ヨーロッパの一地方としてのブラジル

たぶん半年くらい読書記録をブログに書いてなかったので、少しだけまとめておこうと思う。
まずは、このブログの読者にも少しは関連のありそうな、ブラジル関係の本。
もともと翻訳がひじょうに少なかったブラジル文学だが、少しずつでも増えていてうれしい。まずは、なんと文庫にはいったマシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』 (光文社古典新訳文庫)。マシャードは『ドン・カズムーロ』(彩流社)もあり、『ブラス・クーバス……』のほうも同訳者によるものが重なって出ていて、やや不幸なことではある。二冊を読んでみると、どちもそれなりに面白いのだが、どこかのヨーロッパ文学だと言われてもほとんど気づかないような内容である。そのへんが、ブームにもなった最近のラテン・アメリカ文学とは違う。描かれているのは、あくまでもヨーロッパの一地方としてのブラジルなのだという感じが否めない。

こういう感覚は、実はより土俗的な文学を紹介したジョゼフ・M. ルイテン『ブラジル民衆本の世界―コルデルにみる詩と歌の伝承』(お茶の水書房)のような本を読んでも感じることだ。ヨーロッパで古くから盛んだった韻文による語りという文化が、ブラジルの北東部だからこそ残っているという視点は、当たり前ではあるのだが、日本人にはそれほど馴染みがない。たぶん、ブラジルを地球の反対側にある国として意識しすぎなのだろう。

そんなわけでもう一冊、本当はこの本だけ紹介すればいいのかもしれないが、リオデジャネイロで活躍した現代詩人4人を紹介した福嶋伸洋『魔法使いの国の掟―リオデジャネイロの詩と時』(慶應義塾大学出版会)。マヌエル・バンデイラ、カルロス・ドゥルモン・ヂ・アンドラーヂ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、セシーリア・メイレーリス。訳もいいので、たぶんボサノヴァの詩に興味のある人は、すごく楽しめるだろう。ただ、やはりここでも感じるのは、たぶん上の3冊と同じことかもしれない。
実をいうとこの著者、どうやら私と同じ学科を出ている、いわば後輩なのであった(! ただし面識はまったくない)。しっかりと研究の道を歩んでおられる著者にくらべ、もちろん私は自分が情けなく感じられるわけであるが、それはともかく、この学科はそもそもヨーロッパ文学という枠組みのなかでなら、ラテンアメリカ文学をやってもいいよ、という場所だった。私も、その間隙をついて、テキトーな学生生活を送ったという次第。だから、ある意味で、たぶんこの著者にとっても私にとっても、ブラジルがヨーロッパの辺境であるということは、ひとつの共通理解、常識ではある。

それでも、なんとなくこの枠組みを抜け出したいという感覚がどこかにある。たとえば、川田順造『「悲しき熱帯」の記憶―レヴィ=ストロースから50年』(中公文庫)は、ちょっとしたヒントになりそうな本だと思った。海を渡ってきたポルトガル人とぶつかった文化という意味で、たとえばポルトガル人の衣裳を真似たアフリカの首長と織田信長が重なる。ブラジルと日本は遠いようでいて、そうでもないのだ。

もちろん、ヨーロッパと非ヨーロッパをめぐる問いは、簡単ではない。おそらく日本では夏目漱石がいたような場所に、マシャード・ジ・アシスはいたのだろうと思う。マシャードのほうが、ずっとヨーロッパよりではあったにしても。こんな風にぐるぐると回転していると、地球をまわっているような妙な感覚があり、私はたぶんそれが好きなのだろうか。
ブラジル文学、もっとたくさん翻訳を出してください。


敗北主義

なんとか主義というのはたいてい冗談でしか使わないが、「敗北主義」という言葉はわりと本気で気に入っている。

ちょっと前に「無人島の領有権に興味はない」などと書いたが、さすがにだんだん話がエスカレートしてくると、そうも言ってられなくなってきた。中国本土には友人もいるし、何らかの危険に直面していると思うと、心が痛む。
もっとも、私のような「敗北主義者」が、いくら「あんな島など、思い切って明け渡してしまえ」とか言っても仕方ないので、ここではもう少しちがうことをメモしておきたい。

