オリンピック


アテネ・オリンピック。テレビで二人のメダリストがインタビューを受けていた。「あなたにとってオリンピックとは?」の質問にハンマー投げの室伏選手は 「平和」と答えた。彼は今も続くテロや紛争を心配している様子だった。もう一人、女子マラソン選手が先に「アスリートにとって最高の舞台」とごく真っ当に 答えた後だけに、ちょっと意外な展開である。質問していた女子アナは、やや強引に「そうですよね、一つのルールでみんなが戦うというのは『平和』ですよ ね」とコメントし、その場を終えた。室伏は何も言わなかった。ただ、ちょっと複雑な笑顔が印象的であった。そう、言うまでもなく問題は、「一つのルール」 ではおさまらない「みんな」がいることなのである。だからこそ室伏は「オリンピック=戦い」という図式に疑問を投げかけたかったに違いない。そんなわけ で、室伏の苦悩は深い。なぜなら、彼はたぶん、メダル獲得競争を煽る日本人より、あの図体のデカいハンガリー人を愛してしまっているからだ。彼の望む「平 和」は遠いのである。(2004.8.28)

追記:写真は北海道の有名な「幸福駅」にて。


追悼文


 ある高校時代の友人は、会うたびに、自分はあの頃とちっとも変わっていない、成長していないと言った。実際の彼女はいろんな意味でひどく立派になったように見えたのだけど。
たとえば、久しぶりに会った者同士が「変わってない」と言い合うのは、一種の社交辞令なのだろう。アメリカでは、別れるときに、「変わらないでね」と言 われた記憶がある。それも、今のあなたが好きだから、という意味の愛情表現だろう。「変わった」という言葉は多くの場合、ネガティブに捉えられる。
もちろん、人間はどうしようもなく日々変わっていくものだ。「変わらなくちゃ」なんてイチローに言われるまでもなく。
でも自分が「変わってない」と言い張ったこの友人のことを思い出すと、ふと上のようなことを書いていい加減に生きている自分が恥ずかしく思えてくること がある。本当は、変化の許容よりも、変化への抵抗から、より大切なものが生まれるのかもしれない、と思わないでもないからだ。(2003.9.1)

追記:写真は私の作った泥だんご。


爺リーグ(終了。投票できません)

「最高のじじい」の称号を勝ち取るのは誰か?
「爺リーグ」1st.ステージ、いよいよスタート。
みんなで盛り上げましょう。投票よろしく!!

「爺リーグ」規定
●年齢制限 
現在60歳以上、もしくは60歳以上で死んだ男性にかぎる。
●評価基準 
徳の高さ、枯れた味わい、ジジイらしさなど。
●投票方針 
広く投票を呼びかける。二重投票など細かいことは気にしない。
J2の位置づけ 
新たなノミネートを募り、リーグ全体の底上げを目指す。将来は入替戦を実施する。


●J1●

笠智衆
(享年88歳)
誰もが憧れる日本代表ジジイ。30歳のとき彼はすでにジジイだった(つまりユース時代からエリート)。寅さんや小津安二郎を男にし、ヴェンダースなど海外からも熱い視線を送られるジジイ界の至宝。(推薦人=waki、たかぼん)  | 投票 | 
ヨーダ
(900歳?)
ジェダイ随一の徳の高さを誇るが、いざとなるとライトセーバーを振り回す欲求に打ち勝てないやんちゃもの。イギリスだけでも34万人いるというジェダイ信者の崇敬の頂点に立つ男。(推薦人=waki)  | 投票 | 
東野英治郎
(享年87歳?)
「水戸黄門」でお馴染みだが、川島雄三監督「青べか物語」(主演は森繁久弥)での怪演が忘れられない。小津映画「秋刀魚の味」の元校長役のとぼけた味を思い出す邦画ファンも多いだろう。(推薦人=たかぼん)  | 投票 | 
亀仙人
(300歳以上)
「素手なら宇宙最強」が囁かれるじじい。スケベ度とあわせて二冠も。「掌から気を発し離れた敵を倒す」というイメージの原型になった点で文句なく偉大といえる。(推薦人=妄想科学)  | 投票 | 
古今亭志ん生
(享年83歳)
一度はまるとやみつきになる落語のヴァーチャルリアリティ。ぜひ「火焔太鼓」あたりから聞いてみてほしい。文楽の完璧に構築された芸風とは正反対で、ぞろっぺというか、間の取りかたが絶品!(推薦人=たかぼん、ももち)  | 投票 | 
ゼペット爺さん
(年齢不詳)
正確にはジェッペット。操り人形のピノキオ(ピノッキオ)を作り、親がわりになるが、サメ(アニメでは鯨)の腹のなかに二年も放置されるなど酷い目にあう。それでもピノキオへの愛を失わない見上げた老人。(推薦人=waki)  | 投票 | 
野坂昭如
(73歳?)
最後の無頼派と称される数少ない戦中派作家のひとり。「エロ事師たち」が三島、澁澤に賞賛され幸運な作家デヴューをした。自己顕示欲とシャイな部分が同居したキャラクターもユニーク。(推薦人=たかぼん)  | 投票 | 
ジェームス・ブラウン
(69歳?)
1933年、米国はサウスカロライナに生を受けてしまった問題爺(もんだいじい)。いまだ現役の“セックス・マシン”である反面、暴力による黒人革命を否定し続けたエライ人。(推薦人=nonaky)  | 投票 | 
左卜全
(享年77歳?)
晩年に歌った「老人と子供のポルカ」が大ヒット。「やめてけ~れ(内)ゲバゲバ/ストスト(ライキ)」と反共チックな風刺ソングだが、「天地自然・宇宙進化の為に歌っている」と嘯いていたそうだ。 怪しい。(推薦人=妄想科学)  | 投票 | 
熊谷守一
(享年97歳)
ひきこもり画家。蟻はどの足から歩きはじめるか、を発見した。知名度は低いがヴィジュアルのよさと爺度の高さでJ1残留を目指す。(推薦人=耳、ももち、OTT)  | 投票 | 

