野生の探偵たち

ずいぶん昔、大学生のころ。私はメキシコシティのカフェに座って本を読んでいた。
若いイケメンの兄ちゃんが声をかけてきて、何を読んでいるのかと問う。私は本の表紙を見せる。
たしかそれはオクタビオ・パスが愛について書いた評論で、兄ちゃんはそんなものはつまらないぜという顔をする。
「それよりカスタネダを読みなよ。僕の人生を変えた本だ」
彼はそう力説して、すたすたと行ってしまった。

当時、私はメキシコの詩人についてのインチキな論文を書いて卒業しようとしていた。カスタネダという名前には聞き覚えがあったが、どんな人かは知らなかった。
日本に帰国してから私はカスタネダのドン・フアン・シリーズにはまり、だんだんメキシコ文学なんかどうでもよくなってきた。
以上、もしかしたら私の人生を狂わせたのかもしれない、しかし比較的どうでもいいエピソードだ。
20年も経ってみると、かつての自分やその兄ちゃんは、かなりイカれた感じに思い出す。
たぶん、客観的には今の私のほうがイカれているかもしれないが、まあ年齢というのはそういうものなのだろう。

ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』のメキシコの若い詩人たちへの視線は、いわばイカれたものへのフェティッシュな愛なのかもしれないが、上下巻にわたりここまで大量に登場してくると、少しうんざりしてくるのも事実だ。この作家に興味があるのなら、まずは普通に面白い短編集『通話』をおすすめする。
とはいえ、確かに印象的な場面はいくつかある。オクタビオ・パスの名がさんざん言及された後、本人もちょっとだけ登場する。その頃にはフィクションかフィクションじゃないかはかなりどうでもよくなっているし、登場人物はことごとく狂っているんじゃないかという気がしてきている。
こういう長編小説は、読み終わってほっとしたのか、いい作品なので感動したのか区別がつかないことがある。

ある女流詩人伝

池内紀『ある女流詩人伝』

ユーリエ・シュラーダー。ずいぶん前にドイツでちょっと風変わりなエロチックな詩を書いて新聞に発表したりした人らしい。
魅力的だがどこかピントがはずれた感じは、たぶん定型詩という伝統に忠実だったせいもあるだろう。もちろん彼女の人格的な魅力も。
言葉が詩になるとき、一体何がそこで起きているのか。一人のごく平凡な詩人の人生を通してそれを描いた素敵な本だ。複雑な文学論とか、破天荒で偉大な詩人の人生のなかにはない何かがあって感動してしまう。
ちょっと忘れ去られたかけた、そしてものすごく偉大というわけでもない人々の文章を「再発見」して魅力的に紹介するのは、池内紀の得意技?のひとつだ(もちろん訳もいい)。早川良一郎、そしてリヒテンベルク先生……教えてくれてありがとうございます。

 

ラクダが踊る

らくだが好きで「らくだ節」なんていう曲をつくったりしたが、どうやら、らくだは本当に音楽が好きらしい(?)。

モンゴルの映画「らくだの涙」はラクダの授乳を促すために楽士を呼ぶストーリーである。
内モンゴルの映画「長調(Urtin Duu)」にも、ほとんど同じようなシーンがあった。
以上は、フタコブラクダの話。

以下は、アラブのヒトコブラクダについて書かれた堀内勝著『ラクダの文化誌』という本からの抜粋。

その小ざかしこく、さとい耳は主人の声を聴きつけ、その調子に合わせて歩を歩む音楽を理解する耳であった。したがって茫漠とした砂漠を旅する者には、その大海を航海する舟をどのように操ったり、スピードを調整したりするかを知っている必要があった。その操縦術は偏に彼等の声にかかっているのだった。それ故大規模な隊商qaflahには、必らずラクダ群を指揮し、一隊の先頭に立って、その美声で並居る音楽の理解者達を魅了しながら導いていく者、hadin(先導者)がいた。批評の耳をもったラクダの聴衆を相手にするからには、hadinは美声の持ち主であらねばならなかった。hadinの美声がラクダ達をどれ程狂喜させるかは、アラビア、ペルシャの古典の著作物の中に夥多の例を見いだすことができる。

