森達也『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』

森達也『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』
(2001年3月、飛鳥新社、1700円)

ささやかなファンタジー

超能力の話題がホットなのにはもちろん理由がある。賛成派、反対派を問わず、基本的には「科学的な」語彙を使っていると(本人たちが)思い込んでいる点 だ。本当はぜんぜん議論がかみ合わないにもかかわらず、語彙が重なっているために激しい議論がたたかわされるのだ。宗教とか芸術だとこうはいかない。宗教 家や芸術家に「科学的でない」などと言ってかみつく科学者がいたとしても、笑われるだけだろう。
科学者たちは自分たちの「言葉」がこの分野では無法に使われることに苛立っているのだ。結果、状況は惨憺たるありさまである。議論は「科学的」とはほど 遠く、醜い誹謗中傷の応酬になる。これが面白いかどうかはともかく、エンターテインメントとしては確かに成り立つ。同じ穴のムジナが見えがちな政治的議論 などよりは、ずっと盛り上がる。
でも、ほとんどの人にとって、超能力の真偽はもはやどうでもいいことだ。すでに多くの人々は、仮に超能力があったとして、それが自分にとって大きな問題 にはならないということを知ってしまっている。科学者から見れば、物理法則に反する超能力の存在は原子爆弾の発明など問題にならないほどの脅威なのかもし れないが、すでにわれわれは、それが悪用される心配がほとんどなく、その利用はスプーン曲げなど、平和的かつ些細な目的に限られることを「経験的に」知っ ているのだから。
したがって超能力をめぐる議論は、二つの職業のぶつかり合いという以上の迫力をわれわれにもたらさなくなってしまっている。超能力が私たちにまったく新しい世界をもたらしてくれるかもしれない、と感じられた時代はもはや過去になってしまった。

本書は三人の「超能力者」たちの日常を追いかけるTV ドキュメンタリーを制作した著者が、TV製作という現場からこの論争について考えるという体裁をとっている。バラエティーとドキュメンタリーという違いは もちろんあるが、ここまで超能力に対して真剣な態度をとれるのは、やはりTV業界の人間ならではという気がする。もちろん、真剣だからこそ面白いのではあ るが。
結果として、当たり前といえば当たり前の事実にぶつかる。
ひとつは、賛成派と反対派のうち、反対派(おもに科学者たち)のほうに不誠実さが目立つこと。
これはもちろん、超能力の真贋とは関係がない。二つの職業のぶつかりあいと考えれば、想像できることだ。たとえばデパートと小規模小売店舗とか、商社と 零細農家とか。こうした議論自体、科学者にとってはまあどうでもよいのだが、超能力者にとっては死活問題だ。もちろん彼らは真剣である。
もうひとつは、これも周知のテレビ業界自体の不誠実。著者はもちろん少数派の良識派ジャーナリストを演じる。そのジレンマと悩みはひとかたではない。
読んでいてどうも気持ちが悪いのは、結局、こちらとしてはまったく図式が変わらないということだ。表面的に「面白いから」この話題を追うが、「見る側」 はちっとも真剣になれない。どうでもいい話題をテレビが盛り上げ、一部の人々がヒートアップする。テレビを舞台に自分と世界の「無関心」が増大していく感 じがして、気持ち悪いのだ。
「信じるか、信じないか」
ひたすらこの問いをもって著者は超能力にアプローチする。著者は最後まで自分の答えを出さないままに悩む。それがこの本の「面白さ」なのであるけれど も、これだけの分量の文章をそれだけで書くのはちょっと無理があるようにも思える。その真剣さにだんだんつきあいきれなくなってしまう。すでに書いたよう に、「信じるか、信じないか」は一般の人間にとって、もはやどうでもよい問題になりつつあるのだから。
もちろん、超能力という言葉のもつファンタジーとしての力は、まだ残っている。ただ、それはあくまでもささやかなものだ。「信じることも信じないことも できない」を延々とつづったこの本は、もしかしたらテレビを舞台にそうしたささやかな超能力のあり方を考えようとしようとしているのかもしれない。それは もはや科学の枠を超えた力の存在などというよりも、何かを信じることの可能性みたいな、身も蓋もない話に近くなる。
考えてみれば「科学」という言葉自体、高度成長期「ウルトラマン」の頃に比べてなんと夢のない陳腐な言葉になってしまったことだろう。ゲノムであろうが 人工衛星であろうが、今やすべては経済に還元されてしまう。科学者も気の毒なご時世である。スプーン曲げをはじめとする超能力がどこかかび臭く見えてしま うのは、しつこく「科学的語彙」にこだわりすぎたのも原因のひとつだろう(そういえば遠い昔に科学とすっぱり縁を切った(?)占いは相変わらず元気であ る。やれやれ)。
なんだかちょっと悪口みたいになっちゃったけど、現代の受難者としての超能力者という読み方もできるし、業界ぽい話などもいっぱいあって結構面白いですよ。

ナンシー・エトコフ 『なぜ美人ばかりが得をするのか』

ナンシー・エトコフ 『なぜ美人ばかりが得をするのか』
(2000年12月、木村博江訳、草思社、1900円)

