宮崎賢太郎『カクレキリシタン』 他

宗教のまわりをうろうろする読書

日本の総宗教人口は二億人を超えるらしい(宗教団体による申告の合計)のに、まわりに宗教に熱心な人を探すのは難しい。
このあたりの事情や原因は、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)なんて本が上手にまとめているが、簡単に言えば、「宗教」という言葉の 使い方には大きなブレがあって、それがそのまま数字に出たのが先の統計と実感の食い違いといえるだろう。ほとんどすべての人が初詣に出かけて景気回復を祈 り、クリスマスを祝う賛美歌を美しいものと感じる一方で、日本では「宗教」にどこかタブーともいえる側面があるのだ。
けれども「宗教的なもの」の範囲は実に広い。どんなに合理的で進歩的な考え方と生き方を求めたとしても、これから逃れることはできないだろう。
宗教を考える上で大事なのは、いかなる意味においても線を引くことではない。宗教というものの境界の曖昧さ、差異ではなく類似性、そして動きつつある宗教を観察することなしに、何かを決めつけたところで、得るものはほとんど何もないだろう。
だとすれば、もしかすると僕たちは宗教というものを考えるうえで格好の場所にいるのかもしれない。宗教に対する無知は自慢できない汚点だとしても、日本 には、宗教と宗教でないものの接点で溢れている。無数の神々の「るつぼ」と化したこの国には、「正しい宗教」など決して存在しないのと同時に、政教分離が うまくできないほど、実は宗教にべったりだ。
あらゆる矛盾のなかで宗教というものを問うことは、終わりのない作業になる。でもそれはたぶん人間の文化が作ってきた最良の成果(そしてたぶん最悪の成 果も)へとつながっているのだ。「宗教」が問題になっているから宗教を問うのではない。人間は宗教的な生き物だから、宗教が最大の問題となり、宗教を問わ ねばならないのだ。

『カクレキリシタン』は地道なフィールドワークの報告を主体にしたとても地味な本である。何かとロマンティシズムをかき立てがちなその存在を、彼らがもは や「隠れ」てもいないし、(狭い意味での)キリスト教徒でもない、というクールな視点で捉え直している。そこに浮かび上がってくるのは意外にも、ある意味 でごく典型的な日本的な宗教感覚である。
民俗宗教としてのカクレキリシタンの豊かな世界がこれほど僕たちの「腑に落ちる」のは、キリスト教という知識(あくまでも知識でしかない)が介在してい るからかもしれない。キリスト教を間に置くことで、日本的なものがよく見える。著者も指摘する通り、我々は日本人が「日本仏教」を信じ続け、原始仏教に回 帰しないことには何の疑問も抱かないが、解散したカクレキリシタンがカトリックに「戻らず」、仏教や神道に入ることにはどこか違和感を感じる。その違和感 のなかにこそ、日本的な宗教感覚を相対化する近道があるように思えた。
多神教的な感覚、先祖崇拝、呪い的な儀式、なんて言葉にするとつまらないが、個々具体的な記述はとても興味深い。
そして何より、カクレキリシタンが急速に減少し、その組織が次々と解散していく事実は、宗教とはまずもってコミュニティーの問題なのだということを改め て教えてくれる。どんなコミュニティーを作るのか、それこそが宗教の根本的な問題であったのだろうと、気づかされる。
個人の信条、信仰、信念が重要なのはもちろんだが、少なくともそれだけが人類の宗教を作り出してきた原動力なのではない。先に触れたカクレキリシタンが仏教や神道に入る、ということの説明もこの点にある。彼らの選択はコミュニティーの選択なのである。
こう書くとやや極端だが、もちろんこれは僕がこの本を読んで特に強く感じた点だ。もしかしたら、読む人によってはやはり、数百年を超えて受け継がれた信 仰の強さに感心するのかもしれない。それはそれでもちろん正しいのだ。けれども、この本は一人一人の信仰の強さ、内面といったものには敬意を表してあまり 近づかないようにしているようだ。そういったものが好きな人は、たぶん遠藤周作の小説を読んだほうがいいだろう。

さて、江戸時代から明治時代に入って日本のコミュニティーは大きな変化を経験した。コミュニティーのニーズ(全体的にそれは薄まっていった)が変わっただけでなく、コミュニティーの変化に伴う個人の精神的なニーズも大きく変わった。
その変化のスピードについてこれなかった既成宗教の代わりに勢力を伸ばしたのが、いわゆる新宗教である。先に述べた日本人が宗教に感じる「タブー」の側面が強く投影されている部分がここにあると思われる。
建築史という分野で、そうした「タブー」のために(?)、これまで顧みられなかったこれら新宗教による建築に光を当てたのが『新宗教と巨大建築』である。新宗教への入門書としても、とてもよくできた本だと思う。
「宗教建築を素材にすれば、具体的なモノと言葉の関係が検証できる」と著者が「あとがき」で振り返っているように、モノを通して見ることで各宗教の教義や 歴史が具体化し、逆にモノとしての建築に与えられる言葉も、空疎でない実体をもったものになっている。どこかこけおどし的でスカスカになりがちな建築とい う分野の本のなかでは、珍しく内容があるといったら失礼だろうか。
とはいえ、宗教と巨大建築というテーマを、巨大なビルに宗教戦争が突入した(?)、ニューヨークのテロ事件に結びつけたり、安易な終末観に警鐘を鳴らし たり、文明の衝突を臭わせたり、各論を離れた総論になるとにわかにショボい記述が目立つ。地味なフィールドワークとマニアックな考察というレベルでとど まっているべきであったと感じる。また、建築史として取り上げるには歴史が浅くトピックが少ないからかもしれないが、創価学会に割かれたページが少ないの もちょっと残念だ。それでも、天理教や大本教における空間のとらえかたを述べた部分などは抜群に面白いので、興味のある人はぜひ読んでほしい。

