オリンピック


アテネ・オリンピック。テレビで二人のメダリストがインタビューを受けていた。「あなたにとってオリンピックとは?」の質問にハンマー投げの室伏選手は 「平和」と答えた。彼は今も続くテロや紛争を心配している様子だった。もう一人、女子マラソン選手が先に「アスリートにとって最高の舞台」とごく真っ当に 答えた後だけに、ちょっと意外な展開である。質問していた女子アナは、やや強引に「そうですよね、一つのルールでみんなが戦うというのは『平和』ですよ ね」とコメントし、その場を終えた。室伏は何も言わなかった。ただ、ちょっと複雑な笑顔が印象的であった。そう、言うまでもなく問題は、「一つのルール」 ではおさまらない「みんな」がいることなのである。だからこそ室伏は「オリンピック=戦い」という図式に疑問を投げかけたかったに違いない。そんなわけ で、室伏の苦悩は深い。なぜなら、彼はたぶん、メダル獲得競争を煽る日本人より、あの図体のデカいハンガリー人を愛してしまっているからだ。彼の望む「平 和」は遠いのである。(2004.8.28)

追記:写真は北海道の有名な「幸福駅」にて。

追悼文


 ある高校時代の友人は、会うたびに、自分はあの頃とちっとも変わっていない、成長していないと言った。実際の彼女はいろんな意味でひどく立派になったように見えたのだけど。
たとえば、久しぶりに会った者同士が「変わってない」と言い合うのは、一種の社交辞令なのだろう。アメリカでは、別れるときに、「変わらないでね」と言 われた記憶がある。それも、今のあなたが好きだから、という意味の愛情表現だろう。「変わった」という言葉は多くの場合、ネガティブに捉えられる。
もちろん、人間はどうしようもなく日々変わっていくものだ。「変わらなくちゃ」なんてイチローに言われるまでもなく。
でも自分が「変わってない」と言い張ったこの友人のことを思い出すと、ふと上のようなことを書いていい加減に生きている自分が恥ずかしく思えてくること がある。本当は、変化の許容よりも、変化への抵抗から、より大切なものが生まれるのかもしれない、と思わないでもないからだ。(2003.9.1)

追記:写真は私の作った泥だんご。

爺リーグ(終了。投票できません)

「最高のじじい」の称号を勝ち取るのは誰か?
「爺リーグ」1st.ステージ、いよいよスタート。
みんなで盛り上げましょう。投票よろしく!!

「爺リーグ」規定
●年齢制限 
現在60歳以上、もしくは60歳以上で死んだ男性にかぎる。
●評価基準 
徳の高さ、枯れた味わい、ジジイらしさなど。
●投票方針 
広く投票を呼びかける。二重投票など細かいことは気にしない。
J2の位置づけ 
新たなノミネートを募り、リーグ全体の底上げを目指す。将来は入替戦を実施する。


