からいグローバル化

グローバル化のような地球規模の現象と、個人や地域が遭遇するとき。そんな、「出会い」に興味があります。もっとも普遍的な現象でありつつ、ものすごく個別的であるというような。食文化にしても音楽にしても、世界には、そういう出会いがたくさんあって面白い。ありふれていて、でもいとおしい。そして、ときに文化が一色に塗りつぶされたと思ったら、そこにひょっこり新しい文化が生まれていたりするわけです。

松島憲一『とうがらしの世界』という本のなかに、長野県の南のほうで昔、食べていたという「青唐辛子が味噌に突き刺さっている、山仕事をする人のためのお弁当」が出てきます。

アルマイトの大きいお弁当箱の三分の二に麦ご飯、残りの三分の一には味噌が詰められていて、その味噌に煮干しと鈴ヶ沢南蛮の青唐辛子が突き刺さっているという豪快なものだった。

唐辛子は腹に切れ目が入れられて、中に味噌が入り込んだ状態になっている。昼食までの時間でほどよく味噌漬けになった唐辛子や煮干しを囓り、味噌をなめながら、麦飯をかっ込んだのであろう。さらに、麦飯を食べきったところで、山の清水を湧かしたお湯で残りの味噌を溶いて、味噌汁にして飲み干すのだそうだ。

松島憲一『とうがらしの世界』

唐辛子というのは、かつて世界中を席巻した、いわばグローバル化の権化。それが各地でもはや風土となり伝統となり自然に息づいているわけです。無理矢理比較するなら、たとえば私は最近、タイのヒップホップというのが面白くてよく聴いています。もちろん、日本を含めすべての国でヒップホップは、すでにそれぞれの独自路線を進みつつあるわけです。

そんなからくて美味しいグローバル化を感じさせる本をもう一冊。小林樹『日本の中のインド亜大陸食紀行』は、おもに南アジアから日本各地へ移住してきた人たちの経営するレストラン、さらにはお祭りや宗教行事で食べられている料理などを紹介している労作です。この方は最近、インド全土の食べ歩き本も2冊組で出されました(『食べ歩くインド』)。

日本の中のインド亜大陸食紀行
created by Rinker

ところで、『とうがらしの世界』の著者である松島さんとは、ずいぶん前に一度お目にかかったことがあります。私は当時、ひよこ豆ドットコムという豆サイトを運営していて、確かその掲示板を通した「オフ会(!)」でネパール料理をご一緒したのです。真面目な研究者である松島さんの他、ふらふら遊んでいる私、料理研究家やアーティストの方などがいました。インターネット初期という懐かしさを感じがさせるエピソードです。もちろん、今もっとも強力なグローバル化は新型コロナウィルスでしょう。こっちはからいじゃなくて、つらい。早く『日本の中のインド亜大陸食紀行』で紹介されているような美味しい料理を食べにいきたいと願わずにはいられません。

靄にかかったような古文

学生時代から、わりと外国語は好きでした。それにくらべ、古文はどうもピンとこなかいのが自分でも不思議な感じがします。高校生のころ、担任の教師から「現代文学だけじゃなくて『源氏物語』も読んだら?」などと勧められて嫌な気持ちになったことも思い出します。そのとき、「雅な恋」「和歌を通した恋愛」みたいなゲーム的な要素に少し反感があったような気がしないでもありませんが、当時の気持ちはよく思い出せません。

齢をとり、今も古文を読むと何か霞にかかった世界を見るような感じがあり、苦手意識はぬぐえません。一方で日本の古典に対する興味は年齢相応に(?)増したようであり、そんなわけで最近は「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」を少しずつ読んいます。もともと素晴らしい作品が多いのはもちろん、現代の書き手である訳者と作品の距離みたいなものも、興味深いのです。結局、私は「翻訳」という作業を通した何かが好きなのかも知れません。

ところで、もうずいぶん前から、いつか「語り物」を弾き語ってみたいなという到底実現できそうにない夢を抱いています。それは漠然と中世の語り物、たとえば説経節とかではないかと思っていました。あるいは、そのころの説話文学みたいなもの(この辺の用語やジャンル分けについては、まったく分かっていません)。

