オースターとクラストル

ポール・オースターの『トゥルー・ストーリーズ』という「嘘みたいな、ほんとうの話」を集めた本のなかに、若い頃に訳したというピエール・クラストルの本について、刊行されないままゲラが行方不明になりその後古本屋で見つかるという話が出ている。数年前、私はそれを読んでピエール・クラストルに興味をもち、『大いなる語り―グアラニ族インディオの神話と聖歌』という魅力的な本を読んだ。どういうわけか、私はこれがオースターの訳した本だと思い込んでいたようだ。
さて、ごく最近クラストルの『グアヤキ年代記--遊動狩人アチェの世界』(インディアス群書)という本を読んだところ、あれ、オースターが訳したのはこっちじゃないのか? と焦り『トゥルー・ストーリーズ』を読み返すと、案の定その通りだった……。何をどう勘違いしていたのか、恥ずかしいかぎり。読んでみるとグアラニとグアヤキではずいぶん違うし、若き日のオースターが『大いなる語り』を訳したというのと、『グアヤキ年代記』を訳したのとでは、これまたずいぶん印象がちがう。なんにせよ、これでようやく私のなかでも「ほんとうの話」がつながったわけで、やれやれである。

そんなわけで、『グアヤキ年代記』の語りのおもしろさ、そしてグアヤキの豊穣な世界の魅力を的確に紹介することは、とてもできそうにない。
ここでは、誰もあまり注目しそうにない、豆にまつわる素晴らしい細部を引用するだけにしておこう。

プロアアンは一種の大きなインゲン豆である。ヨーロッパのそら豆に似ていて、森のツタ植物の鞘になっている。プロアアン・マタという遊びのなかで、男と女はこれらのインゲン豆の一つを自分の腋の下か、握った手のなかに入れる。持っている者にそれを手放すように仕向ける遊びである。彼らは持っている者をくすぐり、くすぐられたものは遅かれ早かれそれを手放さざるを得ない。……(中略)……子どもたちはこの遊びに参加しない。あまりに熱狂が大きく、その激しさが危険なものになる可能性があるからだ。……(中略)……部族が集まっている間中、彼らはインゲン豆の取り合いをして遊ぶ。それぞれが代わるがわるにその持ち主になり、それから奪われる者になる。青年や娘にとって、彼ないし彼女が望んでいる異性にインゲン豆を盗ませるのは簡単である。特定の彼ないし彼女のくすぐりに降伏することは、いわば愛の宣言のようなものである。私はあなたにインゲン豆をあげる、あなたから別のものをもらうために。私はあなたからプロアアンを奪うために努力する。それはあなたが欲しいからだ。……

韓国を旅する司馬遼太郎

昔から司馬遼太郎という人にはやや苦手意識がある。
『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』なんかの文体や価値観にどうも馴染めなかった。やたらに人気があるので、それに対する警戒もあったかもしれない。
だから、韓国の紀行モノを探していて手にとった『街道をゆく』が意外に面白く、済州島編、対馬・壱岐編まで読んでしまったというのは、自分でもちょっと意外な展開だ。
文体など鼻につくところはもちろんあるが、それなりにバランスはとれているし、興味深いエピソードがバランスよく紹介されている。金達寿や姜在彦といった在日の文化人らが魅力的に描かれているのもいい。朝鮮文化の基層みたいなものと儒教社会のあり方を整理する視点も、私にとってはひじょうにわかりやすかった。
とはいえ、日韓の歴史というやつはどんな風に書いたって誰かから非難されるという厄介なものであることは確かだ。私が「バランスよく」などと言ったところで、冗談にしか聞こえないかも。あるいは、これらを読んで司馬遼太郎の「隠れた朝鮮蔑視」が見えるなどと言われれば、まあその通りなのかもしれないし、そういう次元でいえば私にも当然あるだろう。私としてはそんなことよりも、日韓を船で往復する愉快な旅を夢想しているところ。結構、たくさん航路があるんだなあ。対馬にも行ってみたいし、でもやっぱ関釜フェリーとフグとエイの旅か。