●J1●

笠智衆
(享年88歳)
誰もが憧れる日本代表ジジイ。30歳のとき彼はすでにジジイだった(つまりユース時代からエリート)。寅さんや小津安二郎を男にし、ヴェンダースなど海外からも熱い視線を送られるジジイ界の至宝。(推薦人=waki、たかぼん)  | 投票 | 
ヨーダ
(900歳?)
ジェダイ随一の徳の高さを誇るが、いざとなるとライトセーバーを振り回す欲求に打ち勝てないやんちゃもの。イギリスだけでも34万人いるというジェダイ信者の崇敬の頂点に立つ男。(推薦人=waki)  | 投票 | 
東野英治郎
(享年87歳?)
「水戸黄門」でお馴染みだが、川島雄三監督「青べか物語」(主演は森繁久弥)での怪演が忘れられない。小津映画「秋刀魚の味」の元校長役のとぼけた味を思い出す邦画ファンも多いだろう。(推薦人=たかぼん)  | 投票 | 
亀仙人
(300歳以上)
「素手なら宇宙最強」が囁かれるじじい。スケベ度とあわせて二冠も。「掌から気を発し離れた敵を倒す」というイメージの原型になった点で文句なく偉大といえる。(推薦人=妄想科学)  | 投票 | 
古今亭志ん生
(享年83歳)
一度はまるとやみつきになる落語のヴァーチャルリアリティ。ぜひ「火焔太鼓」あたりから聞いてみてほしい。文楽の完璧に構築された芸風とは正反対で、ぞろっぺというか、間の取りかたが絶品!(推薦人=たかぼん、ももち)  | 投票 | 
ゼペット爺さん
(年齢不詳)
正確にはジェッペット。操り人形のピノキオ(ピノッキオ)を作り、親がわりになるが、サメ(アニメでは鯨)の腹のなかに二年も放置されるなど酷い目にあう。それでもピノキオへの愛を失わない見上げた老人。(推薦人=waki)  | 投票 | 
野坂昭如
(73歳?)
最後の無頼派と称される数少ない戦中派作家のひとり。「エロ事師たち」が三島、澁澤に賞賛され幸運な作家デヴューをした。自己顕示欲とシャイな部分が同居したキャラクターもユニーク。(推薦人=たかぼん)  | 投票 | 
ジェームス・ブラウン
(69歳?)
1933年、米国はサウスカロライナに生を受けてしまった問題爺(もんだいじい)。いまだ現役の“セックス・マシン”である反面、暴力による黒人革命を否定し続けたエライ人。(推薦人=nonaky)  | 投票 | 
左卜全
(享年77歳?)
晩年に歌った「老人と子供のポルカ」が大ヒット。「やめてけ~れ(内)ゲバゲバ/ストスト(ライキ)」と反共チックな風刺ソングだが、「天地自然・宇宙進化の為に歌っている」と嘯いていたそうだ。 怪しい。(推薦人=妄想科学)  | 投票 | 
熊谷守一
(享年97歳)
ひきこもり画家。蟻はどの足から歩きはじめるか、を発見した。知名度は低いがヴィジュアルのよさと爺度の高さでJ1残留を目指す。(推薦人=耳、ももち、OTT)  | 投票 | 

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』
(2002年10月、集英社、1800円)

嘘つきになれない作家の真実

米原氏が素晴らしい通訳であるだけでなく、卓越したエッセイの書き手だということは知っていた。今度は長編小説、大丈夫なんだろうかと思いながら読み始め た。以下はちょっと複雑な話なので、まずは素直な感想を書こう。面白い。読もうかどうか迷っているなら、買うべし(あるいは借りるべし)。