得にならない美をめぐる考察

どういう風に紹介したらいいか、ちょっと迷う本だ。「お手軽な似非科学本」とか「チープなダーウィニズムの臭いがする俗悪な読み物」とでも言ってしまえば簡単に通りそうだが、それだけではちょっともったないな気もするのだ。
ちょっと手にとるのがためらわれるような表紙をめくってみよう。第一章で著者はこう言う。「多くの知識人は美はとるに足りないものだと指摘する」。普通そ ういう認識はなかなか共有できないと思うのだが、そんな「知識人」の代表として挙げられているのが、アメリカのフェミニスト、ナオミ・ウルフの著作『美の陰謀』である。なんとまあ。やはりアメリカのフェミニズムはそれだけ力があるということか?
『美の陰謀』はなかなか面白い本だ。この本は美がこの社会のなかでいかに機能しているか、を説いた本。「男性社会」は女性の美を礼賛することで、女性の欲 望をその中に限定し、男性が女性を支配しているという社会のあり方を隠蔽し、そのシステムを維持する。現代において、美は金儲けの手段であり、この社会の あり方を存続させるための強力な切り札である、というような。美しくなろうとして化粧やダイエットに投資しつづける女性は、男性に搾取されている、という のだ。
確かに、現代のアメリカを代表するフェミニストが書いただけあって、素晴らしく威勢がよくて、やや乱暴な書き方ともいえる。読んでいると、あたかもどこか の男性たちが共謀して美という概念を作り出したかのような錯覚さえ、おぼえる。もちろん、ちょっと筆がすべってしまったとしても、ナオミ・ウルフはそんな ことを言いたいわけではない。
でも、そんな錯覚がありえてしまうくらい、私たちは「美とは何か(この場合あくまでも人間の)」についてはっきりと理解していないし、そのことを正面から 考えないことに慣れきってしまっている。この本の著者はそこに苛立っていたのであろう。じゃあ、科学的に「美」をとらえるとしたら、それは何なのか。簡単 にいうと、この本の狙いはそこにある。
よく考えてみると、確かに人の美しさには、タブーと言えるような側面がある。女性誌などに載っている有名女優やモデルのインタビューなどの取り上げ方ひと つを見ても、彼女の美しさをあくまでもモノとして、あるいは生物学的なものとして限定することはありえない。書き手は、意識してか、あるいは無意識のうち にか、その美しさをその人間の内面的なものの現れとして描こうとする。あるいは、美しさはときに服装や化粧といったものの効果にすり替えられる。人の美し さはただ見れば自明のことであるから、であろうか。それにしても、なんだかちょっと気持ち悪い。
著者は同じような事例として、相手が美人であるときとそうでないときの人々の対応の違いに触れている。つまり、人は外見の美しさをたびたび、別の性質(たとえば頭のよさ、性格のよさ)と混同してしまうということだ。
そんなわけで、著者は人間の美しさについて、それをひたすら生物学的な特徴として考察する。シンメトリー、皮膚の肌理、肉づきのよさ、などなど。それは若 さとか、健康とか、生物としての強さとか、そういう言葉に置き換えられるものだ。人間は先天的にこの「美しさ」というものを感知する能力をもっている、と いうことだ。
美しさは文化的な概念だとか、美しさは見る側のなかに存在するとか、そういういわば「文系的な」美のとらえ方と真っ向から対峙しようとする。それはそれで 結構いさぎよい態度なのではないか、と僕はちょっと感心した。細かい議論はチープだし、論証の過程などはかなり杜撰ではあるけれども、先にふれた「美をめ ぐるタブー」に挑戦する試みとしては、評価できるのはないか。
「心 がけが容姿に現れる」とか「自分を磨く」「美しさを手に入れる」といった常套句はまさにこの生物学的な「美しさ」を隠蔽するための言葉といっていい。そう 考えると、人の美しさをあくまでも生物学的な特徴と考えることは、フェミニストであるナオミ・ウルフの主張とも重なってくるのではないか? なんだかおか しなことになってしまった。
「美」はあまりにも多くの意味を引き受けた言葉だ。おまけに、何を美しいと思うかは、プライヴァシーの領域というか、神秘的な領域として守られている。だからこそ「陰謀」が成り立つということは確かだ。
もちろん、ナオミ・ウルフをはじめフェミニストたちがこの本を受け入れる見込みはまったくない。なんといっても著者は、男が女を容姿で選ぶのは生物の行動 として根拠がある、などと言っているのだから。その結果、世の女性たちが血眼になって男性を惹きつけるために化粧やらエステやらに投資するのは当然とい う、結論になる(本書)。
話がぐるっと一回りして、戻ってきてしまった。この複雑に入り組んだ議論に決着をつけさせるのは無理というか、不毛である。UFOは存在するか? という 話と同じくらい、あまりにも前提がかけ離れている。でもそんな不毛な議論も、とりあえず一度ぐるりと一回りすると、それはそれで意味があるんじゃないか、 などと考えるのは、僕がよほどの暇人だからだろうか。

キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』他

キラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』
(1999年9月、村松潔訳、新潮社、2000円)

インドのまわりをうろうろする読書

ときどきインド料理屋へいくと、これはスゴイと思うような音楽がかかっている。日本や欧米のハウスなんぞ目じゃないという、ノリノリかつクレイジーなダンス・ミュージック。あるいは、ミュージカル映画の主題歌とおぼしき歌の陳腐なアレンジのなかに、素晴らしく美しいメロディーラインが埋まっていたり。とにかくびっくりするような音楽が確かに存在するのだ。
ところが、いざレコード屋に行ってみると、途方に暮れるばかり。なんというか、とりつくしまがないのだ。映画のサントラはみんな同じジャケットに見えるし、古典は古典でひどくかび臭く見える。日本でいえば、ドラマの主題歌のCDと雅楽のCDだけがあって、その間は全部抜けているというような印象である。一体、どちらから聴くべきなのか、その中のどれをまず聴くべきなのか、さんざん迷ったあげくに、疲れ果てて帰ってくる。そんなことを何度か繰り返した。
たぶん、アプローチの仕方自体、間違っているのだろう。そんなわけで、いつも気になっていながら、いまだにインド音楽のことはさっぱり分からない。インド料理屋にいく度に、まるで初めて聴いた音楽のように、びっくりさせられるのである。

インドへの興味を話すと、「行ったことあるの?」と聞かれる。行ったことはない。「まず、行ってみなきゃ」と言われる。その通りである。どうして行かないかというと、それはいろいろと理由はあるのだが、結局、ビビってるのではないかと思う。何だか訳が分からないまま、えいやと飛び込むには、ちょっと存在が大きすぎるというか。存在が大きすぎるなんて言い訳がましい、とにかくビビっているのだ。
そんなわけで、ときどきインド料理屋へ行きカレーを食べながら、ときどきCD屋のインドコーナーをのぞきながら、「いやー、インドは分からん」などと言っている。ときどきインドについて書かれた本なども読むが、それもいたって消極的な選択である。

最近読んだ本でいうと、まずはキラン・デサイ『グアヴァ園は大騒ぎ』。ちょっと前の『ムトゥ』ブームを思い出させる本である。主人公はぐうたら者の郵便局員。何もかも面倒くさくなって、グアヴァの木の上で暮らしはじめるのだが、なぜか聖者扱いされて大騒ぎになる。愉快な話で、ラストなどは実にそう快な感じであるが、小説としての出来はイマイチ。間延びしている。サルマン・ラシュディなども誉めているようだが、これも小説の出来自体をというより、こういう小説が書かれ、受け入れられる状況そのものを歓迎している、という感じだろう。
もう一冊は同じ新潮社の「クレスト・ブックス」から出ている『停電の夜に』。前著とは対照的に、こちらは小説として実にクオリティーが高い。オー・ヘンリー賞受賞というのが、いかにも似合う、佳品ばかりを集めた短編集である。欧米に暮らすインド系の人々が登場し、ちょっとした文化の摩擦と、普遍的な人と人とのすれ違いを重ね合せた話が多い。
中身は対照的であるけれども、実はどちらも英語を母語としたインドの女性によって書かれた作品である。これを敢えてジャンルと呼ぶならば、少し前に出たアルンダティ・ロイ『小さきものたちの神』(DHC、2300円)もこれに入るし、ちょっと違うけれどもパキスタン出身の文学研究者サーラ・スレーリの自伝的エッセイ『肉のない日』(みすず書房、2800円)などもこの「ジャンル」の佳品といえるかもしれない。
いずれにしても、「西欧人の目で書かれたインド」と「インド人の目で書かれたインド」の間くらいに位置する彼女らの物語に、なぜか惹かれる。もしかしたら、それはインドそれ自体への興味とはちょっと違うんじゃないだろうかとも思うのだが。