最後に、普通は宗教とは呼ばないテーマを扱った本。『ワンダーゾーン』はまさに宗教すれすれ、現代日本人の宗教感覚において、タブーと切実なニーズの境目を描こうとしたノンフィクションだ。
テーマは「自己啓発セミナー」「前世療法」「チャネリング」「πウォーター」……。こう書くとなんとも興味深い話ばかりではないか(と書く僕は典型的な現代日本人だ)。
さて、内容も面白いといえば面白いのだが、本としてはやはりイマイチであったと言わなければならない。このテーマだったらもっと面白くなくてはならないのである。何が面白くないか、一言でいえば、著者のスタンスがはっきりしすぎているからであろう。
こうした「胡散臭い」ものを語るとき、もしかしたら本当かもしれない、という自己暗示は不可欠である。これがないと安易な批判になってしまうのである。 本人は抑えているつもりなのかもしれないが、それでも最初から批判的な視線がバレバレである。どうしたってしらけてしまうのだ。もちろん、安心して読書を 楽しみたいというお気楽な向きにはお勧めである。
それでも実は、著者がセミナーに参加した最初の章と、インターネットの復讐代行業が登場するごく短い最終章はかなり面白い。前者は、読者も驚く悪人ぶり を発揮する著者の様子が可笑しいし(かなり本気だったらしい)、体験を消化しきれてない感じを率直に書いているところがよい。そして後者はこの胡散臭い代 行業者に対するある種の共感と抗いがたい魅力を著者が感じているからこそ、何やらよく分からないが人間の真実に触れるような面白さが出ているのである。

ところで、三冊の本を読んだ順番は、紹介順の逆だ(後から読んだ本によって、前に読んだ本の理解が深まるのは読書の常。順番はあまり重要ではない)。
『ワンダーゾーン』の著者は「現代人の依存心」を最大の問題と見ているようだ。僕はこれに違和感を感じたのだけれど、それが何なのかは分からなかった。三 冊の本を読んで問い直すべきだと感じるのは、人間の心のなかにあらゆる原因を探っていくという考え方そのものである。「依存心」があるとすれば、その人の 心のなかに何か原因があるのだろう、と考えるのが普通かもしれない。たとえば、「アダルト・チルドレン」なんていう言葉はその考え方がどんなものかを示す 最たるものだろう。
だが心というのは、現代ふつうに考えられているよりも、ずっと「空っぽ」なのではないか。空っぽだからこそ、コミュニティーが必要だし、神様の形が欲しい。それはすごく当たり前のことではないか。
心の問題を問うときに、その中に踏み込んでいこうとするのは方向が間違っているのではないだろうか。そういう意味で、『ワンダーゾーン』という本の中途 半端さは際立っている。何か問題があるようだ、と思ってそこに首を突っ込むと、そこにあるのは空虚だけ。問題の核心はおろか、そこで何が起こっているのか という大雑把な把握さえできない。現場にいる個人への虚しい攻撃が行われるだけ。でもこの著者だって分かっているのだ。問題の一部のなかに自分も生きてい ることを。
そういう意味で、何をどれだけ意識していたかはともかくとして、形に向かった前の二冊は実に正しかったのだと思う。心の闇が問題になるのは、心に集中し すぎるからかもしれないのだ。心を大切にし、心の価値を称揚し、心と心のつながったコミュニケーションを夢見る。病んだ心を見ると、その心にまっすぐぶつ かっていこうとする。敢えて乱暴な言い方をすれば、心を重んじすぎるのは現代人の悪い癖だろう。
形のなかに魂が宿るなどという陳腐な言い方をするまでもなく、目に見えるはずのない心をとりあえず離れる視点は重要である。実際、『ワンダーゾーン』と いう本は、金の動きとか勧誘の方法だとか、もっとしつこく深く取材すれば、より面白い本になったのは間違いないのだ。

新年

2002年は谷中のペルシア料理屋「ザクロ」(写真)で迎えた。あちらは暦が違うので新年といっても全然めでたくないらしく、はしゃいでいるのはわれわれ日本人ばかりである。
ところでご存じのように、彼らの故郷イランはハタミ大統領のもと、現在大きな変化を経験しつつある。
日本などへ出稼ぎに来ていたイラン人は、帰国後その変化についていけず、大きなショックを受けるケースが増えているそうだ。異文化を生き抜いた彼らが、祖国の変化にはなかなか対応できない。ちょっと興味深い話だと思った。(2002.1.2)

追記:イラン料理屋で年明けを迎えた1月はイラン映画を見まくった。イラン映画といってもほとんどモフセン・マフマルバフとその家族の映画だが。ついでにイラン旅行に行きたい、とか絨毯がほしい、とか訳の分からない欲望が高まってきている。

給水塔


4つ目(?)のHPとして、給水塔のページを構想している。最初はただ漠然と、世の中でもっともマイナーで地味なページ、みたいなものを考えていたのだが、実は先行サイトがいくつかあることが判明した。こんなのとかこんなのとか。世の中にはちゃんとやるべきことをやっている人がいるものである。後発サイトはそれなりの覚悟が必要のようだ。
こちらとしては、情報量や写真の質で勝負することはできないし、できれば訪れた人が「なんじゃこりゃ?」と首をひねるようなものにしたい。しかし構想は遅々として固まらない。本当は寒くてあまり散歩していないから、という説もある。左の写真は寒くなる前に撮った野方配水塔(東京中野)である。(2001.12.25)

追記:給水塔の魅力が何なのか説明したいのだが、なかなかうまくいかない。ひとつには単純に形の美しさ。まわりの風景になかなかとけ込まない違和感。水が入っているという機能そのものの健気さ……。などなど、さまざまあるのだが、説得力はあまりない。

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
(2001年11月、武井みゆき・渡部良子訳、現代企画室、1300円)