私のような少数派をのぞき、世論というものは大抵「強硬姿勢」を喜ぶものである。したがって外交には、お互い現状を維持しながら、相手を殴っているフリみたいなものが求められる。結構、危険な技と言わざるをえないが、しばらく日中も日韓もそうしてきた。強硬姿勢のフリをやめて、本気で現状を打開しようとするのは、いわばルール違反ということだ。

それはともかく、孫崎享『戦後史の正体』(創元社)という本によれば、北方領土もふくめ、日本が抱える3つの厄介な領土問題はすべてアメリカ合衆国が戦後の外交政策として意図的に埋め込んだ仕掛けのようなものだということらしい。それはそれで、なるほどと思える見方である。もちろん、孫崎氏は敗北主義などでなく、これはひじょうに立派な本である。話題の書らしい。ミュージシャン関係の知り合いでも複数の人が同時多発的に読んでいると言っていた。けっこう珍しい現象だ。


オースターとクラストル

ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』という「嘘みたいな、ほんとうの話」を集めた本のなかに、若い頃に訳したというピエール・クラストルの本について、刊行されないままゲラが行方不明になりその後古本屋で見つかるという話が出ている。数年前、私はそれを読んでピエール・クラストルに興味をもち、『大いなる語り―グアラニ族インディオの神話と聖歌』という魅力的な本を読んだ。どういうわけか、私はこれがオースターの訳した本だと思い込んでいたようだ。
さて、ごく最近クラストルの『グアヤキ年代記--遊動狩人アチェの世界』(インディアス群書)という本を読んだところ、あれ、オースターが訳したのはこっちじゃないのか? と焦り『トゥルー・ストーリーズ』を読み返すと、案の定その通りだった……。何をどう勘違いしていたのか、恥ずかしいかぎり。読んでみるとグアラニとグアヤキではずいぶん違うし、若き日のオースターが『大いなる語り』を訳したというのと、『グアヤキ年代記』を訳したのとでは、これまたずいぶん印象がちがう。なんにせよ、これでようやく私のなかでも「ほんとうの話」がつながったわけで、やれやれである。

そんなわけで、『グアヤキ年代記』の語りのおもしろさ、そしてグアヤキの豊穣な世界の魅力を的確に紹介することは、とてもできそうにない。
ここでは、誰もあまり注目しそうにない、豆にまつわる素晴らしい細部を引用するだけにしておこう。

プロアアンは一種の大きなインゲン豆である。ヨーロッパのそら豆に似ていて、森のツタ植物の鞘になっている。プロアアン・マタという遊びのなかで、男と女はこれらのインゲン豆の一つを自分の腋の下か、握った手のなかに入れる。持っている者にそれを手放すように仕向ける遊びである。彼らは持っている者をくすぐり、くすぐられたものは遅かれ早かれそれを手放さざるを得ない。……(中略)……子どもたちはこの遊びに参加しない。あまりに熱狂が大きく、その激しさが危険なものになる可能性があるからだ。……(中略)……部族が集まっている間中、彼らはインゲン豆の取り合いをして遊ぶ。それぞれが代わるがわるにその持ち主になり、それから奪われる者になる。青年や娘にとって、彼ないし彼女が望んでいる異性にインゲン豆を盗ませるのは簡単である。特定の彼ないし彼女のくすぐりに降伏することは、いわば愛の宣言のようなものである。私はあなたにインゲン豆をあげる、あなたから別のものをもらうために。私はあなたからプロアアンを奪うために努力する。それはあなたが欲しいからだ。……


アウグスト・モンテロッソ礼賛

ラテン・アメリカ文学マニアというほどではないものの、本屋でもこの分野の棚は大体チェックしているつもりでいた。それなのに、こんな素晴らしい作家がいたことを知らなかったなんて、とても恥ずかしい。おまけに、もう亡くなっているではないか(2003年)。遅れたぶんを取り返すというわけでもないが、なんとかその素晴らしさをここにきちんと書いておきたい(たぶん無理だろう)。