さらに、インド関係(?)の本で最近読んだのは、メキシコのノーベル文学賞受賞詩人・オクタビオ・パスが書いた『インドの薄明』。メキシコ大使としてインドに数年滞在したパスのインド観を綴ったもので、面白いのだが、翻訳がひどい。パスの著書はたいてい翻訳が読みにくいといわれるのであるけれども、中でもひどいものの一つだろう。、スペイン語で読むと実に明快な印象を受けるのに、とも思うが、確かに詩人ぽい感覚的な物言いが多くて、翻訳すると訳が分からない、という理由は実によくわかるのだけれど。
パスのインド論を読むなら、ずいぶん昔に翻訳が出た『大いなる文法学者の猿』(新潮社)のほうがまだよいかもしれない。本当はこっちのほうが訳の分からない本なのだけれど、翻訳はいい。
こういう本を読むと、何となくインドが分かったような錯覚を楽しむことができる。でもやっぱりそれは錯覚なんだろう。パス本人のインド観の善し悪しはともかく、「薄明」というタイトルが示唆する通り、この本の中でも、インドという国の像はどこまでもぼんやりとしていて、詩人はそれを楽しんでいるという感じなのだ。ある意味では世界のなかで、インドという場所は常にそういう役割を担わされてきたともいえる。もうひとつの世界、神秘と混乱のイメージ。
そんなことを考えだすと、僕のインドへの興味はまさに、こういうイメージを一方的に押しつけて遠くから楽しんでいるという、最悪のものかもしれないと思えてくる。
机の上に置いてあってずっと読んでない本のなかに、さきほど少し触れたサーラ・スレーリの植民地インドの表現をめぐる評論『修辞の政治学』がある。たぶん、これを読むと、僕が書いたようなうやむやが少し明らかになるのではないかと期待しているのだが、分厚くて、なかなか進まない。帯には「逃れ去るインド」とある。
文化の多様さを捉えようとする試みは、いつだって失敗してきた。これからもそうだろう。その試み自体が多様さに対する邪悪な挑戦状であることも多い。でもだからといって、それはなくならないし、これからも人はそのために右往左往するに違いない。
なんといっても、文化は安定したものではありえないのだ。生き物のようにたえず変化しようとしている。そんな力を、インドから外に出た女性たちも、メキシコから外に出た詩人も、意図的でないにせよ、証明している。僕がどんなインド音楽を聴こうと、「これがインド音楽」ということなど有り得ないのだ。これかな、思った瞬間に、インドは遠くのほうまで走っていて、あっかんべーをしている。

セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』

セルゲイ・ドヴラートフ『かばん』
(2000年12月、ペトロフ=守屋愛訳、成文社、2200円)

日常に戻る前に

本はもちろん面白そうだと思って買うのだが、それが裏切られぬままさっと読み、本棚に消え、やがて記憶からも消えていくような本というのは、実は少ない。 さっと読まれるためには、面白いだけでなく読みやすい本でなくてはならない。また、やがて忘れられていくには、控えめな、日常的な内容であることが必要 だ。
面白くて、読みやすくて、控えめで、実にまっとうな本。それが僕にとってドヴラートフの小説のイメージだった。そんなわけで、新刊『かばん』を本屋で見つけると、一秒も悩むことなしにレジへと持っていったのである。
家に帰ってみると、もうひとつの邦訳『わが家の人びと』はいつの間にか本棚から消えてなくなっている。英語版の『妥協』は見つかったが、どちらもストーリーがなかなか思い出せない。とにかく面白かった記憶だけはあるのだが……。
『かばん』を数行読みはじめて、すぐに「あ、これだ」と思い出した。ストーリーではなく、「面白い」の中身である。でも、それを言葉にして説明しようとすると、難しい。やはり「控えめな、実にまっとうな」だろうか?
スタイルはいたってシンプル。語り手の記憶力がいいのか、話をでっち上げるのがうまいのか、疑いつつも引き込まれてしまうような。いわゆる話し上手という 感じなのだが、それだけではない。昔語りは饒舌になりがちだが、語り手の脱線ですら計算し尽された感がある、ひどく完成度の高い文章なのだ。
話の中身もいたってシンプル。スーツケース一つで旧ソ連からアメリカに亡命してきた語り手が、持ってきた「かばん」の中身ひとつひとつにまつわる古い思い 出を語っていくという構成。ソビエト時代の馬鹿げた日常に対する語り手の怒りや嘆きが、懐かしい過去として語られるとき、なぜか奇妙な輝きをもって見えて くる。読みながら、何か生きる勇気さえ与えられる。
現在につながる過去ではなく、過去をただ過去としてとらえる。それが出来ることほど幸せなことはないのかもしれない。亡命して故国を離れるということは、それ自体悲劇的なことだけれども、ここに描かれた過去のなんと美しいことか!
そんなこんなで、あっという間に『かばん』を読み終わってしまった。きっとすぐにストーリーも何もかも忘れてしまうだろう。なんといっても、私たちはこの本に描かれているのと同じ種類の日常を、今も生きているのだから。
ドヴラートフの次の翻訳が出るのはいつだろうか。きっとすっかり忘れた頃だろう。

小沼純一『サウンド・エシックス』

小沼純一『サウンド・エシックス』
(2000年11月、平凡社新書、760円)

死ぬ前に聴きたい音楽

学生時代の飲み会などで(だれたときの)定番の話題として、「明日死ぬと分かったら何をする?」とか「死ぬ前に何を食べたい?」といったものがある。「死ぬ瞬間にかけるとしたら、どんな音楽をかける?」というのもその一変種だろう。
確か、しりあがり寿が『瀕死のエッセイスト』というマンガで描いていた。死を意識した病人が、この悩ましい問いを考え抜いたあげくに、結局、ピンク・フロイドの「エコーズ」を選ぶのである。ジョン・レノンの「イマジン」もいいけど、あまりにも短すぎるから、とかいう理由だったように記憶している(「エコーズ」は長い)。