嘘のなかにある希望

事件の大きさに比例して、言葉は増える。
今年九月一一日にニューヨークで起きた事件についても、もちろん多くのことが語られてきた。知識人と呼ばれる人から、新聞の投稿欄、果てはインターネッ トの掲示板まで。あらゆる種類の人々が意見を述べた。もちろん意見を言った人が悪いのではない。人々はさまざまな意見を求めていたし、不安だった。誰かの 「説明」を待っていたのだ。
この言論の洪水のような状況の特徴は、意外にシンプルである。言葉の量や話題のホットさとは裏腹に、新しいものは何もないということだ。この新しい状況について語る言葉はすべて「古い言葉」なのだ。
考えてみれば当たり前だ。崩れ落ちる二つの超高層ビルの映像を見て、何かを知ることなど誰にもできない。不可解なものを見たとき、人はなんとか自分の 知っている知識でそれを解釈しようとする。テレビの前で呆然としていた僕たち「一般人」も、世間で尊敬される知識人も、その点ではまったく同じなのだ。
驚きから我にかえって話しだす言葉は、馴染みの古い言葉だ。護憲論者は今こそ憲法が大切だと言い、改憲論者はやっぱり改憲だと言い、文明の衝突論者はこ れこそ文明の衝突であると言い、メディア論が得意な者はなぜかメディア論を語りだし、経済の先行きを懸念していた者の懸念はさらに増す。何も変わらない。 変わったのはボリュームの大きさだけだ。それまでも知っていたことを語り、それまで考えていたことを、誰もがこの機会を利用して語り直した、というわけ だ。
そんな訳だから、この一連の事件に関連して出された出版物のなかで、ぜひ読まれるべきであると僕が考えるこの本が、実は事件よりも前に書かれたものであるというのは、ある意味で象徴的だ。
素晴らしいタイミングでこの本が書かれていた、というのは簡単である。
だが大事なのは、どちらが「偶然に」起きた出来事であるかを、見誤らないことだ。書かれる「必然性」があったからこそ、この本には意味がある。テロ事件 という「機会」を利用した文章とは本質的に違う。みんなが待っていた「誰かの説明」はもうすでにあったのだ。そこに偶然、あの事件が起きた。今は、そう考 えたほうがむしろ正しい、とさえ僕は思うのだ。
というのも、今のところニューヨークのテロ事件そのものはかなり「訳の分からない事件」であるにもかかわらず、それに対してアメリカ合衆国をはじめとす る各国の対応は、非常に分かりやすいものであった。では一体、僕たちは何に目を向けるべきか(何を知るべきか)といえば、それは、やはりアフガニスタンな のではあるまいか、と思うのである。
僕たち「一般人」がほとんど何も知らない国。この本の著者である、隣国イランの映画監督でさえもが「イメージのない国」と呼ぶアフガニスタン。あのとんでもない事件が指さしたのは、なぜかこの「イメージのない国」アフガニスタンだったのである(*注)
この本のタイトルにある「仏像」はタリバーンが爆破して有名になったあの仏像だ。マフマルバフは、仏像が飢餓と貧困で瀕死の状態にある国(アフガニスタ ン)を「指さして」みずから崩れたのに、「誰もそれを見なかった。愚か者は、あなたが月を指せば月でなくその指を見るのだ」と書く。
皮肉にもついに二つの超高層ビルが崩れ落ちるに至って、とんでもない形で「仏像の指の先にあるもの」は明らかになったのかもしれない。
アフガニスタンという国が今どんな状況にあるのか。想像を絶する飢餓と貧困、恒常化した内戦状態。それだけを綴った文章であるなら、類書はあるだろう。 この本で特筆されるべきなのは、「イメージのない国」アフガニスタンに、映像作家ならではのアプローチでなんとかイメージを与えようとする努力そのもの だ。
(そういう意味でも、この本はマフマルバフが撮ったという『カンダハール』という映画とセットになったものだろう。僕はまだこの映画を見ていない)
「イメージ」というのは、言い換えれば「嘘」という意味でもある。たとえば仏像が破壊された、というのが「事実」だとすれば、それを「恥辱のあまり崩れ落ちた」などと言うことは、イメージでしかなく、「嘘」であるとも言える。
だが、そのイメージでさえ、「嘘」でさえ存在しない国の悲惨さは耐え難いものであると、マフマルバフは言いたいのではないか。ステレオタイプで語られる ことさえできない、忘れられた、見えない国。そしてその悲惨さを救えるのは、イメージそのものでしかないという認識。
もちろん、映画に何ができるのだ、といえばその通りである。マフマルバフはまさにその点について繰り返し絶望している。ある意味でこの本のテーマは絶望の表明なのだ。

「街道を眺める。これはこれ自身で、一つの映画だと思う。運転手は、この当たりのいくつかの家ではひそかに女子学校が作られ、何人かの少たちが家で勉強し ていると言う。私は思う。ここにもまた一つの映画の題材がある。私はヘラートに辿り着く。女性がブルカの下からマニキュアをしてもらっているのを見る。私 は思う。ここにもまた別の映画の題材がある。危険なアフガニスタンまで人の役に立ちたくてやってきた一九歳のイギリスの少女に会う。ここにもまた別の映画 の題材がある。(中略)いまにも死にそうな人びとが、通りを覆いつくしているのを見た。もはや言うことはできなかった。ここにもなた別の映画の題材があ る、と。映画を辞め、ほかの仕事を探したいと思った」

だが、「嘘」であるイメージを取り戻さないことには、何かに希望を持つことさえできない。マフマルバフが映画を撮りつづけ、文章を書く理由は、まさにこの一点にあると思われる。
彼の映画は二作しか見ていないが、フィクションとノンフィクションの境界を意識的に取り扱っている作家だという印象をもっている。言い換えれば、「事 実」とされるものと「イメージ」のあいだの曖昧性である。その間隙を名人芸によって描いて、最終的には「嘘」としての映画を、イメージそのものとして観客 にぶつける、その手腕は見事だ。
王政打倒を目指して地下活動中、警官の銃を奪おうとして失敗した若き日のエピソードを映画化した『パンと植木鉢』はまさにそんな映画だった。当事者同士の認識の食い違い。そして、過去の「再現」という作業に入り込む現在という時間。その複雑なパズルを解き明かすラストシーンの美しさは、とても言葉では言い表せないものだった。
唐突に現れたパンと植木鉢という「イメージ」。それはマフマルバフの「嘘」であるとともに、どうしてもそうでなければならない、世界への希望であった。若い男女が差し出すのは、銃やナイフではなく、パンと植木鉢でなければならないと。
苦渋に満ちたこの本は、まさにその希望がいかに小さなものかを、延々と書き連ねた本であると言えよう。ここではマフマルバフは純然たるノンフィクション を目指しているように見える。悲惨を表現するのに、数字を羅列することしかできない、という映画監督の嘆き。
だが『カンダハール』という映画が撮られたこと自体、それがどんなに小さなものであっても、希望が決してなくなってはいないことを示しているのではないか。世界に対して映像を、イメージを差し出すという行為そのものが示す何かを信じたい。
この小さな本とともにマフマルバフの映画がより多くの人の目に触れることを願ってやまない。

