緑色の東京


夏になって東京を歩くと、ふと意外に緑が多いことに驚いたりする。コンクリートだらけのはずの町のあらゆる 隙間を見つけて植物が生育しているのだ。壁には蔓性の植物が這い、アスファルトの割れ目からものすごい勢いで雑草がのびていたり。東京の緑化は実際のとこ ろ、イメージのほうが現実に追いついていなかったりするのだ。
中でも特に目を奪うのが、住宅の狭い庭から路地まで、人々が半ば育て半ば放置している植物たちだ。植木鉢やプランターに入っていればまだよいほう、よく わからない発泡スチロール箱なんかに植えられた植物が、ほとんどジャングルのように、ただでさえ狭い道を侵略している。夏だからだろう、手入れは行き届か ず、植物は伸びたい放題であることが多い。
これはアメリカなんかの綺麗に刈り込まれた芝生の庭とも、イギリスのガーデニングなんていう高貴な趣味ともかなり異質なものと感じる。「自然は真空を嫌 う」なんて言葉があるが、まさにそんな感じだ。隙間なく植えた人の執念と矛盾するような、整理しようという気持ちのなさが何やら異様な感じを醸し出してい るのだが、ではいわゆるキレイな庭のほうが好きなのかと問われればそうとも言えない。
何とも言えない気分でそれら奇怪な植物たちを見ながら、一瞬、植物だらけの恐ろしげな東京のビジョンが浮かんだ。それは決して美しい未来でもないのだが、そこへ向かっていくよりほかにないような、一種の啓示のように思えた。 (2002.8.22)

*写真は世田谷の住宅街でとったもの。上の話とはちょっと違うのであるが、その執念と自然観は共通のものだろう。


本を読む人


本を読んでいる人を見ると少し不安になる。魂を吸い取られたような顔をしているし、じっと見つめてもこちらに気づくことはない。何を読んでいるのか、読 んでどんな気持ちなのか尋ねてみたい気もするのだが、声をかけて顔を上げてしまえば、先ほどまでのミステリアスな表情はどこへやら。読んでいる本の題名を 見せてもらったところで、こちらにはちっとも興味がない。知りたいのは、読んでいるときのあなたなんだ、とでも言いたくなる。
左の写真は近々創刊されるフリーマガジン「抄」の取材時に撮ったもの。小学生にお勧めの本を訊いたのだが、ちょっと目を離すとすぐに本を読み始める。それほど本が好きなのか?
そういえば、本を読みながら、目を上げることが多くなった気がする。同じようなことを知り合いは、あと数頁なのに栞を挟んで別のことをするようになった、と言った。幸せになったような、不幸になったような、微妙なところである。(2002.7.7)


変人論


 「変人」あるいは「変なヤツ」という言葉がちょっと気になっている。
というのも、大抵の人は自分のまわりには変な人が多い、と思っているようだからである。世の中そんなに変な人ばかりでは成り立たないから、これはどうや ら一種の愛情表現であるらしい。簡単に言えば、通勤電車に乗っている他人は無個性に見え、深い付き合いをもった相手は個性的でかけがえのない、「変なヤ ツ」ということになるのであろう。
したがって、「変人」「変なヤツ」に囲まれていると信じて暮らしている人は、その他大勢の人々を「普通」と認識していることになるから、これは意外に排他的な言葉なんじゃないか。
「普通」であること、「変」であること。この二つはどうやらかなり複雑な問題をはらんでいるようだ。「個性」やら「独創性」やらが重要だと言われるよう になって久しいが、現実には普通の人たちが仲間をつくって自分たちを「変人」と呼び合っているだけなのかもしれない。(2002.4.10)

追記:渋谷のカラオケボックスにて大学時代の友人と遊んだときに撮影。


絨毯


 前にちょっと書いたイランの遊牧民カシュガイ族特産の絨毯「ギャッベ」を、ついに買ってしまった。
そんなわけで絨毯をあっちの方向から眺めたり、こっちの方向から眺めたり、あるいはのっかってみたりしながら暮らしている。これまで、こういった工芸品 (?)を所有したいと思ったことは一度もなかったのだが、やっぱ30歳になってついに「大人化」したのだろうか。
布とか織物の類の魅力というのは本当に不思議だ。世界を布に喩えたくなる気持ちもなんとなく分かる。一度でいいから自分で糸から布をつくってみたいと思 うのだが、手先が器用とはいえない私には無理かもしれない。手軽なところではやっぱ編み物だろうか。この絨毯の上で編み物をすることを考えるとちょっと恍 惚としてしまうが、なんとなくヤバイ世界に突入してしまいそうな気もする。(2002.4.10)


高層ビル


 住んでいるマンションの目の前に高層マンションが完成した。引っ越してきてからずっと工事の進捗具合を眺めながら暮らしてきたわけだから、びっくりした、というのとはちょっと違うのだが、なぜか惚けたように口を開けて見上げてしまう。
再開発にともなって、周囲は古い店が取り壊され、新しく道路が整備されたりと大忙しである。こうした巨大な工事を見ていつも感じるのは、「どう変わるん だろう」という一種の高揚感と、何やらよく分からない無力感のようなものである。この二つはセットになって、子供のころからずっと続いてきたように思う。
たぶん「進歩」と名のつくものは、ほとんどの人にとってそういうものだったのだろう。ときどき、少しは自分もそれに関わったり、あるいは少しは自分にも 関係がありそうだなどと思うが、基本的には自分の意志とは無関係のところでそれは進行していく。(2002.3.18)

追記:まるで進歩の象徴であるかのように取り上げたこの高層マンションであるが、この後、大学の友人がここに引っ越してきたことが判明した。同世代の所得格差が広がりつつあることを実感させる出来事であった。