もっとも言い訳ではないが、ホンジュラス生まれのグアテマラ人(メキシコで活動)という経歴も地味なら(失礼)、日本の出版社や装丁も地味(失礼)、ついでに作風も決して派手とはいえない。ご本人もそれは分かっておられるようで、グアテマラの片田舎でシューベルトの「未完成交響曲」の残りを発見したのに世界から完全に無視されるという愉快な話も書いておられる(「完成交響曲」)。たとえば、先のオリンピックのサッカーで目立ったのは明らかにメキシコとホンジュラスの活躍だと思うが、大抵の人はもうそれを忘れているだろう。この人がフランス人だったらとかいう仮定は成り立たないとは思うものの、ちょっと悔しい感じはある。

アウグスト・モンテロッソについてもっとも知られているのは、この人が世界でもっとも短いひとつの文章だけでできた短編作品を書いたということにあるようだ(「恐竜」。気になるようなら、検索するだけでこの短編は数秒で読める)。しかし現在2冊でている邦訳のうち、どちらを先に読むべきかといえば、この名高い世界最短小説を収録した『全集 その他の物語』よりも、『黒い羊 他』を勧めたい。

『黒い羊 他』にはさまざまな動物たち、神話上の有名人、などなどが登場する。作家になりたいサル、相対性理論に気づいたキリン、趣味に没頭するペネロペ、矢に追われながらゴールしたカメ、詩を書くブタさん、ロバと横笛の恋(?)などなど、愉快な話だらけ。イソップ童話のような雰囲気をもちつつ、笑いと謎にあふれ、カフカのアフォリズムのような切れ味もあるような、ないような。冒頭に掲げられた謎のエピグラフ(?)「動物たちは、あまりにも人間に似ていて、ときとして区別がつかないほどである」だけで、なんとなく笑ってしまう(これにはオチがあるのだが、ここではもったいないので触れないでおく)。ついでに、翻訳もすごくいい。

訳者のあとがきによればラテン・アメリカでも「作家のための作家」として、通好みな作家らしい。たしかに、書くことや表現することそのものをテーマにした面白い作品がいくつかあって(私のお気に入りは朗読したくてうずうずしている大統領夫人の話)、こういうのは意外に一般ウケしないのかもとも思う。しかしそれだけではないし、全体にとても読みやすく、笑いにあふれ、難解さとはほど遠い。短くて味わい深く、何度も読み返せる。人に読んであげたくなる。だんだんTVショッピングの宣伝みたいになってきたから、この辺でやめよう。まあ、モンテロッソの短編集をコマーシャルでラクダとかキツネが宣伝していたら、それはそれでモンテロッソの作品ぽくはある……。


もっとも影響を受けた本?

子どものころうちにあったシリーズ、「母と子のむかし話シリーズ」(研秀出版)。セールスマンが訪問販売などで売っていたらしい。20冊あるなかで、私がたぶん一番影響をうけたのがこの最終巻「中南米の神話物語」である。あらためて再読してみると、自分が何にひかれたのかよく分からないのだが、何か不穏な感じ、明らかに他とは違うひりひりとした(?)世界感であろうか。文章よりも、絵だったのかもしれない。やたら人が死ぬのにもびっくりする(笑)。

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私の人生はつねにこの本の弱い影響下にあったように感じられ、何だか今見ると不思議だ。後にこの本の元ネタのひとつがマヤの神話『ポポル・ヴフ』であることを知った。三島由紀夫が推奨していて、挿絵をかのディエゴ・リベラが描いていて、これも大変美しい本(特に1972年に再版されたものがカラーの挿絵ですばらしい)。私はそれも知らずに学生時代メキシコへ出かけチチェン・イツァーなどマヤの遺跡をいくつも巡ったが、不気味さとともになんとなく懐かしさを感じていた。
ところで他にも、「中近東の神話」「日本の神話」などが好きだったこのシリーズ。私を含めた3兄弟は読むだけでなく粘土遊びなどかなり手荒な遊びにも酷使し(高さの調整に便利だった覚えがある)、最後は捨てられてしまったようだ。懐かしいので、古本屋などで見つけたらまた買おうかとぼんやり思っている。