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』
(2002年10月、集英社、1800円)

嘘つきになれない作家の真実

米原氏が素晴らしい通訳であるだけでなく、卓越したエッセイの書き手だということは知っていた。今度は長編小説、大丈夫なんだろうかと思いながら読み始め た。以下はちょっと複雑な話なので、まずは素直な感想を書こう。面白い。読もうかどうか迷っているなら、買うべし(あるいは借りるべし)。

さて、ここからは本というものを素直に読めない可愛そうな読者の意見である。
問題はごくシンプル。これは本当に「小説」なのか? である。もちろんそりゃ、ご本人が小説だと言っているのだから、小説なんだろう。小説というのは フィクション、創作、嘘のまじった物語ということである。この本のなかにはどんな間の抜けた読者にも作り話と分かる部分がたくさんあるから、なるほどこれ は小説には違いあるまい。
そうでありながら僕は、あれ、これって小説だっけ? ノンフィクションだっけ? とはっきりしない気分のまま読みつづけてしまい、最後まで没頭できかなかった。こんな小説はそう多くない。それのどこが問題かといえば、これは大きな問題である(個人的には)。
ノンフィクションというものは、本がノンフィクションだと言い張るから、書かれていることは真実なのである。もちろん実際には嘘がたくさん混じってい る。それでいいのだ。同じように、フィクションというのは、本がフィクションだと言い張るから、書かれていることは嘘なのである。もちろん実際には真実が たくさん書かれている。したがって、実際にどのくらい嘘がまじっているか、が両ジャンルの違いなのではない。
そして問題を簡単にいえば、前提が違えば読み方も違うのである。どちらのジャンルもその前提でもって読者を魔法にかける。いわば、その世界に「安心して」読み進めるのである。
ところがこの作品、どう考えたってその魔法が機能していない。要するに嘘が上手じゃないのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。考えてみれば答えはけっこう単純だ。作者はいくつかのノンフィクションを継ぎ足して、その接合部分、糊の部分だけ を創作したのである。糊の部分が嘘だから小説ですと言われても、ノンフィクション部分があまりに生々しいから、読者は困るわけだ。
この問題を解決する二つのアプローチが考えられる。嘘が嘘とばれないような糊を使って、ノンフィクションに仕立て上げること。もうひとつは、ノンフィクション部分も最初から嘘つきの文法で語りなおすことだ。
実は、前者の方法なら、作者はもう立派に使いこなしている。前作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店)はまさにそうした大傑作である。
実はこの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、内容的にも手法的にも今回の小説とほとんど同じである。過去の友人を探し当てる旅、その過程で見えてくる東 欧の現代史、そして多感な少女時代の思い出。この本のなかの「白い都のヤスミンカ」を読んで僕は泣いてしまった。まさに魔法にかけられたのである(もちろ んノンフィクションの魔法だ)。当然のことながら、この本のなかにだってフィクションは混じっている。三人の友人を訪ねる旅を三つのエピソードに分けたこ と自体、作為でなくて何であろう? とはいえ、そのくらいは普通、嘘とは言わない。したがってこの本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することができ た。
内容はまったく同じなのに、あっちはノンフィクション、こっちは小説。『オリガ・モリソヴナの反語法』を書くにあたって、ノンフィクションとして書かなかった、あるいは書けなかった理由は何なのだろうか?
作家はすべてを語る必要はない。作家には隠す権利があり、まさにその権利によってフィクションは成り立つと言える。だが米原氏は習慣からかその人柄から か、見せられる真実はすべて明らかにしてしまった。読者としてはある意味で有り難いが、これは小説の面白さとはまったく別の話である。
したがって無理やり結論を書けば、こういうことになる。この本は面白いが、小説として面白いのではない。それでも読者は最後まで小説としてこれを読まなければならない。キツイんだけっこう、これが。


間違い電話


よく間違い電話がかかってくる。たぶん一週間に一度かそれ以上。「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」というやつだ。電話番号を確認すると、間違っていない。こういうのは間違い電話とは言わないのかな?
もちろん僕も最初は、この番号を前に使っていた人がアオヤギさんで、アオヤギさんはきっと青柳さんだろうと思っていた。
でも「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」に繰り返し「違います」と答えているうちに、なんだか自信がなくなってきてしまった。もしかしたら僕はアオヤ ギさんなのではないか? という訳である。いや、それはまあないにしても、アオヤギさんは本当に青柳さんなのか? もしかしたら青山羊さんではないのか?  だとすれば相手は「いえ、黒山羊です」とか「白山羊です」といった答えを期待しているのかもしれない。いつまでかたくなに「違います」と答え続けられる だろうか。(2002.12.6)

追記:写真は奥多摩の小学校に取材にいったときに撮ったもの。