『サウンド・エシックス』はある意味で退屈な本だ。少なくとも、ある程度「音楽論」に親しんでいる人にとって、新しい発見はほとんどない。むしろ当たり前の議論を当たり前のように紹介しながら、音楽に対する「問い」を連ねている。それに対する明快な解答も、うきうきするような仮説も与えられず、音楽というこの捉えがたい現象を、ただ「問い」を連ねることで浮き上がらせようとする、そんな試みといっていいだろう。
あとは読者に委ねられている。一種の教科書なのだ。教科書というと、何かを教えてくれるものと思われがちだが、そうではない。よい教科書は、何が分からないかを教えてくれるからこそ味気なく、夢いっぱいの学生をがっかりさせるのだ。
たとえば、音楽の複数性について。かつて音楽は単数形でしかありえなかった。けれども、現代において「音楽の知」は無数に存在する。それは実に当たり前の議論だ。だが、一人の人間が複数の音楽を認めること、楽しむことがよいことなのか。あるいはそれは「本当に」可能なのか?(違う文脈のなかにある音楽を聴いた時、人は常にそれを「誤解」しているのではないか?)
あるいは、どこまでが音楽なのか。着メロとか、駅のプラットフォームに流れる発車音(?)が話題にのぼっているが、「それもまた音楽である」というのは簡単だ。でも、むしろ「音楽ではない」と人が判断するときのほうを、考えるべきなのではないだろうか? 着メロは明らかに人間のほうで「何かを補って」音楽として成り立っているわけだが、それが音楽として認識できないとき、一体それは何なのか?(「ワン・ノート・サンバ」の着メロを聴いてみたい!)
遠くから聞こえてくる音楽のことがちょっと触れられている。一体、なぜ遠くで聞こえるお祭りの「狸囃子」は美しいのだろう? なぜ近くへ来るとがっかりするのだろう? それだけで、ちょっとした音楽論を展開できそうな気がする。
時間と音楽について。音楽は確かに時間に従属しているけれど、頭のなかで音楽が鳴っているときは、一体どうなっているのか? 一瞬にして曲ができあがる、なんていうエピソードは、あれはどういうことなのか? 確かに頭のなかでは、時間が歪曲されている気がする。
そんなわけで、本の一部を読んだだけでも、疑問やら異論やら、とにかくたくさん考えさせられる。タチの悪い本である。著者の思惑通りというべきだろうか?
どうしても趣味が色濃く出てしまう、音楽という話題であるがゆえに、選ばれる固有名詞から著者の音楽的嗜好が見えてきたりして、これも厄介である。趣味の問題はさておいても、ポピュラー音楽の話題が少ないのは、この本の大きな弱点だろう。

ところで、この本のタイトルは『サウンド・エシックス』である。なのに、第10章では「音楽の倫理」となっている。細かい違いではあるけれど、ちょっと気になる。「音(サウンド)の倫理」と「音楽の倫理」では、言葉として印象も違うし、意味も違う。すべての音(サウンド)は音楽である、とは著者も言っていない(そういう考え方があるとしても)。だとすれば、その倫理だって違うと考えるのが当然だろう。
さて、その「音楽の倫理」について。著者は音楽に対して問いを積み重ねること自体、音楽の倫理を問うことなのだ、というようなことを言っているが、ややいい訳がましいかな、という印象だ。実際には、「倫理」について書いている部分は、最後の数ページにすぎない。

「音楽の倫理とはこうあるべきだと一言で言い表せるようなものではありません。しかしそれでも最後にひとつ述べておくとするなら、その倫理を成り立たせる最低限の基準、ひじょうにベーシックな行為とは、「聴く」ということにほかなりません」
「はかなく、すぐ消えて、もう戻ってこない音、音楽だからこそ、聴く力をつけ、広義の耳を鍛える――少なくとも、わたしはそれをつづけていきたいと思っています」

「音楽を聴く」を、他人の話に耳を傾けること、などの行為とも重ねていて、言葉としては美しい。でもこれって、どちらかというと音楽批評家としての倫理、あるいは決意なんじゃないの? というのが素朴な印象だ。あるいは、これはあくまでも「サウンド・エシックス」なのか。それならば、もう少しよく分かるような気もする。

「音楽の倫理」という言葉自体よく分からないが、この言葉を見て最初に思い浮かべたのが、例の「死ぬときに聴くなら、どんな音楽?」という問いだった。
よくよく考えてみると、これは映画とか絵画とか小説とか、他の芸術に置き換えてみると、いまひとつ成り立たない質問なのではないだろうか。物理的に難しい、というだけではない(そんなことを言ったら、食べ物も音楽も、現実に「死ぬ前に」を意識することなんてほとんど不可能だろう)。設問としてどれだけ意味があるか、ということだ。
(死ぬ前に「思い出したい」映画はあるかもしれないが、わざわざもう一度ビデオで観たい、というのはちょっと考えにくい。あの絵の前で死にたい、というのもちょっと性質が違う気がするし。小説に至っては、読み直していくうちに「やっぱ気に入らない」とか言いだして死ぬのをやめてしまいそうな心配さえある)
そう考えると、音楽は一般の人間にとって、むしろ食べ物に近いのではないか、と思えてくる。
「死ぬ前に食べたいもの」の一般的な答えは、カレーとかラーメンとか、白いご飯に味噌汁とか、そういうものだろう。稀に鮨なんて言う人もいるが、そういう人だって少なくとも年に数回以上(もっとか?)、鮨を食べている。飽食の時代とはいえ、人間(この場合日本人)の食に対する思いは、それほど変わっていない。死ぬ前に食べたいようなものを、普段から食べているのである。
何を言いたいかというと、私たちは今、死ぬ前に聴きたいと思うような音楽を普段聴いているだろうか? ということだ。私たちは、いつか飽きることを知っていて、あくまでもそれを前提に音楽をむさぼり食っているだけなのではないか?
音楽というのは基本的に、何度も聴いていると飽きるのだ、と言われるかもしれない。しかし、それはやはり聴きすぎなのだ。カレーを食いすぎて飽きるというのは、よい食べ方とは言えないだろう。美食(あるいは悪食?)の果てに「好物」を失うのも、不幸な話だと思う。
著者も音楽の「消費」について触れていて、なぜか『経済ってそういうことだったのか会議』から引用したりしているが、そういうことではない。もっと基本的な、音楽に対するつきあい方、節度のようなもののことを言いたいのだ(註)。
「サウンドに埋め尽くされた」現代の音楽状況をそのまま肯定し、それに謙虚に耳を傾けることなんて、僕にはできない。「死ぬ時に聴きたい」音楽を大切にすること、あるいはそれを探すこと、そのためには聴きすぎないこと。敢えて言うなら、それが僕にとっての「音楽の倫理」だ。