この章だけ、妙にテンションが高いのも面白い。私も、大部のため途中で読むのを辞めようかと思ったところであったが、この「ラクダが踊る」という章だけ妙に盛り上がってしまった。

その一生を砂漠のなかで全うするが故に、静寂に慣れ、聞くものといえば己の砂を踏む音しかないラクダの耳は、それだけに他の音に敏感であった。特に歌声のように旋律をもった音に対しては反応が著しかった。しかもその歌が美しいならば、さらにその反応が増した。彼の歩みは歌の律に自ずと歩調が合っていた。そしてあまりの上手さ、あるいは甲高い声の持つ情緒性はラクダの反応を前述の例に見た如く、恍惚とさせ、有頂点(ママ)に導いてはその果てに動物的本能である性への執着心をも忘れさせる程であった。

砂漠の静寂とらくだの音楽好きが結びついているところも、なんだか面白い。
このような人間とラクダの交流からアラブのキャラバンソングが生まれ、アラブの歌謡や詩はここに深い伝統をもつという話が、さらに展開されていくわけだ。

静けさのなかにラクダの砂を踏む音だけが例えばタタンタタン、タタンタタンと一定の律で響いていたとする。その一定の律は、やがてラクダの上に乗る人間にとっても無意識のうちに一定の拍子となるであろう。ましてや、ラクダに乗れば気づくことであろうが、その歩調に合ったコブの揺れが乗り手をリズミカルに大きく前後に揺すり続けるから、人獣のリズムが両者の体内で一体化してしまう。単調な自然と、昼間ならば太陽の直射と夜ならば暗黒からの恐怖感とを主な原因として、遣る方なき理性はやがて慰め手となるものを本能的に求める。慰めの対象は最早、熱さ或いは恐怖と疲労から深い思索を求めはしない。すでに体の一部と化している一定の拍子に従って。情緒に訴えるものを発散し、理性の浄化を計るわけである。そこで彼等はその拍子に乗って歌い出すのである、恰もストレス解消に肉体的運動が不可欠の生理的現象であるかの如くに。

つい引用が長くなってしまったが、まさに理性を浄化してくれる名文である(笑)。

500年の歴史にボサノヴァなし--「火の記憶」完結

神話時代のはるかなる時間とコロンブスの「発見」から1984年までの約500年。
約500ページ×全3冊。最初の1冊が出たのは2000年末だから、翻訳刊行だけでも軽く10年以上かかっているわけだ(原著は1982~)。
まずは、完結を言祝ぎたい。素晴らしい仕事です。

すこし詩的な言葉で書かれた歴史の断片集という感じだろうか。
それぞれの断片は出典というか参考書籍が挙げられており、その書名を眺めるのも楽しい。
ついでに、この10年間で読書をしながらインターネットで調べるという悪癖が可能になってしまったので、分からないところをあれこれググってみたり。

とはいえラテンアメリカの通史として勉強になるかといえば怪しい。
20世紀の巻は、音楽家だけでもヴィラ・ロボスやアタウアルパ・ユパンキ、アグスティン・ララ、ボラ・デ・ニエベ、カルロス・ガルデル、カルトーラ、アリ・バホーゾ、カルメン・ミランダ、シコ・ブアルキなんかが華々しく登場するが、ボサノヴァの誕生は触れられていない。
文学にしても、ガルシア=マルケスやフアン・ルルフォ、パブロ・ネルーダ、ジョルジ・アマード、ギマランイス・ローザなどなど、これも挙げだしていったらキリがないもの、バルガス・リョサやオクタビオ・パスには触れられない。まあ、なんとなく著者の好みも基準も分かるような気もするし、特に異論があるというわけでもない。
ただ、どちらかというと、こんな風に「誰をどう書いているか」が気になる20世紀よりも、知らないことだらけだった最初の2巻のほうが面白かった気もする。

日本の歴史をこんな風に書くことができるかどうか、考えたりもしてみる。もちろん難しいけれど、無理だとは思いたくない。そんな風に感じさせてくれる書物でもある。
そして、かの土地にまた行ってみたいとも。メキシコ、ブラジル。まだ行ったことのないあれこれの国々にも。