さて、ここからは本というものを素直に読めない可愛そうな読者の意見である。
問題はごくシンプル。これは本当に「小説」なのか? である。もちろんそりゃ、ご本人が小説だと言っているのだから、小説なんだろう。小説というのは フィクション、創作、嘘のまじった物語ということである。この本のなかにはどんな間の抜けた読者にも作り話と分かる部分がたくさんあるから、なるほどこれ は小説には違いあるまい。
そうでありながら僕は、あれ、これって小説だっけ? ノンフィクションだっけ? とはっきりしない気分のまま読みつづけてしまい、最後まで没頭できかなかった。こんな小説はそう多くない。それのどこが問題かといえば、これは大きな問題である(個人的には)。
ノンフィクションというものは、本がノンフィクションだと言い張るから、書かれていることは真実なのである。もちろん実際には嘘がたくさん混じってい る。それでいいのだ。同じように、フィクションというのは、本がフィクションだと言い張るから、書かれていることは嘘なのである。もちろん実際には真実が たくさん書かれている。したがって、実際にどのくらい嘘がまじっているか、が両ジャンルの違いなのではない。
そして問題を簡単にいえば、前提が違えば読み方も違うのである。どちらのジャンルもその前提でもって読者を魔法にかける。いわば、その世界に「安心して」読み進めるのである。
ところがこの作品、どう考えたってその魔法が機能していない。要するに嘘が上手じゃないのだ。
なぜそんなことになってしまったのか。考えてみれば答えはけっこう単純だ。作者はいくつかのノンフィクションを継ぎ足して、その接合部分、糊の部分だけ を創作したのである。糊の部分が嘘だから小説ですと言われても、ノンフィクション部分があまりに生々しいから、読者は困るわけだ。
この問題を解決する二つのアプローチが考えられる。嘘が嘘とばれないような糊を使って、ノンフィクションに仕立て上げること。もうひとつは、ノンフィクション部分も最初から嘘つきの文法で語りなおすことだ。
実は、前者の方法なら、作者はもう立派に使いこなしている。前作『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店)はまさにそうした大傑作である。
実はこの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、内容的にも手法的にも今回の小説とほとんど同じである。過去の友人を探し当てる旅、その過程で見えてくる東 欧の現代史、そして多感な少女時代の思い出。この本のなかの「白い都のヤスミンカ」を読んで僕は泣いてしまった。まさに魔法にかけられたのである(もちろ んノンフィクションの魔法だ)。当然のことながら、この本のなかにだってフィクションは混じっている。三人の友人を訪ねる旅を三つのエピソードに分けたこ と自体、作為でなくて何であろう? とはいえ、そのくらいは普通、嘘とは言わない。したがってこの本は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞することができ た。
内容はまったく同じなのに、あっちはノンフィクション、こっちは小説。『オリガ・モリソヴナの反語法』を書くにあたって、ノンフィクションとして書かなかった、あるいは書けなかった理由は何なのだろうか?
作家はすべてを語る必要はない。作家には隠す権利があり、まさにその権利によってフィクションは成り立つと言える。だが米原氏は習慣からかその人柄から か、見せられる真実はすべて明らかにしてしまった。読者としてはある意味で有り難いが、これは小説の面白さとはまったく別の話である。
したがって無理やり結論を書けば、こういうことになる。この本は面白いが、小説として面白いのではない。それでも読者は最後まで小説としてこれを読まなければならない。キツイんだけっこう、これが。

間違い電話


よく間違い電話がかかってくる。たぶん一週間に一度かそれ以上。「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」というやつだ。電話番号を確認すると、間違っていない。こういうのは間違い電話とは言わないのかな?
もちろん僕も最初は、この番号を前に使っていた人がアオヤギさんで、アオヤギさんはきっと青柳さんだろうと思っていた。
でも「アオヤギさんでいらっしゃいますか?」に繰り返し「違います」と答えているうちに、なんだか自信がなくなってきてしまった。もしかしたら僕はアオヤ ギさんなのではないか? という訳である。いや、それはまあないにしても、アオヤギさんは本当に青柳さんなのか? もしかしたら青山羊さんではないのか?  だとすれば相手は「いえ、黒山羊です」とか「白山羊です」といった答えを期待しているのかもしれない。いつまでかたくなに「違います」と答え続けられる だろうか。(2002.12.6)

追記:写真は奥多摩の小学校に取材にいったときに撮ったもの。

演奏する夢


ときどき人前で音楽を演奏する夢を見る。小学校のときにやった合奏のように、みんなの前で弾かなければならないのだが、楽譜が頭に入っているわけでもな く、かなり不安な危なっかしい演奏だ。とはいえ、観客はそれが間違っているとは気づかないようだし、僕は調子に乗っていい加減な音を出す。そうこうしてい るうちに曲それなりに進んで、一応音楽らしく響いているようだという夢。奇妙な楽器がたくさん出てくるし、具体的にどんな音楽なのかはよく分からない。た ぶん、ちゃんとしたミュージシャンなら、こんな夢を見たりはしないのではないかと思う。素人ミュージシャンたる僕にとって、音楽はいつもそんなふうに霧に かかったようにはっきりしない得体の知れないものだ。(2002.11.5)