(注) ある友人から次のような批判をもらった。「テロ事件とアフガ ニスタンの問題は本当に関係があるのか。アメリカがアフガンを指差したときに世界はアメリカの指を見てただけなのではないか」。そう言われて読み返すと確 かに筆がすべっていると感じる。ここで語りたいのはあくまでもアフガニスタンの問題であり、テロ事件のことではない。テロの原因や解決をアフガニスタンの 国内問題に関連づけるのは間違いである可能性が高いと僕も思う。

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』

アヴィグドル・ダガン『宮廷の道化師たち』
(2001年9月、千野栄一・姫野悦子訳、集英社、1800円)

悪すぎた時間

読書にはタイミングというものがある。
たとえば恋愛小説を読むとき、読者自身がどんな恋愛状況にあるか。それによって評価が変わってしまうのでは困る、と思う人も多いかもしれない。
でも僕はそれを不可避と考えるし、仮に個人的な感情を離れた客観的評価なるものがあったとしても、そんなものには興味がない。現実世界で嫉妬に苦しんで いる読者が、ひとまずそれをおいて小説のなかに描かれた嫉妬を「平気で」読むなんて、ナンセンスだ。フィクションの独立性というのは、そういう意味ではな いと思う。現実と区別がつかないくらいのめりこんでこそ、フィクションの醍醐味が味わえるのではないか。
したがって読書のタイミングは重要である。次に読む本は何にするか。そこからすでに読書という行為は始まっている。どんな本を選択するか、も含めての読書なのである。
そんな訳で以下は、読書のタイミングを間違えた、という報告にすぎず、とりあげる本の客観的な評価からは、ほど遠いものであることをまず述べておきたい。

そもそもなぜこんな本を買ってしまったのか。
その理由は容易に想像できる。チェコ語のユダヤ系作家という点に興味をもった。装幀が気に入った。長すぎず、ちょうど読みごろのサイズと思った。などなど。
しばらく積んでおいたのを数日前にふと読みはじめたのだが、すぐに思った。
なぜ僕はこんな本を読んでいるんだろう?
強制収容所の最高司令官の道化師として生き延びた男たちの運命。イェルサレムに辿りついた彼らはやがて、「人間は神のためにつくられた道化師にすぎないのか」という問いに行き着く。
『宮廷の道化師たち』の粗筋はこんなところである。シンプルで無駄のない文章。計算されつくした語り。拍手。
確かに、途中で飽きるような要素のない、よくできた小説である。その証拠に、最後まであっという間に読んでしまった。しかし、面白いとか面白くないといかいう以前に、自分にとって今どうでもいいものを読んでいるな、という感覚は致命的だ。

今イスラエルで起きつつある出来事が頭の隅にあったのも事実だ。被迫害者としてのユダヤと、現在の「ユダヤ国家」のあいだにある断絶は何なのか。その問いにもかすかに触れるはずのこの小説だが、やはりどこか違う方向を見ている。
主人公の一人がアラブ人のテロによって負傷する場面は、ただ過去への入り口としてしか描かれない。
小説としては、それでいいのだ。そう思いながらも、どこか落ち着かないのは、やっぱり読むタイミングが悪かったとしか、言いようがない。
そして、この小説の重いテーマである、この世界が作られた「目的」。ユダヤ神学的な問いに、リアリティを感じられないのは僕だけじゃないだろう。唯一絶 対の神というコンセプトを共有しない人間にとって、神と強制収容所の最高司令官を重ねることは、よくできた冗談ではあっても、この身を震撼とさせる恐ろし い思いつきなどではない。
そしてこの本の主人公が辿り着いた解答をここでは明かさないけれども、問い自体ぴんとこないものの答えに、感動するわけがない。
チェコ語で書かれてはいるが、内容は明らかに現代イスラエル文学。僕にはそうとしか感じられなかったのだが、どうなんだろう。チャペック兄弟やカフカ(こちらはドイツ語だが)なんかと比べることに、どれだけ意味があるのか。
でも今はそれを考えるには、本当にタイミングが悪すぎる。

マヌエル・リバス『蝶の舌』

マヌエル・リバス『蝶の舌』
(2001年7月、野谷文昭・熊倉靖子訳、角川書店、1000円)

海の向こうが見える場所

同名映画が静かなヒットを記録しているらしいが、僕はその映画を観ていない。きっといい映画なんだろうと思う。
本のほうは、映画の元になった三つの短編を含めた短編集だ。スペイン西部、ガリシア地方出身の作家。映画の公開でもなければ翻訳出版さえ難しい、地味な本と言えるだろう。
スペインはさまざまな顔を持った国であるのに、どうも日本ではステレオタイプが強すぎるようだ。映画『蝶の舌』を観た人は、「これがスペイン?」と思ったのではないか。それほど、ガリシアという場所は、日本人がもつ一般的なスペイン像からかけ離れている。
十年近く前にガリシア地方に列車で入っていったときのことをよく覚えている。風景は劇的に変わった。スペイン中央部の渇いた茶色は、突如として緑に覆わ れ、空気は湿っぽくなった。実際に霧が出ていたかどうかは分からないが、僕の記憶のなかでは、ガリシアの緑は霧のなかに煙って見える。
スペインの辺境として今も豊かとは言えないこの地方には独自の言葉と文化があり、中央の政治にいつも翻弄されてきた歴史がある。でも、貧しい人々が見て いたのは「中央」だけじゃない。大西洋に面した地の利から、新大陸への移住というもうひとつの選択とのあいだに暮らしていた。僕にはこの地方の文化を深く 知るだけの時間がなかったけれど、すぐにこのスペインらしからぬスペインが好きになった。

そんなガリシアの地方性がにじみ出た最初の三作(映画の原作)は、この短編集では異色といえる部類に入る。スペイン内戦を描いた表題作と、新大陸への憧 れを描いた「霧の中のサックス」(ガルシア・マルケスが激賞しているらしい)。この二つをもって、ガリシアが経験した極端な二者択一がうかがわれるが、残 りの作品は、意外にも(?)現代的でポップな作品が多い。
そのポップのあり方に、すごく感心した。なんというか、すごくバランスがいいのだ。
短編の多くが世代間のギャップを扱っている。子供と大人、大人と老人、さまざまなすれ違い。あるいは、年を重ねるとともに感じる、一人の人間のなかの世代ギャップ。ある意味ではすごく普遍的で、ありふれた物語たち。
ガリシアのサッカーチーム、デポルティーボ・ラ・コルーニャを応援しながら喧嘩する親子の話、「ミスターとアイアン・メイデン」なんか、実に他愛もな い。アイアン・メイデンのTシャツを着た息子と、熟練漁師の父親。二人は喧嘩の後、無言のまま漁に出かけるのだが、突然舟が座礁する。以下は息子が父親を 助けようとする最後の場面。