(註) ハンナ・アーレントは『人間の条件』という本のなかで次のように書いている。「世界とは、地上にうち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは消費される物でできているのではなく、使用される物からできている」。

小谷野敦『恋愛の超克』

小谷野敦『恋愛の超克』
(2000年11月、角川書店、1300円)

やっと出た? 恋愛イデオロギーへの反論

いきなりでなんだが、小学五年生のときに初めて失恋をした。そのとき、相手の女の子が言った言葉は、「あなたは二番目に好き」というものであった。小学生 ながら、恋愛の機微を熟知したかのような、あっぱれな対処である。実際、僕は嬉しいような悲しいような中途半端な思いを抱えながら、諦めた。このエピソー ドで何が言いたいかというと、恋愛というのは、実に厳しいものであるということだ。この場合はやはり、一番でなかれば意味がないのだ。小学生の僕は、二番 目とその他大勢は基本的に同じであると、漠然と感じていたわけだ。
差別ということを考えるのであれば、恋愛における差別はかくも厳しい。もちろん人によって、その線は一番と二番の間にあるものだけではない。「恋愛対象」 になるか、ならないか。セックスをするか、しないか。この区別は個人的なものではあるけれども、社会全体のなかでは厳しい競争と差別構造となる。「恋愛が したい」「恋人がほしい」「愛のあるセックスがしたい」(あるいは単に「セックスがしたい」も、恋愛とセックスがこれほど不可分に結びついている状況で は、ほとんど同じ)などと考えている以上、この厳しい現実からは逃れられないのである。
さて、この本の著者は、恋愛の世界における弱者は恋愛などしなくてよろしい(したい人はすればよい)、世の中には、恋愛をせよと強迫するメッセージが多す ぎる、と主張する。そして、この「恋愛をしなくてはならない」というイデオロギーは資本制にとって都合のよいものであり、それにはフェミニストも含めてほ とんどあらゆる言論人が荷担してきたことを明らかにしていくのである。
小谷野氏の文章は、本人が認める通り、決して流麗な文章とはいえない。しかし、実に面白いものであることは確かだ。上のような主張も、本人が恋愛イデオロ ギーの影響をもろに受けて、「もてたい」「恋愛がしたい」「恋人がほしい」と願っている(願っていた?)からこそ、読み物として面白いのであって、達観し た人が「恋愛など不要だ」と言ったところで、これほど迫力のある文章にはならないだろう。恋愛イデオロギーから抜け出せないフェミニストたちへの非難もま た、妬みと歪んだ愛情を適度に隠さず(日本語がちょっと変だが)、実に愉快だ。

この本の中で扱われているホットな話題といえば、「ストーカー」と「売買春」であろうか。
ストーカーに関しては、「もてない男」を看板に掲げてきた著者だけあって、一種の共感さえにじむ。恋愛のほとんどが「片想い」であり、もちろんその背後に はマンガ、映画、小説、ポピュラー音楽など、あらゆる表現が宣伝してきた「恋愛至上主義」がある。世の中は片方で、狂ったように相手を恋することが素晴ら しい、と言いながら、その想いを無視して「ストーカー」を傷つけた「被害者」の非は問わず、一方的な想いにより迷惑をかけた「ストーカー」を裁くのであ る。まあ、当たり前といえば当たり前であるが、多少なりともストーカー的恋愛に覚えのある人間なら、最近のストカーに対する風当たりの強さ(「それってほ とんどストーカーじゃん」などの軽い発言を含め)には、やや脅威を感じるのではないだろうか。
ここで問題になっているのは、ストーカーがよいか悪いかではなく(行為によってはもちろん犯罪だ)、「恋愛は素晴らしい」という考え方に潜む欺瞞のようなものだ。そこには、明らかに恋愛における「弱者」への視点が完全に抜け落ちている。
一方、売買春についてはもっとややこしい。この本ではまず売春者に対する「差別」が問題になる。簡単に結論を言えば、自分が親になって子どもに、どうぞ売 春を職業にしなさいと言えるのでなければ、売春者を差別していないなどと言う資格はないということである。それが出来ずに「売春者に対する差別をなくそ う、だから合法化しよう」というのは筋が通らない。一方で、売買春反対の立場であるはずのフェミニストたちも、どこか歯切れが悪い。もちろん、家父長制度 とそれを支えてきた「対幻想」という愛のイデオロギーを批判しつつも、どこかで恋愛イデオロギーに引っかかっているからこそ、フェミニストも「愛のない セックス」を売り物にする売春者を差別している。それでいて彼(女)らは差別という言葉に弱くて、だからこそ分かりにくい議論が横行する。そのあたりを小 谷野氏は実にうまく整理してくれている(僕の紹介では分かりにくいばかりだが)。

そんな訳で(どんな訳か?)、小谷野氏の主張は「恋愛しなければならない」という抑圧を減らせ、ということと、結婚と恋愛をセットにすることをやめ、「友 愛結婚」みたいなものを認めろ、ということになる。結局は結婚制度はあったほうがいいんじゃないか、というところでフェミニズムの主張とは大きく異なる。
このあたりまで、僕は賛意を表明したい。といっても、厳密な論理的帰結というより、一種のバランス感覚においてである。世の中には恋愛礼賛の声が大きすぎ るし、一部フェミニストが描くような「フリーセックス」的な男女関係も(しかも恋愛付!)、どこかグローバルスタンダードみたいで気持ちが悪いからだ。結 婚がどうしても必要なものとは思わないけれど、まああったほうがいいんじゃないか、という気がするのだ。
ところが、この本はここで終わらない。話は資本制はおろか、国家論にまでおよび、擬似的かつ総合的イデオロギー(そんな言葉があるかどうか知らないが)を 提案するに至るのだ。曰く「新近代主義」だそうだが、その宣言がおごそかに(もちろん著者の面白半分は見えるのだけれど)とりおこなわれる章にきて、つい ていけなくなった。
この本を最初から読み進めていくと(あるいは、小谷野氏の著書を順に読んでいくと)、まず著者の「もてない」ことへの恨みがあり、そこから社会の矛盾に気 づき、やがてついには国家は、世界はこうあらねばならぬ、という結論に達した感じがする。そのあたりを小谷野氏は、逆に恋愛論は「この思想から導き出され た」などと言っているが、もちろん本気かどうかは怪しい。
ともかく、天皇制廃止、九条廃止、正式な日本軍を持ち、とまあ各論には触れないが、彼は本気でこれから国家論やら国際政治やらに足を踏み入れるつもりであ ろうか。僕には、発言しているうちに、全ての発言に整合性を持たせ、まとまったイデオロギーとして呈示したがる、知識人特有の誇大妄想にも見えるのだ。も ちろん、それも戦略ですよ、と言われる可能性もあるが。なんにせよ、この「新近代主義」は余計としか思えない。