追記:写真はコンピの発売を記念して行われたパーティで演奏するOTT。人生で初めての現実世界でのライブということで、大変緊張した。

ハミルトン『人間だって空を飛べる』 バートランド『エルヴィスが社会を動かした』

ヴァージニア・ハミルトン『人間だって空を飛べる』
(金関寿夫訳、2002年6月、福音館文庫、700円)

マイケル・T・バートランド『エルヴィスが社会を動かした--ロック・人種・公民権』
(前田絢子 訳、2002年8月、青土社、2800円)

抑圧と反抗をめぐるちょっと複雑な話

まずは全然テーマと関係のない話から。
福音館文庫の創刊が嬉しい。落ち着いた装幀や編集は読者として大人も視野に入れた感じだ。児童文学にかぎらず、子ども向けの本というのは宝の山だ。無駄 なものがそぎ落とされたというか、読書力が衰え、おまけに忙しくて時間のない現代人にはぴったりのものも多い。僕はときどき図書館の児童室へ行くのだが、 そこにある本を片っ端から読んだら、非常に面白いのではないかと思ったりする。まあこれは忙しい現代人というより、暇人の発想であるが。
それでどうしてもこのシリーズから一冊買いたくて選んだのがこれ。アフリカ系アメリカ人の口から口へ伝わる民話を集めた本だ。

前にディズニーのアニメ作品『南部の唄』についてちょっと触れたが、これが問題になったのは、あからさまな黒人差別というより(むしろ内容は「好意的」 とさえいえる)、黒人の描き方におけるステレオタイプだったのではないかと思う。南部において白人が黒人に対して支配的な態度をとっていたのは「事実」な のだから、むしろそれを描かないことのほうが問題なのだから。だからは問題は、黒いリーマスおじさんを白い作り手たちが勝手に「理想化」して描いたことに あった。
子どもたちの人気者、話し上手のリーマスおじさん。
この本のなかには、彼の口から直接聞いたらさぞ愉快であろう(そしてディズニーならそれを喜んでアニメ化したくなるような)、お話でいっぱいだ。動物を 擬人化したドタバタ劇や、辛い境遇でも忘れないユーモア、そしてほんのちょっと感じられる音楽性やリズム、そして自由への憧れ(人間だって空を飛べる!) などなど……。
さて、これらはみなある意味で僕たちが知っているお馴染みの黒人像ではある。いやもしかしたら、そのような存在であってほしいと願っているということか もしれない。そういう意味ではこれは先のディズニー・アニメのネタ本であって、リーマスおじさんの「理想化」と紙一重だ。
訳者のあとがきなんかにもそれは見てとれる。「私はこの本を読んでいて、思わずアメリカのジャズを連想してしまいました。……ジャズの持つ楽しい、軽快なリズムの底には、いつもあの黒人ブルースの、悲しいむせび泣きの声が、はっきりと聞き取れるのです」
間違いだと言うつもりはないけれど、本当にこれでいいんだろうか?

そんなわけで、ここからは「大人の本」の話。
差別というものを仔細に観察すれば、必ずそこには単純化できない複雑な構造があるものだ。白人=抑圧者、黒人=被抑圧者、というような図式ではどうしても抜け落ちてしまうものがある。
『エルヴィスが社会を動かした』が焦点を当てたのはまさにそういう存在としてのエルヴィス・プレスリー、つまり南部の白人労働者階級(いわば白人のなかの 被抑圧者。文化的、階級的には黒人に近い場所にいるが、時にそれは大きな憎悪となって黒人に向かった)である。公民権運動によって人種隔離の撤廃が始まる 前の南部にあった複雑な人種状況に目を向けることで、ロックンロール誕生の意義を解き明かそうというのがこの本の趣旨である。
したがってこの本によればロックンロールは、変わりつつあった白人労働者階級の若者たちの人種観を反映したものであり、その後の人種統合を先取りするとともに文化的な面で促進する大きな役割を果たした、ということになる。
ロックンロールは音楽産業によって作られたものだとか、白人中産階級が黒人文化を物真似し一方的な憧れを託したものにすぎないとか、あるいはどの時代に も見られる若者の反抗的な態度のひとつにすぎないとか、さまざまな見方に一つ一つ批判を加え反証していく努力が涙ぐましく、そしてこの本は大変長い。
エルヴィスがゴスペルやR&Bといった音楽にどのような尊敬の念を抱いていたか、あるいは逆に当時の上層階級がエルヴィスの音楽にどう反応したか。全体はやや冗長であるが、細かいエピソードの積み重ねが非常に面白いので、この分野に興味のある向きにはお勧めだ。