「彼はアイアン・メイデンの妖怪のように身体に電流を受け、腕をぐるぐる回しながら、タッチラインめがけて走る。敵の選手を次々にかわし、ロスタイムに 三つ目のゴールを決めたところだった。そして今、彼はデポルティボのサポーターたちが振る青と白の旗の前で、長い髪をなびかせながら、タッチラインめがけ てスローモーションで走る。若者は白髪のコーチを抱きしめようと両腕を広げ、タッチラインを越えて走り続ける」

若者の物語だからポップなのではない。若者の風俗が描かれるからポップなのでもない。むしろ世代間のギャップをささやかな形で乗り越えてみせるからこ そ、時代の軽さが表現できるのであり、世代という重い鎖からふと自由になれるのだと感じた。明らかに、日本の多くの若手作家が怠っている試みだと思う。
ちなみに翻訳本では、「アイアン・メイデン」や「エアロスミス」に大真面目な注釈が入っていて、結構笑える。フェルメールやブルトンには注釈がない。と いうことは、想定読者対象がおのずと見えてくる。僕にはむしろフェルメールに注釈が必要な世代に読んでほしい気もしたのだけれど。
もっとも、こういう作家が存在すること自体、やっぱりガリシアの地方性と無関係ではないのかもしれない。大きなメジャーな文化ほど、世代のギャップは大きくて、乗り越えがたいものなのかもしれない。
仮にそうだとしても、この素敵な作家に見習うべき点は多い気がする。

ところで僕のスペインの旅行はカスティリャからガルシア、アンダルシアときて、カタルーニャの首都、バルセロナにたどり着いた。カタルーニャといえば、 ヨーロッパの中心にもっとも近い、これまた誇り高い地域。ここの名門サッカーチーム、バルセロナFCとデポルティーボ・ラ・コルーニャの試合へ行った。
スタジアムはバルセロナの応援一色、カタルーニャ語の応援歌がとどろいていた。ラ・コルーニャの劣性は明らか。あっという間にスコアは3対〇だ。僕は覚えたてのスペイン語を口に出してみた。「かわいそうなラ・コルーニャ」。
遠く日本を離れてスペインを旅行していた僕の心境は、どうしたってガリシア人に感情移入せざるをえない感じだったわけだ。それを耳にした隣のカタルー ニャ人は私がラ・コルーニャを応援しているらしいのを、笑った。「かわいそう」は何も知らない東洋人だとでも思ったのだろう。
ラ・コルーニャの貧しい港町を思い出す。その先には見えない新大陸があって、僕は、コロンブス以来多くの人がそこで感じてきた憧れをちょっとだけ共有した。ヨーロッパの名門チームが何だ。頑張れ、デポルティーボ・ラ・コルーニャ!

川口啓明・菊地昌子『遺伝子組換え食品』他

「論争的な新書」を読む

何年か前から新しい新書シリーズの創刊が相次ぎ、「ブーム」なんて言われた。要するに単行本が売れなくなり、場所をとらず単価の安い新書くらいしか売れなくなったというだけのことで、実際にみんなが新書に注目しているかどうかは、怪しい。
確かに新書の棚はヴァラエティー豊かに楽しくなった。その代わり、新刊が出されてすぐに買わないと、あっというまにどこかへ消えてしまう、回転も早くなった。
新書に求められるものがよりタイムリーな話題になったのも、同じ変化の一側面だろう。かつて新書といえばサラリーマンの教養本であり、ある種のステータ スがあった。今はある話題で一冊新書を読んでも、安心はできない。数が多くなって全体の品質が落ちたというだけではない、新書はより雑誌的、論争的なメ ディアに変わろうとしているのだと思う。
相変わらず、どこの新書も地味で「信頼のおけそうな」装幀ではあるが、中身は確実に変わりつつある。時代の空気の変化もあるだろう。古典は岩波文庫、現代的な話題は岩波新書さえ読んでいればまあ大丈夫なんて言っていられたのは遠い昔の話だ。
そんな訳で、最近の新書を何冊かまとめて紹介しようと思う。おもに僕が「一言言いたい」本だ。納得できない本に高いお金を払うのは嫌なものだが、新書く らいの値段なら、たまにはいいのではないかと思う。そんな訳で長々と書いたが、僕の「新書論」は「気に入らない新書を、批判的に読むべし」である。なんと いっても経験上「これは素晴らしい」と思える新書というのは、本当に数少ないのである。

さて一冊目は『遺伝子組換え食品』。最近ちょっと気になった話題なので買ったが、もちろんこれは読まなくても「遺伝子組換え食品は安全だ」という主張の本であることが分かるので、最初から対決姿勢で読んだ(謙虚さまるでなし)。
しかし敵もさるもの、遺伝子組換えの是非という「本題」に入る前に、なんと本のほとんど半分を割いて、遺伝子とは何か? 動物は食べ物をどうやって吸収するか、という教科書的な説明がなされるのである。
これには閉口した。著者の言うように、世の中には「遺伝子」という言葉だけで「危険な食べ物」と思うような人々がいるらしいが、しかしそういう人がこん な本を読むだろうか? 後半で「安全性」を強調するために、催眠効果を狙っていると勘ぐられても仕方ない作りである。
そんな訳でこの前半は読み飛ばし、肝心の後半を読む。著者の主張はいくつかあるのだが、大雑把にまとめるとこういうことになるだろう。

一、遺伝子組換え技術は人類が積み重ねてきた品種改良と基本的に同じであり、使い方を誤らなければ危険なものではない。
一、遺伝子組換え技術によって農産物の安全性をめぐる検査はより厳しくなっている。非遺伝子組換え作物のなかにも危険なものがあることを認識すべきだ。
一、「組換え」の表示はナンセンスである。危険なものならそもそも売るべきではない。「組換え作物不使用」の食品さえ食べていればいい、という消費者の選択はむしろ問題を悪化させる可能性がある。

