川口啓明・菊地昌子『遺伝子組換え食品』他

「論争的な新書」を読む

何年か前から新しい新書シリーズの創刊が相次ぎ、「ブーム」なんて言われた。要するに単行本が売れなくなり、場所をとらず単価の安い新書くらいしか売れなくなったというだけのことで、実際にみんなが新書に注目しているかどうかは、怪しい。
確かに新書の棚はヴァラエティー豊かに楽しくなった。その代わり、新刊が出されてすぐに買わないと、あっというまにどこかへ消えてしまう、回転も早くなった。
新書に求められるものがよりタイムリーな話題になったのも、同じ変化の一側面だろう。かつて新書といえばサラリーマンの教養本であり、ある種のステータ スがあった。今はある話題で一冊新書を読んでも、安心はできない。数が多くなって全体の品質が落ちたというだけではない、新書はより雑誌的、論争的なメ ディアに変わろうとしているのだと思う。
相変わらず、どこの新書も地味で「信頼のおけそうな」装幀ではあるが、中身は確実に変わりつつある。時代の空気の変化もあるだろう。古典は岩波文庫、現代的な話題は岩波新書さえ読んでいればまあ大丈夫なんて言っていられたのは遠い昔の話だ。
そんな訳で、最近の新書を何冊かまとめて紹介しようと思う。おもに僕が「一言言いたい」本だ。納得できない本に高いお金を払うのは嫌なものだが、新書く らいの値段なら、たまにはいいのではないかと思う。そんな訳で長々と書いたが、僕の「新書論」は「気に入らない新書を、批判的に読むべし」である。なんと いっても経験上「これは素晴らしい」と思える新書というのは、本当に数少ないのである。

さて一冊目は『遺伝子組換え食品』。最近ちょっと気になった話題なので買ったが、もちろんこれは読まなくても「遺伝子組換え食品は安全だ」という主張の本であることが分かるので、最初から対決姿勢で読んだ(謙虚さまるでなし)。
しかし敵もさるもの、遺伝子組換えの是非という「本題」に入る前に、なんと本のほとんど半分を割いて、遺伝子とは何か? 動物は食べ物をどうやって吸収するか、という教科書的な説明がなされるのである。
これには閉口した。著者の言うように、世の中には「遺伝子」という言葉だけで「危険な食べ物」と思うような人々がいるらしいが、しかしそういう人がこん な本を読むだろうか? 後半で「安全性」を強調するために、催眠効果を狙っていると勘ぐられても仕方ない作りである。
そんな訳でこの前半は読み飛ばし、肝心の後半を読む。著者の主張はいくつかあるのだが、大雑把にまとめるとこういうことになるだろう。

一、遺伝子組換え技術は人類が積み重ねてきた品種改良と基本的に同じであり、使い方を誤らなければ危険なものではない。
一、遺伝子組換え技術によって農産物の安全性をめぐる検査はより厳しくなっている。非遺伝子組換え作物のなかにも危険なものがあることを認識すべきだ。
一、「組換え」の表示はナンセンスである。危険なものならそもそも売るべきではない。「組換え作物不使用」の食品さえ食べていればいい、という消費者の選択はむしろ問題を悪化させる可能性がある。

このあたりの記述はなかなか説得的である。私も表示の問題についてはほとんど賛成だし、現在流通している遺伝子組換え作物それ自体が危険だとは、あまり 思っていない。遺伝子組換え技術について論じるとき、「安全か安全でないか」は水かけ論になることが多いので、むしろこういう主張をある程度理解しておい たほうがいいのではないかと思う。
だが、だからといって組換え技術万歳とはいかない。
遺伝子の説明やらに費やされたこの本の半分に書かれるべきことが、もっとあるだろうと思うからだ。
まずひとつはグローバル化時代における農産物貿易のあり方と肉食の問題である。大豆やトウモロコシの増産は何を狙ったものかといえば、南の国の飢餓を救 うためでは決してない。なんせこれらの作物のほとんどは牛や豚の餌になるのだから。「作物の増産は農民の切実な願い」などという話ではないのだ。経済の問 題として考える視点が必要だ。アメリカが進めるグローバル化と遺伝子組換え作物の問題は切っても切り離せないのだ。
もう一つは科学の倫理ともいうべき問題だ。この本でもちょっとだけ触れているが、この技術は植物だけでなく動物や人間にも応用可能だ。一体どこで技術の 使用に関してストップをかければいいのか。そのことをほとんど考えず、「感覚で」今のところいいんじゃないか、というのが多分この二人の立場のように感じ た。
今ある遺伝子組換え作物の「安全性」「素晴らしい特性(時には環境にやさしい!)」を説明するだけでこの技術は大丈夫、と説得する。なんとなく嫌な記憶 が蘇ってこないだろうか。「日本の原発の安全性」を強調して、原発の正当性が強調されていたのは、まだつい最近のことだ。今や、原発の問題は地球全体の環 境やエネルギー利用という展望なくして語れないのはもはや常識だろう。あるひとつの原発を見て、これは安全、これは安全でない、と判断するような問題では ないのは明らかなはずだ。