実際、伊藤比呂美の訳した「説経節」や「発心集」、町田康の「宇治拾遺物語」などを収めた巻あたりは、すごく面白くて夢中になって読みました。でも、なんか私がやっているような音楽、あるいは歌との相性が悪いような気がして、「やっぱり語り物は無理かな~」なんて思っておりました。

その意味で発見だったのは、「伊勢物語」です。恥ずかしながら、最初に書いたように、これまでまったく興味のない世界でした。でも、これってある意味、ボサノヴァみたいなもんじゃん(笑)という、なんともいい加減な感想とともに、すごく面白く読めたのです。やっぱり年齢でしょうか。

訳したのは川上弘美。シンプルだが丁寧な訳で、ほんのときどき、ここぞってときに原文を逸脱してジャンプしてくれる。素晴らしい訳だと思います。感激したので、ちょうど、すごく話題となっていた髙樹のぶ子『小説伊勢物語 業平』も読んでしまいましたが、やはり何か違う。ここまで書かれていない部分を補って小説化してしまうと、たとえば「日経新聞臭さ」みたいなものが、出てきてしまうのです。

ご存知の通り、「伊勢物語」には他にも多くの派生作品やパロディ、訳があって、いろいろ想像して遊び甲斐のある作品です。私は最初、在原業平のように多くの女と浮き名を流した詩人であるヴィニシウス・ヂ・モライスに京都から東へ日本を旅してもらおうと思ったのですが、だんだんそれはどうでもよい気もしてきました。

そんなわけで、「伊勢物語」については原文も少しずつ読んでいます。相変わらずぼんやりとした内容しか頭に入らないのですが、さすがに何度もいろいろなヴァージョンを読んでいると、だんだん言葉そのものではない形で情景が浮かんでくるようになるわけです。「伊勢物語」の成立からして、最初に歌があって物語を後からつけた部分も多いようです。歌が先か? 物語が先か? 実現できそうにない楽しい夢は諦めずに、のんびり歌ったり読んだりを続けていこうと思います。

少しずつ再開

しばらくサイトを放置していました。5月くらいから、少し時間ができたので、まずはボサノヴァ日本語化計画のリニューアルをはじめました。ようやく、そちらが一段落したので、今度はこちらです。とはいえ、音楽関係の告知などは向こうに移したほうがよさそうです。

それ以外でいうと、このサイトにはときどき書評や読書日記を載せるくらいのものでしたから、のんびり気楽に行こうと思います。また、この間に読書の量と質は、めっきり落ちた気がします。なので、ひっそりと書くことにします。

菊地大樹『日本人と山の宗教』

十年くらい前から、ときどき近所の低山にのぼりにいくようになりました。子どもが少し歩けるようになってからも、家族でほんのときどき出かけます。奥多摩とか奥武蔵とか呼ばれる地域です。ときどき、山の麓や山頂近くに神社があったりして、なんとなく気になっていた山と宗教の関係。そういうことが、少し分かるような、分からないような、そんな読書。

ジョン・キーン『デモクラシーの生と死 (上) 』

ラテンアメリカの独裁的な指導者であるカウディーリョとデモクラシーの関係を述べた章などがあり、民主主義を通説にとらわれず変わりゆくものとして捉えた歴史観は面白いし刺激的なのですが、ひじょうに読みにくい本で時間がかかっております。下巻に進むか、迷っているところです。

ヨーロッパの一地方としてのブラジル

たぶん半年くらい読書記録をブログに書いてなかったので、少しだけまとめておこうと思う。
まずは、このブログの読者にも少しは関連のありそうな、ブラジル関係の本。
もともと翻訳がひじょうに少なかったブラジル文学だが、少しずつでも増えていてうれしい。まずは、なんと文庫にはいったマシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』 (光文社古典新訳文庫)。マシャードは『ドン・カズムーロ』(彩流社)もあり、『ブラス・クーバス……』のほうも同訳者によるものが重なって出ていて、やや不幸なことではある。二冊を読んでみると、どちもそれなりに面白いのだが、どこかのヨーロッパ文学だと言われてもほとんど気づかないような内容である。そのへんが、ブームにもなった最近のラテン・アメリカ文学とは違う。描かれているのは、あくまでもヨーロッパの一地方としてのブラジルなのだという感じが否めない。