このあたりの記述はなかなか説得的である。私も表示の問題についてはほとんど賛成だし、現在流通している遺伝子組換え作物それ自体が危険だとは、あまり 思っていない。遺伝子組換え技術について論じるとき、「安全か安全でないか」は水かけ論になることが多いので、むしろこういう主張をある程度理解しておい たほうがいいのではないかと思う。
だが、だからといって組換え技術万歳とはいかない。
遺伝子の説明やらに費やされたこの本の半分に書かれるべきことが、もっとあるだろうと思うからだ。
まずひとつはグローバル化時代における農産物貿易のあり方と肉食の問題である。大豆やトウモロコシの増産は何を狙ったものかといえば、南の国の飢餓を救 うためでは決してない。なんせこれらの作物のほとんどは牛や豚の餌になるのだから。「作物の増産は農民の切実な願い」などという話ではないのだ。経済の問 題として考える視点が必要だ。アメリカが進めるグローバル化と遺伝子組換え作物の問題は切っても切り離せないのだ。
もう一つは科学の倫理ともいうべき問題だ。この本でもちょっとだけ触れているが、この技術は植物だけでなく動物や人間にも応用可能だ。一体どこで技術の 使用に関してストップをかければいいのか。そのことをほとんど考えず、「感覚で」今のところいいんじゃないか、というのが多分この二人の立場のように感じ た。
今ある遺伝子組換え作物の「安全性」「素晴らしい特性(時には環境にやさしい!)」を説明するだけでこの技術は大丈夫、と説得する。なんとなく嫌な記憶 が蘇ってこないだろうか。「日本の原発の安全性」を強調して、原発の正当性が強調されていたのは、まだつい最近のことだ。今や、原発の問題は地球全体の環 境やエネルギー利用という展望なくして語れないのはもはや常識だろう。あるひとつの原発を見て、これは安全、これは安全でない、と判断するような問題では ないのは明らかなはずだ。

既に疲れはじめているが、次の新書(二冊)へ行こう(今日は珍しくとことん攻撃的なのだ)。
話題はうってかわって「人権」である。昨年、『人権を疑え!』というオムニバスの新書が出て、さらに最近『反「人権」宣言』というのが出た。
確かに「人権」という言葉には水戸黄門の印籠じみた力があり、一体これは何なのか? と問うのは実に結構なことである、ということで一気に両方読んでみたわけである。
さて、偶然というか、この二冊の本もやはり二つの部分に分けて読まれるべきものと感じた。
この二冊の場合、二つの部分とは「人権を疑ってみよう」と「その代わりになるものは何か?」である。
「人権」という言葉がいかに便利で、いかに多く使われているかを考えてみれば、最初の問いの有効性は明らかなのではないだろうか。二冊の本の著者たちが指 摘するように、子供や若者が「それって人権無視じゃん」などと喜んで使うのは、この概念をほとんどの人が「無条件に」受け入れてしまっていることを証明し ている。
人権思想の怪しい来歴を語り、その弊害を指摘する部分については、二冊ともよく出来ている。だが、問題はその先にある。西洋近代的な個人主義の広がりとともに神格化された「人権」を否定するならば、社会の基準は何であるべきなのか?
その点になると、著者たちの言葉は途端に幼稚になる。複数の著者が書いているわけだから一概には言えないが、ざっと読んだ印象はそんな感じである。そこまで踏み込まなければ、それはそれで印象がよいのに、とさえ思われた。
人格、家族、法律、国家、さまざまな言葉が飛び出すが、決して説得力があるとはいえない。「人権」の胡散臭ささえ指摘すればあとは何でも言える、という 感じさえ受ける。全体に懐古主義なのはよいとしても、一体何をどこまで戻そうとしているのか、実に曖昧で感覚的な言葉が多いのだ。
『人権を疑え!』の編者、宮崎哲弥氏が喝破しているように、「人権」は国家権力など「公」に対して用いられるべき言葉である。「人権」という言葉がいかに 誤用されていようと、国家が存在する以上は必ず「人権抑圧」は存在するのであり、簡単に「疑う」から「否定」に向かうのはおかしいと感じる。もちろん『人 権を疑え』の著者の何人かは「必要悪としての人権」というほどのスタンスに立っているから、これも一概には言えないのだが。そういう意味では、この二冊の うちどちらかを読むなら、『人権を疑え!』を勧める。どこまでが「疑う」で、どこからが著者のイデオロギーの表明か、それがある程度見えるように作られて いるからだ。
それにしても僕にとっては、「国家」もまた「人権」と同じくらいに疑うべき神話であるのだが、これら多くの筆者たちの、国家をあまりに自明のものとする 姿勢には今更ながら驚いた。きっと「国家」に対してよほどいいイメージを持っているのだろう、と思ってしまった。

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』
(2001年6月、講談社文庫、819円)

徹夜後のリアル

ミステリーだ。このジャンルの読者は大抵「ミステリ」と呼ぶらしいが。
つまり僕はミステリ(ー)なるジャンルがよく分からないのだが、なぜかこのシリーズだけは新刊が出るたびに買うことにしている。出たら書評を書こうと思っていたら、出てしまった。そして、どんな風に書こうか、今頭を抱えている。

このジャンルが気になったのはたった一度のことで、その頃僕は人が「いいよ」と言うミステリ(ー)を片っ端から読んでみた。短い時間のことなので大した量ではないのだが、そもそも読書量のそれほど多くない僕としては、これはちょっと例外的な出来事だった。
それでどういう感想をもったかというと、「どれもこれも結構面白いな」ということだった。よいアドヴァイザーが周りにいたからかもしれない、という可能性はおいておくとして「どれもこれも面白い」というのはまたちょっと投げやりな態度でもある。
つまりこういうことだ。謎解きという強力なエンジンをもったこのジャンルは、そもそもある種の面白さを前提にしている。途中で投げ出してしまうようなミ ステリ(ー)というのは、そもそもミステリ(ー)と呼べるのかさえ疑問がある。もちろんミステリ(ー)を読み過ぎて舌(目?)が肥えてしまった読者という のはまた別だが、僕のような初心者には、その面白さに優劣は感じても、途中でやめるような理由はほとんど見当たらなかったのだ。
でもやがてその面白さには飽きてしまった。飽きてしまったというより、それまでの読書習慣にあまりにも異質なものが入ってきて困った、といったほうが正しいかもしれない。
それまで僕は読書を全然違うふうに捉えてきたからだ。
一冊の本を読み始めるのには、大変なエネルギーを必要とする。そもそも活字を追うのは大変面倒くさい作業である上に、ある一人の人間の思考や想像力を追 うのは、とてもパワーのいることだ。ところが、ミステリ(ー)はそうでない。数ページ読めばもうほとんど何の努力もなく徹夜くらいへっちゃらだ。
さて、こう書くとまるで読書における「努力」「苦痛」が大切であるみたいな感じだが、そうではない。僕は基本的に読書の「苦痛」と「快楽」を天秤にかけ ながら本を読んでいるのだと思う。その片方がとても少ないジャンルというのは、得られる「快楽」の判断基準を大きく狂わせてしまう、それだけの話である。