さて今回もうまく話がまとまりそうにないので、さらに話を飛躍させることにしよう。
このあいだ深夜にテレビを見ていたら、奇妙なライブを放送していた。それが、エリザベス二世の在位五〇年(だったかな?)を祝うバッキンガム宮殿での記念ライブだと理解するまでに、結構時間がかかった。
登場したのは、エリック・クラプトン、オジー・オズボーン、ジョー・コッカー、ポール・マッカートニー……などなど毎度お馴染みの年寄りロック・ミュー ジシャンばかり。「アメリカからの代表」ということで「本当はエルヴィスがよかったんだけど(司会)」ということで登場したのはブライアン・ウイルソン。
女王や王子たちを前に、まるでかつての宮廷お抱えの音楽家のようにうやうやしくロックが演奏されるという不思議な光景を見ながら思ったのは、「みんな成り上がったんだなあ」という非常に身も蓋もない感想だった。
そこに集まって大騒ぎをしている観客、そして優雅に深夜一人でテレビなんかを見ている僕も含めてである。今われわれは女王さま王子さまたちと同じものを 楽しんでいるわけだ。労働者階級の音楽は宮廷音楽になり、人々はみんなそれを平等に楽しみました。めでたしめでたし、というわけである。
人は成り上がって豊かになったとき、世界全体がよくなったような錯覚を抱くものだが、もちろんそれは勘違いである。この場合成り上がったのはアメリカや イギリスの労働者(もちろん黒人も含めて)であり、日本人でもあるが、なぜそんなことが可能だったかといえば、ここから先はまああの悪名高い「一〇〇人の 村」でも有名なお話だ。

昔話にせよロックンロールにせよ、かつての「純粋形態」を探し懐かしむことはできる。けれどももっと大事なのは、これからどうしようという話だ。ちょっ と生真面目な言い方をすれば、どんな音楽を奏で、どんな物語を紡いでいくべきなのか。もちろん答えが簡単にでるわけもないのだけれど、少なくとも「成り上 がってしまった」僕たちとしては、抑圧されたもの、あるいは権威への反抗というイメージそのものを、ちょっと見直してみる必要がありそうなことは確かだ。

緑色の東京


夏になって東京を歩くと、ふと意外に緑が多いことに驚いたりする。コンクリートだらけのはずの町のあらゆる 隙間を見つけて植物が生育しているのだ。壁には蔓性の植物が這い、アスファルトの割れ目からものすごい勢いで雑草がのびていたり。東京の緑化は実際のとこ ろ、イメージのほうが現実に追いついていなかったりするのだ。
中でも特に目を奪うのが、住宅の狭い庭から路地まで、人々が半ば育て半ば放置している植物たちだ。植木鉢やプランターに入っていればまだよいほう、よく わからない発泡スチロール箱なんかに植えられた植物が、ほとんどジャングルのように、ただでさえ狭い道を侵略している。夏だからだろう、手入れは行き届か ず、植物は伸びたい放題であることが多い。
これはアメリカなんかの綺麗に刈り込まれた芝生の庭とも、イギリスのガーデニングなんていう高貴な趣味ともかなり異質なものと感じる。「自然は真空を嫌 う」なんて言葉があるが、まさにそんな感じだ。隙間なく植えた人の執念と矛盾するような、整理しようという気持ちのなさが何やら異様な感じを醸し出してい るのだが、ではいわゆるキレイな庭のほうが好きなのかと問われればそうとも言えない。
何とも言えない気分でそれら奇怪な植物たちを見ながら、一瞬、植物だらけの恐ろしげな東京のビジョンが浮かんだ。それは決して美しい未来でもないのだが、そこへ向かっていくよりほかにないような、一種の啓示のように思えた。 (2002.8.22)