既に疲れはじめているが、次の新書(二冊)へ行こう(今日は珍しくとことん攻撃的なのだ)。
話題はうってかわって「人権」である。昨年、『人権を疑え!』というオムニバスの新書が出て、さらに最近『反「人権」宣言』というのが出た。
確かに「人権」という言葉には水戸黄門の印籠じみた力があり、一体これは何なのか? と問うのは実に結構なことである、ということで一気に両方読んでみたわけである。
さて、偶然というか、この二冊の本もやはり二つの部分に分けて読まれるべきものと感じた。
この二冊の場合、二つの部分とは「人権を疑ってみよう」と「その代わりになるものは何か?」である。
「人権」という言葉がいかに便利で、いかに多く使われているかを考えてみれば、最初の問いの有効性は明らかなのではないだろうか。二冊の本の著者たちが指 摘するように、子供や若者が「それって人権無視じゃん」などと喜んで使うのは、この概念をほとんどの人が「無条件に」受け入れてしまっていることを証明し ている。
人権思想の怪しい来歴を語り、その弊害を指摘する部分については、二冊ともよく出来ている。だが、問題はその先にある。西洋近代的な個人主義の広がりとともに神格化された「人権」を否定するならば、社会の基準は何であるべきなのか?
その点になると、著者たちの言葉は途端に幼稚になる。複数の著者が書いているわけだから一概には言えないが、ざっと読んだ印象はそんな感じである。そこまで踏み込まなければ、それはそれで印象がよいのに、とさえ思われた。
人格、家族、法律、国家、さまざまな言葉が飛び出すが、決して説得力があるとはいえない。「人権」の胡散臭ささえ指摘すればあとは何でも言える、という 感じさえ受ける。全体に懐古主義なのはよいとしても、一体何をどこまで戻そうとしているのか、実に曖昧で感覚的な言葉が多いのだ。
『人権を疑え!』の編者、宮崎哲弥氏が喝破しているように、「人権」は国家権力など「公」に対して用いられるべき言葉である。「人権」という言葉がいかに 誤用されていようと、国家が存在する以上は必ず「人権抑圧」は存在するのであり、簡単に「疑う」から「否定」に向かうのはおかしいと感じる。もちろん『人 権を疑え』の著者の何人かは「必要悪としての人権」というほどのスタンスに立っているから、これも一概には言えないのだが。そういう意味では、この二冊の うちどちらかを読むなら、『人権を疑え!』を勧める。どこまでが「疑う」で、どこからが著者のイデオロギーの表明か、それがある程度見えるように作られて いるからだ。
それにしても僕にとっては、「国家」もまた「人権」と同じくらいに疑うべき神話であるのだが、これら多くの筆者たちの、国家をあまりに自明のものとする 姿勢には今更ながら驚いた。きっと「国家」に対してよほどいいイメージを持っているのだろう、と思ってしまった。


デイヴィッド・ハンドラー『傷心』

デイヴィッド・ハンドラー『傷心』
(2001年6月、講談社文庫、819円)

徹夜後のリアル

ミステリーだ。このジャンルの読者は大抵「ミステリ」と呼ぶらしいが。
つまり僕はミステリ(ー)なるジャンルがよく分からないのだが、なぜかこのシリーズだけは新刊が出るたびに買うことにしている。出たら書評を書こうと思っていたら、出てしまった。そして、どんな風に書こうか、今頭を抱えている。