えらく個人的な話で恐縮なのだけれど、ミステリ(ー)にはまった時期というのは、僕の比較的平坦な人生のなかでも、ちょっと辛い時期と重なっていた。そ んな時に、ミステリ(ー)にはずいぶん慰められた。なかでもとりわけこのデイヴィッド・ハンドラ(ー)の「スチュワート・ホーグ・シリーズ」はまるで麻薬 のように(大袈裟か?)僕を痺れさせてくれた。
すでに書いたように「謎解き」は単なるエンジンにすぎない。たぶんミステリ(ー)で重要なのは読者が浸るための世界観というか、もっと大雑把な言い方をすれば、作品の持つ「雰囲気」ではないかと思う。
「謎解き」というエンジンに導かれて出会う人間や場所は、必ずしもリアルである必要はない。「リアル」とは別の次元で読者はもうその世界にハマっているのだ。そうだとすると、あとの問題はその世界、その登場人物が好きかどうかだ。
僕はすっかりこのスチュワート・ホーグという探偵(本職は作家、ゴーストライター)、それに彼の元妻である女優メリリー・ナッシュをはじめ、彼の言葉で (まあ作家の言葉だが)描かれる人物たち、彼の言葉で描かれる「有名人たち」の世界に幻惑されてしまった。皮肉っぽくて、傷つきやすくて、いきがってい る。気の利いたアメリカン・ジョークを飛ばす彼らはちっとも「リアル」じゃないが、魅力的だ。
もしかしたらワイドショーとかに出てくる日本の芸能人たちも、見る人が見ればこんな風に見えるのかもしれないなどと思いながら、とにかく「うっとり」させられるわけだ。
最後までとても眠るどころでなく朝を迎え、ミステリ(ー)は終わる。終わってしまえば「謎解き」のエンジンなんてどうでもいいのだ。始電の走る音が聞こえ、朝の光は見事に「リアル」だった。
たぶんこんな紹介で読んみよう、と思う人がいるとは思えないが、それでいいのだ。ミステリ(ー)・ファンの間ではこのシリーズ、結構有名らしいし、わざわざ門外漢の私があれこれ言ってみても、たぶんあまり意味がないだろう。
それより、ミステリ(ー)から戻ってきたときの朝の感じこそ、アンチ・ミステリ(ー)な方にぜひ味わって欲しいと思って、こんな文章を書いた。

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』
(2001年4月、岩波書店、1700円)

爺礼賛

僕の「お爺ちゃん」は二人とも割合に早く亡くなってしまった。
母方の祖父については、記憶がない。音楽の好きな人だったようだ。
父方の祖父については、ぼんやりと記憶がある。訪ねていくと、いつも時刻表を調べて、帰りの列車の時間を心配してくれた。僕は時刻表が好きだ。時間を忘れて「読みふけって」いると、あまり話すことのなかった祖父のことをときどき思い出す。
そんなわけで、爺さんというものへの、憧れがある。
僕にとっての憧れの爺さん像、それが加島祥造なのだ。

加島祥造を知らない人のためにちょっと紹介しておこう。彼はフォークナーの名訳で知られるアメリカ文学者、事典の使い方などの啓蒙的な文章を書いた知識人、あまり有名とはいえない詩人、ほとんど世間では知られていない画家である。
最近の著作では老子の口語訳『タオ――ヒア・ナウ』(パルコ出版、筑摩書房の『タオ――老子』もほぼ同じ内容)がとにかく素晴らしい。英語を迂回して韻文的に訳された老子は、わかりやすくて、美しくて、心に響く。一家に一冊おいてほしい名作である。
この本であるが、著者が長年知人に配信しつづけた「晩晴館通信」に書かれた随筆を集めたものである。配信といってもメルマガではない。今もときどき郵便で知人に届けられるという「通信」には、著者がその時々に感じた思いが自由につづられている。
六十三歳から、十五年間。僕にとっては想像しがたい年齢である。
でも、六十、七十を超えたって、瑞々しい、ときには激しく、ときには恥ずかしい心の動きはある。このごく当たり前のことに、猛烈に感動してしまった。
このちょっと相田みつをみたいな表紙(そしてこのタイトル…)の本を電車のなかで読みながら、涙を流していた僕はちょっと異様な感じだったにちがいない。