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』
(2000年4月、日本経済新聞社、1500円)

「分かり易さ」が意味するもの

実によく出来た本である。タイトルもよいし、対談の組み合わせも絶妙。イラストや写真がほどよく散りばめられ、いかにも勉強になりそう、という作り方。経 済についてはあんまり考えたことがない、でも知っておいたほうがいいかな、くらいに感じている読者はたくさんいるだろうし、読者層の狙いも的確だ。
僕自身、経済については長い間なるべく避けるようにしてきた。これといった理由もなく、ただなんとなく。「難しそう、コワそう」という根拠のはっきりし ないイメージがあったのだ。『日本経済新聞』とか、テレビ・ニュースの最後に出てくる為替相場や株価に代表される経済のイメージは、多くの人が共有してい るはずで、そのイメージを壊すことがこの本の大きな目的であろう。
経済学から見れば、これはあまり好ましい状態とはいえない。某コマーシャルが言うように、今やほとんどすべての人間にとって、「経済のない一日はない」 のであって、経済は遠いところにあるものではない。実に身近なものである。効率と成長を課題とする経済にとって、この人々の無関心は一つの課題である。経 済学者なら「箪笥に貯金するよりも、投資しなさい」と言うであろう。なぜなら、それが経済全体にとってよいことであるから。
そんなわけでこの本は、経済は難しくないですよ、みなさんに関係のあることですよ、と話しかけてくるわけだ。二人の誠実そうな口調がまた実によい。
この本を読み終え、経済は「難しくてコワそう」という直感的なイメージはある意味で正しかったのではないだろうかと思った。「経済のない一日はない」と しても、「経済を忘れた一日」はありうる。経済を避けるのは、逃げているのではなくて、そのほうが楽しそうだと思うからである。自分が貧しいか金持ちか、 を別にすれば、ニュースに出てくる株価の意味は知らないほうが概ね幸せであろうと僕は判断する。
とはいえ、金持ちになりたい人々にとってはこの主張は意味を持たないだろう。経済について知っていたほうがチャンスは大きいのであり、したがって金持ち=幸せになるためには経済を知っていたほうがよろしい、ということになる。
けれども、ここにもうひとつ考慮しなければならい要素がある。これまで「難しそう」だったものが、なぜここへきてやさしそうな顔をする必要があるのか、という点だ。
もちろん時代が変わり、状況が変わったのだ。経済が発展していく初期の段階では、経済に関する知識は独占されているほうが都合がよい。経済は難しいか ら、と煙に巻いておけば利益もまた独占できたわけだ。でも、そこには限界がある。今は、あらゆる人が経済に関心を持つことが求められている。ある程度の豊 かさを実現した社会は、新たなフロンティアを求めているのだ。あらゆる人が経済自体に興味を持ち、その上で活動する。それは今までにない新たな可能性を生 むであろう。
経済に関する知識の平等化には、そういう「狙い」があるのだ。誰もが経済について関心を持つというのは、言葉以上にグロテスクな状態であると思う。みん なが経済について知ったとしても、もちろん貧富の差は残るし、ただ「経済を忘れた一日」が消えていくだけであろう。日本はそれで不景気を脱するかもしれな い。しかし、それにしたって限界はまたどこかで来るのだ。「経済を忘れた一日」さえもなくなってしまったら、次には何を犠牲にせよというのか。
もちろん、そんなことをこの本の著者が意識しているとは思えない。意識していないだけに、実に厄介である。この本の「やさしい顔」には気をつけたほうがいい。

抽象論だけでは説得力がないので、貧しい経済に関する知識を動員し、この本のそんな「うさんくささ」をなんとか指摘して、終わりたいと思う。

●冒頭で「経済学とはギリシア語で、共同体のあり方という意味」であると説明される。間違いではないけれども、あまりにも狙いがはっきりしすぎて、気持ち が悪い。正確に言えばこの「共同体」はもともと「家」を指し、「オイコノミクス」は「家政学」くらいの意味であったわけだ。そのまま都市国家、国家、国際 社会と単位が大きくなったことが経済学の本質的な矛盾なのであって、「そういうことだったのか」と納得されては困る。
●第一章はお金についての考察なのだが、お金にはなぜ利子がつくのか、という根本的な問題にまったく触れていない。
●第二章は株の話で「有限責任の株式会社は資本主義の大発明」とあるが、なぜ責任が有限などということがありうるのか。やはり問題ではないのか。
●第三章は税金の話。「所得の多い人=価値を生み出している人」はどう考えたって疑問だ。「無限の長い期間で見れば稼いだ金と使った金は一緒になる」というのも、利子とか土地の存在をわざと無視しているのだろうか?
●そんな具合に、経済の基本から説明していくのであるが、後半はビジネスのサクセス・ストーリーのオンパレード。ただのビジネス書と同じになっている。やっぱ経済ってそういうことだったのか?