このジャンルが気になったのはたった一度のことで、その頃僕は人が「いいよ」と言うミステリ(ー)を片っ端から読んでみた。短い時間のことなので大した量ではないのだが、そもそも読書量のそれほど多くない僕としては、これはちょっと例外的な出来事だった。
それでどういう感想をもったかというと、「どれもこれも結構面白いな」ということだった。よいアドヴァイザーが周りにいたからかもしれない、という可能性はおいておくとして「どれもこれも面白い」というのはまたちょっと投げやりな態度でもある。
つまりこういうことだ。謎解きという強力なエンジンをもったこのジャンルは、そもそもある種の面白さを前提にしている。途中で投げ出してしまうようなミ ステリ(ー)というのは、そもそもミステリ(ー)と呼べるのかさえ疑問がある。もちろんミステリ(ー)を読み過ぎて舌(目?)が肥えてしまった読者という のはまた別だが、僕のような初心者には、その面白さに優劣は感じても、途中でやめるような理由はほとんど見当たらなかったのだ。
でもやがてその面白さには飽きてしまった。飽きてしまったというより、それまでの読書習慣にあまりにも異質なものが入ってきて困った、といったほうが正しいかもしれない。
それまで僕は読書を全然違うふうに捉えてきたからだ。
一冊の本を読み始めるのには、大変なエネルギーを必要とする。そもそも活字を追うのは大変面倒くさい作業である上に、ある一人の人間の思考や想像力を追 うのは、とてもパワーのいることだ。ところが、ミステリ(ー)はそうでない。数ページ読めばもうほとんど何の努力もなく徹夜くらいへっちゃらだ。
さて、こう書くとまるで読書における「努力」「苦痛」が大切であるみたいな感じだが、そうではない。僕は基本的に読書の「苦痛」と「快楽」を天秤にかけ ながら本を読んでいるのだと思う。その片方がとても少ないジャンルというのは、得られる「快楽」の判断基準を大きく狂わせてしまう、それだけの話である。

えらく個人的な話で恐縮なのだけれど、ミステリ(ー)にはまった時期というのは、僕の比較的平坦な人生のなかでも、ちょっと辛い時期と重なっていた。そ んな時に、ミステリ(ー)にはずいぶん慰められた。なかでもとりわけこのデイヴィッド・ハンドラ(ー)の「スチュワート・ホーグ・シリーズ」はまるで麻薬 のように(大袈裟か?)僕を痺れさせてくれた。
すでに書いたように「謎解き」は単なるエンジンにすぎない。たぶんミステリ(ー)で重要なのは読者が浸るための世界観というか、もっと大雑把な言い方をすれば、作品の持つ「雰囲気」ではないかと思う。
「謎解き」というエンジンに導かれて出会う人間や場所は、必ずしもリアルである必要はない。「リアル」とは別の次元で読者はもうその世界にハマっているのだ。そうだとすると、あとの問題はその世界、その登場人物が好きかどうかだ。
僕はすっかりこのスチュワート・ホーグという探偵(本職は作家、ゴーストライター)、それに彼の元妻である女優メリリー・ナッシュをはじめ、彼の言葉で (まあ作家の言葉だが)描かれる人物たち、彼の言葉で描かれる「有名人たち」の世界に幻惑されてしまった。皮肉っぽくて、傷つきやすくて、いきがってい る。気の利いたアメリカン・ジョークを飛ばす彼らはちっとも「リアル」じゃないが、魅力的だ。
もしかしたらワイドショーとかに出てくる日本の芸能人たちも、見る人が見ればこんな風に見えるのかもしれないなどと思いながら、とにかく「うっとり」させられるわけだ。
最後までとても眠るどころでなく朝を迎え、ミステリ(ー)は終わる。終わってしまえば「謎解き」のエンジンなんてどうでもいいのだ。始電の走る音が聞こえ、朝の光は見事に「リアル」だった。
たぶんこんな紹介で読んみよう、と思う人がいるとは思えないが、それでいいのだ。ミステリ(ー)・ファンの間ではこのシリーズ、結構有名らしいし、わざわざ門外漢の私があれこれ言ってみても、たぶんあまり意味がないだろう。
それより、ミステリ(ー)から戻ってきたときの朝の感じこそ、アンチ・ミステリ(ー)な方にぜひ味わって欲しいと思って、こんな文章を書いた。


加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』

加島祥造『いまを生きる ――六十歳からの自己発見』
(2001年4月、岩波書店、1700円)