こういう感覚は、実はより土俗的な文学を紹介したジョゼフ・M. ルイテン『ブラジル民衆本の世界―コルデルにみる詩と歌の伝承』(お茶の水書房)のような本を読んでも感じることだ。ヨーロッパで古くから盛んだった韻文による語りという文化が、ブラジルの北東部だからこそ残っているという視点は、当たり前ではあるのだが、日本人にはそれほど馴染みがない。たぶん、ブラジルを地球の反対側にある国として意識しすぎなのだろう。

そんなわけでもう一冊、本当はこの本だけ紹介すればいいのかもしれないが、リオデジャネイロで活躍した現代詩人4人を紹介した福嶋伸洋『魔法使いの国の掟―リオデジャネイロの詩と時』(慶應義塾大学出版会)。マヌエル・バンデイラ、カルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、セシーリア・メイレーリス。訳もいいので、たぶんボサノヴァの詩に興味のある人は、すごく楽しめるだろう。ただ、やはりここでも感じるのは、たぶん上の3冊と同じことかもしれない。
実をいうとこの著者、どうやら私と同じ学科を出ている、いわば後輩なのであった(! ただし面識はまったくない)。しっかりと研究の道を歩んでおられる著者にくらべ、もちろん私は自分が情けなく感じられるわけであるが、それはともかく、この学科はそもそもヨーロッパ文学という枠組みのなかでなら、ラテンアメリカ文学をやってもいいよ、という場所だった。私も、その間隙をついて、テキトーな学生生活を送ったという次第。だから、ある意味で、たぶんこの著者にとっても私にとっても、ブラジルがヨーロッパの辺境であるということは、ひとつの共通理解、常識ではある。

それでも、なんとなくこの枠組みを抜け出したいという感覚がどこかにある。たとえば、川田順造『「悲しき熱帯」の記憶―レヴィ=ストロースから50年』(中公文庫)は、ちょっとしたヒントになりそうな本だと思った。海を渡ってきたポルトガル人とぶつかった文化という意味で、たとえばポルトガル人の衣裳を真似たアフリカの首長と織田信長が重なる。ブラジルと日本は遠いようでいて、そうでもないのだ。

もちろん、ヨーロッパと非ヨーロッパをめぐる問いは、簡単ではない。おそらく日本では夏目漱石がいたような場所に、マシャード・ジ・アシスはいたのだろうと思う。マシャードのほうが、ずっとヨーロッパよりではあったにしても。こんな風にぐるぐると回転していると、地球をまわっているような妙な感覚があり、私はたぶんそれが好きなのだろうか。
ブラジル文学、もっとたくさん翻訳を出してください。

敗北主義

なんとか主義というのはたいてい冗談でしか使わないが、「敗北主義」という言葉はわりと本気で気に入っている。

ちょっと前に「無人島の領有権に興味はない」などと書いたが、さすがにだんだん話がエスカレートしてくると、そうも言ってられなくなってきた。中国本土には友人もいるし、何らかの危険に直面していると思うと、心が痛む。
もっとも、私のような「敗北主義者」が、いくら「あんな島など、思い切って明け渡してしまえ」とか言っても仕方ないので、ここではもう少しちがうことをメモしておきたい。

私のような少数派をのぞき、世論というものは大抵「強硬姿勢」を喜ぶものである。したがって外交には、お互い現状を維持しながら、相手を殴っているフリみたいなものが求められる。結構、危険な技と言わざるをえないが、しばらく日中も日韓もそうしてきた。強硬姿勢のフリをやめて、本気で現状を打開しようとするのは、いわばルール違反ということだ。

それはともかく、孫崎享『戦後史の正体』(創元社)という本によれば、北方領土もふくめ、日本が抱える3つの厄介な領土問題はすべてアメリカ合衆国が戦後の外交政策として意図的に埋め込んだ仕掛けのようなものだということらしい。それはそれで、なるほどと思える見方である。もちろん、孫崎氏は敗北主義などでなく、これはひじょうに立派な本である。話題の書らしい。ミュージシャン関係の知り合いでも複数の人が同時多発的に読んでいると言っていた。けっこう珍しい現象だ。