地図はフェリーで海外旅行へ行こう!より

ところで、この「街道をゆく 壱岐・対馬の旅」のなかで壱岐に伝わる愉快な豆腐譚が出てくる。豆腐が病気になり、それを知ったダイコンとゴボウとニンジンが見舞いにいくというような話だ。途中は省略するが、最後に豆腐が「しかし私アもう、もとのまめ(健康)にはなれまっせんでつせう」と泣き出す。ここから、日韓の豆腐事情について調べるあたりも、ちょっと楽しい。
韓国のドラマなどには、刑務所に豆腐をもって迎えにいくというシーンがある。これはどうも「豆腐のように真っ白になって出直せ」という意味のほか、「二度と監獄に戻らないように
(豆腐が豆には戻れないように)」という意味もあるらしい。だとすると、まめ=健康は日本起源ぽいが、豆には戻れないというのは韓国起源かもしれない……。

街道をゆく 2 韓のくに紀行

街道をゆく 13 壱岐・対馬の道 (朝日文庫)

クスクスの謎

「ブラジル・パンデイロ」という名曲があり、仲良く3つの料理名が並んでいる。クスクス、アカラジェ、アバラー。歌詞の内容からいって、どれもバイーア名物らしい。
アカラジェはブラジルで食べたことがあるので、なんとなく分かる。アバラーはその蒸し物バージョンだろうか。
しかし、ここにクスクスが出てくるのは、ちょっと不思議な感じがする。
ひとつは、へえブラジルにもクスクスがあったのかという素朴な驚きだが、もうひとつは、他の2つの料理(スナック? 軽食?)とだいぶ毛色が違うイメージのため。

ブラジル・パンデイロ♪
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/pandeiro.mp3

まるでバイーア娘がつくったソースをかけた
このクスクスに誰もがとろける
だからバイーア男は踊るよよーややー

例によって私の訳はテキトーであった。クスクスは大好物だし、それ以外は日本語にしても馴染みがないので割愛し、クスクスだけ残したわけだ。
しかし、本当にソースというか、スープをかけたようなクスクスなのか、やや怪しかったわけである。

そこへ、素晴らしい本が出版された。にむらじゅんこ『クスクスの謎』(平凡社新書)
期待に違わず、クスクス好き必読の素晴らしい内容である。
そもそも、クスクスって何なのか、どうやって作るのかというところから、歴史やヴァリエーション、その思想(!)まで、大変興味深い。
この本によると、クスクスをブラジルへ運んだのはレコンキスタ後のイベリア半島を追われたユダヤ人(セファルディム)であるという。
北アフリカのものがブラジルにあるのは決して不思議ではないとぼんやり考えていたが、どうも微妙に事情が違うようだ。
クスクスはたぶん強烈に「異教徒っぽい」食べ物だったのだろう。異端審問の厳しかったスペインではクスクスがほぼ消えたのに対し、比較的寛容だったブラジルには残ったという感じ。

さて、この本にはブラジルのクスクスとして3種類が採り上げられている。
・クスクス・パウリスタ(サンパウロ)
・ブラジル北部のクスクス
・ココナツミルクの海鮮クスクス
このうち、2つめ(「北東部」とすべきだろう)のが「マフィンのようなケーキ風」とあり、たぶん歌詞にあったのはこれではないかと推測される。
でも、3つ目のようなわりとイメージ通りのクスクスも存在するようだから、訳を変えることもないかもしれない(無責任)。

書いているうちに、クスクスがまた食べたくなってきた。
もちろん私の思い浮かべているクスクスはバイーア女とは関係のない、モロッコやチュニジアなどマグレブ風のものである。もちろん、豆との相性もひじょうによい。