爺礼賛

僕の「お爺ちゃん」は二人とも割合に早く亡くなってしまった。
母方の祖父については、記憶がない。音楽の好きな人だったようだ。
父方の祖父については、ぼんやりと記憶がある。訪ねていくと、いつも時刻表を調べて、帰りの列車の時間を心配してくれた。僕は時刻表が好きだ。時間を忘れて「読みふけって」いると、あまり話すことのなかった祖父のことをときどき思い出す。
そんなわけで、爺さんというものへの、憧れがある。
僕にとっての憧れの爺さん像、それが加島祥造なのだ。

加島祥造を知らない人のためにちょっと紹介しておこう。彼はフォークナーの名訳で知られるアメリカ文学者、事典の使い方などの啓蒙的な文章を書いた知識人、あまり有名とはいえない詩人、ほとんど世間では知られていない画家である。
最近の著作では老子の口語訳『タオ――ヒア・ナウ』(パルコ出版、筑摩書房の『タオ――老子』もほぼ同じ内容)がとにかく素晴らしい。英語を迂回して韻文的に訳された老子は、わかりやすくて、美しくて、心に響く。一家に一冊おいてほしい名作である。
この本であるが、著者が長年知人に配信しつづけた「晩晴館通信」に書かれた随筆を集めたものである。配信といってもメルマガではない。今もときどき郵便で知人に届けられるという「通信」には、著者がその時々に感じた思いが自由につづられている。
六十三歳から、十五年間。僕にとっては想像しがたい年齢である。
でも、六十、七十を超えたって、瑞々しい、ときには激しく、ときには恥ずかしい心の動きはある。このごく当たり前のことに、猛烈に感動してしまった。
このちょっと相田みつをみたいな表紙(そしてこのタイトル…)の本を電車のなかで読みながら、涙を流していた僕はちょっと異様な感じだったにちがいない。

さて、いよいよこの本の素晴らしさを言葉にしようとして、すっかり手が止まってしまった。ここに書かれたエピソードや言葉を、ちょちょいと紹介すればい いのだろうか? なんだかちょっと違う気がする。僕のような若造が、「こんなこと言ってます、素晴らしいですねえ」なんて言えるような種類のものではない のだ。
この年齢のちがい、経験のちがいに、ちょっと目眩がする。
同時にとてつもなく大きな共感をおぼえる。
そうだ、このエピソードならこの文脈に合うかもしれない。
加島祥造が大学を退官するとき、同じときに卒業する学生たちに向かって挨拶をしたのだそうだ。こんなとき僕の記憶では、学校の先生というものは「私も一緒に卒業します、頑張りましょう」なんて訳の分からないことを言ったものだ。
加島先生はかわりにこう言う。
「いま社会に入ってゆくあなたたちを、そこから出てゆこうとする私が、どのように祝福すべきだろうか。……苛烈な物質追求の社会に入ってゆく。そこは能率本位で、計算ずくの競争社会です」
そう言いながら、ではお互いに共通する何かがあるとすれば何だろう? と問う。そこで出てくるのがこの書のタイトルでもある「いまを生きる」である。こ う書くとなんだかしょぼいが、でも「いまを生きる」のひとつしか分かちあえないほど、大学を卒業していく若者と、これから退職して隠居する先生は遠いの だ。遠いけれど、その一点でつながっている。
子供が爺さんに感じる愛情、爺さんが子供に感じる愛情というのは、そういうものかもしれない。なんて遠い世界を生きているんだ、と思いながら、どこかでつながっている。でも、そのどこか、こそ一番大切なものなのではないか。
だからこそ、子供は爺さんが好きなのだ。時刻表の難解な世界は分からないけど、なぜかその一点で僕のことを心配してくれた「お爺ちゃん」。
かつて加島先生にお会いしたとき、彼がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今の四、五十代の人間はまったく駄目だ。これから君みたいな若い者が世の中を変えていく。今の若い者にはその力を感じる」
もちろん僕には四、五十代の人間が駄目かなんて分からないし、自分も含めて今の若い者がどれほどのものか、とも思う。でも、なんだか根拠のないそのメッセージのおかげで、僕はすごく楽になったのを覚えている。
爺さんでなければ言えない言葉はたくさんある。そんな言葉がたくさんつまった本、ぜひ騙されたと思って読んでほしい。不意の涙にも注意しつつ。


ベルナルド・リエター『マネー崩壊 』

ベルナルド・リエター『マネー崩壊 ――新しいコミュニティ通貨の誕生』
(2000年9月、小林一紀他訳、日本経済評論社、2300円)