あたらしい年

今年もよろしくお願いいたします。

*写真は、最近は毎年「帰省」している妻の実家付近で撮ったもの。

今年はどういう年になるだろうか。自分に関するかぎり、それほどいい予感はない。
せめて、これを読まれている皆様にとってはよい年でありますように。
私にとっては少しじっくり考え、かつ心を入れ替える年なのかもしれない。
いや、以下のことをふまえれば、考えるよりも悔い改めよな感じかも……。

以下は、ひさしぶりに読書感想文でもある。
年末に読んだ最後の本は、バルガス=リョサ『密林の語り部』。
そして、年始に読んだ最初の本はオレン・ハーマン『親切な進化生物学者―― ジョージ・プライスと利他行動の対価 』。
個人的には、バルガス=リョサは放っておくとどうしてもきまじめすぎる印象があり(少しハメをはずした作品のほうが好き)、圧倒的に後者のほうが面白かった。

それにしても、片方は滅びの危機に直面した民族と語りの力について、 もうひとつは動物や人間の善良さ、利他行動がいかに進化したかについて。つながりのなさそうな2冊だったが、『親切な進化生物学者』の「謝辞」に『密林の語り部』のことが書いてあり、びっくりした。
確かに、2種類の語りが交互に絡み合いながら進んでいくスタイルは似ているし、インスピレーションを受けたといわれれば、なんとなく分かる。
ご丁寧にも、こういう偶然には神秘的なメッセージのようなものを感じがちである、というような内容が『親切な進化生物学者』の「訳者あとがき」に書かれていて、しかもこの訳者、実は尊敬する大先輩であったりもするから、戸惑わされる。

昨年の終わりくらいだろうか、私は他人に言えない恥ずかしい体験をした。
ぼんやり自転車に乗っていたとき、視界の隅っこで老人が倒れたのだが、私の心はしばらく動かず、そのまま通り過ぎようとしてしまったのだ。
はっとして戻ろうとしたが、もう別の誰かが駆け寄り、助け起こしていた。
私はものすごく恥ずかしい気持ちになり、それから誰にもその話をしていない。
今も、一体この続きをどう書いていいのか、よく分からない。

電子書籍『みんなの庭』

音楽ではなく、本業であるライターとしてのお仕事です(え、そんなはなし知らないって?)。
脇坂敦史『みんなの庭~岡本太郎からカレル・チャペックまで。庭をめぐる18の物語』
「哲学の庭」としてある企業が出していたフリーマガジンに連載していたものを、まとめました。
時代も分野も異なる18人が庭とどんな風に付き合ったのかいうのがテーマですが、ゆるい庭論にもなってます。地味だけど、たぶん類書はあまりないんじゃないかなあ。

IPhone、IPod Touch、IPad版のほか、Android版もあります。電子書籍というものがこれからどうなっていくのか、さっぱり分かりませんが、ぜひこの機会に読んでみてくださいませ(有料です)。

以下、目次です。

まえがき
岡本太郎 「太陽の塔」の地下にはベラボーな庭が眠っている
ウォルト・ディズニー ディズニーランドの原点はバックヤードの鉄道遊びだった
白州次郎 「従順ならざる日本人」の知られざる隠遁生活
ジョン・レノン ガーデナーがいなくなったあとの庭を想像してごらん
宮沢賢治 理想郷、イーハトーブの挫折した花壇づくりプロジェクト
愛新覚羅溥儀 ラストエンペラーの庭師への「改造」は成功したのか?
イサム・ノグチ 地球を庭にする夢は、少年が置いた石からはじまった
内田百閒 いなくなった猫を思い出すから、庭を見ることもできない
武満徹 庭は見るだけのものではない、聴くものである
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 「星の王子さま」は愛するバラのもとへ帰れたのか?
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) ヘルンさん、あなたの愛した庭はまだありますよ
クロード・モネ 印象派の庭は、園芸ブームと日本への憧れがつくった
大河内傳次郎 昭和の大スターが求めた、映画では決して残せないもの
ジャン・アンリ・ファーブル 昆虫がいれば、どんな荒れ地もエデンの園となる
永井荷風 独身者にとって恐ろしいのは家庭の女か、庭の花か
デレク・ジャーマン 荒野のパラダイスは原子力発電所を借景とする
松下幸之助 「経営の神様」がつくった庭で2つの哲学がぶつかった
カレル・チャペック 園芸家は如雨露をもったロボットの夢を見るか