*たまには批判的な書評も載せようと思って書いたのですが、やはり楽しくありません。これからはなるべく面白かった本を選ぶことにします。

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』

フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』
(2000年11月、澤田直訳、思潮社、2400円)

24人の地味なビリー・ミリガン

フェルナンド・ペソアは1888年にポルトガルのリスボンで生まれた。
彼はいくつかの「異名」を持つ詩人として知られる。「仮名」や「変名」ではなく、「異名」。つまり、一人の詩人が別の名前で書くのではなく、一人のなか にスタイルも傾向も異なる何人かの詩人が共存している、というのである。それぞれの詩人は別の生没年や経歴や身体的特徴を持っていて、彼らはいわばペソア の「体を借りて」それぞれの詩を残したことになる。
とはいえ、一部の文学研究者はさておき、「彼ら」の詩のスタイルの違いから別の人格を読みとることは、簡単ではない。フェルナンド・ペソアの異名者たち はそれぞれにみな「地味」であり、おまけに残されたものは詩だけであり、ペソアがそう明言しなければ、きっと誰もそこに別の人格があるなどとは思わなかっ ただろう。一人の詩人のなかにもっとたくさんのヴァラエティーを見出すことだって、しばしばなのだから。
ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』を読んで衝撃を受けた人も多いと思う。この驚くべき物語を読んで、自分のなかの知られざる複数性に思いを馳せた人もいるはずだ。けれどもこのビリー・ミリガンと似て非なる詩人の作品を読むとき、私たちはまったく別の問題を考えさせられる。
それは「人格」のなかの複数性ではなく、創作という行為のなかにあるいわば根本的な単数性だ。
フェルナンド・ペソアの辿った道は、いわば「自ら意図して」ビリー・ミリガンになることだったのであろう。創作を、自分と他者の壁を超える不可能な試み であると考えれば、ある意味で必然的な道筋であったかもしれない。自分と他者の間に超えがたい壁があるとすれば、そこに何かを介在させる必要がある。人工 衛星を打ち上げて地球の裏側と交信するのと同じだ。ペソアの場合、自分のなかに他者を作ることが、その必要不可欠なチャンネルであったのだろう。
けれども、そのチャンネル自体、フェルナンド・ペソアだけが利用しているものではない。人間は唯一の個であることを一時的にせよ諦めない限り、他者とつながることはできないのだ。あとはその方法論が問題になる。
社会のなかでは、人は演技によって他者とつながっている。けれども、演技することは他人を欺くことでもある。そういう意味で演劇はもっとも古い芸術かも しれない。言葉は、人が感じていることを抽象化することで、コミュニケーションを可能にした。けれども言葉はあまりにも複雑になり、また大きな壁を作って しまった。詩は単純に向かうことでその壁を逆に乗り越えようとする。
いずれにせよ、他者とつながるには、変身と簡略化は避けて通れない問題なのだ。
フェルナンド・ペソアの異名たちが書いた作品にそれぞれの個性を見出すことに、大きな意味があるとは思えない。フェルナンド・ペソアという人格のなかで 起きたドラマは、一つ一つの作品、あるいはすべての作品から感じられるものであって、「この詩とあの詩の違い」に感じられるものではない。僕にはペソアの 詩はどれも似通っていると感じられるのであって、同じように、ペソアと萩原朔太郎も似ているかも知れない。
フェルナンド・ペソアの「異名者」たちの問題は、詩を書くという行為そのものにつながっている。したがってそれらの詩は「同じ作者だから」似通っている のではなく、ある読者に詩として伝わったとき、詩はどれも似通っているのだと考えたほうが筋が通っているのではないだろうか。似ていない詩というのは、そ れが詩として機能しなかった部分に負うことが多い。創作のなかにある根本的な単数性。そういう意味では、すべての詩はまるで一人の人間が書いたかのよう に、似ているのだ。

付記:この本はペソアの詩や散文からの抜粋である「断章」とベルナルド・ソアレスの名で書かれた散文集「不穏の書」からなる。ので、いわゆる詩作品は収録されていない。翻訳された詩集としては、『ポルトガルの海』(彩流社)がある。

北原みのり『フェミの嫌われ方』

北原みのり著『フェミの嫌われ方』
(2000年8月、新水社、1400円)

男がフェミニズムを読む倒錯

フェミニズムについて書くのはやや気が重い。どんなに頑張ってもろくな文章にならないだろうという気がするのである。それなら書かなければよいのである が、やっぱり書く。というのも、僕はフェミニズム関連の本を読むのが好きで、読書に占めるその割合が、どう考えても普通の男性や女性よりも多い。なぜそん なに読むのか、結構面白い問題だと(自分では)思うからだ。
なぜそんなにフェミニズムの本を読むのか。単純に面白いから、なのであるけれども、なぜ面白いと感じるのか、フェミニズムの本を読んでどんなことを考えて いるのか、などとフェミニストたちに詰問されている場面を想像すると(そんなことがある訳もないのだが)、恐ろしい。どこか不純な動機があるのではない か、と自分でも感じているのかもしれない。
「フェミニズムを理解するオトコ」について、この本の著者、北原みのりはこう書いている。

「フェミニズム」を理解し、「フェミニズム」を愛し、自分の問題だと思い真剣に考えているオトコなんて、私にとっては不気味な存在だ。だいたい、オトコで いることがオトクな社会で、「女性差別は、僕自身の問題だよ」なんて心の底から言えるとしたら、それは「オトコ社会」とうまくコミットできない「オトコ」 たちでしかない。コミットできないのが悪いわけではないけれど、オンナがコミットできないのとは、まったくワケが違うように私には感じてしまうのだ。

まったくその通りでございます。
てな具合に僕は、フェミニズムの本を読みながら、とにかく無批判にその内容を受け入れることが多いのである。何というか、そこに一種の快楽を感じているようでさえある。まさに北原氏のいう、「不気味な存在」以外の何物でもない。
簡単にいえば、一種のマゾなのであろうが、もっと積極的に言えば、フェミニストが好きなのである。北原みのりであろうが、上野千鶴子であろうが、田嶋陽子 であろうが、女性のタイプとして、好きなのだ。偉そうに言うべきことではないのは確かだが、こんなことを書く機会もあまりないのでお許しを。
ここで少し脱線して、世間に蔓延している誤解を正しておきたい。「フェミニズムはもてない女のひがみから始まった」という誤解である。これは大きな間違い である。ちゃんと(?)フェミニズムの歴史を勉強すれば分かることだが、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、フェミニストには驚くほど美女が多い。僕は 逆に彼女たちがもてたからこそ、フェミニズムに目覚めたのだと思っている。仏陀やムハンマドが宗教に目覚めるようなものである(言いすぎか?)。もちろん ここにはシビアな差別が確かに存在していて、そういうものだからこそ逆にフェミニズムは女性に人気がないのだという言い方もできるだろう。
確かに北原氏が言うように、僕のような男性がフェミニズムに共感をもつ、というのは女性がフェミニズムに目覚めるのとはまったく次元の違う話ではあるのだ けれども、そこのところは大目に見てもらわないと、困る。こちらはエンターテインメントとして本を買っているのであって、面白い本を逃すわけにはいかない のだから。
男性社会に対するフェミニズムの攻撃というのは、実に清々しく、面白いものなのだ。
ここで紹介する『フェミの嫌われ方』でいえば、つんくの『LOVE論』映画『鉄道員(ぽっぽや)』やクボジュンをやり玉にあげ、ドラマ『ふたりは最高!ダーマ&グレッグ』に喝采を送る。それ自体はフェミニストにならなくとも共有できる感覚なのだけれども、やはりフェミニズムという文脈のなかで語ると切れ味が鋭くなる。
フェミニズムに対する共感をことさら強調するつもりはないけれども、せめてこういう感覚くらいは、一緒にわかちあわせてほしいものだ。
そんな訳で(どんな訳だ?)男性のみなさんも、ぜひ一読を。大上段から「イズム」を説くのではなく、身近な問題からやさしく説き起こして読者を巻き込んで いくスタイルは、フェミニズム入門者にも最適。男にとって痛い部分を、頭のいい美女に刺激される快感にも、ぜひ目覚めてほしい(やけくそ)。