*写真は世田谷の住宅街でとったもの。上の話とはちょっと違うのであるが、その執念と自然観は共通のものだろう。

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』

ジョイス『私のカメラがとらえたあなた』
(芝まりこ訳、2002年7月、ブルース・インターアクションズ、1900円)

イサベル・アジェンデ『パウラ、水泡なすもろき命』
(菅啓次郎訳、2002年7月、国書刊行会、2400円)

ラテン・アメリカの女性たち

書評などといつつ自分のことばかり語っているようでちょっと恥ずかしいのだけど、またしても思い出話から。
ブラジル音楽が大好きな僕にとっては幸運というより他にないのだけれど、雑誌の編集者になって初めてインタビューの仕事をした相手がこのジョイスだった。そのとき初めてこの本の話を聞いたのだが、まさか翻訳は出ないだろうと思っていたから、ちょっと驚きだ。
初めてのインタビューということで、僕は緊張していた。気合いを入れていくつかの質問を用意していたのだが、インタビューというものはあまり思い入れが強すぎるとうまくいかない、と知ったのはもう少し後のこと。
中でも覚えている恥ずかしい質問は、彼女が作曲家として、歌手として、ギタリストとして、もっとも尊敬する人は誰か? と尋ねるものであった。ジョイス の答えはというと割と普通で、作曲家はアントニオ・カルロス・ジョビン、歌手はエリス・レジーナ、ギタリストは三人いて、トニーニョ・オルタとジョアン・ ジルベルト、ドリ・カイミ。こういう聞き手の思い入ればかりが強すぎる質問は後でうまく記事にならないのである。
そして加えて、僕はもう一つ訊いたのだった。ではフェミニストとしてもっとも尊敬するのは誰? それに彼女は「私の母」と答えた。
会社に帰った僕はテキトーな記事を一つでっちあげたが、もっとも感銘を受けたこの最後の答えについては何も書けなかった。思えば実に情けない話である。
さて、ジョイスのお母さん、どんなお母さんだったのかと思ってこの自伝を読めば、こんな具合だ。
「私の母は働き者の代表ともいうべき公務員で、持ち前のバイタリティで生をのぼりつめた人」「八十歳代の今でもビーチで過ごし、肌の色はブロンズ色のままである」「彼女にとっては、家はビーチに歩いていける距離でなければ話にならないのだ」

ジョイスはブラジルのミュージシャン、イサベル・アジェンデはチリ出身の作家であるけれども、ラテン・アメリカを代表する女性の表現者ということで、無 理やり一緒にとりあげた。もっとも、とりとめのない組み合わせのようではあるが、年齢も六歳しか違わないし、意外と共通点が多いようにも思える。二人と も、若い頃にフェミニズムの洗礼を受け、ある時代には彼女たち自身が「フェミニスト」と考えられた。ただ今はそこからちょっと距離をとっているように見え る。
ところで、フェミニストとして私は自分の母親を尊敬する、という言葉の意味は意外に深いんじゃないだろうか、と僕は思った。それは彼女の母親がフェミニ ストとして模範的な人生を送ったという意味ではないはずだ。たぶんそれは、自分が女性であることを肯定的にとらえることと関係があるのではないだろうか。 母を認めることができずに、どうやって自分を認めることができるだろう?
フェミニズムに限らず、「新しい思想」の弱点はいつだって、古いものを否定するあまり、自分の足下をも堀崩してしまうことだろう。