参考文献

夏らしい読書

マーク・トゥエイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(ちくま文庫、加島祥造訳)
はずかしながら、四十になる前にようやく読めた……。
面白いとは聞いていたが、本当にいい。
罪悪感を抱きながら逃亡奴隷を助けてしまい、一緒に筏に乗ってミシシッピ川をどんどん下っていってしまう感じは、妄想王ドン・キホーテとサンチョの旅路に匹敵する、美しい情景だと思う。

それで、これを訳した加島祥造先生のことは、これまでも何度も書いてきたが(たとえばこれとか)、最近はこんな本も出ていることを知った。
加島祥造『わたしが人生について語るなら』
夏休み、こんな風に語ってくれるお爺ちゃんがいたら、孫は本当に幸せだろう。
こんな風に語ってくれなくとも、お爺ちゃんと過ごす孫は幸せである(なんのこっちゃ)。

3冊目は何が夏らしいかまったく不明だが、私にとってはなんとなくそのカテゴリーに入る。
ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』
理科系で難しいからかな? 理由もはっきりせず、なんとなく読み始めたからかな?
あまり関係ないが昔、アメリカの高校で生物学の授業をとっていたことを思い出した。
ミトコンドリアはマイトコンドリアと発音してたな。

震災関連本?

本屋へいくと、震災関連本や原発関連本がたくさん並んでいる。
たぶん、一番早かった「関連本」を友人が編集した。それを聞いて私は誇らしく思ったが、自分自身はヘナチョコなので、この手の本をまったく手に取れずにいる。

でも、これだけはと思ったので買ったのが、
しりあがり寿『あの日からのマンガ』
震災本じゃなくて震災マンガじゃん、というわけで、期待した以上に素晴らしかった。
読むべし、笑うべし、泣くべし。

関係ないけど、震災後繰り返し流れた映像のなかで、津波とは別に印象に残ったのは「アメリカの女性ジャーナリストが、被災者のおっさんから煎餅を与えられる」という場面だった。彼女は大袈裟に「助けを必要としているのはあなたでしょう!?」と驚く。
妻が言うには、「あの煎餅は〈雪の宿〉に違いない」とのことで、しばらく私たちは〈雪の宿〉を食べたくなることが多かった。たまに店に置いてないと、みんな同じ気持ちで買い占めしているのだろうと想像した。

レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を読むと、あのジャーナリストがパニクってて、煎餅を与えたおっさんが落ち着いていたのが、実はすごく典型的な出来事であったことが分かる。
日本だけではない、世界のどこでも大災害においては人々は意外に落ち着いていて、利他的な相互扶助が広く見られる。パニックを起こすのは主にエリート層、離れたところにいる人、そして土地勘のない人だとか。
これも本屋で平積みされていたのだが、実は震災前の本。ハリケーン・カトリーナ後の話はかなり衝撃的。
すごくいい本だと思うが、長くてややまとまりに欠けるのが残念。そして、あまり言いたくはないが、翻訳がいまいち。
オアハカをオアクサカ、ソカロをゾカロなんていうのは、インターネット時代の今、編集者と翻訳者の手抜きだし、いかにも英語中心主義な感じ。

