ラクダが踊る

らくだが好きで「らくだ節」なんていう曲をつくったりしたが、どうやら、らくだは本当に音楽が好きらしい(?)。

モンゴルの映画「らくだの涙」はラクダの授乳を促すために楽士を呼ぶストーリーである。
内モンゴルの映画「長調(Urtin Duu)」にも、ほとんど同じようなシーンがあった。
以上は、フタコブラクダの話。

以下は、アラブのヒトコブラクダについて書かれた堀内勝著『ラクダの文化誌』という本からの抜粋。

その小ざかしこく、さとい耳は主人の声を聴きつけ、その調子に合わせて歩を歩む音楽を理解する耳であった。したがって茫漠とした砂漠を旅する者には、その大海を航海する舟をどのように操ったり、スピードを調整したりするかを知っている必要があった。その操縦術は偏に彼等の声にかかっているのだった。それ故大規模な隊商qaflahには、必らずラクダ群を指揮し、一隊の先頭に立って、その美声で並居る音楽の理解者達を魅了しながら導いていく者、hadin(先導者)がいた。批評の耳をもったラクダの聴衆を相手にするからには、hadinは美声の持ち主であらねばならなかった。hadinの美声がラクダ達をどれ程狂喜させるかは、アラビア、ペルシャの古典の著作物の中に夥多の例を見いだすことができる。

この章だけ、妙にテンションが高いのも面白い。私も、大部のため途中で読むのを辞めようかと思ったところであったが、この「ラクダが踊る」という章だけ妙に盛り上がってしまった。

その一生を砂漠のなかで全うするが故に、静寂に慣れ、聞くものといえば己の砂を踏む音しかないラクダの耳は、それだけに他の音に敏感であった。特に歌声のように旋律をもった音に対しては反応が著しかった。しかもその歌が美しいならば、さらにその反応が増した。彼の歩みは歌の律に自ずと歩調が合っていた。そしてあまりの上手さ、あるいは甲高い声の持つ情緒性はラクダの反応を前述の例に見た如く、恍惚とさせ、有頂点(ママ)に導いてはその果てに動物的本能である性への執着心をも忘れさせる程であった。

砂漠の静寂とらくだの音楽好きが結びついているところも、なんだか面白い。
このような人間とラクダの交流からアラブのキャラバンソングが生まれ、アラブの歌謡や詩はここに深い伝統をもつという話が、さらに展開されていくわけだ。

静けさのなかにラクダの砂を踏む音だけが例えばタタンタタン、タタンタタンと一定の律で響いていたとする。その一定の律は、やがてラクダの上に乗る人間にとっても無意識のうちに一定の拍子となるであろう。ましてや、ラクダに乗れば気づくことであろうが、その歩調に合ったコブの揺れが乗り手をリズミカルに大きく前後に揺すり続けるから、人獣のリズムが両者の体内で一体化してしまう。単調な自然と、昼間ならば太陽の直射と夜ならば暗黒からの恐怖感とを主な原因として、遣る方なき理性はやがて慰め手となるものを本能的に求める。慰めの対象は最早、熱さ或いは恐怖と疲労から深い思索を求めはしない。すでに体の一部と化している一定の拍子に従って。情緒に訴えるものを発散し、理性の浄化を計るわけである。そこで彼等はその拍子に乗って歌い出すのである、恰もストレス解消に肉体的運動が不可欠の生理的現象であるかの如くに。

つい引用が長くなってしまったが、まさに理性を浄化してくれる名文である(笑)。


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