SF的思考で「お金」を考える

昨年『エンデの遺言――根源からお金を問うこと』(NHK出版)という本を読んだ。それ以来、「地域通貨」あるいは「オルタナティヴ通貨」というものの存在が気になっている。
われわれの身のまわりに、当たり前のように存在しているお金。それをもう一度考え直してみること、それは簡単なようで難しい。まるで空気の存在を疑ってみることのように。
『エンデの遺言』は実に単純な問いから出発する。それは、お金にはなぜ利子がつくのだろうか、という問いだ。おそらく交換の利便性のために作られたお金 は、同時に価値の保存という重要な役割を持っている。食べ物をはじめ、あらゆるモノは古くなって価値を減じていくが、お金はそうではない。この特権的な性 質から、人々はみなお金を欲しがる。お金の希少性が「利子」を生むようになったのが先か、お金が単なる「手段」であることを超え「価値そのもの」になった のが先か、私は知らない。ともかく、歴史の中で人間の手で「作られた」性質をもつお金の存在を私たちは受け入れ、それとともに暮らしているわけだ。
利子の存在は、単にモノであるはずのお金に神秘的な性格を与えることになった。モノを必要以上に持つことは大きなコストとリスクを伴うが、お金の場合は そうではない。持っていれば持っているほど、その力は大きく、限りがないのだ。利子の存在は、お金をめぐる人間の競争状態のはじまりといっていい。
利子のないお金は存在しうるのか? そうだとすると、そのお金を使う人々の暮らしはどんな風に変わるだろうか? これが『エンデの遺言』の主題であっ た。過去、実際に導入された「時とともに減価する」通貨、あるいは現在も世界各国で現在使われている地域通貨を考えながら、新しい時代の通貨を予感させ る、そんな本だった。

この話題はいまだ遠い世界にあると感じる。国内でも現実的な取り組みが始まっているというにもかかわらず、私たちはお金のことを真剣に考えるのにいまだ SF的な思考を迫られる。「生活感覚の延長で」などと言ってはいられないのだ。それほど根深く、お金のあり方は人間にとって当たり前になっているというこ とだ。
『エンデの遺言』がなぜM・エンデから始まらなければならなかったのかも、よく分かる。「すでに当たり前になったもの」を見直すことほど、人間の想像力が不可欠なのだ。
そういう意味では、今回紹介する『マネー崩壊』もまたSF的である(やっと登場した……)。
SFとしてとらえたとき、『エンデの遺言』はやや不満の残る内容であった。エンデだからファンタジーと言うつもりもないのだが。「予感」に満ちてはいて も、どこか説得力に欠ける。その説得力こそ、SFのサイエンスでありフィクションである所以であろう。あるいは『エンデの遺言』は、現時点におけるドキュ メンタリーとして優れていたともいえる(実際、この本はNHKのドキュメンタリーを元にしている)。それは変化の兆しをうつしだしはするが、未来へ向けて の提案とまではいかなかった。
端的にいえば、疑問はこうである。新しい地域通貨が国家通貨の存在に影響を与えるような力をもちはじめたときに、一体何が起きるのか? ある通貨を発行 するのが国家でなくなったとして、「誰か」がその発行の権限を持っているとしたら、最終的にそれは同じことなのではないか? その「誰か」の良心に期待す るなどという馬鹿げた前提に立って、地域通貨を全面的に応援することなどできない。

さて、長々と前置きをしたのは、『マネー崩壊』がある意味で胡散臭い感じのする本だからでもある。このあたりはこの書物の本質にも関わるし、同時に日本語版の提示の仕方にもやや問題があるのだと思う。固い本なのか柔らかい本なのか、どっちつかず。
でも騙されたと思って、読んでみてほしい。これはSFとして読んだとき、実に面白いのだ。記述のスタイルからして、かなりSF。前述のような、現在広ま りつつある地域通貨が「国家通貨を脅かすほどの」影響力を持ち始めたとき、世界はどうなっていくのか? という問いに、いくつかのシナリオを提示している ところなどは、SFそのものである。結果的に、いくつかの種類の通貨が同時に共存していくのが望ましいという著者の結論が引き出されるのであるが、その予 測が楽観的であるかどうかはともかく、こうした可能性の提示から、いくつかの問題点が浮き彫りになるのは見事というほかない。
欧州でユーロの誕生に深く関わったという著者だけあって、グローバル経済の現状に対する目配りも行き届いている。だからなぜ今お金を問い直すかという、出発点もはっきりしている。
などなど、この本の美点はいくつもあるのだが、それでもなおこれをSFとして読むことを勧める(しつこいか?)。まずは楽しんでほしいのだ。当たり前を 疑うこと、現在とは違う前提のうえに成り立つ未来を想像すること、そのスリリングな行為は、かつて科学技術が世界を変えるだろうと信じられた頃に読んだ SFの面白さに通じる。
科学だって想像力から出発したのだ。経済もそうであって悪いはずがないのである。