安部ねり『安部公房伝』
あとがきの最後に一文が加えられていた。今後、すべての本は「震災後の本」になるのだと思った。
ひさしぶりに安部公房を読んでみようと思った。

詩というクラフトについて

前にも確か光文社古典新訳文庫のすばらしさについては書いた気がする。
今回も、その点については変わらない。こういうチャレンジングな仕事を続けてほしいと祈るばかり。

川村湊訳『梁塵秘抄』
ときに原詩を逸脱してでもという現代的な訳。そして原詩と解説を読み合わせれば、なんとなく詩が伝わってくるという素晴らしい仕組みである。
版元および訳者には最大限のリスペクトを表明しつつ、とても残念なのだけど、肝心の訳詞はあまり好きになれないものが多かった。
それが訳者の目指したという「歌謡曲っぽさ」ゆえなのか、全体に言葉がオヤジすぎるからなのか、私に詩を味わう才能が足りないからなのか、あるいはそもそも原詩が好きじゃないのか、理由はよくわからない。
ただ、解説などを読むと、やはり訳者の意図や狙いは正しいと思える。
そして、自分ならこう訳すなあ、などと考えながら読める本はそうあるものではない。

ちょうど同じときに買って読んだこの本はまさに、その「なぜ好きになれないか」を問題にしたような本。
JLボルヘス『詩という仕事について』
原題は英語(元は英語の講義らしい)で、This Craft Of Verse(詩というものづくりについて)。
逐語訳と再創作の両方が力をもつことを述べた詩の翻訳についての章など、「なぜ詩は詩になったり、ならなかったりするのか」という謎について書いたものといえる。
もちろん、明快な答えがあるわけではない。最後まで詩は謎に満ちたクラフトでありつづけるわけだ。

逐語訳という考えかたは聖書の翻訳から始まったと考えています。……聖書の実に見事な翻訳が行われるのを見て、人びとは、外国風の表現のなかにも美があることを発見し、そのように感じ始めました。

インド人は古代哲学の用語を今日の哲学の新しい表現に翻訳するのですが、これは素晴らしいことです。これは、人が哲学を信じるという、あるいは詩を信じるという、そして昔美しかったものは今も美しくあり続けることができるという、そうした考えを保証するものです。

そんな訳で、つぎはこれを読んでみる。
ホイットマン『おれにはアメリカの歌声が聴こえる 草の葉(抄)』

広場と庭

アントネッラ・アンニョリ『知の広場』(みすず書房)
最近、図書館にすごく世話になっている。昔からよく使っていたが、インターネットで使い勝手がよくなっというのが大きい。
そういう時代、確かに図書館の存在価値って何だろうとは思う。
好きな場所のひとつだし、なくなってほしくない。
広場のような場所であるべきという理想はよく分かる。メキシコシティの広場はでかすぎ、オアハカの広場は素晴らしいというのもわかる。
本自体はやや図書館関係者向けという感じで、それほど面白い読書ではなかったけど、関連業界(?)の方にはぜひ読んでいただきたい。

ヨーロッパ文化の広場に対応するものが日本にないとか、いやそれは銭湯だろうとかいう議論はともかく、近くに少し広場っぽいところがあって、近所の暇をもてあましつつお金のなさそうな老人たちが集まっている。
行政はというと、明らかにそれを迷惑がっているようである。
図書館を広場に、よりもまず「居心地のよい広場を」のほうが先なのかもしれない。
以下引用。

……ベッペ・セバステは書き、読者にこう呼びかける。「もしベンチが消滅の危機にあるとするなら、それはベンチが危険だと考えられているからだ。ベンチが危険なのは、町中に偶然に、しかも無料で置かれているからである。……」。もし広場からベンチが消えてしまうなら、私たちの図書館が屋根のある広場になればいい。……消費の神さまに敬意を示す必要のない無料の場所に数時間座って過ごせるなら、それだけでいいのである。

レヴィ・ストロース『ブラジルへの郷愁』(中央公論新社)
コンパクト版が出たのを知らず、半年ほど過ごしていた。
1930年代のブラジルを撮った写真。サンパウロは劇的に変わり、バイーアはほとんど同じ。
そういう本ではないのだが。
(タイトルの元になったダリウス・ミヨーの「Saudades do Brasil」コルコヴァードという曲がyou tubeにあったのでメモ)


湊千尋『レヴィ=ストロースの庭』
(NTT出版)
確かに、レヴィ・ストロースが撮った写真の大半を占める先住民がくつろいでいるようなだらだらしているような情景は、「庭で過ごす人々」という感じもする。ちょっと悲しい感じのする庭。
広場ではもちろんない。