テッサ・モーリス=鈴木 『辺境から眺める』


テッサ・モーリス=鈴木著『辺境から眺める–アイヌが経験する近代』
(2000年7月、大川正彦訳、みすず書房、3000円)

キャシー・フリーマン礼賛

シドニー・オリンピックが終わった。オリンピックの主役は相変わらず国旗であり、国家であり、メダルの数であった。
南北朝鮮が開会式で一緒に行進するという歴史的な出来事もあったが、ベルリンの壁の崩壊に比べればどこか予定調和的で、なんだこんなものかと思わせるもの だった。南北が統一すればより大きな国家ができるだろう。そうなれば、メダルの数はもっと増えるし、サッカーも強くなる。
僕にとってオリンピックの主役はやっぱりキャシー・フリーマンだった。四〇〇メートルで金メダルをとったが、彼女がこのオリンピックで本当に勝ったのかど うか、誰にも分からない。オーストラリア人であり、アボリジニーであり、キャシー・フリーマンである彼女の置かれた状況は、実に矛盾に満ちていた。モジモ ジ君のような姿で走る彼女はむしろ痛々しく、オリンピックにおける国家やら民族、商業主義といった抽象概念の大きさに今にも押し潰されてしまいそうに見え た。
陸上はシビアな種目だ。いわばグローバル・スタンダードの権化のような。だからこそ誰もが夢中になる。コカ・コーラのようなスポーツだ。最も強いのはアフ リカ系のアメリカ人であり、あるいはカリブ海のアフリカ人であることも、この種目の特色である。ここで勝つことは、もっともグローバルで「平等な」競争を 勝つことである。キャシー・フリーマンの意図がどうであれ、彼女は勝つことでアボリジニーをグローバル・スタンダードの渦中に引き入れたのである。
彼女にスポット・ライトが当たることは、オーストラリアが、あるいは世界がアボリジニーに対してこう言っているのと同じだ。「あなた方はもう辺境の知られ ざる民ではない。私たちと同じ土俵で勝つことができる、立派な戦士だ。戦いなさい。商売であれ、金融であれ、スポーツであれ、ショウビジネスであれ、グ ローバル・スタンダードの中で」
キャシー・フリーマンはその才能ゆえに、このとてつもなく矛盾した状況を走らなくてはならなくなった。走る以上、彼女は勝たなければならない。彼女は勝った。彼女は新しい時代の象徴になるだろう。

さて、『辺境から眺める』である。もはや「辺境」などなくなりつつある時代に、なぜ辺境なのか?
著者はイギリス生まれのオーストラリア人の女性で、日本の近代史が専門らしい。この本は日本の北方、あるいはロシアの極東の歴史を先住民の視点から捉えようとしている。辺境から見た歴史はどのように語られるのか、という歴史学にとっては刺激的な試みであろう。
たとえば日本の江戸時代はふつう単純に「鎖国」という閉じたイメージで理解されるが、ひとたび北方に目を向けるとまったく違う様相を帯びてくる。そこには 曖昧に広がるフロンティアとしての「蝦夷地」があり、異民族としてのアイヌがあり、それは植民地でもある。アイヌとの交易を介してさらに北方のロシアとの 交流や軋轢が存在した。
江戸時代も明治維新後も、北方をどのように捉えるかは国家の利害および定義と大いに関係した。どこまでが日本なのか? 彼ら少数民族たちは他者なのか仲間なのか?
アイヌは一般に狩猟採集の文化であったと理解されるが、視点を変えれば、このことも違う意味を持つ。アイヌには確かに農業が存在したが、江戸時代の幕府お よび松前藩の政策により、彼らの活動がそれらに限定されていったという事実。忘れられた過去は、近代に作られた国家や民族の物語によって、改変され、捏造 されていった。
辺境から語られる歴史は私たちの想像以上にダイナミックで、単に抑圧された人々という以上に、私たちの歴史観を覆す強さを持っている。

アイヌというと思い出すのは高校時代の社会科の授業のことだ。テストだったか小論文だったのか忘れたが、僕は「アイヌと日本人が…」という主語で始まる文 章を書いたのである。なぜ主語だけ覚えているかというと、その点を社会科の教師が批判したからであった。
「ここには無意識にせよ差別があります。アイヌと対になる言葉は和人です。こう書くとアイヌが日本人ではないことになってしまいます」
僕はもちろん驚いたし、納得できなかった。日本人でないということが、それほど差別なのだろうか?
『辺境から眺める』を読んだ今、考えてみると、この教師も僕も、国家と民族、個人とグループをどこかで混同し、混乱しているのがおぼろげに理解できる。 「アイヌは日本人である」も「アイヌは日本人ではない」も、どちらも近代の国家形成のなかで、繰り返し使われてきた常套句であって、そこに正解などないの だ。
日本とロシアという国家の二者択一を離れて、この地域の未来を考えること、和人であれ日本人であれ、アイヌと当たり前の「他者」「隣人」であることが出来 るのか、道は険しい。辺境は確実に消えつつあり、国家が持つ私たちの想像力への支配は強くなるばかりだ。もちろん、この本のような試みがをの助けになるこ とは間違いないだろう。なぜなら辺境はこれからも記憶の中に生き続け、国家もまたそれを利用し続けるであろうから。

僕はキャシー・フリーマンに期待しすぎているのだろうか。こんな想像をしないではいられないのだ。彼女はものすごい速さで競技場を駆け抜け、その外へと飛 び出していく。オーストラリアの大地を笑いながら駆けていく彼女を、どんなカメラも追いつくことができない。キャシー・フリーマン、走る!