周防正行『インド待ち』

周防正行『インド待ち』
(2001年3月、集英社社、1700円)

日本が見たインド

またしてもインド本である。
「シコふんじゃった」「shall we ダンス?」などで知られる映画監督が書いたインド旅行記。なぜ映画監督がインドなのかといえば、テレビが例の『ムトゥ』ブームに乗ってインド映画についてのドキュメンタリーを企画した。その取材のついでに旅行記も書いてしまったということらしい。インド映画→ダンス→周防監督という実に単純な思いつきっぽい企画なのであるが、きっと番組も面白かったのではないかと思う。見る機会がなかったのが残念だ。
さて、本書であるが、思い入れたっぷりのインド本が巷に溢れるなか(というほどでもないか)、普通の日本人が普通の感覚のままインドへ行き、普通に感想を漏らすというなかなか貴重なものになっている。こりゃスゴイという派手な面白さはないが、どういう訳かとても新鮮な感じがした。
一つには、周防監督のインドへの(インド映画を含め)思い入れのなさがその理由だろう。

んー、『ムトゥ 踊るマハラジャ』にあるリアリティとはどんなものなのだ。

この一文を読んで僕は周防監督の映画監督としての資質を疑った(そんなもの疑っても仕方がないが)。僕に言わせれば、『ムトゥ』はリアルのかたまりなのである。
数週間にわたる取材を克明に綴った結構長い本なのだが、周防氏はひたすらインド人に尋ねつづける。インド映画のリアルとは何か? なぜ歌と踊りがあるのか? インド映画の魂とは?
これにはやや呆れた。最初は番組づくりのためにわざと答えを先延ばしにしているのかと思ったが、そうではないらしいのである。そして、最後の最後になってようやく理解する。どうやらそれがこの本の「ストーリー」らしいのだ。
無理もない、とも言える。確かに『ムトゥ』は荒唐無稽でリアルとはほど遠く、歌と踊りは映画の必須要素とはとても言えず、インド映画の魂といわれてもピンとこない。これは日本人のほとんどが共有する感覚であろう。しかし、そのためにこんな分厚い本をまるまる一冊読まされるのでは……。(その「答え」はもちろんここでは書きません。書いちゃえばつまらないことなのはお分かりでしょう。)
ところが、すでに書いたようにこの本は別の意味で結構面白いのだ。
感心したのは、周防氏の几帳面さである。毎日、自分が何を食べ、何時にベッドに入ったか、などということが全部書いてある。映画監督というのはみんなこんなに几帳面なのであろうか。小津安二郎やタルコフスキーなんかが書いた日記は、確かにそういうマメさを感じる。
この几帳面さのおかげで、取材中のインド人たちとの会話も、かなり正確に再現されている。ディスコミュニケーションのあらわになったやりとりに、周防氏がツッコミを入れていくというスタイルなのであるが、ツッコミよりもその会話自体が面白い。テレビ番組では大部分がボツにしたであろう、とぼけた会話があちこちで展開されている。これは貴重だ。

「この映画のことを聞いて見にきました」(中略)
「どういう評判を聞いたのですか」
「すごくいいという噂を聞いたから、奥さんに言われて見に来たいなと思いました」
「その噂は、スターがいいのか、ストーリーがいいのか」
「見ないと分からない」

こんな調子である。さすが映画監督、リアルが分かってますねえ。
そんな訳で、この本では最終的に「インド映画って何?」という疑問がなんとなく分かった、というところで終わるのであるが、それは周防氏個人の問題であって、読者にはいまいちぴんとこない。むしろ、読者にとっては理不尽さがきわだったところで終わる。それはまあ仕方がない。前に紹介した『喪失の国、日本』とはレヴェルがまったく違う本なのだ。一ヶ月にも満たない滞在でそれを求めるのは無理だし、周防氏も最初からそんなことは意図していない。普通の日本人がインドに行って抱いた普通の感想。そこに終始したところがこの本の成功なのではないだろうか。