ポール・オースター『空腹の技法』

ポール・オースター著『空腹の技法』
(2000年8月、柴田元幸/畔柳和代訳、新潮社、2200円)

理想の書評のあり方を考えつつ

主人公が間違い電話を受ける場面から始まる『シティ・オブ・グラス』をはじめ、ポール・オースターの小説の多くが、そういう「偶然の出来事」の積み重ねによって展開する。
でも一般的に小説ではこういう「ありそうもない偶然」はタブー視される傾向にある。「ありそうもないこと」を描くのが小説の大きな役割であることを考え れば、ちょっと意外だ。でも多くの小説家は「偶然」を隠そうとし、どんな不思議な出来事も「必然」の積み重ねなのだと読者を納得させようと必死なのだ。曰 く、歴史の必然、自然の法則、個人の内的必然性、運命、宿命……など。
ミステリーにおける「犯人なし」や小説の「夢オチ」同様、「偶然」は嫌われていて、「掟破り」と非難される。でも面白い小説に、ずるいもへったくれもな い。小説の中の出来事などみんな作り事なのだから、どんなに現実では可能性の低い出来事が描かれていようと構わないはずだ。小説はそもそも荒唐無稽なもの であって、問題は、小説のなかの出来事を「偶然」として説明するか、しないかでしかない。
オースターの小説を読むのが、特別な経験と感じられるとすれば、この反則ぎりぎりの手法に負うところが大きい。偶然を偶然として説明することが、逆に奇妙なリアリティーを生むのだ。
「偶然」というのはもともとありふれた出来事である。けれども私たちは、実生活においても、あらゆる説明によってそれを抹殺することに慣れきっている。なぜ私はここで働くことになったのか? それは私が選んだから。なぜここでこの友人に会ったのか? それはここは彼がよく来る場所だからである、といった具合に。でも出来事の本質、それが偶然であるということ自体は変わらない。「説明」することで、偶然が偶然でなくなるなどということはない。
なぜそうまでして「説明」しなくてはいられないのだろうか。偶然を偶然のまま放っておくのはそれほど気持ちの悪いことなのだろうか。
『シティ・オブ・グラス』を最初に読んだときのことはすごくよく覚えている。ソファの上に寝ころがって読んでいたら、そのまま眠ってしまったのだ。僕は夢 のなかで小説を読み続けた。目が覚めるとどこまで読んだのかわからなくなり、ともかくまたどこからか読み始め、最後まで読んだ。今でも、夢のなかで読んだ ストーリーと実際に書かれたストーリーは記憶のなかでごっちゃになっている。
夢のなかでは、物事はつぎつぎに起きるが、その理由を考えることは難しい。「なぜ?」という質問が出来事の進行に追いつかないのだ。いろいろなことに納得しながら前に進むなんてことはなかなかできない。
ポール・オースターの小説もまた、偶然の出来事はそれ以上説明されない。読者は読みながら考えるが、ストーリーの進行に「説明」はついていけない。そこから生まれるリアリティは「現実的な可能性」とはまったく別のもの、夢のなかのリアリティーに近い。

さて、本題の『空腹の技法』について。ポール・オースターが若い頃に書いたエッセイ、序文にインタビューを加えた本だ。エッセイはほとんどが詩人や作家 について書かれたもので、カフカ、ベケットをはじめ、彼が大きな影響を受けた作家から、クヌット・ハムスン、ローラ・ライディング、チャールズ・レズニコ フなど、それほど広く知られているとはいえない作家や詩人まで、幅広く取り上げられている。
さて、書評というのは、知らない作家や作品について書かれたものは面白くない、というのがなぜか普通なのだが、オースターのエッセイはそれが逆になって いる。聞いたこともない作家について書かれたものほど、面白い。どうしても読んでみなくては、という気にさせられる。
なぜ、知らないと面白くないのか。一般的な書評には「説明」が多すぎるからだろう。読者を「分かったような」気にさせ、自分の評価を明らかにする、そう いうタイプの書評は読んでいて疲れる。説明は必ず前提となる知識を要求し、知識のある読者はそこにまたちょっと新しい知識が加わることで満足するわけだ が、前提がなければほとんど意味がない。
オースターのエッセイは個人的な読みに終始している。それを一般的な図式に当てはめて「説明」しようという意識がほとんどない。したがって、ベケットを 読んだことのある読者が新たにベケットについて理解するなどということは期待できない。あるとすれば、オースター自身についてであって、ベケットについて ではない。
これが「評論」ではなく、あくまでも「エッセイ」であるというのは、そういう意味である。表面上は、引用あり、面倒な文学談義あり、の結構コワモテであるにもかかわらず。
最初にこの本を英語で読んだとき、エドモン・ジャベスこそ次に読まなくてはならない作家であると確信した。今改めて読み返すと、なぜそう思ったのか、よ くわからない。ただオースターが読書のなかで経験した出来事が、何かを強烈にアピールしたことは確かだ。それは「説明」ではなくて、そのまま提示するしか ない何かだ。一回限り、他人を同じ本へと向かわせるだけの力を持つだけの文章。オースターのエッセイを離れてジャベスに向かえば、オースターの経験をなぞ ることなどは無意味だし、不可能だろう。
そういう意味では、オースターが小説を書くときの姿勢と、エッセイを書くときの姿勢は完全に一致している。読者は何の説明もあたえられないまま、オースターの読書という経験に半ば強引に引きずり込まれる。
『空腹の技法』を読む人は気をつけなくてはいけない。読み終わった頃には、次に読むべき本のリストが倍になっているかもしれないから。僕など最近は活字を読むのが億劫で、なるべく読む本は少なくしたいのに。
なかでも特に読みたいのがエッセイ「ニューヨーク・バベル」に出てくるルイ・ウルフソン『分裂病者と言語』! なんでも、英語恐怖症(?)の著者がフラ ンス語で、さまざまな言語を駆使しながら書いたものだそうで、英語にも翻訳不可能という代物らしいから、読みたくても読めない。それを理由に、この本のこ とは忘れるしかないのだろうか。
ところで『空腹の技法』は個人的にとても思い入れのある本だ。思い出してみると、出版社に入って初めてやった「自発的な仕事」(考えてみれば、あまり自 発的にやらなかったなあ)はこの本の版権が空いているか調べることだった(もちろんもう翻訳権はとられていた)。あれからもう五年以上経つ。翻訳というの は時間のかかる仕事なのだなあと思う。
ちょうどホームページに書評を書こうと思いついたら、この本の広告が目についた。 そんなことにまで「偶然」を感じるのは、ちょっと恥ずかしいオースターかぶれではあるけれども。「理想的な書評のあり方」を考えつつ、大好きなこの本を最初にとりあげることにした。
今回出版された『空腹の技法』を手にとってみると、自分が想像していた日本版とはずいぶんイメージが違う。ちなみにタイトルはカフカに敬意を表して『断 食芸人たち』としたかったのだが、それも今となってはどうでもいい。ようやく翻訳が完成したこと喜びつつ、この本がより多くの読者に出会うことを祈ってい る。