オースターとクラストル

ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』という「嘘みたいな、ほんとうの話」を集めた本のなかに、若い頃に訳したというピエール・クラストルの本について、刊行されないままゲラが行方不明になりその後古本屋で見つかるという話が出ている。数年前、私はそれを読んでピエール・クラストルに興味をもち、『大いなる語り―グアラニ族インディオの神話と聖歌』という魅力的な本を読んだ。どういうわけか、私はこれがオースターの訳した本だと思い込んでいたようだ。
さて、ごく最近クラストルの『グアヤキ年代記--遊動狩人アチェの世界』(インディアス群書)という本を読んだところ、あれ、オースターが訳したのはこっちじゃないのか? と焦り『トゥルー・ストーリーズ』を読み返すと、案の定その通りだった……。何をどう勘違いしていたのか、恥ずかしいかぎり。読んでみるとグアラニとグアヤキではずいぶん違うし、若き日のオースターが『大いなる語り』を訳したというのと、『グアヤキ年代記』を訳したのとでは、これまたずいぶん印象がちがう。なんにせよ、これでようやく私のなかでも「ほんとうの話」がつながったわけで、やれやれである。

そんなわけで、『グアヤキ年代記』の語りのおもしろさ、そしてグアヤキの豊穣な世界の魅力を的確に紹介することは、とてもできそうにない。
ここでは、誰もあまり注目しそうにない、豆にまつわる素晴らしい細部を引用するだけにしておこう。

プロアアンは一種の大きなインゲン豆である。ヨーロッパのそら豆に似ていて、森のツタ植物の鞘になっている。プロアアン・マタという遊びのなかで、男と女はこれらのインゲン豆の一つを自分の腋の下か、握った手のなかに入れる。持っている者にそれを手放すように仕向ける遊びである。彼らは持っている者をくすぐり、くすぐられたものは遅かれ早かれそれを手放さざるを得ない。……(中略)……子どもたちはこの遊びに参加しない。あまりに熱狂が大きく、その激しさが危険なものになる可能性があるからだ。……(中略)……部族が集まっている間中、彼らはインゲン豆の取り合いをして遊ぶ。それぞれが代わるがわるにその持ち主になり、それから奪われる者になる。青年や娘にとって、彼ないし彼女が望んでいる異性にインゲン豆を盗ませるのは簡単である。特定の彼ないし彼女のくすぐりに降伏することは、いわば愛の宣言のようなものである。私はあなたにインゲン豆をあげる、あなたから別のものをもらうために。私はあなたからプロアアンを奪うために努力する。それはあなたが欲しいからだ。……

アウグスト・モンテロッソ礼賛

ラテン・アメリカ文学マニアというほどではないものの、本屋でもこの分野の棚は大体チェックしているつもりでいた。それなのに、こんな素晴らしい作家がいたことを知らなかったなんて、とても恥ずかしい。おまけに、もう亡くなっているではないか(2003年)。遅れたぶんを取り返すというわけでもないが、なんとかその素晴らしさをここにきちんと書いておきたい(たぶん無理だろう)。

もっとも言い訳ではないが、ホンジュラス生まれのグアテマラ人(メキシコで活動)という経歴も地味なら(失礼)、日本の出版社や装丁も地味(失礼)、ついでに作風も決して派手とはいえない。ご本人もそれは分かっておられるようで、グアテマラの片田舎でシューベルトの「未完成交響曲」の残りを発見したのに世界から完全に無視されるという愉快な話も書いておられる(「完成交響曲」)。たとえば、先のオリンピックのサッカーで目立ったのは明らかにメキシコとホンジュラスの活躍だと思うが、大抵の人はもうそれを忘れているだろう。この人がフランス人だったらとかいう仮定は成り立たないとは思うものの、ちょっと悔しい感じはある。

アウグスト・モンテロッソについてもっとも知られているのは、この人が世界でもっとも短いひとつの文章だけでできた短編作品を書いたということにあるようだ(「恐竜」。気になるようなら、検索するだけでこの短編は数秒で読める)。しかし現在2冊でている邦訳のうち、どちらを先に読むべきかといえば、この名高い世界最短小説を収録した『全集 その他の物語』よりも、『黒い羊 他』を勧めたい。

