ボサノヴァへの憎しみ

ずいぶん昔の話で恐縮だが、私がまだ若かった大学生時代のこと。
友だちが学園祭か何かでボサノヴァのライブをやるというので、見に行ったことがある。出演者はそれなりにお洒落をしていたように思う。背伸びをして、曲の背景について気取った解説をしたり。
私はそれを後ろのほうの席で見ていた。隣に、一目でロック好きと分かる長髪の男がいた。たぶん、彼も私と同じく出演者の友人だったと思う。なんとなく見覚えがあった。
その彼の様子がおかしい。ライブがはじまると、体をよじったりうなり声をあげたりしている。最初は何か喜んでいるのかと思ったが、そうではないらしい。なんとか隠そうと努力をしながらも、体中から吹き出てしまうのは、どうやら今ここで行われていることへの怒り、あるいは嫌悪らしかった。
それは「ボサノヴァへの憎しみ」だった。
想像を膨らませてみると、たぶん、彼は出演していた女の子が好きだったのかもしれない。ロックへの愛を共有していたと思ったら、こんなチャラい音楽をやっているではないかとか。曲間で繰り広げられるトークも、なんだか妙に気取っていて腹が立つ……。まあ、そんなところではないかと思う。
ともかく、その長髪ロック青年が、おさえ切れない嫌悪感を我慢しながらそのライブを聴いていた様子が、今も忘れられないというわけ。

すでにボサノヴァ好きだった私はそれを見て、音楽というのはジャンルだのスタイルだのに縛られて大変だなと思ったことだろう。せっかくジャンルを超えたいい曲があっても聞こえてこないんじゃないかとか、そういうお節介な意見。
それでも、私が繰り返しこの出来事を思い出してしまうのは、きっとこの「ボサノヴァへの憎しみ」をどこかで共有しているからだと思う。
この世の悪しき仕組みを認めてそれにどっぷり浸かっているような、といったら大げさだが、あのときのロック青年はそれを認められない反抗的な魂を燃やしていたに違いない。そして、私もことあるごとにそれと似た、ボサノヴァにつきまとう何やら逃げたくなるような雰囲気を感じることがある。それは演奏や歌唱スタイル、アレンジに衣裳やらトークも含めた、一種の「ボサノヴァ的世界観」とでもいうべきもの。
私はいつも大抵この世界観から逃げたい逃げたいと思っているのだが、むしろからめとられていることのほうが多い。

ずいぶん前に、私の歌をきいて「寝ながらケツを掻いているようでひじょうにいい」と褒めてくれた人がいる。私としては、わりとしっくりくる言葉だ。
ロックのコンサートでケツを掻けば笑われるか、場合によってはかっこいいだろう。
ボサノヴァのライブでケツを掻くと、観客は見なかったフリをしてくれる。
まあ、大げさに書くととそんな感じだ。


ボサノヴァへの憎しみ」への2件のフィードバック

  1. ひとつまえの記事ともども、うなずきつつ読みました。
    それにしても、仕事してると「明日やろうは馬鹿野郎」といわんばかりに追い立てられるし(追い立ててもいるけど)、ケツ掻きたい初期衝動が云々みたいな話になったらそれはそれで嫌かも(ならないって)。

    というか、そろそろライブのアナウンスとかする時期かも(ムリウイのウェブに載ってからでいいのかな)。

  2. 掻くのはそっと、やりすぎは禁物です~。
    ムリウイ、来月ですねー。告知でたら私も宣伝させていただきます!

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