さて、いよいよこの本の素晴らしさを言葉にしようとして、すっかり手が止まってしまった。ここに書かれたエピソードや言葉を、ちょちょいと紹介すればい いのだろうか? なんだかちょっと違う気がする。僕のような若造が、「こんなこと言ってます、素晴らしいですねえ」なんて言えるような種類のものではない のだ。
この年齢のちがい、経験のちがいに、ちょっと目眩がする。
同時にとてつもなく大きな共感をおぼえる。
そうだ、このエピソードならこの文脈に合うかもしれない。
加島祥造が大学を退官するとき、同じときに卒業する学生たちに向かって挨拶をしたのだそうだ。こんなとき僕の記憶では、学校の先生というものは「私も一緒に卒業します、頑張りましょう」なんて訳の分からないことを言ったものだ。
加島先生はかわりにこう言う。
「いま社会に入ってゆくあなたたちを、そこから出てゆこうとする私が、どのように祝福すべきだろうか。……苛烈な物質追求の社会に入ってゆく。そこは能率本位で、計算ずくの競争社会です」
そう言いながら、ではお互いに共通する何かがあるとすれば何だろう? と問う。そこで出てくるのがこの書のタイトルでもある「いまを生きる」である。こ う書くとなんだかしょぼいが、でも「いまを生きる」のひとつしか分かちあえないほど、大学を卒業していく若者と、これから退職して隠居する先生は遠いの だ。遠いけれど、その一点でつながっている。
子供が爺さんに感じる愛情、爺さんが子供に感じる愛情というのは、そういうものかもしれない。なんて遠い世界を生きているんだ、と思いながら、どこかでつながっている。でも、そのどこか、こそ一番大切なものなのではないか。
だからこそ、子供は爺さんが好きなのだ。時刻表の難解な世界は分からないけど、なぜかその一点で僕のことを心配してくれた「お爺ちゃん」。
かつて加島先生にお会いしたとき、彼がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今の四、五十代の人間はまったく駄目だ。これから君みたいな若い者が世の中を変えていく。今の若い者にはその力を感じる」
もちろん僕には四、五十代の人間が駄目かなんて分からないし、自分も含めて今の若い者がどれほどのものか、とも思う。でも、なんだか根拠のないそのメッセージのおかげで、僕はすごく楽になったのを覚えている。
爺さんでなければ言えない言葉はたくさんある。そんな言葉がたくさんつまった本、ぜひ騙されたと思って読んでほしい。不意の涙にも注意しつつ。

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 』

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 ――新しいコミュニティ通貨の誕生』
(2000年9月、小林一紀他訳、日本経済評論社、2300円)

SF的思考で「お金」を考える

昨年『エンデの遺言――根源からお金を問うこと』(NHK出版)という本を読んだ。それ以来、「地域通貨」あるいは「オルタナティヴ通貨」というものの存在が気になっている。
われわれの身のまわりに、当たり前のように存在しているお金。それをもう一度考え直してみること、それは簡単なようで難しい。まるで空気の存在を疑ってみることのように。
『エンデの遺言』は実に単純な問いから出発する。それは、お金にはなぜ利子がつくのだろうか、という問いだ。おそらく交換の利便性のために作られたお金 は、同時に価値の保存という重要な役割を持っている。食べ物をはじめ、あらゆるモノは古くなって価値を減じていくが、お金はそうではない。この特権的な性 質から、人々はみなお金を欲しがる。お金の希少性が「利子」を生むようになったのが先か、お金が単なる「手段」であることを超え「価値そのもの」になった のが先か、私は知らない。ともかく、歴史の中で人間の手で「作られた」性質をもつお金の存在を私たちは受け入れ、それとともに暮らしているわけだ。
利子の存在は、単にモノであるはずのお金に神秘的な性格を与えることになった。モノを必要以上に持つことは大きなコストとリスクを伴うが、お金の場合は そうではない。持っていれば持っているほど、その力は大きく、限りがないのだ。利子の存在は、お金をめぐる人間の競争状態のはじまりといっていい。
利子のないお金は存在しうるのか? そうだとすると、そのお金を使う人々の暮らしはどんな風に変わるだろうか? これが『エンデの遺言』の主題であっ た。過去、実際に導入された「時とともに減価する」通貨、あるいは現在も世界各国で現在使われている地域通貨を考えながら、新しい時代の通貨を予感させ る、そんな本だった。

この話題はいまだ遠い世界にあると感じる。国内でも現実的な取り組みが始まっているというにもかかわらず、私たちはお金のことを真剣に考えるのにいまだ SF的な思考を迫られる。「生活感覚の延長で」などと言ってはいられないのだ。それほど根深く、お金のあり方は人間にとって当たり前になっているというこ とだ。
『エンデの遺言』がなぜM・エンデから始まらなければならなかったのかも、よく分かる。「すでに当たり前になったもの」を見直すことほど、人間の想像力が不可欠なのだ。
そういう意味では、今回紹介する『マネー崩壊』もまたSF的である(やっと登場した……)。
SFとしてとらえたとき、『エンデの遺言』はやや不満の残る内容であった。エンデだからファンタジーと言うつもりもないのだが。「予感」に満ちてはいて も、どこか説得力に欠ける。その説得力こそ、SFのサイエンスでありフィクションである所以であろう。あるいは『エンデの遺言』は、現時点におけるドキュ メンタリーとして優れていたともいえる(実際、この本はNHKのドキュメンタリーを元にしている)。それは変化の兆しをうつしだしはするが、未来へ向けて の提案とまではいかなかった。
端的にいえば、疑問はこうである。新しい地域通貨が国家通貨の存在に影響を与えるような力をもちはじめたときに、一体何が起きるのか? ある通貨を発行 するのが国家でなくなったとして、「誰か」がその発行の権限を持っているとしたら、最終的にそれは同じことなのではないか? その「誰か」の良心に期待す るなどという馬鹿げた前提に立って、地域通貨を全面的に応援することなどできない。

さて、長々と前置きをしたのは、『マネー崩壊』がある意味で胡散臭い感じのする本だからでもある。このあたりはこの書物の本質にも関わるし、同時に日本語版の提示の仕方にもやや問題があるのだと思う。固い本なのか柔らかい本なのか、どっちつかず。
でも騙されたと思って、読んでみてほしい。これはSFとして読んだとき、実に面白いのだ。記述のスタイルからして、かなりSF。前述のような、現在広ま りつつある地域通貨が「国家通貨を脅かすほどの」影響力を持ち始めたとき、世界はどうなっていくのか? という問いに、いくつかのシナリオを提示している ところなどは、SFそのものである。結果的に、いくつかの種類の通貨が同時に共存していくのが望ましいという著者の結論が引き出されるのであるが、その予 測が楽観的であるかどうかはともかく、こうした可能性の提示から、いくつかの問題点が浮き彫りになるのは見事というほかない。
欧州でユーロの誕生に深く関わったという著者だけあって、グローバル経済の現状に対する目配りも行き届いている。だからなぜ今お金を問い直すかという、出発点もはっきりしている。
などなど、この本の美点はいくつもあるのだが、それでもなおこれをSFとして読むことを勧める(しつこいか?)。まずは楽しんでほしいのだ。当たり前を 疑うこと、現在とは違う前提のうえに成り立つ未来を想像すること、そのスリリングな行為は、かつて科学技術が世界を変えるだろうと信じられた頃に読んだ SFの面白さに通じる。
科学だって想像力から出発したのだ。経済もそうであって悪いはずがないのである。