『黒い羊 他』にはさまざまな動物たち、神話上の有名人、などなどが登場する。作家になりたいサル、相対性理論に気づいたキリン、趣味に没頭するペネロペ、矢に追われながらゴールしたカメ、詩を書くブタさん、ロバと横笛の恋(?)などなど、愉快な話だらけ。イソップ童話のような雰囲気をもちつつ、笑いと謎にあふれ、カフカのアフォリズムのような切れ味もあるような、ないような。冒頭に掲げられた謎のエピグラフ(?)「動物たちは、あまりにも人間に似ていて、ときとして区別がつかないほどである」だけで、なんとなく笑ってしまう(これにはオチがあるのだが、ここではもったいないので触れないでおく)。ついでに、翻訳もすごくいい。

訳者のあとがきによればラテン・アメリカでも「作家のための作家」として、通好みな作家らしい。たしかに、書くことや表現することそのものをテーマにした面白い作品がいくつかあって(私のお気に入りは朗読したくてうずうずしている大統領夫人の話)、こういうのは意外に一般ウケしないのかもとも思う。しかしそれだけではないし、全体にとても読みやすく、笑いにあふれ、難解さとはほど遠い。短くて味わい深く、何度も読み返せる。人に読んであげたくなる。だんだんTVショッピングの宣伝みたいになってきたから、この辺でやめよう。まあ、モンテロッソの短編集をコマーシャルでラクダとかキツネが宣伝していたら、それはそれでモンテロッソの作品ぽくはある……。

もっとも影響を受けた本?

子どものころうちにあったシリーズ、「母と子のむかし話シリーズ」(研秀出版)。セールスマンが訪問販売などで売っていたらしい。20冊あるなかで、私がたぶん一番影響をうけたのがこの最終巻「中南米の神話物語」である。あらためて再読してみると、自分が何にひかれたのかよく分からないのだが、何か不穏な感じ、明らかに他とは違うひりひりとした(?)世界感であろうか。文章よりも、絵だったのかもしれない。やたら人が死ぬのにもびっくりする(笑)。

RIMG0024

私の人生はつねにこの本の弱い影響下にあったように感じられ、何だか今見ると不思議だ。後にこの本の元ネタのひとつがマヤの神話『ポポル・ヴフ』であることを知った。三島由紀夫が推奨していて、挿絵をかのディエゴ・リベラが描いていて、これも大変美しい本(特に1972年に再版されたものがカラーの挿絵ですばらしい)。私はそれも知らずに学生時代メキシコへ出かけチチェン・イツァーなどマヤの遺跡をいくつも巡ったが、不気味さとともになんとなく懐かしさを感じていた。
ところで他にも、「中近東の神話」「日本の神話」などが好きだったこのシリーズ。私を含めた3兄弟は読むだけでなく粘土遊びなどかなり手荒な遊びにも酷使し(高さの調整に便利だった覚えがある)、最後は捨てられてしまったようだ。懐かしいので、古本屋などで見つけたらまた買おうかとぼんやり思っている。

好きと嫌い、意見をもつ長い時間をください

インターネットの危険性を指摘する類いの本を3冊ほど読んでみた。

『閉じこもるインターネット–グーグル・パーソナライズ・民主主義 』

『つながりすぎた世界』
『インターネットは民主主義の敵か』

こういう本は、タイトルだけで大体まあ何を言いたいのか分かるのがよいところだ……。

最初の本を読んで、私もグーグルとfacebookから距離をとることにした。このふたつが怖いのは(私の理解では)、何が起きているのかユーザーに知らせないでいいと考えているところだ。たぶん、そのほうが便利で快適だからという理由による。
2冊目はそれほど面白くはないものの、つながらなくてもいいのにつながってしまう、しかも強く、ものすごいスピードで、というインターネットの性格をわかりやすくまとめているとは思う。
3冊目は10年も前の本。うちの本棚でも忘れられていたが、あらためて再読してみるとやや読みにくいものの、よい本だと感じた。

フィルタリング能力を賛美する人には、自由とは個人の好き嫌いを満たすこと、つまり個人の選択への拘束がないことを意味する。この見解を支持する人は、結構多い。実際、それは自由言論に関する現在の論調の基礎となっているが、大きな誤解といえる。自由とは好き嫌いを満たすだけでなく、それなりの条件の下で好き嫌いや信念を確立する機会のことでもある。

なぜ人はフィルタリングするのか、という問いを立ててみる必要がある。最も簡単な理由づけは、人間はそもそも何が好きで嫌いかを知っている、あるいは知っていると思っていることだ。

