チームに所属していて、それなりに野球を愛していた。もっと遡れば、公園や道路でカラーバットとゴムボールの野球を日が暮れるまでやっていた世代。怪しげな妄想とともに一人で壁にむかって野球をするのも、楽しかった。
不幸なことに、その後、野球とはどうも仲良くなれない。たぶん、野球を愛していたのに、自分があまりに下手なのでギャップが大きすぎたのだろうか? 
剛速球を打撃する欲望というこの本の中心テーマはすごく理解できるのだが、「そうだよね!」と力強く言い切れないのがもどかしい。まあ、野球の上手な人はこんな本を読まなくても十分に幸せということかもしれないが……。

南国系?(読書)

サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』
インドとイベリア半島の関係を背景に描いたルシュディ(ラシュディ)の壮大な小説。個人的にちょっと思い入れのある本で、十数年翻訳を待っていた。ストーリーは非常に濃密であり、確かに「究極のマサラ小説(帯のコピー)」かもしれない。

和田昌親『ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか』
気楽な読書ではあるが、内容が薄すぎる気も。こういう本が普通に出るくらい、ブラジル経済が好調ということだろう。

西條勉『「古事記」神話の謎を解く―かくされた裏面』
海幸・山幸と浦島太郎とか「日向三代の物語」のところが印象的だったので、私のなかでは、これも「南国系」。
関係ないけど、最近私の母が兄に日本神話を読み聞かせる古いテープが発掘された(スサノオが泣いて暴れたりするところ)。結構力が入っていて、迫力がある。私は童話とか絵本といったものより、神話や昔話みたいなもののほうに魅力を感じることが多いが、たぶんこの辺にルーツがある。

読書など

あれ以来、しばらく読書の記録もつけてなかった。
読んでいた本は、なぜか20世紀クラシック音楽に関するものが多かった。

岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後』
これは入門編という感じ。

モードリス・エクスタインズ『春の祭典 新版――第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』
背筋が凍るほど恐ろしく、しかし面白い本。やや極端な見解も含まれるが、とても刺激的だ。

アレックス・ロス『20世紀を語る音楽』1、2
このテーマ(20世紀クラシック音楽の通史)にしては、確かに読みやすい。
上下巻でボリュームがあり、最後は気が遠くなってきたが、ミニマルとか比較的なじみのある話になってくると、じわじわ感動してくる(長い本というのは、こういう意味のない感動成分もある)。
巻末に音源案内もあるので、少しずつCDを聴いてみようと思う。

アジット・K・ダースグプタ『ガンディーの経済学――倫理の復権を目指して』
これは音楽関係じゃないけど、タイトルに惹かれて。
倫理と経済というこのテーマはいろんな意味でとても重要だと思うので、ぜひ日本の意欲的な筆者による新書レベルでわかりやすい本を読んでみたい。

変わってしまったものもあるし、変わらないものもある。
ところで海外のみなさん、この事態にあって冷静な日本人をあまり称えすぎないでください。
私たちは、恐れで凍っているだけなのです。本当は泣きたいし、叫びたい人もたくさんいる。
もっと泣こう。それから、笑える人から、笑おう。
そして、周囲にある「悪いもの」に気づいても、ヒステリックに叩かないようにしよう。
自然の猛威よりも人間が恐ろしい、という風にならないように。

被災したすべての人々のために祈ります。

スウィングタイム、あるいはもうひとつの日本文化

古い日本のジャズ、とりわけ戦前のものに心を惹かれるという話は前にもどこかで書いた。
そんなわけで、毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』は、期待して読んだ。帯には「昭和文化史の書き直しを迫る」とあり、勇ましい。確かにすごい情報量で、戦前にこれほどのジャズ文化が花開いていたんだということは伝わってくる。
そのうち、CD化されているのはごく僅か。もっとたくさん聴いてみたい。

とはいえ、読み進めていくうにちなんだか飽きてきてしまった。「ホットな演奏」だの「レベルが高い」だの「凝ったアレンジ」だの「アメリカンなフィーリング」だの、音の説明を聞いていても何か違うという気がしてしまう。
まあ、私自身ホットでもないしレベルも低いし、音楽に対するそういう見方が苦手というのもある。
私が漠然と惹かれている「戦前のジャズ」は、もうちょっと違うもののような気がした。もしかしたら、それは本当はジャズですらないのかもしれない。

そんな風に思いはじめたところで、読んだのが渡辺裕『日本文化モダンラプソディ』。これが、とにかく面白い。もっと早く読まなかったのが悔やまれる本だ。
邦楽改良と「新日本音楽」、大阪における洋楽の受容、宝塚と国民劇構想といったテーマを語りながら(その細部もひとつひとつが面白い)、今はなくなってしまった「日本文化のもうひとつのあり方」について語る。それは無理に要約していうと、折衷的であり、革新的であり、ついでにやや帝国主義的なものだ。
私が「戦前のジャズ」というものに惹かれていたのは、もしかしたらこういう部分であったかもしれない。もし、音楽をはじめとする文化をめぐる歴史が別なものになっていたら……という想像をかきたてられるだけでなく、自分のなかには隠れた右翼的な部分にも目を向けさせられる。
読みながら、「外に対しては自分もよく知らない日本文化を誇り、内に対しては外国文化の『本場度』を誇る」という訳のわからない態度の奥にある問題の根は深いなと思え、やや暗い気持ちになった。そういえば、私自身もそれとまったく無縁というわけではないし。
なんにせよ、とにかくお勧めの本です。