月食の夜には

その昔私は天文少年だったので、中学生のころ『天文ガイド』に皆既月食の観測スケッチを送り、名前も載せてもらったことがある(笑)。
意外というか、世の中けっこう月食フィーバーだった。これは、やたらに流星群が話題になるのと同じで、わりと最近の現象なんじゃないかと思う。
天文現象とインターネットは相性がいいのかもしれない。
私もそれに便乗してというわけではないが、皆既月食の晩にEclipseという曲を歌わせてもらった。

月食の夜には 君を思い出す
月よもう一度 夢みせて

場所は渋谷のリエゾン・カフェ。音もよく、空も広く、いいところだった。rikoさんとの共演は2回目。

heliさんが豆事情を歌ってくれた。当日、お店のメニューも豆づくし。

heliさんのアルバム完成記念ということで、お祝いムード。

めでたい。

photo:mimiari

京都で何をおもう

ひさしぶりに京都へ行ってきた。
京都には住んだこともないのだが、小さな縁がいくつもあって、もう十何回か訪ねていると思う。
東京に住んでいる人にはよく京都に対する妙な憧れがあり、私もそれを共有している気がする。鴨川沿いに出るたび、説明のできない感動がある。
今回は楽しみにしていたアブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)の上賀茂神社でのライブにあわせ、京都ではなく岐阜あたりをぶらぶらしてこようか、などと思っていた。
しかし、先週はちょっとしたハプニングがあり、それは不可能になった。そして、すでに書いたように週末は自分もイベントの予定があった。
そんなわけで、滞在時間24時間にも満たない弾丸ツアーとなってしまった。
新幹線は高い。せっかく行くならもっとのんびりした旅を楽しみたいものである。

以下は旅のメモ。
出町柳 ファラフェル・ガーデン http://www.falafelgarden.com/ (日本ファラフェル界の聖地)
下鴨神社 たぶん昔兄がこの辺に暮らしていた。
茶寮 宝泉 http://www.housendo.com/shopinfo.html わらび餅がうまい。しかし、こういうところに行くと京都って大変だなと感じる。
深泥池  有名な心霊スポットらしい。
上賀茂神社
スペインバル http://www.jampack-kyoto.com/ (京都在住の知り合いが教えてくださった。マンチェゴ・チーズがとてもおいしい。)
というわけで、飲んだり食べたりばかり……。

さて、最後になってしまったが、アブドゥーラ・イブラヒムのライブ。
私は最近になってこの人の名作「アフリカン・ピアノ」を初めて聴いたくらいなので、あまり多くを知らない。
昔のとんがった音源にくらべると、かなり雰囲気はまるくなっており、スピリチャルな感じさえある。
外からは虫の鳴き声が聞こえるなかで、ピアノの音はどう聞こえるかなと思ったが、まあピアノはピアノだなと思った。
音楽にはいろいろな種類があって、私はどちからというと「真善美」でいうところの真や美を追いかけて聞いてきたかもしれない。でも、彼の音楽は圧倒的に善な感じがして、少し恥ずかしい気持ちになった(笑)。
前に座っていた女性の頬には涙が光っていた。
そのとき私は、スペイン・バルでワインを飲むかビールを飲むか、などとぼんやり考えていた。

豆いろいろ

このブログは音楽のことだけ書こうかとも思ったのだが、
そういう線引きは長続きしないという気もするので、どんどん雑多な内容にしていこう。
というわけで、読書記録なんぞも書くことにした。

 

「裁きの豆」(カラバル豆)についての記述があった。
なんでも、無罪の人がこれを食べて死なないのは、一気にがっと飲み込んだから吐いてしまう、というのが原因らしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。
非常に面白かった。

もう一冊。

これにも豆についての記述が。
菜食が推進されたナチス時代には、大豆が「ナチス豆」と呼ばれてもてはやされたらしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。 非常に面白かった。

ついでに「ナチスが反タバコ運動に熱心だった」という話を読んで、
なんとなくタバコを吸う言い訳になるかも、と思っていたところもあるのだが、
逆にひさしぶりに禁煙をはじめるキッカケになってしまった。
心の動きというのは、不思議なものだ。