インターネットにかぎらず、私も意見や好き嫌いというものについて、いつも「もっと長い時間で」「瞬間的なものとしてでなく」捉えるべきと思っている。もしかしたら、罪は性急さのなかにあるのかも。
たとえば、街灯インタビューで意見を求められてすぐ簡潔に答えられるようなタイプ。それが現代の「有能な人」だろう。でも、「どうなんでしょう、3日くらい考えてみましょうか」というのんびりした態度がもっと推奨されていいと思う。
好き嫌いにも、ほぼ同じことがいえる。好き嫌いは瞬発力であるとともに、終わることのない紆余曲折であることも多い。好き嫌いを固定化しようとする他者の介入だけでなく、やはり好き嫌いを固定化しようとする自分の傾向も警戒すべきだ(分かりにくい表現でごめんなさい)。

そういう観点からいえば、今のインターネットは最悪のツールに近い。ほとんど瞬間的な判断ばかりで成り立っているように思えてならない。これは好き、これは嫌い、これは反対、これは賛成、これはイイネ、これは無視、これは重要、これはメモ、これは忘れる。この世界では「3日くらい考える」「少し時間をおいてみる」という行為すら、その前に判断しなければ成り立たない。もちろん、最大の原因はその量とスピードだろう。

幸い、どの著者も絶望しているわけではないようだ。確かに、インターネットの美点はたくさんあるし、その使い方や制限の方法にもさまざまな可能性がある。ここでとりあえず書いておきたいのは、「インターネットの自由」がすでに結構、悪夢めいたものになっていること。私自身、かなりインターネット・ジャンキーなので、この観察はわりと正しいんじゃないかと思う。そしてこれからは、「私にとってより重要で好きな情報を、効率よく集める」のとはまったく逆のアプローチが大切だろう……。

韓国を旅する司馬遼太郎

昔から司馬遼太郎という人にはやや苦手意識がある。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』なんかの文体や価値観にどうも馴染めなかった。やたらに人気があるので、それに対する警戒もあったかもしれない。
だから、韓国の紀行モノを探していて手にとった『街道をゆく』が意外に面白く、済州島編、対馬・壱岐編まで読んでしまったというのは、自分でもちょっと意外な展開だ。
文体など鼻につくところはもちろんあるが、それなりにバランスはとれているし、興味深いエピソードがバランスよく紹介されている。金達寿や姜在彦といった在日の文化人らが魅力的に描かれているのもいい。朝鮮文化の基層みたいなものと儒教社会のあり方を整理する視点も、私にとってはひじょうにわかりやすかった。
とはいえ、日韓の歴史というやつはどんな風に書いたって誰かから非難されるという厄介なものであることは確かだ。私が「バランスよく」などと言ったところで、冗談にしか聞こえないかも。あるいは、これらを読んで司馬遼太郎の「隠れた朝鮮蔑視」が見えるなどと言われれば、まあその通りなのかもしれないし、そういう次元でいえば私にも当然あるだろう。私としてはそんなことよりも、日韓を船で往復する愉快な旅を夢想しているところ。結構、たくさん航路があるんだなあ。対馬にも行ってみたいし、でもやっぱ関釜フェリーとフグとエイの旅か。


地図はフェリーで海外旅行へ行こう!より

ところで、この「街道をゆく 壱岐・対馬の旅」のなかで壱岐に伝わる愉快な豆腐譚が出てくる。豆腐が病気になり、それを知ったダイコンとゴボウとニンジンが見舞いにいくというような話だ。途中は省略するが、最後に豆腐が「しかし私アもう、もとのまめ(健康)にはなれまっせんでつせう」と泣き出す。ここから、日韓の豆腐事情について調べるあたりも、ちょっと楽しい。
韓国のドラマなどには、刑務所に豆腐をもって迎えにいくというシーンがある。これはどうも「豆腐のように真っ白になって出直せ」という意味のほか、「二度と監獄に戻らないように
(豆腐が豆には戻れないように)」という意味もあるらしい。だとすると、まめ=健康は日本起源ぽいが、豆には戻れないというのは韓国起源かもしれない……。

街道をゆく 2 韓のくに紀行

街道をゆく 13 壱岐・対馬の道 (朝日文庫)