一方、『精霊たちの家』で知られる作家のノンフィクションはといえば、不治の病の床にあって意識のない娘パウラに、「きみが目を覚ましたとき、自分は いったい誰なのかと、途方にくれないですむように」、母イサベルが一族の歴史を語りきかせるという物語。ちなみに、有名なアジェンデ大統領(1970年世 界で初めて普通選挙によって選ばれたマルキシストの大統領。のちにクーデターによって殺される)は彼女の親戚だ。
ここでも母と娘、である。こちらは母のほうが娘に語りかけるのであるけれども、彼女自身の母親もまた重要な役割を果たすから、祖母、母、娘の三代にわた る物語であるとも言える。もちろんアジェンデのほうがジョイスよりもずっと意識的に自分とフェミニズムの関係、そして母親との関係についても書いている が、もちろんそれが物語の本筋というわけではない。物語の中心はあくまでも死にゆく娘の人生と母の人生、そしてチリと一族の「歴史」だ。
母は娘に「きみ」と語りかける。スペイン語の二人称 tu をこう置き換えた訳者の菅啓次郎に敬意を表するべきだろう。ふつう母親が娘に語りかける小説的な日本語は「お前」だろうか「あなた」だろうか。いずれにせ よ不自然で、普通は○○ちゃんとか○○さんとでも呼ぶのかもしれないが、この小説では、この親密で対等な「きみ」がなんともぴったりなのだ。
「目を覚ますとき、きみはどんな風になっているかしらね。おなじ女性にまた会えるんだろうか、それとも私たちは、二人の未知の女どうしとして、知りあいなおす必要があるのだろうか」
結局、パウラは「精霊」となってこの世を去ってしまうのであるが、小説の最初から意識のない彼女は、読者にとって最初から「精霊」のような存在である。 その「精霊」に母親が語って聞かせる物語のほうは、女として生きる苦労、喜び、痛み、矛盾だらけの人間らしさそのものである。そのあたりの対比が文学とし ては見事ということになるのだろうが、先のフェミニズムの話に戻れば、これはすごく示唆的な状況でもある。
伝統的な母と娘の関係とは、まさに娘を「霊化」しようとすることの失敗ではないか。つまり娘の性的な側面を否定し、どこまでも抽象的な「女」にすること。もちろん同時に、娘が大人になることは、母親が「精霊」ではないことの発見に他ならない。
「フェミニスト」たるアジェンデ家の母娘関係は恐らくその反対であったことであろう。母も娘もつとめてお互いに対等な「人間=女」あろうとしたはずだ。だからこそ、娘を「生のほうへ」呼び戻そうとして、母は物語るのだ。

あれれ、えらく理屈ぽくなってしまった。
ジョイスの音楽は好きだけど、自伝のほうは内容も翻訳もイマイチ。でも二冊に共通したある「臭い」があって、僕はそれがすごく気になったのでそれを無理に理屈にしたらこんな風になってしまった。
たぶん二人は言うだろう。そんな理屈はいいから、私の音楽を、私の物語を楽しみなさい。そのあたりがなんかリアルに想像できるところも、似ている。

本を読む人


本を読んでいる人を見ると少し不安になる。魂を吸い取られたような顔をしているし、じっと見つめてもこちらに気づくことはない。何を読んでいるのか、読 んでどんな気持ちなのか尋ねてみたい気もするのだが、声をかけて顔を上げてしまえば、先ほどまでのミステリアスな表情はどこへやら。読んでいる本の題名を 見せてもらったところで、こちらにはちっとも興味がない。知りたいのは、読んでいるときのあなたなんだ、とでも言いたくなる。
左の写真は近々創刊されるフリーマガジン「抄」の取材時に撮ったもの。小学生にお勧めの本を訊いたのだが、ちょっと目を離すとすぐに本を読み始める。それほど本が好きなのか?
そういえば、本を読みながら、目を上げることが多くなった気がする。同じようなことを知り合いは、あと数頁なのに栞を挟んで別のことをするようになった、と言った。幸せになったような、不幸になったような、微妙なところである。(2002.7.7)